古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆加茂岩倉遺跡

2016年10月01日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 前述の荒神谷遺跡同様にいくつかのサイトをもとに加茂岩倉遺跡を整理すると、この遺跡は荒神谷遺跡から南東に直線距離で3.3kmの島根県雲南市加茂町岩倉にあり、1996年に農道工事中に銅鐸が発見されたために発掘調査が行われた。結果、出土した銅鐸の総数は39個で1ヵ所からの出土としては全国最多となった。39個の銅鐸の内訳は、高さ45cm前後の中型銅鐸が20個、高さ30cm前後の小型銅鐸が19個で、文様は袈裟襷文が30個で流水文が9個であった。それぞれの銅鐸は鰭を上下に立てるように並べられ、長辺2m・短辺1mのちょうど畳1畳分くらいの穴の中にきちんと並べて埋められていた。また大きい方の銅鐸の中に小さな銅鐸を入れた「入れ子」状態で埋められていたものが13組26個あった。この「入れ子」による銅鐸埋納が発掘調査によって明らかになったのは加茂岩倉遺跡が初めてである。さらに、15組26個の同笵関係が明らかになっている。
 これらの銅鐸の製作時期は弥生中期から後期にわたると考えられ、その製作地については兄弟銅鐸の存在や文様などから近畿地方で製作されたものや、絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から出雲で製作されたものがあるとも考えられているが、確かなことはわかっていない。荒神谷遺跡出土銅剣の線刻の類似とは、358本の銅剣のうち344本について、その茎(なかご=刀剣の柄の部分)に「×」印が刻まれており、同様の線刻が加茂岩倉遺跡出土銅鐸の14個の鈕の部分に見られることを指している。

 遺跡を訪ねての第一印象は、荒神谷遺跡と同様、こんな辺鄙な山の中に何故、ということだった。しかも銅鐸が埋まっていた場所は斜面を少し登ったところなので銅鐸を運び上げる必要がある。荒神谷遺跡以上に「わざわざ」という印象を受けた。また、道路工事の専門的なことはわからないけれども、道路工事のために斜面のこんな高いところを重機で掘る必要があったのだろうか、という疑問がわいたことと合わせて、この遺跡の発見は限りなく偶然の賜物、という思いを強く持った。

 ここの銅鐸は荒神谷遺跡の銅鐸より製作時期が少し後と考えられるが、山あいの斜面に埋納されていたこと、埋納の状況、「×」印の線刻があること、などいくつもの類似性により、荒神谷遺跡同様に、銅鐸を祭祀に用いる集団が何らかの理由でそれらをまとめて埋納したと考えられる。荒神谷集団の分派のような集団であったのかもしれない。同じ時期に同じ理由で運命を共にしたのではないだろうか。



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