古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

東之宮古墳

2019年07月20日 | 遺跡・古墳
 犬山市といえば犬山城。観光で犬山を訪れる多くの人は犬山城を目指すのでしょうが、今回の私は東之宮古墳を訪問。愛知県最古級、古墳時代前期の3世紀後葉から4世紀初めの築造とされる全長67mの前方後方墳。昭和48年(1973年)の盗掘を機に発掘調査が行われ、竪穴式石槨や豊富な副葬品が出土しました。また、このときの測量では全長が72mとされたのですが、その後の再調査の結果、葺石が分布する範囲から67mと修正されています。


 3月に訪ねた青塚古墳史跡公園にあるガイダンス施設「まほらの館」には東之宮古墳の副葬品である銅鏡11面などが展示されていました。まほらの館を見学したときに受付のおじさんから「是非行ってみてください」と勧められたこともあって今回の訪問となりました。

まほらの館に展示されている11面の鏡。

 東之宮古墳へは名鉄の犬山遊園駅で下車、駅の東側にある標高143mの白山平山を30分ほどかけて山頂まで登ります。この山は濃尾平野に向かって流れ込む木曽川の左岸、犬山扇状地の要に位置しています。濃尾平野を一望する山の頂上に築造された古墳に眠る被葬者はこの邇波(にわ)の地を治めた初代の王なのでしょうか。

登る途中のあちこちで見かけるチャート(堆積岩)の露頭。
この道は成田山名古屋別院大聖寺(犬山成田山)への裏道にもなっていて途中までは車で登れます。

駐車場からの眺め。犬山城が見えます。

ここから先は東之宮古墳への専用道。

チャートの切通し。山全体がチャートで覆われているようです。

30分ほどかけて汗だくになりながら山頂に到着。古墳の横には東之宮社が鎮座しています。

南側から登ってくる参道。

 東之宮社についてネットで調べていると、琥翔さんのブログにこんな記事を見つけました。→「東之宮古墳と東之宮神社」 
 この記事から「針綱神社」のサイトにたどり着いて、主祭神が尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)だということがわかりました。先代旧事本紀によると尾治針名根連命は尾張氏の祖である天火明命(あめのほあかりのみこと)の14世孫とされています。
 針綱神社はもともと濃尾の総鎮守として現在の犬山城天守閣付近にありましたが、天文6年(1537年)の犬山城築城に際して白山平に遷座されました。今見ている東之宮社です。もとの鎮座地から見て東の山上なので東之宮です。その後、さらに遷座が続いて明治15年(1882年)に現在の犬山城内に落ち着いたようです。

東之宮社の横に建つ「史跡 東之宮古墳」の石碑。
石碑の横にある台にはもともと立派な古墳の説明板があったようですが、おそらく台風などによって倒壊してしまったようで、近くに廃棄されていました。元の姿は琥翔さんの記事を見てください。

 さて、いよいよ古墳を観てまわります。古墳の周囲には遊歩道が整備されているので見学がしやすいです。

後方部の右側の角の部分。

 前方後方墳を間近に実感するのは初めてです。奈良県の馬見古墳群にある新山古墳も前方後方墳でしたが大きすぎるのと木々が茂っていたことから後方部を実感できませんでした。

後方部の左側。馴染みのある前方後円墳と違うのがわかります。

前方部の左側の角。

同じく前方部の右側。なぜか上部の角の土が取り除かれています。

 墳丘を一周したあと、東之宮社の右手、古墳のくびれ部から墳丘に登ってみました。

前方部から後方部を。

 この古墳はこの主軸に意味があるとされています。太陽の力が一番弱くなる冬至の日、この主軸の先から太陽が昇るというのです。主軸は北西から南東の軸になります。

犬山観光情報サイトから転載させていただきます。
被葬者は「冬至の王」とも呼ばれているそうです。

後方部から前方部を。
見ての通り、表面は山を登ってくる途中で見たチャートの破片で覆われています。

 ちょっとマニアックなことをやってみました。平成24年(2012年)に埋葬施設の再調査が行われた際に掘られたところを木の枝でかたどってみました。草が茂っているところがまさに埋葬施設があったところです。埋め戻した土に混じっていた草の根が成長したのでしょう。

北西部(後方部墳頂の前方部側)から。

南東部(後方部墳頂の先端)から。

そしてこれが実際の発掘時の北西部からの写真。
2012年の調査時に使われた現地説明会資料から転載させていただきます。撮影地点はふたつ上の写真と同じです。

石槨の石蓋をはずした状態。こちらも現地説明会資料からの転載です。

石槨の内部。こちらも現地説明会資料からの転載です。
チャートを綺麗に積み上げて石槨を形成しています。

 大和の纒向にあるホケノ山古墳の墳丘に登った時と同じような衝動に駆られました。この足元にこんな立派な埋葬施設があるのか。今すぐにこの手で掘ってみたい!

 前述の説明会資料に掲載された下の写真は後方部の北東側斜面にトレンチを入れたときに写真ですが、この発掘によって後方部の中間あたりの高さにテラス部が存在したことと、その上の二段目の斜面に葺石があったことが確認されました。そのトレンチの部分を確認しようと足元の不安定な斜面を降りて発見したのが2枚目の写真です。比べてみてください。


 東之宮古墳から眺めるこのあたり一帯は古代には尾張国丹羽(にわ)郡と呼ばれていました。私は「丹羽」を「たんば」あるいは「たにわ」と読んで、日本海側の丹波国とのつながりを想定しています。丹波国、あるいはその後に分かれた丹後国から近江を経由してやってきた人々が定着した地域で、丹波の丹波氏や丹後の大海氏と尾張の丹羽氏はつながっていると考えるのです。
 濃尾平野の南西部一帯(おおむね新幹線よりも南側)は現在でも海抜が低い地域で、内陸部の大垣市でさえ海抜数メートル、海抜ゼロメートルというところも点在しています。清須市にある貝殻山貝塚資料館に行ったときに職員の方から「朝日遺跡が見つかったこのあたりは弥生時代以降、人が住むようになったのは平成になってから。それまでは水田の広がる湿地帯で人が住むところではなかった」という驚きの話を聞きました。今でこそ伊勢にまで広がる広大な平野には交通網が縦横に巡っていて、大阪や奈良からだと近鉄大阪線でまっすぐ東に伊勢平野に抜けたあとは北上して揖斐川、長良川、木曽川を渡って濃尾平野に入って名古屋に行くことができますが、古代にはそのルートは取れなかった。伊勢から海路で三河の渥美半島へ渡るルートはあったものの美濃へは遠い。
 一方、地図を見ると丹後から美濃は意外に近いのです。若狭湾や琵琶湖の海路を使うとすぐにでも行けそうです。丹後→近江→美濃というルートは古代から栄えていたに違いないです。東之宮古墳に眠るとされる初代の邇波の王の出身は丹後であったのかも知れない。そんな思いを強くしました。

 古墳の周囲を二周し、墳丘を登ったり下りたり、墳丘上や墳丘斜面でいろいろ確認したり、木曽川、犬山城から濃尾平野を眺めたり、1時間ほどいたでしょうか、後ろ髪を引かれながら下山することにしました。このあと、近くにある妙感寺古墳も見ておきたいと思ったので、下山時は成田山の正面に出る道を下りました。

東之宮古墳は背後に見える山の上です。

成田山から下りてきて名鉄沿いの細い道を進むと左手に突然、妙感寺古墳が現れます。手前の盛り上がりは周堤の一部と言われています。

 妙感寺古墳は5世紀前半、古墳時代中期の前方後円墳で全長は約95mとされています。東之宮古墳から150年ほど後、青塚古墳から100年ほど後の築造でしょうか。とすると被葬者は邇波の王の5代目あたりかな。

 古墳は日蓮宗一翁山妙感寺の境内に位置しており、周辺や墳丘を含めて発掘調査は行われておらず、出土遺物なども確認されていません。

一翁山妙感寺の参道。背後に古墳が見えます。

本堂の裏手に墳丘があります。後円部です。

墳丘上の前方部に建つ小さな祠。最上稲荷とあります。

くびれ部です。

前方部には墓地が広がっています。

 草木が茂り、蜘蛛の巣が張り巡らされる墳丘の上をひとしきり探索して帰路につきました。犬山駅に向かう途中、古墳の全体が見えたので撮影しました。

左に走る名鉄は古墳の周濠の北西の角を削って敷設されたようです。


 最後に、往路で犬山遊園駅を降りたときにホームで見かけたこの看板。この犬山市に桃太郎伝説があることを初めて知りました。




 
 
 

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青塚古墳

2019年07月11日 | 遺跡・古墳
 2019年3月、愛知県犬山市にある青塚古墳を訪ねました。全長123mの前方後円墳で、愛知県下では名古屋市熱田区にある断夫山古墳の151mに継ぐ第二位の規模を誇ります。出土した埴輪や土器から古墳時代前期、4世紀中葉の築造と考えられています。
 名鉄の楽田駅で下車、県道を西へひたすら歩くこと30分、小さな橋を渡った左手に綺麗に整備された古墳が突然現れます。  

 
   

 墳丘は前方後円形の基壇の上に構築され、後円部が3段築成、前方部が2段築成で、墳丘表面は河原石の葺石で覆われ、各段に壺形埴輪が2m間隔で並べられていたことがわかっています。墳丘周囲にはやや不定形な盾形の周濠および外堤が巡らされていました。発掘調査を終えた古墳は復元整備され、青塚古墳史跡公園として公開されています。 
 
             

 一見すると前方部が3段で後円部が4段のように見えるのですが、最下部は基壇とされ、その基壇の上に築造された様子が見事に復元されています。これまで見てきた古墳の中で最も美しいと感じました。芝生が青くなるともっと美しくなるんだろうな。
 
 この古墳は東へ4キロほどのところにある尾張国二之宮である大縣神社の所有地になっていて、古墳にはその大縣神社の祭神とされる大荒田命が葬られているとの伝承があるそうです。大荒田命は「先代旧事本紀」に見える邇波県君(にわのあがたのきみ)の祖とされています。発掘調査は神社の協力によって実現したものの、埋葬主体があると考えられる後円部の墳頂部分は調査対象外となりました。

 公園内にはガイダンス施設「まほろの館」が併設されています。青塚古墳のほか、犬山市内にある古墳からの出土品などが展示されています。 
 

熊野神社第一号墳の出土品。
 
白山神社古墳の出土品。
 
上野古墳群の出土品。
  
東之宮古墳の調査の様子。
 
東之宮古墳に副葬されていた11面の銅鏡。レプリカです。
 

 展示を見学した後、資料コーナーで青塚古墳の調査報告書を読んでいると、受付のおじさんが声をかけてくれました。この邇波地方の古代史などについて30分ほど会話をすることができました。おじさんによると、この青山古墳は邇波の二代目の王の墓ということでした。
 初代の王は犬山市の北の方にある東之宮古墳に葬られているのでぜひ行ってみて、と言われたので必ず機会を作ろうと思いました。(そして先日、東之宮古墳に行ってきました。)

 青塚古墳の周囲には小さな古墳がいくつか残っているとのことだったので、まほろの館を出た後に見てまわりました。

青塚古墳の前方部の前にある小さな古墳。

たぶん葺石の名残りです。

竹藪になっていますが古墳です。
 
 美しい古墳を見ることができたのと、古代史マニアの受付のおじさんのおかげで実に楽しい時間を過ごすことができました。
 このあと、大縣神社を参拝しようかと思ったのですが、楽田駅まで戻ってそこからさらに30分、往復で1時間ほど余分に歩くことを考えると、体力に自信がなくてあきらめました。
 
 
 

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百間川遺跡群(吉備国実地踏査ツアーNo.16)

2019年07月04日 | 実地踏査・古代史旅

 2日間にわたる吉備国実地踏査の旅もいよいよ最後の踏査地、百間川遺跡群を残すのみとなりました。吉備高島宮跡からまっすぐ県道を南下して数分で到着です。

 遺跡群のある百間川は岡山平野のほぼ中央部を流れる旭川の放水路、つまり人工河川です。改修工事の際に中流域の河川敷で縄文時代から中世にかけての複合遺跡が発見され、1977年より発掘調査が行われました。このときに調査が行われた原尾島遺跡、沢田遺跡、兼基・今谷遺跡、米田遺跡を総称して百間川遺跡群と呼びます。

 調査の結果、弥生時代後期末には水田耕作がかなり広大に行われていたことがわかりました。また、部分的に稲株跡が見つかっており、株の大きさやその分布状況から「田植え」が行われていたことが想定されます。また、これらの古代遺跡のほか、旭川の氾濫から岡山城下を守るために造られた放水路や鎌倉時代から室町時代にかけての橋跡も発見されています。

 遺跡はすべて埋め戻されて、河川敷公園として野球場やサッカー場などが設けられています。そして、それぞれの遺跡から見つかった遺構は沢田橋の西側に移されて復元され、百間川緑地遺跡広場として開放されています。

竪穴式住居跡。原尾島遺跡で見つかった古墳時代前期のもの。

こちらは2本柱の竪穴式住居。沢田遺跡で発掘された古墳時代前期のもの。

 
こちらは何と8本柱。さらに内側にも6本の柱跡が。原尾島遺跡で見つかった弥生時代後期の大型竪穴住居跡です。
 
弥生時代の水田跡。
 
鎌倉時代から室町時代にかけての橋脚跡。

 

 この百間川遺跡群は河川敷に広がる広大な遺跡群であるものの、そのごく一部の遺構が復元されただけであり、しかも遺構が出た場所ではなくて一カ所に集められているので、残念ながらリアリティを感じることができませんでした。時間があるので4ヵ所の遺跡を回ろうかとも思ったのですが、ここに復元されたもの以外に遺跡であることを感じさせるものが何もない上に、直射日光を遮るものもなかったので、そそくさと退散しました。時刻は15時前ですが、二日間の吉備国実地踏査ツアーはこれにて終了です。

 予定よりも1時間半ほど早く岡山駅に到着したので、駅前の居酒屋で復習ミーティング。私にとっての今回の収穫は何と言っても特殊器台と特殊壺、それと楯築遺跡と弧帯文石でした。やはり実際に自分の眼で見るといろんな気づきがあります。フワッとした想像も確信に変わります。

 3人で行く実地踏査ツアー、三人三様の知見が蓄積されてきました。この次はその知見をもとにあらためて大和の纒向を訪ねることと合わせて、奈良盆地西南部の葛城地域を踏査しようということで決まりました。おそらく秋頃になると思いますので、乞うご期待!

 

 さて、16回にわたる吉備国実地踏査ツアー報告の最後に。

 事前学習も含めて今回の踏査ツアーで岡山県には古代の遺跡や由緒ある神社がたくさんあるということがわかりました。しかしながら、これらの文化財が全くと言っていいほど観光資源として活かされていないと感じました。楯築遺跡は古代史をかじった人なら誰もが訪れたいと思う遺跡だし、造山古墳や作山古墳などの墳丘に登れる巨大古墳は古墳マニアにはたまらないでしょう。なのに、そこに立てられたノボリに「桃太郎」とはどういうことか。また、大和政権の成立に大きな影響を与えたと考えられる古代吉備、その象徴である特殊器台・特殊壺はもっとアピールするべきです。観光を少なからず意識している鬼ノ城でさえ、途中の山道はバスが走れないような細い道。どこの遺跡に行っても色褪せた説明板が立っていて情報もアップデートされていません。県立博物館は時代錯誤も甚だしい撮影禁止。これでは岡山に人が集まりません。観光客の呼び込みに一役買っているのは吉備津彦神社と吉備津神社くらいでした。

 今回、遺跡や神社、博物館を巡ってわかったことは、これらの多くが岡山市内にあり、市外の場合でも倉敷市や総社市といったお隣になります。つまり、貴重で重要な文化遺産を効率的に見て回ることができるのです。これは大きなアドバンテージです。岡山の行政に携わる皆さん、そろそろ桃太郎頼みから脱却し、文化財行政と観光行政の連携によって岡山に人々を呼び込んでみてはいかがでしょうか。

 

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吉備高島宮跡(吉備国実地踏査ツアーNo.15)

2019年07月01日 | 実地踏査・古代史旅
 津島遺跡のある岡山県総合グラウンドを出たのが13時半を過ぎていました。次の目的地は神武天皇が東征の際に吉備に寄港して営んだ吉備高島宮跡とされる高島神社です。
 日本書紀は「吉備国の高島の地に行宮を造って3年間滞在し、その間に船舶や武器の準備、兵糧の備蓄を行った上で再び大和へ向かい出航した」と記しています。一方、古事記は高島宮での滞在を8年間としています。
 
 戦前に文部省が行った「神武天皇聖蹟調査」の結果、高島宮跡として「聖蹟伝説地」に認定されたのは岡山市南区宮浦の児島湾に浮かぶ高島でした。この島には高島宮の跡地に創祀されたと伝わる高島神社が鎮座していることから、ここが高島宮跡であることがほぼ確定したとされていますが、高島宮跡とされる場所は以下のように岡山県内およびその周辺に複数あるのです。
 
 
①が上述の聖蹟伝説地とされた高島神社ですが、私はこれらの候補地の中でも赤字で示した②が実際の高島宮跡だと考えています。理由は以前に当ブログの記事、第四の寄港地「吉備の高島宮」で書いた通りです。高島神社は旭川の左岸、龍ノ口山の南西麓に鎮座する小さな神社で、今回はここを訪ねることにしました。
 
神社のある山への登り口。
この先にある階段を登ります。
 
 
かなり急な登りですが、登りきったところに碑がたっていました。
 
小さな社が建っています。
 
 残念ながら祭神がわかりません。おそらく神武天皇であろうと想像するのですが岡山県神社庁のサイトを見ても記述がないために確認することができません。ここでできることは神社に参拝し、神武東征の雰囲気を感じることと写真を撮ることだけでした。
 
山を下ります。
 急な登りだったので、あたりまえですが下りも急です。佐々木さんのへっぴり腰を見て熊野の神倉神社を訪ねたときのことを思い出さずにはおれませんでした。
 2日目のこの日は吉備津彦神社のあとに予定していた吉備の中山の登山と元宮磐座をパスしたこと、津島遺跡のミュージアムが休館であったことから、予定よりも早く行程をすすめることができています。このあとはいよいよ最後の踏査地である百閒川遺跡群です。
 
 
 
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