古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆日向と丹後のつながり

2016年10月11日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 中国江南から大陸を離れて東シナ海に漕ぎ出し、黒潮に乗って南九州に漂着、製鉄や稲作などの高い技術力を持って国土開発を行い、土着の民と融合して形成された国が狗奴国であることは「中国江南とつながる南九州」のところで書いた。また、詳しくは後述するが、記紀で高天原と記される場所は大陸の江南であり、そこから日向に降臨した(渡来した)のが天照大神系列の天孫族である、ということにも触れておいた。その考えのもとで、次に日向と丹後のつながりも見ておく。日向を介して江南と丹後がつながっていたことの傍証になると思うからである。

 京都府福知山市に広峯古墳群がある。福知山の市街地を一望のもとに見渡すことのできる丘に古墳時代初頭(西暦300年頃)から中期(550年頃)にかけて約40基の古墳が造られた丹波地方屈指の古墳群である。丘陵の最高所に築かれた15号墳は全長40m、後円部径25mの前方後円墳で4世紀末のものと推定される。この古墳から「景初四年」銘入り斜縁盤龍鏡(しゃえんばんりゅうきょう)が見つかった。「景初」は三年までしかないため「四年」の意味はわからないが、まさに卑弥呼の時代の鏡であることには違いない。そしてこの同笵鏡が宮崎県児湯郡高鍋町の持田古墳群(4~6世紀)からも見つかった。「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人□之位至三公母人□之保子宜孫寿如金石兮(□は言べんに名という字)」という銘文から製作者が陳という人物であることがわかる。この陳なる人物は江南人であるらしい。
 このほかにも丹後と日向のつながりを想定できることとして、双方から準構造船の形をした舟形埴輪が出土していること、日向の海幸山幸伝説と丹後の浦島太郎伝説が類似していること、ともに徐福上陸伝説があること、などがあげられる。

 ところで、これまで私は「丹後」という言い方をしているが、これは現代の丹後地方を指すのではなく、律令制下における丹波国・丹後国・但馬国を合わせた地域(律令以前はこの3つを合わせて「丹波」と呼んだ)に、さらに福井県の若狭国も加えた広い地域を指している。若狭を加えるのは丹後地方に隣接することから文化的なつながりがあっただろうと考えるからである。丹後と同様に若狭にも四隅突出型墳丘墓が存在していない。
 歴史学者の門脇禎二が1983年、現在の京丹後市の峰山盆地を中心とした地域に弥生時代から古墳時代にかけて地域国家が存在したという、いわゆる「丹後王国論」を提唱した。現在では古代丹波歴史研究所の伴とし子氏が「大丹波王国」として積極的に発信しておられる。私も基本的に同様の考えであるが、その地域的広がりは上述の通り、「丹波+丹後+但馬+若狭」であったとしたい。ただし呼称については、これらの地域の中心地として丹後を位置づけていることもあり、これまで通り「丹後」としておきたい。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする