古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

古代史日和ツアー(2日目)

2022年05月06日 | 実地踏査・古代史旅
2022年5月3日・4日の二日間、古代史コミュニティ「古代史日和」が企画・運営する古代史ツアーに参加しました。

2日日の5月4日は「地元ガイドとまわる2古社と唐古・鍵遺跡」と題して、次のようなルートを巡りました。

近鉄笠縫駅集合→多坐弥志理都比古神社(多神社)→鏡作坐天照御魂神社(鏡作神社)→笹鉾山1号墳→黒田大塚古墳→唐古・鍵遺跡→唐古・鍵考古学ミュージアム→近鉄田原本駅解散



笠縫駅から多神社へ徒歩で向かい、参拝後にランチをとって再び笠縫駅にもどり、ひと駅先の田原本駅まで電車に乗り、田原本駅からあとの行程はレンタサイクルで楽チンツアーとなりました。

スタートの笠縫駅からゴールの田原本駅までずっとついてくれた2名のボランティアガイドの方は田原本で文化財に関わるお仕事をされていたそうで、その関係からか、多神社と鏡作神社ではそれぞれの宮司さんから、唐古・鍵考古学ミュージアムでは学芸員さんから、貴重なお話を聴くことができました。

まずは多坐弥志理都比古神社(多神社)です。第一社に神倭磐余彦尊(神武天皇)、第二社には神八井耳命、第三社には神沼河耳命(綏靖天皇)、第四社に姫御神(玉依姫命)、計四柱の神が主祭神として祀られています。代々の宮司をつとめる多氏は神八井耳命を祖神とする氏族で、本人、父母、弟の家族4人が祀られていることになります。

鎮座地の住所は「奈良県磯城郡田原本町大字」、つまり多氏の本拠地になります。すぐ近くに古事記を編纂した太安萬呂を祀る境外摂社の小杜神社があります。第一社から第四社まである本殿は残念ながら修理中でした。











境内にある資料館を案内してくれたのは第51代目の多氏当主である宮司さんです。この資料館には境内を含む多遺跡からの出土物、祭祀具、太安萬呂の墓誌(複製)、古事記写本など、貴重な資料が展示されていました。















笠縫駅から田原本駅まで電車で移動し、田原本駅からはレンタサイクルで鏡作坐天照御魂神社(鏡作神社)に向かいました。







鏡作坐天照御魂神社の祭神は、天照国照彦火明命、石凝姥命、天糠戸命の三柱です。この神社は2回目ですが、今回は宮司さんから由緒などのお話を伺うことができました。さらに、神社が大切に保管しているご神宝の鏡(三神二獣鏡)を特別に見せていただいたのです。上の写真に左側に写っているパネルにある鏡です。これはサプライズでした。



もうひとつのサプライズは拝殿に供えられた八咫鏡。これは福岡の平原遺跡から出土した日本最大(直径46.5㎝)の内行花文鏡を模造したもので、通常はピカピカに磨かれた表が正面を向いているので、裏面の文様はわからないのですが、このときは拝殿の裏へまわって鏡の裏面を見せていただけたのです。これまた貴重な経験でした。





拝殿の裏にまわったので、本殿を直接拝むこともできました。



ここから先はしばらく奈良盆地のど真ん中をサイクリングしながら、笹鉾山古墳、黒田大塚古墳を見学したあとに到着したのが唐古・鍵遺跡。ここは久しぶりです。前回に来た時は史跡公園としての整備が始まった頃だったと思いますが、今回はその工事が終わってまったく違うところに来たような感覚になりました。








ゴールデンウィークとあって遺跡の隣にある道の駅は車でいっぱい。公園になった遺跡も子供連れ、ワンコ連れでにぎわっていました。新しくできた遺構展示情報館には少し離れたところで見つかった大型建物の柱跡が復元展示されていました。









復元された楼閣は遠くから見てもわかるほどに綺麗になっていました。ここまでの行程でかなり時間が押していたので、ゆっくり休む間もなく最後の目的地である「唐古・鍵考古学ミュージアム」に向かいました。



ここでは学芸員さんによるみっちり1時間のレクチャーを聴くことができました。唐古・鍵遺跡は多重環濠集落として有名ですが、環濠が浅いことから防御施設ではないと思っていたのですが、そのことが確認できました。このあたりは川が多くて地下水の水位が高く、竪穴式住居に水が湧いてくるので、環濠やたくさんの溝を掘って地下の水を抜いているのだと。これらの環濠や溝は最後は河川につながっていることが確認されています。

ここで質問したかったことがひとつあったのですが、タイミングがなくてできませんでした。弥生時代を代表する静岡県の登呂遺跡もここと同じように地下水の水位が高くて水が湧いてくる場所にあるのですが、住居は竪穴を掘らずに床面を地面と同じ高さにして、周りに土を盛って矢板で補強して壁をつくり、さらにその外周に排水溝を掘りめぐらせて水の侵入を防ぐ「平地式住居」という解決策がとられていました。環濠や溝で水を抜くよりもこちらの方が合理的な解決策ではないかと思った次第です。





学芸員さんの話をもっと聴いていたかったのですが、1時間の楽しい時間はあっという間に終わってしまいました。時間があれば4時間くらいはしゃべっていられるとのことだったので、もし次の機会があれば4時間コースをお願いしたいな。

ミュージアムを後にして田原本駅を目指し、目標の17時をちょっと過ぎましたが、無事にゴールにたどり着くことができました。この日は多神社での宮司さんのお話と資料館の見学、鏡作神社での宮司さんのお話と神宝や八咫鏡の拝観、唐古・鍵遺跡での学芸員さんのレクチャー、というたいへん価値ある経験、充実の時間を持つことができました。ひとりで周っていると絶対に経験できないことばかりでした。


以上で2日間のツアーの紹介を終わります。このツアーの企画・運営に携わっていただいた皆さん、楽しい時間をともに過ごして情報交換させていただいたツアー参加者の皆さん、ボランティアガイドのお二人、水泥古墳を見学させていただいた所有者の方、多神社の宮司さん、鏡作神社の宮司さん、ミュージアムの学芸員さん、皆さん、本当にありがとうございました。




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古代史日和ツアー(1日目)

2022年05月05日 | 実地踏査・古代史旅
2022年5月3日・4日の二日間、古代史コミュニティ「古代史日和」が企画・運営する古代史ツアーに参加しました。

初日の5月3日は「巨勢氏の痕跡を追う&話題の牽牛子塚古墳」と題して、次のようなルートを巡りました。

近鉄飛鳥駅集合→牽牛子塚古墳→許世都比古命神社→岩屋山古墳→市尾墓山古墳→市尾宮塚古墳→南水泥古墳→北水泥古墳→近鉄吉野口駅解散



まずは話題の牽牛子塚古墳。7世紀後葉の築造と推定され、第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵と考えられています。

想像通りのガッカリでした。発掘調査の結果をもとに復元されたのでしょうが、天皇陵として特徴的な八角墳であることを除き、飛鳥地方にある同時代の古墳とはあまりにかけ離れた姿を見て、本当にこんな姿をしていたのだろうか、という疑問を払しょくできませんでした。何よりもコンクリートで固められていたことが一番のガッカリでした。予約者以外は石室内を見学できなかったことも含めて、誰のために、何のために復元したのでしょうか。この姿は古墳に対する誤解を生むかも。







牽牛子塚古墳にくっつくようにあったのが越塚御門古墳という名の小さな方墳。同行の大先輩がつぶやきました。「牽牛子塚は『牽の牛子塚』と考えれば『牽の越塚』で越塚御門古墳との名前のつながりがあるんだけどなあ。」 なるほどです。

さて、巨勢氏の痕跡を訪ねる第一弾が次の許世都比古命神社。祭神はその名の通りの許世都比古命。許世都比古命は巨勢小柄宿禰のことで巨勢氏の祖。この神社が鎮座する地が「越」というところで「許世」が「越」に変化したとされていますが、そもそも何故この飛鳥の地に巨勢氏の祖神が祀られているのかを不思議に思っていると、先の大先輩が再びつぶやきます。

「『世』は『し』と読むことができるので、許世は『こせ』ではなく『こし』で、本当に巨勢氏と関係あるのかなあ。」 これまた、なるほど。そうすると「許世(こせ)」が「越(こし)」に変化したのではなく、もっと言えばこの神社は巨勢氏と関係なく、むしろ「牽牛子塚(牽の越塚)古墳や越塚御門古墳」とつながると考えることができるのです。





飛鳥駅に戻る途中に岩屋山古墳へ。古墳時代終末期の一辺45m前後の方墳ですが、切石加工が施された巨石を隙間なく組み合わせた石室にビックリです。牽牛子塚古墳の巨石をくり抜いて造られた横穴式石槨、その失敗作ともされる益田岩船、亀石、猿石、須弥山石などなど、飛鳥は石の加工を専門にする技術者集団がいたことは間違いない。











次は飛鳥駅から近鉄に乗って二駅目の市尾駅へ。昨年の冬に来た市尾墓山古墳と宮塚古墳です。前回の時には気がつかなかったのだけど、墓山古墳の墳丘から二上山が望めました。





市尾墓山古墳は全長約63mの前方後円墳。宮塚古墳も全長約44mの前方後円墳で、両墳は6世紀初頭から前半にかけて巨勢氏の首長墓としてあいついで築造されたものと考えられ、特に前者は巨勢男人の墓と推定されています。





宮塚古墳で再び大先輩の知見が爆発。宮塚古墳は小さな山を登ったところにある天満神社の社殿の右手にあるのですが、社殿と古墳の間に遙拝所というところがあります。この遙拝所は古墳の方を向いているので、この近さで遙拝というのはおかしいと思いながらも古墳を拝む場所だと思っていたのですが。



大先輩曰く、「この遙拝所は北に向いていませんか。北の方に何かないですか。」 すぐにGoogleMapを見ると驚いたことに、真北ではないものの橿原神宮があるではないですか。「天満神社というのは本来は天津神を祀る神社で、全国にある菅原道真を祭神とする天満神社は商売目的に祭神を変えたんだよ。」 この遙拝所は橿原神宮あるいは神武天皇を遥拝する場所だったのです。

さあ、いよいよ最後の目的地へ。市尾駅からさらに二駅乗って吉野口駅で下車、少し歩いて南水泥古墳と北水泥古墳へ。こちらは私有地にある古墳なので、所有者の方のご了解を得て見学しました。見学させてもらえるだけかと思っていると、なんと解説までしていただき、さらにはご自宅内の資料室に保管された出土物も見せていただきました。

南水泥古墳は6世紀後葉の築造で直径25mの円墳です。玄室と羨道にそれぞれ1基ずつの家形石棺が置かれていて、玄室のものは二上山の凝灰岩を、羨道のものは兵庫県加古川流域の竜山石が使われ、後者はブランド石だそうです。こちらの石棺の縄掛け突起には蓮華文があって、古墳文化と仏教文化の結合とされていますが、大先輩は6世紀で仏教の影響はホントかな、と。出土した須恵器や金銅製の耳環は実物を見せていただきました。





北水泥古墳は6世紀中頃の築造で直径約20mの円墳です。石舞台を彷彿とさせる両袖式の大規模な横穴式石室に入らせてもらいました。副葬品はないものの、追葬時に使用したと考えられる瓦質円筒状の配水管が見つかっていて、これもみせていただきました。







最後の南北の水泥古墳は所有者の方のご厚意で見学させていただいたので、ここで写真とともに紹介することに少し躊躇があるのですが、お名前、お顔、ご自宅内などを出さずにお許しいただけそうなギリギリと考えた貴重な情報を出させていただきました。ここに所有者の方に厚く御礼を申し上げます。

紀路(巨勢路)に沿って北から、市尾墓山古墳(6世紀初頭)→市尾宮塚古墳(6世紀前半)→北水泥古墳(6世紀中頃)→南水泥古墳(6世紀後葉)と順に6世紀の4代にわたる巨勢氏の首長墓(と思われる古墳)を見学しました。都のあった飛鳥から紀伊国、さらには紀ノ川を下って瀬戸内海、そして朝鮮半島へと続く要地を押さえた巨勢氏を感じることができました。次の機会があれば巨勢寺跡や巨勢山口神社なども訪ねてみようと思います。


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