古代日本国成立の物語

小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取り組んでみよう。

景行天皇(その4 九州平定①)

2017年08月30日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 書紀における景行天皇の最大の事績は、天皇自らが出向いた九州平定と日本武尊を派遣した熊襲征伐および東国平定である。まずは九州平定を見ていこう。なお、古事記では天皇による九州平定の話は記載されていない。

 景行12年、熊襲が反抗して朝貢してこないことを理由に天皇は九州に向けて出発した。これまで何度も述べてきたように、熊襲あるいは隼人は神武天皇のお膝元である九州中南部を支配する一族である。崇神天皇から垂仁天皇を経て、ようやく大和で神武王朝を制圧して畿内での主導権を握った景行天皇は神武の故郷である九州の制圧に乗り出したのだ。その西征ルートを順に追いかけてみる。

 西征部隊はまず周芳(すわのくに)の娑麼(さば)に到着した。現在の山口県防府市佐波である。天皇は南の空に煙がたくさん上がるのを見て必ず賊がいると思い、多臣の祖の武諸木(たけもろき)、国前臣(くにさきのおみ)の祖の菟名手(うなて)、物部君の祖の夏花(なつはな)の3人を派遣して状況を偵察させた。すると神夏磯媛(かむなつひめ)という女首領が降参を申し出て、鼻垂(はなたり)・耳垂(みみたり)・麻剥(あさはぎ)・土折猪折(つちおちいおり)という4人の賊の拠点を教えてくれたため、偵察隊は4人を誅殺することに成功した。その後、天皇は豊前国長峡県(ながおのあがた)に到着して行宮(かりみや)を設けた。それでこの地を京(みやこ)と呼ぶようになった。長峡県は現在の福岡県行橋市長尾に比定されており、一方の京は現在の福岡県京都(みやこ)郡に比定されるが、行橋市は市制施行前は京都郡に属していた。

 次に碩田国(おおきたのくに)、現在の大分県に到着し、さらに速見邑、現在の大分県速見郡に進んだ。速津媛という女首領がやって来て、青・白・打猿・八田・国摩侶という5人の土蜘蛛の存在を告げたので、天皇は来田見邑(くたみむら)に宮を設けて滞在した。大分県竹田市にある宮処野(みやこの)神社がその跡地とされる。天皇と群臣は後顧の憂いを絶つために土蜘蛛を討つことを決め、激戦の末に勝利した。天皇は柏峡(かしわお)の大野、現在の大分県豊後大野市に留まり、土蜘蛛を滅ぼせるよう、志我神(しがのかみ)、直入物部神(なおいりのもののべのかみ)、直入中臣神(なおいりのなかとみのかみ)の三神に祈って誓約をしたところ、結果は吉と出た。
 一行は日向国で高屋宮を設けて滞在した。宮崎市にある高屋神社が跡地とされる。天皇はここで厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)という二人の熊襲八十梟帥(くまそやそたける)を討った。そして滞在すること6年にわたり、襲の国を完全に平定することができた。そしてこの国の御刀媛(ひはかしひめ)を妃とし、日向国造の始祖である豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生んだ。

 景行17年、子湯県(こゆのあがた)へ行き、丹裳小野(にものおの)で遊んだときに「この国は真っ直ぐに日の出る方を向いている」と言ったことから、この地を日向と呼ぶようになった。子湯県は現在の宮崎県児湯郡である。
 景行18年、日向国の夷守に着いた。現在の宮崎県小林市である。石瀬河のほとりに人が集まっていたので兄夷守(えひなもり)・弟夷守(おとひなもり)を派遣したところ、諸県君(もろあがたのきみ)の泉媛が大御食(おおみあえ)を奉ろうとして集まっているということだった。諸県君は書紀の応神紀および古事記の応神天皇の段にも登場する。美貌の噂が高い諸県君牛諸井(もろあがたのうしもろい)の娘である髪長媛を応神天皇が娶ろうとしたが、媛が皇子の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、のちの仁徳天皇に恋心を抱いていたので天皇は皇子に媛を譲ったという話である。諸県君は宮崎県南部にあった諸県郡(もろかたぐん)を拠点にした土着の豪族であろう。


 景行17年および18年の記事から景行天皇一行は日向国の子湯県や諸県を行幸したことがわかる。ここには日本最大の規模を誇る西都原古墳群がある。現在までの発掘調査によって、3世紀前半あるいは半ばから7世紀前半に築造された311基の様々な古墳が存在し、その内訳は前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基となっており、ほかにこの地域に特徴的に見られる地下式横穴墓が多数見られる。その中の100号墳は全長が約57m、後円部の径が約33mの前方後円墳であり、調査の結果、4世紀前半の築造であることがわかっている。前方後円墳の原型を大和纒向の帆立貝式古墳(纒向型前方後円墳)に求める考えからすると、4世紀前半にはこの日向の地に大和の影響が及んでいたことになる。私は古事記で崇神天皇崩御年とされる戌寅を西暦258年と考えているので、そうすると次の垂仁天皇の治世が3世紀後半となり、さらに次の景行天皇は3世紀末から4世紀前半の天皇と考えることができる。すると、景行天皇による九州平定の時期と西都原100号分の築造の時期がいずれも4世紀前半と整合してくる。景行天皇の西征によって大和の崇神王朝の墓制が西都原に伝えられたと考えることができる。西都原古墳群は九州中南部を支配していた熊襲族あるいは隼人族の首長、すなわち狗奴国の王家の墓域であることは以前に書いた。そして、日向から大和へ東征した神日本磐余彦、すなわち神武天皇は狗奴国王であった。神武の故郷である狗奴国は敵国である崇神王朝すなわち邪馬台国によって爪痕を残されることになったのだ。邪馬台国である崇神王朝側から見ると、初代の崇神天皇のときに大和において東征してきた神武王朝と敵対し(3世紀中頃)、二代目の垂仁天皇のときに神武王朝を退けて畿内周辺での支配権を確立(3世紀後半)、三代目の景行天皇のときに神武王朝の本拠地である九州中南部を影響下においた(4世紀前半)、ということになる。これら大和政権成立の過程については私の仮説の一部訂正も含めて改めて整理したい。
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景行天皇(その3 美濃への行幸)

2017年08月29日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行4年、天皇は美濃へ行幸した。美濃で崇神天皇の皇子である八坂入彦皇子の娘、八坂入媛を妃とした。八坂入彦皇子は崇神天皇と尾張大海媛の間にできた子で、美濃のあたりを支配していたとされる。母方を頼って尾張に移動したという考えもあるがどうだろう。私は、尾張大海媛は大和の葛城を本貫地とする尾張氏と、饒速日命とともに丹後から大和に移ってきた大海氏との間にできた娘で、神武王朝が崇神王朝との融和を狙って崇神天皇に嫁がせたと考えている。尾張氏が尾張の地を拠点とするようになったのは、尾張国造に任じられて以降のことであり、先代旧事本紀の国造本紀によればそれは成務天皇の時とされる。これらのことから八坂入彦が母方を頼ったという考えは成り立たないと考える。八坂入彦が崇神天皇の子であるという書紀の記述は果たして本当だろうか。
 八坂入彦が美濃で一定の勢力を持っていた痕跡が岐阜県可児市の久々利(くくり)にある八坂入彦墓とされる大萱(おおかや)古墳および隣接する八剱(やつるぎ)神社である。しかし大萱古墳の築造は古墳時代中期とされ、八坂入彦が3世紀中頃の崇神天皇の皇子である、すなわち八坂入彦が3世紀後半から4世紀前半の人物であることと整合がとれない。八剱神社の祭神は八坂入彦命、八坂入媛命、弟媛命となっている。また、天皇はこの地で泳宮(くくりのみや)という仮宮を設けているが、大萱古墳や八剱神社から3キロほど西へいったところにその跡地とされるところも残っているが、泳宮の実在性や跡地の信憑性については何ともいえない。

 景行天皇ははじめ、八坂入媛の妹である弟媛を娶ろうとしたが断られ、代わりに姉の八坂入媛を娶るように薦められたために受け入れた。そして景行52年に当初皇后だった播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が崩御したことを受けて新たな皇后となった。天皇は八坂入媛との間に13人の子を設けた。第一子の稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)は後に成務天皇として即位する。また 第二子の五百城入彦命(いおきいりひこのみこと)の孫の仲姫命(なかひめのみこと)は応神天皇の后となって大雀命(おおさざきのみこと)、すなわち後の仁徳天皇を生んでいる。
 天皇は八坂入媛を妃とする前に播磨稲日大郎姫を后としており、この后との間に双子の子が(別伝では三人の子となっている)生まれている。大碓皇子と小碓尊である。通常であればこの二人の子のいずれかが皇位を継承すべきであろう。とくに小碓尊は日本武尊として熊襲征伐や東国平定など皇位を継ぐに相応しい実績がある。成務紀においても稚足彦尊は第四子、すなわち皇后である播磨稲日大郎姫の三人の子(成務紀では景行紀の別伝を採用している)のあとに生まれた子として、皇位継承の順位が低いことを明らかにしている。さらに言えば、その稚足彦尊が皇太子となったのは小碓尊すなわち日本武尊の死後の景行51年(成務紀では46年となっており矛盾が生じているが)である。日本武尊を皇太子に任命できない理由があったのだろうか。あるいは大碓皇子はどうであったのだろうか。

 また、景行天皇は八坂入媛を妃としたあとすぐ、美濃国造である神骨(かむほね)のもとにいた兄遠子(えとおこ)、弟遠子(おととおこ)という姉妹が美人だと聞いて顔が見たくなり、長子の大碓皇子を行かせたが大碓皇子は報告をしてこなかったため、天皇は彼を恨んだという。このあたりの事情は古事記に詳しく、大碓皇子はその美人姉妹を寝取ってしまったというのだ。おまけに違う女性を天皇に差し出した。天皇はそれに気づいたが口に出すことができずにいた。なお、この時にすでに美濃国造が存在したように書かれているが、諸国に国造が置かれたのは次の成務天皇の時とされている。成務紀に「諸国に令して国郡に造長(みやつこおさ)を立て」とあるのがそれとされるので、神骨は国造ではなく美濃の首長であったということだろう。
 大碓皇子はこの話を含めて記紀ともにあまり良く描かれていない。書紀の景行40年の東国蝦夷征伐の際、最初に派遣命令が下ったのは大碓皇子に対してであったが、彼は怖気づいて逃げ隠れしたために結局は小碓尊が行くことになり、大碓皇子は美濃に封じられることになった。一方の古事記では、大碓皇子が朝夕の食事に出てこないために天皇が小碓尊に諭すように伝えた様が描かれる。このように記紀ともに大碓皇子をよく書いていない。

 一方で小碓尊は日本武尊(倭建命)として大活躍する姿が描かれる一方で、前述の大碓皇子を諭すように天皇から言われたときに、諭すどころか大碓皇子を殺してしまう残忍な姿が描かれる。この残忍さを景行天皇が恐れて皇太子にしなかったとの考えもあるようだが、私は大碓皇子や小碓尊が皇太子に任命されなかった理由は別のところにあると考える。大碓皇子、小碓尊はともに播磨稲日大郎姫との間にできた子であり、一方の稚足彦尊は美濃の八坂入媛との間にできた子である。播磨は先代の垂仁天皇の時に来日した天日槍が天皇の命に背いて領地を奪おうとした土地である。つまり、天皇家(崇神王朝)と敵対する勢力と戦った播磨は崇神王朝側の勢力ということになる。景行天皇はここから后を迎えていたのであるが、一方の美濃はどうであったろうか。

 景行天皇による美濃への行幸は単に新しい妃を得るためということではなく、当時、十分な支配が及んでいない美濃を勢力範囲に加えるためであったと考えるべきであろう。先に見た紀伊への行幸も同様である(この紀伊への行幸が上手く行かなかったことは先述の通り)。天皇は美濃で最も望んだ弟媛に断られ、兄遠子・弟遠子の姉妹を得ることもできなかった。これは美濃行幸の本来の目的、すなわち美濃を支配下に置くことが叶わなかったことを比喩的に表現したのであろう。その代わりに次善の策として八坂入媛を妃とし、播磨稲日大郎姫の死後に皇后に昇格させ、その子である稚足彦尊を皇太子に任じて成務天皇として即位させたことは、美濃を支配下に置くには至らなかったものの、良好な関係が構築できたことを表しているのではないだろうか。その結果、日本武尊の東国平定において越国討伐に派遣された吉備武彦との合流地点として選ばれることとなった。

 さて、八坂入媛の父である八坂入彦は崇神天皇と尾張大海媛の間にできた子とされているが、先に見たとおり八坂入彦の墓とされる大萱古墳の築造年代との矛盾があること、景行天皇と八坂入媛がいずれも崇神天皇の孫にあたることに違和感があることもあり、この親子関係は後付けの創作ではないかと考える。
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景行天皇(その2 影媛と武内宿禰)

2017年08月27日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行3年、天皇は紀伊国へ行幸したが諸々の神々を祀ろうと占ったところ、よくない結果が出たので行幸を中止した。そして代わりに屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わした。この屋主忍男武雄心命は書紀では第8代孝元天皇の孫にあたる人物である。彼は阿備柏原(あびのかしはら)に滞在して神祇を祀ったが、それが9年間にも及んだという。そしてその間に影媛を娶って武内宿禰が生まれた。
 この影媛であるが、書紀では紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ)の娘とあり、私はこの菟道彦を神武が東征した際に速吸之門で一行に加わった珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦であると考えている。難波に上陸した直後の長髄彦との一戦で不利な戦況に陥った神武一行はいったん退却して伊勢に向かおうと大阪湾を南下、紀ノ川河口近くの名草邑で地元の女首長である名草戸畔を討った。神武は椎根津彦を紀伊国に残し、名草戸畔の後継としてこの地を治めさせた。さらにその後、熊野を経由して吉野へ入った神武一行と合流して大和平定に尽力した。その結果、椎根津彦は東征の論功行賞として倭国造に任じられることになった。一方、紀伊国に残った彼の後継たちは紀直、紀伊国造へとつながっていった。つまり、紀伊国は神武王朝の息のかかった一族によって治められていたのだ。これが景行天皇による紀伊国行幸が中止になった本当の理由ではないだろうか。

 なお、古事記では屋主忍男武雄心命は登場せず、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)と宇豆比古(うづひこ)の妹である山下影日売の間にできたのが建内宿禰であるとしている。比古布都押之信命は書紀で第8代孝元天皇の皇子であり武内宿禰の祖父として記される彦太忍信忍と同一人物である。つまり、書紀では孝元天皇の三世孫の武内宿禰が古事記では一世代省かれて孫として記されている。加えて、母親の影媛は古事記では宇豆比古(=珍彦=椎根津彦)の娘ではなく妹となっており、ここでも一世代分の短縮が見られる。いずれが正しいのかは定かではないが、重要なことは武内宿禰が孝元天皇の直系であること、母方が神武天皇の腹心の部下であった椎根津彦の娘、あるいは妹であること、要するに武内宿禰は神武王朝にゆかりある人物ということだ。


 書紀によれば、武内宿禰は景行天皇のときに「棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)」に、成務天皇のときに「大臣」に任じられ、その後も仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と計5人の天皇に仕え、360余歳を生きたとされる。古事記では7男2女の子とその後裔氏族が以下の通りに示される。

 波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)・・・波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部臣の祖
 許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)・・・許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖
 蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)・・蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣の祖
 平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)・・・平群臣・佐和良臣・馬御樴連の祖
 木角宿禰(きのつののすくね)・・・・・・・木臣・都奴臣・坂本臣の祖
 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
 奴能伊呂比売(ののいろひめ)
 葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ)・・・玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖
 若子宿禰(わくごのすくね)・・・・・・・・江野財臣の祖

 その後の大和政権の成立に大きく関わる氏族の多くが武内宿禰を祖としている。Wikipediaには「『日本書紀』『古事記』の記す武内宿禰の伝承には歴代の大王に仕えた忠臣像、長寿の人物像、神託も行う人物像が特徴として指摘される。特に、大臣を輩出した有力豪族の葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏ら4氏が共通の祖とすることから、武内宿禰には大臣の理想像が描かれているとされる」と書かれているが、記紀伝承の中でも特に仲哀天皇のときに神功皇后のもとで暗躍し、その後の応神天皇即位、すなわち応神王朝の開祖に強い影響力を発揮したことが重要であろう。武内宿禰が何者であるのかはこのあと、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇と論証を進める中で考えていきたい。
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景行天皇(その1 丹波勢力の影響力)

2017年08月25日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 今回より第12代景行天皇を考える。景行天皇は第11代垂仁天皇の第三皇子で母親は日葉酢媛命である。この日葉酢媛は丹波道主命の子であり狭穂彦の反乱で命を落とした狭穂姫のあと、垂仁天皇の二番目の后となった。つまり丹波の勢力が崇神王朝の外戚に入ったことになり、その日葉酢媛が生んだのが景行天皇である。また、古事記によれば前后の狭穂姫は彦坐王の子とされてり、丹波道主命は彦坐王の子であるから、狭穂姫と日葉酢媛は叔母・姪の関係となり、垂仁天皇は2人の后をいずれも丹波から迎えたことになる。さらに日葉酢媛の曽祖父、すなわち狭穂姫の祖父は神武王朝最後の天皇である第9代開化天皇であり、この開化天皇は丹波竹野媛を妃とし、第一皇子として彦湯産隅命を設けている。書紀の一書では彦湯産隅命の子が丹波道主命であるとしている。いずれにしても垂仁天皇および景行天皇は丹波勢力の影響を強く受けた天皇であることが言え、その丹波勢力は開化天皇を通じて神武王朝と強い関係があったことが伺えるのだ。

 垂仁天皇のところで見たように、倭姫命によって天照大神が大和から伊勢に遷座したことは、天照を祖神と仰ぐ天孫族である神武王朝の終焉を意味すると考えたのであるが、景行天皇の治世においては前述の関係性によって丹波勢力がそれに替わって影響力を及ぼすことになったのではないだろうか。天日槍の考察で見たように、丹波勢力は大丹波王国として天皇家に匹敵する力を持っていたと考えられる。崇神天皇は四道将軍を丹波に派遣しているが、書紀の記述を見る限り、丹波を支配下に置いたとまでは書かれていない。また、垂仁天皇においても天日槍に手を焼いた様子が窺える。天日槍は天皇の命令に背いて丹波に自らの領地を獲得し、さらに神宝を献上させたものの出石小刀は最後までモノにできなかった。播磨国風土記では出雲の大己貴神と領地争いを演じている。景行天皇、さらには次の成務天皇の治世においても丹波の勢力は大きな影響力を発揮した。そういう視点で景行天皇や次の成務天皇の事績を見ていきたい。

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吉武高木遺跡

2017年08月23日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 2017年4月、初夏を彷彿とさせる日差しの強い日、福岡県福岡市西区吉武にある吉武高木遺跡を訪ねました。西に飯盛山、東に室見川を望む地に営まれた弥生時代の大規模な遺跡で、弥生時代中期のクニの成立と展開を知る上で特に重要な遺跡とされています。遺跡の中心部が「やよいの風公園」として整備され、前週にオープンしたばかりのタイミングでした。福岡平野の西端にあたる場所ですが、遺跡の範囲を考えると脊振山から流れ出る室見川が形成した扇状地にあると考えるとわかりやすい。

バスを降りて遺跡に向かって歩いていくと飯盛山が見えます。


豊富な水量の室見川。


室見川を渡って遺跡に近づくにつれて、この地に弥生人が集団で生活した理由が何となくわかる気がしてきました。すぐ近くに山や森があり、周囲の山々から幾筋もの川が流れ出る広々とした平地。海にも近く、狩猟、採集、漁撈、稲作と食に困ることなく、水も豊富に手に入る。そして何よりも神奈備山の麓である。

公園入口を入ると飯盛山を背景にシカのオブジェが並ぶ。このオブジェは出土した甕棺に刻まれた線刻画をもとに作られたとのこと。

飯盛山の向こうは平原遺跡や三雲南小路遺跡など伊都国とされる一帯です。伊都国はまた別の機会に紹介します。


ここには吉武高木遺跡のほかに吉武大石遺跡、吉武樋渡遺跡があり、あわせて吉武遺跡群と呼ばれています。そしてこの遺跡群からは実に1200基にものぼる甕棺墓が見つかりました。特にこの吉武高木遺跡における1984年度の調査で見つかった弥生時代前期末~中期初頭の甕棺墓・木棺墓等あわせて11基は、一般の墓からは区別された場所に墓域が定められて、主軸を北東方向にそろえ平面長方形の大きな墓穴を持っており、加えて棺の中には多数の青銅製の武器や鏡、腕飾り、ヒスイ製の玉類などが副葬されていました。そのため、これらの墓は一般の人々とは異なる特定の有力者たちが葬られた墓と考えられ、特定集団墓と呼ばれています。


この11基のうち3号木棺墓には、銅鏡(多鈕細文鏡)1・銅剣2・銅矛1・銅戈1・ヒスイ製勾玉1・碧玉製管玉95という、質・量ともに優れた副葬品が納められていました。「三種の神器」を彷彿とさせる銅鏡・銅剣・勾玉がそろって副葬された墓は日本で初めてであったので「最古の王墓」と呼ばれています。


特定集団墓の北側には谷川の痕跡があり、その先には北東方向にのびるなだらかな丘陵状の高まりがあり、このあたりは弥生時代前期の終わりから中期後半までの200年の間に甕棺墓を中心とした多数の墓がつくられた場所です。ここから南西に向かって幅30~40m、長さ約500mにわたって甕棺墓群が存在し、その総数は2,000基にも及ぶと推定され、甕棺墓が道のように続いていることから「甕棺ロード」と呼ばれています。


甕棺が出土した地点にはこのように出土時の状況を記したプレートが貼られています。


一部の甕棺墓が地上に復元されているが、この復元はいただけない。出土時のままを残す、あるいはレプリカで地中に復元する方がリアリティがあるのになあ。


遺跡の南東の角からは弥生時代中期後半の大型建物跡が出土。当時としては国内最大級とのこと。



この遺跡は室見川が形成した扇状地の上にあると書きましたが、ここを福岡平野ではなく早良平野と呼ぶこともあるそうです。西の山を越えると魏志倭人伝に記された伊都国、平野を東へ行けば奴国。伊都国と奴国に挟まれた早良の地で栄えたこの一帯を早良王国と呼ぶ人もいます。早良王国は弥生前期後葉に起こり、中期に発展、拡大し、後期の初めには早くも衰退期を迎えることとなりました。魏志倭人伝が書かれた後期後半には既に伊都国もしくは奴国によって滅ぼされていたのでしょうか。




時刻は午後3時。あと3時間ほどで神奈備である飯盛山に陽が沈む。飯森山は大和でいうと二上山とおんなじだ。
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日前神宮・國懸神宮

2017年08月21日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 2017年8月18日、紀伊半島半周ツアーの最後の訪問地は日前神宮(ひのくまじんぐう)と國懸神宮(くにかかすじんぐう)。2つの神社が1つの境内にあり、いずれも紀伊国一之宮である。




神社に到着したのが16時50分。参拝は17時までとされ、まもなく閉めるのでもう入らないで、という感じ。
ちなみに上の正面からの写真は参拝後に撮ったために柵が閉められています。


入口からの参道が突き当たったところ。向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。
10分で参拝しなければならないので境内を駆け足。


まずは日前神宮。拝殿と本殿。



 主祭神は日前大神で日像鏡(ひがたのかがみ)をご神体とする。相殿神として思兼命(おもいかねのみこと)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)を祀る。

次に國懸神宮の拝殿と本殿。



 主祭神は國懸大神で日矛鏡(ひぼこのかがみ)をご神体とする。相殿神として玉祖命(たまのやのみこと)、明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)、鈿女命(うづめのみこと)を祀る。


 以下に神社公式サイトから由緒の一部を転載(一部修正)します。

神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命を治工とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。
 
 1つ目の文章はたしかに日本書紀神代巻第七段の一書に、天岩屋に閉じこもった天照大神を引き出すために思兼神が「天照大神の形を映すものを造って招き出そう」と考え「以石凝姥爲冶工採天香山之金以作日矛(中略)是卽紀伊國所坐日前神也」と記されているのですが、第2・第3の文にあるようなことは書紀に記述がない。第2の文章は古語拾遺に「於是從思兼神議令石凝姥神鑄日像之鏡初度所鑄少不合意(是紀伊國日前神也)」とあるので、ここからの引用かと思う。そして第3の文章はどうやら先代旧事本紀や紀伊続風土記、紀伊国造系図によるものと思われる。
 古来、この地を治めていた紀氏一族は日前神宮・國懸神宮の祭祀も担っていた。その紀氏が自らの伝承と記紀を結び付けて一族の由緒、両神宮の由緒として語り継いできたのであろう。順序としては、紀氏の伝承を書紀が一書として取り入れ、古語拾遺や先代旧事本紀がそれに編集を加えた。紀氏はこれらをもとに自らの伝承を盛ることにした。それが紀伊続風土記や紀伊国造系図に反映され、そして現在の由緒ができあがった。あくまで私の想像です。

 Wikipediaによると両神宮は以下のように丁重な扱いを受けています。それにも関わらず、その由緒が記紀の記述をベースに構成されていないことに大きな違和感を抱いてしまいます。

 ご神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされている。八咫鏡は伊勢神宮で天照大神のご神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ、準皇祖神の扱いをうけていたという。日神(天照大神)に対する日前神という名称からも特別な神であると考えられ、また、伊勢が大和への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたともいわれている。また、日前神宮のご祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。

 もう少し踏み込んで調べてみたい。
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竈山神社

2017年08月20日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 2017年8月18日、一泊旅行の2日目。和歌山市和田にある竈山(かまやま)神社を参拝。祭神は神武天皇の長兄である彦五瀬命。

 記紀によると、日向を出て瀬戸内海を東征してきた神武軍は難波に上陸、孔舎衛坂での長髄彦の軍と一戦を交えることになったが、この戦いで五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。その後、一時退却した一行が雄水門(男之水門)を経て紀国に進軍中に五瀬命は崩御したため、この竈山の地に葬られたという。

 彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定(じじょう)されている。紀伊続風土記ではこの地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている。 
 竈山墓は神社裏手の高さ9メートルの丘の上に設けられた直径6メートル、高さ1メートルの円墳とされる。また、神社は明治初期までは小さな社であったが、戦前の国家神道の発展に伴って最高の社格である官幣大社に位置づけられ、さらに社殿等が整備されて現在に至っているという。




参道から神門。


本当に立派な拝殿。


拝殿右側にならぶ境内摂社と拝殿裏手の本殿。この本殿はよく見ると二棟が縦に並んでいるようだ。


拝殿左側には本殿に通じる通路が。左手に見える階段は竈山墓に通じているように思える。



 竈山神社の神職は明治まで代々鵜飼家(うがいけ)が世襲した。鵜飼家は記紀において吉野川で漁をしていたとされる贄持之子(苞苴擔之子)、すなわち阿陀之鵜飼の祖(阿太養鸕部の祖)に始まるとされる。五瀬命の話だけでは記紀神話のテーマパークとも言えなくもないが、神職の家が記紀の記述との強い関連が想定される鵜飼家であったということで、より信憑性が高まる。

 ただ、配祀されている神々を列挙すると、稲飯命、御毛入沼命、神日本磐余彦命(神武天皇)、可美眞手命、天日方竒日方命、天種子命、天富命、道臣命、椎根津彦命、頭八咫烏命、となっており、さながら神武東征御一行様の様相である。ここまで並べれらると、これらの神々が配祀されたのは記紀編纂後のことであることは明らかだ。

 また、古墳と神社が一体になっているのは出雲の神原神社でも見た。やはり古墳の被葬者と神社の祭神は同一人物と考えるのが妥当であるとの思いを強くした。それにしても、想像していた以上に立派な神社だった。
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丹生都比売神社

2017年08月19日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 2017年8月17~18日、紀伊半島の西側を半周するドライブ旅行に行ってきました。17日の11時頃に富田林の自宅を出発、丹生都比売神社と高野山を参拝し、そのまま高野龍神スカイラインを走って龍神温泉で一泊。2日目は紀伊半島をさらに南下して奇絶峡を観て田辺市へ。田辺からは国道42号線を北上して白崎海岸に立ち寄り、再び42号線へ戻ってそのまま和歌山市内に入って竈山神社と国前神社・國懸神社を参拝、少し時間が遅くなったので阪和道を走って自宅へ戻りました。今回のお宿「旅館さかい」はペットと宿泊できる旅館だったので、初めてワンコを連れての旅行となりました。

 ここでは和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある丹生都比売神社を紹介します。紀伊国一之宮、旧官幣大社ということもあってか、秋篠宮ご夫妻も参拝され、記念の植樹がされていました。

駐車場に車を停めてまず目に入ったのが、立派な朱塗りの輪橋。


一の鳥居の奥に輪橋。


ワンコも一緒に橋を渡りました。


橋を渡ると奥に社殿が見えます。


予想以上に立派な拝殿にびっくり。


拝殿の裏手に4棟の本殿が並ぶ。右から第一殿、第二殿、第三殿、第四殿。


それぞれのご祭神。


第一殿の丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)は通称「丹生明神」と呼ばれ、古くより祀られていた神様。
第二殿の高野御子大神(たかのみこのおおかみ)は通称「狩場明神」と呼ばれ、高野山開創と関係する神様。
第三殿の大食津比売大神 (おおげつひめのおおかみ)は通称「気比明神」と呼ばれ、承元2年(1208年)に福井県敦賀市の気比神宮から勧請されたと伝えられている。
第四殿の市杵島比売大神 (いちきしまひめのおおかみ)は通称「厳島明神」と呼ばれ、第三殿と同年に厳島神社から勧請されたと伝えられている。

以下に神社公式サイトによる由緒を転載します。(一部変更しています)
 
紀ノ川より紀伊山地に入り標高四五〇メートルの盆地天野に当社が創建されたのは古く、今から千七百年前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞(にうだいみょうじんのりと)』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命(わかひるめのみこと)とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。
 
また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后(じんぐうこうごう)の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。
 
ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝 ぎしわじんでん』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社であります。
 
丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶で守られてきました。
 
また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入口で、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習でした。鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから舞楽法会が明治のはじめまで盛んに行われます。現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。
 
尚、平成十六年七月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内として世界遺産へ登録されました。



 高野山へ登る途中の山深い山村にひっそり佇む神社で、しかも主祭神と考えられる第一殿の丹生都比売大神は記紀に登場しない神様。紀伊国一之宮とされることに違和感を持ったのですが、この由緒を読むと少し納得かな。




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