古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

天日槍と大丹波王国

2017年07月26日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 天日槍の渡来ルートを考えることでその後裔一族が建設した王国の姿が見えてきたが、その拠点が但馬であった。ここで思い出すのが「丹後王国」あるいは「大丹波王国」であり、丹後に降臨したとされる饒速日命である。物部氏による先代旧事本紀に描かれた饒速日命は天日槍と似た点がいくつかある。たとえば、天日槍は渡来時に七種あるいは八種の神宝を持参し、饒速日命は天神御祖(あまつかみのみおや)から授けられた十種神宝とともに降臨した。なかでも息津鏡・辺津鏡の二面の鏡は古事記と旧事本紀で一致する。また、それらの神宝はいずれも最終的には石上神宮に収められたとされる。さらに饒速日命は東征してきた神武天皇と争うとともに、私の考えでは神武に帰順した後は崇神王朝に敵対する勢力となった。一方、天日槍は渡来時に居所をめぐって垂仁天皇に反抗の意を表したが、垂仁天皇はもちろん崇神王朝の二代目である。このように天日槍と饒速日命は重なる部分が多い。但馬を拠点にした天日槍の王国、丹後を拠点にした饒速日命の王国。和銅6年(713年)に旧丹波国から5郡が分離されて丹後国となったが、伴とし子氏はこの丹後および丹波の勢力は隣接する但馬、若狭にまで及んでいたとしてこの勢力範囲を大丹波王国と呼んでいる。

 丹波が歴史に初めて登場するのは第9代開化天皇の時である。書紀では開化天皇が丹波竹野媛を妃として彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を設けたとある。古事記ではこの竹野媛は丹波の大県主である由碁理(ゆごり)の娘となっている。丹波大県主は神武王朝最後の天皇の外戚となったのだ。
 また開化天皇は和珥臣の遠祖の姥津命(ははつのみこと)の妹の姥津媛(ははつひめ)を妃として彦坐王(ひこいますのみこ)を設けたともあり、この彦坐王の子が丹波道主命となる(ただし丹波道主命は彦湯産隅王の子という別伝もある)。そして垂仁天皇のとき、狭穂彦の反乱において后であり狭穂彦の妹である狭穂姫が亡くなったあと、天皇は丹波国にいた丹波道主命の5人の娘を後宮に迎え、その中の日葉酢媛が后となって景行天皇を生んだ。もしも丹波道主命が別伝のとおり彦湯産隅王の子であるなら、開化天皇の外戚となった丹波大県主の系譜が、由碁理→竹野媛→彦湯産隅王→丹波道主命→日葉酢媛→景行天皇となり、丹波大県主一族は崇神王朝の外戚にもなったということになる。ただしこの場合、崇神天皇の時に丹波道主命が四道将軍として丹波に派遣されたことと辻褄があわなくなるが、いずれが事実であるかは定かではない。

 丹波が歴史に登場した開化天皇、あるいは崇神天皇や垂仁天皇のときと言えば3世紀、弥生時代の末期にあたる。この地域にはそれ以前からの繁栄を示す遺跡や遺物が多数出ている。京丹後市弥栄町の奈具岡遺跡は弥生時代中期に水晶玉の加工が行われた工房跡で、おそらく工具と思われる鉄器の生産も行われていた。同じく京丹後市の弥栄町と峰山町の境にある大田南古墳群からは青龍三年(235年)の銘が入った鏡が発掘された。峰山町には2世紀末から3世紀初めの王墓とみられる赤坂今井墳丘墓があり、数十個のガラス玉を使った頭飾りなどが出土した。また古墳時代前期には大型の前方後円墳が築かれ、網野銚子山古墳(全長198m)、神明山古墳(全長190m)、蛭子山古墳(全長140m)は日本海三大古墳と言われる。

 天日槍はまさにこのような時期に渡来し、その後裔一族は近畿北部のほぼ全域にわたる一大勢力圏を築いたのだが、その範囲は前述の大丹波王国と重なるのだ。天日槍と饒速日命、あるいは但馬と丹後、両者の関係を明確に示すことはできないが間違いなく存在したであろう大丹波王国は大和の政権とは一線を画した勢力であったということは言えるだろう。



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天日槍の王国

2017年07月24日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 魏志倭人伝に記される帯方郡からの遣使である張政の来日を素地として書紀に都怒我阿羅斯等が記されることとなった。では一方の天日槍はどうであったのだろうか。天日槍の渡来は垂仁天皇のとき、あるいは崇神天皇にさかのぼるとも考えられ、それは3世紀中頃から後半、すなわち弥生時代後期後半にあたっている。そしてこの時代は邪馬台国の時代である。また、私の考えでは神武が東征したのもこの頃である。日本海側をみると北九州の玄界灘沿岸地域には西から末盧国、伊都国、奴国、不弥国が並び、山陰地方では出雲が勢力を保持し、丹後には饒速日命の後裔一族が王国を築いていた。一方の瀬戸内海には真ん中には吉備が居座って瀬戸内航路を支配していた。天日槍はそういう状況にある日本へやってきたのだが、まずその渡来したルートを確認しようと思う。

 古事記に記された渡来ルートを見ると、新羅から帰国した妻を追っていきなり難波にやって来たことになっている。そして難波の手前で渡りの神に遮られたために引き返して但馬に到着、そこに住み着いたとある。難波の手前で遮られたとあるのは、天皇から播磨の宍粟邑か淡路の出浅邑に住むように言われたことを拒否したと書紀にあるのと呼応して、畿内の勢力にとって天日槍が招かれざる客であったことを表している。それにしても新羅からいきなり難波ということはその渡来ルートは瀬戸内海が想定される。そして難波から引き返して但馬へ向かっているのだが、引き返すといっても瀬戸内海を戻って関門海峡を抜けて日本海をぐるりと回って但馬へというルートは想定しがたいので、大阪湾あるいは播磨灘あたりで上陸して陸路で但馬へ向かったのか、それとも加古川もしくは市川を遡って但馬へ向かったのだろうか。

 次に播磨国風土記にも天日槍の渡来を読み解く記述があるので見ていく。それによると、天日槍が宇頭川(揖保川)の河口に来て、土着の神である葦原志許乎(あしはらのしこお)に「宿るところはないか」と尋ねたところ、葦原志許乎は海中を指した。すると天日槍は剣で海水をかき混ぜて勢いを見せ、そこに宿った。天日槍の勢いに危機を感じた葦原志許乎は、先に国占めをしようと川をさかのぼっていった。このとき丘の上で食事をしたが、このとき米粒を落としたため粒丘(いいぼのおか)と呼ばれるようになった。(中略)葦原志許乎と天日槍は山からお互いに3本の葛を投げたところ、葦原志許乎の1本は宍粟郡御方に落ち、残り2本は但馬の気多郡・養父郡に落ちた。天日槍は3本とも但馬に落ちたため、但馬の出石に住むことになった。
 ここに登場する葦原志許乎は出雲神話にも登場する大己貴神で播磨国風土記では伊和大神(いわのおおかみ)という地元の神と同一神として描かれている。この話は天日槍と土着の神による国占めの争いと言われており、播磨国風土記にはここに記した話を含めて全部で9ケ所の国占めの話が記載されている。これによると天日槍は揖保川の河口にやってきたものの土着神に受け入れられず、国占めの争いをしながら最後は播磨ではなく但馬の出石に定着したことがわかる。つまり天日槍は揖保川を遡って出石に至るルートを辿ったということになる。
 播磨国風土記は、霊亀元年(715年)あるいは霊亀3年(717年)に地方の行政組織が国・郡・里から国・郡・郷・里となったにもかかわらず国・郡・里の表記が用いられていることから、霊亀元年前後に成立したものと見られている。つまり712年に成立した古事記よりもあと、ということになるので播磨国風土記は古事記を参照したと考えられるが、古事記にあった難波の話は取り入れられずいきなり揖保川河口に来たことになっている。

 最後に書紀の内容を確認する。書紀によると天日槍は新羅を出た後、播磨国宍粟邑、菟道河、近江国吾名邑、若狭国を経て最後に但馬国にたどりついている。
 ここでも播磨国宍粟邑へ渡来したとされている。新羅から宍粟邑へ至るルートとしては瀬戸内海を通って揖保川を遡るルートか、日本海側からとすると鳥取県の千代川もしくは兵庫県豊岡市の円山川を遡るルートのいずれかになろう。播磨国風土記によると前者ということになるが、先述した時代背景から考えると瀬戸内海を通るこのルートは考えにくい。というのも、瀬戸内海を通過するにはまず関門海峡を通らなければならない。都怒我阿羅斯等のところで見たように伊都国の勢力が穴門まで及んでいたと考えられるので、この関門海峡通過は困難である。無事に通過できたとしても、そのあとに大三島や吉備という隼人系海洋族が押さえる海域がある。すでに天日槍がこれらの一族と通じていたのであればこのルートは問題なく通過できるであろうが、少なくとも記紀や風土記を読む限りそれを想定させる記述はなく、天日槍は新羅から突然やってきている。関門海峡や群雄割拠する瀬戸内海ルートを無事に通過することはやはり難しいと言わざるをえない。これは古事記や播磨国風土記の記述に対しても言えることだ。
 宍粟邑のあと、菟道河(宇治川)を遡って近江国、若狭国を経て但馬国に入った、というのも渡来時のルートとしては考えにくい。宍粟邑も含めてここに記された地域は天日槍あるいはその後裔一族が但馬を拠点として勢力を拡げた範囲を示していると考えられる。近江国の鏡邑に住む陶人(すえひと)は天日槍が連れてきた人々である、と書紀にあるのがその証である。鏡邑は現在の滋賀県蒲生郡竜王町の鏡村に比定される。また、宇治川を遡って近江国に入った湖南地方、鏡村からさほど遠くない草津市穴村町は吾名邑の比定候補地である。古事記によると天日槍の7世孫に息長帯比売命(神功皇后)がいるが、この息長氏は琵琶湖の東岸、近江国坂田郡を拠点とする氏族で、天日槍後裔がこの息長氏と姻戚関係になったのも、近江国に勢力を拡げていたからにほかならない。そしてこの近江国から若狭国に入ったところが気比神宮のある敦賀である。「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」で書いたように、気比神宮に祀られる伊奢沙別命は応神天皇とつながっており、その応神天皇は天日槍の後裔、神功皇后の子である。
 記紀や播磨国風土記が天日槍の渡来ルートとして記した地域はその後裔一族の勢力範囲であり、それは播磨、宇治、近江、若狭、但馬と近畿北部のほぼ全域にわたる。天日槍は但馬を居所と定め、その後裔たちが領域を拡大して近畿北部に一大王国を築いた。書紀では天皇から播磨か淡路に住めと言われたのを拒否し、古事記では渡来時に難波の手前で渡りの神に遮られ、播磨国風土記では土着の神と争った。これらの話は天日槍一族による王国建設の過程を表しているのではないだろうか。
 清彦のときに神宝を献上して一度は垂仁天皇に帰属することになったが、後裔の息長帯比売命(神功皇后)は捲土重来、王国の復活を画策して政権を奪取することに成功する。


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天日槍と都怒我阿羅斯等の考察②

2017年07月22日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 さて、阿羅斯等が来日したときの最後の上陸地点が敦賀であったことが倭人伝に一致するかどうかは疑問が残ると前述した。実は「投馬国から邪馬台国への道程」ですでに書いた通り、倭人伝の行程で出雲を出て水行10日後の上陸地点について「丹後半島の手前、現在の兵庫県の日本海沿岸のどこか、あるいは兵庫県まで行かずに鳥取県の東端、現在の鳥取市あたりかも知れない」とし、さらに「水行の際にどうして丹後半島まで行かなかったのだろうか。できるだけ水行で進むのが楽なはずである。さらに言えば丹後半島を越えて敦賀あたりまで行って上陸し、琵琶湖を利用して瀬田川を下り巨椋池から木津川に入って大和を目指すのが最も楽な行程ではなかろうか。(中略)つまり丹後が倭国に属していなかった、あるいは出雲と対立していたということではないかと考えている」ということも書いた。倭人伝が書かれた弥生時代後期、倭国の勢力は出雲から水行で東へ向かうとき、敵国の地である丹後半島を越えることができなかったが、記紀が編纂された7~8世紀、その地はすでに統一国家である日本の領域になっており、敦賀の地は日本海から大和に向かう際の最も効率的なルートとして認識されていたので、書紀ではそれを前提に敦賀が阿羅斯等の上陸地として記述されたのだ。これが倭人伝に書かれた邪馬台国への行程と書紀のそれとの相違の理由だと考える。

 都怒我阿羅斯等と天日槍が同一であるとの考えからスタートしたものの、私自身が納得できる合理的な説明に至らず、逆に阿羅斯等の来日ルートから倭人伝における邪馬台国までの行程に思いが至り、このように考えた。ただ、このように考えたときに阿羅斯等にまつわる残りの話、すなわち、牛・白石・童女・比売語曾社の神の話がなぜ古事記で天日槍の話になっているのか、逆に言うと古事記における天日槍の話が書紀ではなぜ阿羅斯等の話になっているのか、ということの説明も必要であろう。
残りの話を整理すると、古事記では「天日槍は、女が日光を受けて妊娠して生んだ赤玉が化身した少女を妻にしたが、その妻が日本へ帰ったので追って来日。妻は難波の比売碁曾社に祀られている」となり、書紀では「阿羅斯等は、行方不明になった牛の代わりに手にした白石が化身した童女を追って来日。童女は難波と豊国で比売語曾社に祀られている」となる。

 古代朝鮮半島では高句麗の建国王である東明聖王の神話にあるように、日光によって妊娠するという天光受胎や、卵から王が生まれるという卵生神話が見られる。新羅の建国王である赫居世も卵から生まれたとされる。このことから天日槍説話は朝鮮半島の神話をモチーフにしていることがわかる。また、赤色は儒教において最高位の色とされ、五行思想でも夏や太陽を表す陽中の陽とされる。古代日本においても魔除けなど呪力を持つ色とされる。いずれも新羅王子のイメージに合っている。これらにより、この話はもともと朝鮮半島由来の天日槍にまつわる話である、すなわち古事記の記述が正しいと考えられる。しかし、書紀においては古事記になかった都怒我阿羅斯等を同じ朝鮮半島の大加羅国王子として登場させる必要があり、そのために古事記の天日槍の話からこの部分を切り離して転用したのではないだろうか。その際に天光受胎の話を抜き、赤色を同じ神聖な色とされる白色に変え、あたかも別人の話として変化させてしまったと考えられる。比売碁曾社(比売語曾社)の話もその際にセットで転用されたのだろう。
 
 
 
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天日槍と都怒我阿羅斯等の考察①

2017年07月20日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 垂仁紀に登場する天日槍と都怒我阿羅斯等について、この二人を同一とするか、それとも別人と考えるか。「垂仁天皇(その7 天日槍の渡来)」を書いた時点では時間をかけて考えようとして継続検討課題としていたが、その後にいろいろと頭を悩ませた結果としてそれなりに自分の考えができたので書いてみたい。まず、記紀の記述をごく簡単に整理する。

【書紀(天日槍)】
新羅の王子で日本に聖王がいると聞いて神宝を携えて来日、播磨国から近江国、若狭国を経て但馬国に定着し、後裔一族を形成した。

【書紀(都怒我阿羅斯等)】
大加羅国の王子で、日本に聖王がいると聞いて穴門から出雲国を経て越国の笱飯浦に到着。別伝では大加羅国にいたときに行方不明になった牛の代わりに手にした白石が化身した童女追って来日。童女は難波と豊国で比売語曾社に祀られる神になった。

【古事記(天之日矛)】
新羅の王子で、女が日光を受けて妊娠して生んだ赤玉が化身した少女を妻にした。その妻が日本へ戻ったために追って来日但馬に定着して後裔一族を形成した。妻は難波の比売碁曾社に祀られる阿加留比売である。来日の際には神宝を持参していた。

 下線部を見ると、古事記の天之日矛の説話は書紀の天日槍と都怒我阿羅斯等の2つの説話を合わせたような内容になっており、天日槍と都怒我阿羅斯等の相違は、出身国と来日ルートぐらいである。この状況から、天日槍と都怒我阿羅斯等はおそらく同一であろうという考えから思考がスタートした。
しかし、記紀を詳細に見ると、同一であると考えにくい記述もいくつかあった。たとえば、書紀において都怒我阿羅斯等は崇神天皇を慕って来日したが崇神が崩御したあとだったので垂仁天皇に仕えたとある一方で、天日槍が来日したときには垂仁天皇から「播磨の宍粟邑か淡路の出浅邑に住みなさい」と言われたにも関わらず「自分が住むところは自分で探す」と言って反抗の意を表した。いずれも書紀の別伝の記述ではあるが、このふたつの話は矛盾するのではないか。さらに前述した来日ルートの違いも大きい。都怒我阿羅斯等は越国の笱飯浦へ到着したが、この笱飯(気比)には越前国一之宮の気比神宮があり、祭神の伊奢沙別命は応神天皇が皇太子の時に名前を交換した神であることを記紀ともに記している。古事記では応神天皇の母である神功皇后は天之日矛(天日槍)の後裔であることから、気比は天日槍にゆかりがあるように思うのだが、記紀ともに天日槍の話に登場しないのが不思議だ。

 先にできた古事記も、それより少し遅れて完成した書紀も、どちらもほぼ同じ情報をもとに編纂されているはずなので、古事記で天日槍ひとりの話として出来上がっているものを書記でわざわざ天日槍と阿羅斯等の二人の話に分割したと考えるよりも、もともと書紀の通り、二人の話であったものを古事記では一人の話しか取り上げなかった、と考える方が素直ではないだろうか。つまり、天日槍と阿羅斯等が同一人物ではない、という仮説でもう一度考えてみることにした。
 その取っ掛かりとして、都怒我阿羅斯等の来日ルートについて「垂仁天皇(その7 天日槍の渡来)」の最後に書いたことを改めて考えてみた。最初に到着した穴門(長門国の古称)で伊都都比古なる人物が登場したことから、ここに伊都国の勢力が及んでいたのではないかとした点だ。これを念頭に置いて、阿羅斯等は穴門のあと島浦を伝って北の海から出雲国を経て越国の笱飯浦(敦賀)へ着き、その後に大和に入った、ということをよくよく考えると、このルートはもしかしたら魏志倭人伝にある邪馬台国までの行程を参照しているのではないか、ということに思い至った。倭人伝の行程では、伊都国のあと奴国、不弥国、投馬国を経て邪馬台国に至る、となっている。私は投馬国を出雲、邪馬台国を大和の纒向に比定しているので、その考えに基づくと、北九州の不弥国を出た後は日本海を水行して出雲へ、その後、再び日本海を水行、そしてどこかに上陸し、ひと月の陸行を経て大和へ至るルートが倭人伝の行程であると言える。最後の上陸地点が敦賀であったことが倭人伝に一致するかどうかは疑問が残るが、穴門に伊都国の勢力が及んでいた可能性があること、阿羅斯等が大加羅国の王子とされており、その大加羅国は倭人伝にある狗邪韓国にあたることも含めて考えると、都怒我阿羅斯等の来日ルートは倭人伝における帯方郡から邪馬台国に至る行程にほぼ一致している、あるいは少なくとも倭人伝のルートをベースにしていると言えるのではないだろうか。

 さらに倭人伝を参照していると考えられることがある。参照しているというよりも、都怒我阿羅斯等説話の素地となっているのが、倭人伝の正始八年の次の記事である。「正始八年(247年)、帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国男王の卑弥弓呼と始めから友好関係になく、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して狗奴国と戦闘状態であることを報告した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した」 
 正始八年(247年)、卑弥呼が倭国と狗奴国が戦闘状態にあることを帯方郡に報告し、窮状を訴えたのであろう。訴えを聞いた帯方郡の王頎は張政を邪馬台国に派遣した。
 さらに記事は続く。「卑弥呼は死去し、大きな塚を作った。直径は百余歩。百余人の男女の奴隷を殉葬した。その後、男王を立てたが国中が従わずに互いに殺しあい、当時千余人が殺された。そして卑弥呼の宗女である十三歳の台与を立てて王としたところ、ようやく国中が安定した。張政たちは檄をもって台与に教え諭した
 帯方郡から張政がやってきたが、残念ながら事態は好転せずに卑弥呼が亡くなった。その後に男王が立ったものの、連合国である倭国はまとまらなかったために卑弥呼の宗女である台与が王となったところ、ようやく国内が安定した。そして張政が帰国することになった。
 倭人伝は続いて「台与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して張政等が帰るのを送らせた。そして、台(魏の王宮)に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ」と記す。

 張政は帯方郡から邪馬台国へ派遣されてきた。その行程はおそらく倭人伝に書かれたルートを辿ったであろう。そしてそのルート以上に重要なのが張政が来日した時期である。倭人伝では正始8年(247年)に狗奴国との戦闘による倭国の窮状を聞いた帯方郡の太守である王頎が張政を派遣しているので、派遣時期は早ければ報告を聞いてすぐの247年ということになろうが、おそらく250年前後であろう。
 そして張政来日のタイミングで卑弥呼が亡くなって男王が立った。私はこの男王が崇神天皇であり、その崇神の崩御が古事記にある戊寅の年にあたる258年と考えている。書紀では都怒我阿羅斯等の来日は崇神天皇の時とし、さらに来日して大和に入る前に崇神崩御があったことも記している。また、そもそも阿羅斯等の話は、書紀本編で崇神崩御の3年前に任那が派遣してきた蘇那曷叱智なる人物の帰国時の別伝として記されているため、蘇那曷叱智と阿羅斯等は同一人物と考えることができる。そうすると阿羅斯等の来日は255年となる。それぞれのタイミングは若干の誤差があるのかもしれないが、すべて3世紀中頃の出来事と考えれば、都怒我阿羅斯等(=蘇那曷叱智)の来日説話は倭人伝の張政来日を素地にしていると考えることができる。また、天皇は阿羅斯等が帰国する時に赤絹を持たせているが、これは張政が帰国する時に台与が与えた貢物に該当すると考えることもできるのではないか。
 
 さらに書紀では、日本に聖王(崇神天皇)がいると聞いて来日した阿羅斯等が大加羅国に帰国する時、垂仁天皇から「御間城天皇(崇神天皇)の御名に因んで本国の名を改めよ」と言われたので、大加羅国は国名を「弥摩那(みまな)国」と改めた、とある。垂仁天皇の治世は3世紀中頃から後半と考えると朝鮮半島に任那という国は存在していないが、阿羅斯等が大加羅国王子であること、日本の聖王を慕って来日したこと、帰国時に任那の国名を与えられたこと、など一連の話はのちに任那日本府を置いて統治(属国化)したことを正当化するための背景になる話として創作されたのだろう。


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比売許曽神社

2017年07月15日 | 神社・仏閣
 ちょうど天日槍を考えている最中の2017年7月10日、朝から本社で会議を済ませて別のオフィスへ移動する途中、ふと思い出して立ち寄った。場所は大阪市東成区、鶴橋駅の近くである。
 


 
 日本書紀では垂仁天皇紀の都怒我阿羅斯等(大加羅国の王子)の話に、古事記では応神天皇段の天之日矛(新羅の王子)の話に登場する。都怒我阿羅斯等は白い石が変身した童女を追っていくと日本までやってきて、童女は難波で比売語曽社の神となった。一方の天之日矛は赤い玉が変身した妻を罵ったところ「祖国に帰ります」と言って逃げていき、難波にたどり着いた。この女神は難波の比売碁曽社にいる阿加流比売である。
 

 
 この難波の比売語曽社、あるいは比売碁曽社がここであろう、と思ってやって来たのだ。当然、ここの祭神は阿加流比売かと思いきや、全然違った。
 


 主祭神は下照比売命で、相殿神として速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を祀っているという。神社縁起をみても前述の記紀の話は関係がなさそうだ。あとで調べてみると、阿加流比売命を祀るのは赤留比売神社で、それは大阪市平野区にあるという。なんと以前に住んでいた場所の近くだ。こんなことなら先に調べればよかったと思ってもあとの祭り。
 祭りと言えば、この比売許曽神社、ちょうど夏祭りの準備の真っ最中でした。



 それでも何か収穫は無いものかと思って神社の周囲をぐるりと歩き回り、狭い境内を隅から隅まで眺めて、そして発見。




 本殿の横にある稲荷社の提灯に「白玉稲荷大神」の文字。これぞ都怒我阿羅斯等が追いかけてきた童女の元の姿である白石と関係あるのではないか。そう思って帰宅後に調べてみると、どうも関係がなさそうだった。白玉稲荷は全国のどこにでもあるようだ。

 実地踏査にあたっては事前準備が必要であることを改めて認識した一日となりました。
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垂仁天皇(その10 田道間守)

2017年07月13日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 垂仁90年、天皇は田道間守(たじまもり)を常世国へ遣わして非時香果(ときじくのかぐのみ)を持って帰るように命じた。非時香果とは橘のことだと言う。10年後、田道間守はようやく非時香果を見つけて持って帰ってきたが、残念ながらその前年に天皇は崩御していた。田道間守は嘆き悲しんで天皇の陵で亡くなった。
 これとほぼ同じ話が古事記の垂仁天皇の段にも記載される。したがって、田道間守が垂仁天皇の時代の人物であることは確実であろう。そしてこの田道間守は書紀では天日槍の神宝を献上した清彦の子で、天日槍の四世孫にあたる。書紀では天日槍の渡来も垂仁天皇のときとされているが、天皇一代の間に天日槍の後裔が4世代も経るのはおかしいので、天日槍の来日は少なくとも崇神天皇以前であったか、もしくは4世代というのが創作であるのかもしれない。書紀での系譜は「天日槍→諸助→日楢杵→清彦→田道間守」となっていて、このうち諸助と日楢杵については具体的な記述がないので実在していないと考えることができる。そうすると「天日槍→清彦→田道間守」となって、天日槍の渡来を崇神天皇の時代におけば問題がなくなる。この系譜は古事記では「天之日矛→母呂須玖→斐泥→比那良岐→毛理・比多訶・清日子の3人兄弟」となっていて書紀よりも一世代増えているが、こちらも母呂須玖、斐泥、比那良岐の3人については記述がなく書紀同様に実在が怪しまれるので同じ結論になる。ちなみに古事記では応神天皇の段に天日槍の渡来の話が記載され、その渡来を「また昔」として時期を特定していない。
 
 さて話を田道間守に戻そう。「垂仁天皇(その8 天日槍の神宝①)」で書いたように、清彦が神宝を献上したことは大和の天皇家が但馬を支配したことを意味するのだが、逆に言えば天日槍の後裔一族が天皇家に恭順したということである。そして天皇は清彦の子である田道間守に対して自ら命を下して常世国へ派遣させていることから考えると、田道間守はどうやら大和に赴いて天皇に仕えるようになっていたようだ。天皇の命に従って常世国へ行き、10年の歳月を経て戻った時に天皇の崩御を知って自ら命を絶ったという話は、天日槍後裔一族の政権への忠誠心を表していると言えるだろう。天日槍が来日した際、天皇から播磨国の宍粟邑と淡路の出浅邑に住むように言われたにも関わらず、自分の住みたいところは自分で探すと言って反抗の意を表し、天皇もそれを許さざるを得なかった状況と比較すると、まったくもって主客逆転である。
 
 同じように神宝を奪われた出雲は神話において大きく取り上げられ、そのことが出雲勢力の大きさを物語っているのだが、この天日槍は垂仁紀に記載された数々の説話のひとつとして語られる程度であるにも関わらず、ただ者ではない空気が漂う。天日槍についてもう少しだけ考えてみたい。


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垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)

2017年07月10日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 古事記、書紀、旧事本紀の3つの史書がこの順で編纂されたことを念頭に、順に神宝を考えてみたい。最初に編纂された古事記によると、天日槍は8種の宝物を持って渡来し、伊豆志(出石)神社に収めた。この8種の神宝は伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)と呼ばれて出石神社の祭神となっている。古事記の次に編纂された書紀は古事記を参照した上で、以下の編集を加えたと考える。

 まず古事記の珠二貫は、書紀の羽太玉(別伝では葉細玉)と足高玉に相当する。羽太玉と葉細玉が同じものと考えると、片方の端が太くてもう一方の端が細くなっている玉ということになろうか。足高玉は玉に足がついていたのか、あるいは足のような台に乗っていたのか、いずれにしてもその形状を表しているのであろうか。岡山県倉敷市にある足高神社と関係づける考えもあるようだが、よくわからない。石上神宮のサイトを見ると、禁足地から出土した社宝として琴柱形石製品(ことじがたせきせいひん)が掲載されている。琴の弦を調節する琴柱(ことじ)に形状が似ていることからついた名称で、濃緑の極めて良質な碧玉で作られているとのこと。石製品であるが良質な碧玉製であることと、その形状をみると足がついていること、そして何と言っても石上神宮の禁足地に埋納されていたことから、私はこれを足高玉と考えることはできないかと密かに思っている。
 そして書紀で加えられた鵜鹿々赤石玉であるが、これは古事記において天日槍が妻とした阿加流比売神に変身した赤玉を指しているのだろう。天日槍渡来の直接的な原因となった妻の元の姿である重要な玉を神宝に加えた。
 次に出石小刀と出石桙であるが、古事記の8種神宝に珠(玉)と鏡があり、ここに太刀あるいは剣を加えることで三種の神器の構成になることから出石小刀と出石桙を加えた。小刀、桙ともに太刀あるいは剣とみなすことに問題はないと考える。また、珠が二貫、鏡が二面であったので、小刀と桙の二本ということにしたのだろう。正史である書紀だからこそ、天皇家が手に入れようとする神宝が三種の神器であることを装おうとしたのだ。しかし、神宝の献上を求められた清彦は出石小刀だけは奉るまいと考えて隠そうとした。結局は露見してしまうのだが、最終的に出石小刀はひとりでに淡路島に行ってしまったという。出石桙については、そもそも献上した神宝には記されていない。これは書き漏らしたのではなく、意図的に書かなかったのだ。これによって存在しなかった小刀と桙を存在するように見せかけたものの、結局は神府(みくら)に存在しない言い訳とすることができる。
 そして鏡であるが、古事記では奥津鏡と辺津鏡であるが、これも書紀が正史であることを考えると、天照大神を祀る鏡を意味する日鏡に置き換えたのではないだろうか。
 最後に、古事記に4種類あった比礼が書紀には全く入っていない。その代わりに熊神籬が加えられている。そもそも熊神籬とは何であろうか。神籬とは神を迎えるための依り代となるものである。そして「熊」は古語で「神」の意味があり、また朝鮮語では「神聖な」という意味があるという。これらのことから熊神籬は「神聖な神の依り代」とでも考えられるだろうか。ここでは具体的に、古事記にあった比礼4種をまとめて収納した小箱のようなものを想定できないだろうか。古事記に記された比礼は、波を起こしたり止めたり、風を起こしたり止めたり、と波や風を操る力を持ったもので、まさに神の力が宿るものであるので、それを収納したものを神籬と呼ぶことに大きな違和感はないと思う。

 かくして古事記の8種神宝と書紀の神宝を対応させることができた。続いて、書紀の別伝にある「膽狭浅太刀」についても少し考えてみたい。膽狭浅は「いささ」と読むことから、福井県敦賀市にある越前国一之宮の気比神宮に祀られる伊奢沙別命(いざさわけのみこと。書紀では「去来紗別神」、古事記では「伊奢沙和気大神」)との関係が説かれている。書紀の応神紀のある説によると、応神天皇が皇太子になったとき、越国へ行って敦賀の笥飯大神(気比大神)を参った際に大神と名前を入れ替え、誉田別尊(ほむたわけのみこと)と呼ばれるようになったという。古事記にも同様の話が記載されている。建内宿祢が越前の敦賀に仮宮を造って皇太子を迎えたとき、伊奢沙和気大神が太子の夢に現れて名前を取り換えてほしいと依頼したところ、太子はそれを承知したという。膽狭浅太刀は天日槍と応神天皇のつながりを想起させてくれる。さらにこの二人が敦賀の地でつながっていることを考えると、否が応でもここに都怒我阿羅斯等との関係をも考慮したくなる。
 岡谷公二氏はその著「神社の起源と古代朝鮮」で谷川健一氏が、敦賀の気比神宮のみならず、但馬の出石の近く、円山川の川口周辺に気比村、気比の浜、イザサワケを祀る気比神社があり、その西方余部(あまるべ)村の伊佐佐岬のふもとにも同じ大神を祀る伊佐(伎)佐神社、楽々(ささ)浦があることを指摘していることを引用して、膽狭浅の太刀は出石の太刀と同意になると説いている。膽狭浅(いささ)と出石(いずし)の音の類似から膽狭浅太刀を出石太刀と解することに大きな違和感はないが、谷川氏の論は少々強引な気がする。伊佐(伎)佐神社は伊伎佐(いきさ)神社であり、しかも祭神は伊弉諾尊である。それでも書紀の別伝にわざわざ膽狭浅太刀を出したのは、膽狭浅→出石、あるいは、膽狭浅→伊奢沙別命という連想から、天日槍と応神天皇のつながりを暗示したのではないだろうか。このあたりは機会をあらためて考えてみたい。

 さて、最後に先代旧事本紀に記される十種神宝についても触れておきたい。先代旧事本紀は物部氏が自らの由緒や伝承を世に知らしめるために書かれた史書であると言われている。物部氏はその祖を饒速日命とし、さらに饒速日命を瓊瓊杵尊の子、あるいは兄とされる火明命と同一としている。すなわち、物部氏が天孫族であることを主張しているのだ。この旧事本紀が編纂されたのは記紀が編纂されて以降のことであるので、記紀のいいとこ取りをしていると考えられ、それがこの十種神宝にも現れているはずだ。古事記の神宝は「珠、鏡、比礼」である。この古事記の構成に「剣」が加われば三種の神器が揃う。三種の神器は天孫族の象徴であるから、これは欠かせない。書紀の神宝の構成も三種の神器を考慮していた。このような考え方で十種神宝の構成が「玉、剣、鏡、比礼」に決まったのではないだろうか。
 十種神宝のうち、息都鏡・辺都鏡は古事記が記す神宝に入っていたが、この二面の鏡は京都府宮津市の籠神社に伝わる二面の鏡、息津鏡・辺津鏡と同じ名前だ。籠神社の社家である海部氏は、物部氏の先代旧事本紀と同様に、その系譜や事績などを「籠名神社祝部氏係図(本系図)」および「籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記(勘注系図)」に表して代々受け継いでこられた。この勘注系図には海部氏の始祖が天火明命であることが記され、しかもその天火明命は饒速日命と同一人物であるとしており、まさに旧事本紀と同じことが書き残されているのだ。そうすると、籠神社に伝わる息津鏡・辺津鏡は旧事本紀にある十種神宝の二面の鏡であることの蓋然性が非常に高いと言えるが、真偽のほどは定かではない。仮に同じものとすれば、天日槍が新羅から持ってきた鏡がなぜ丹後の籠神社に残されているのだろうか。旧事本紀の巻十「国造本紀」によれば、成務天皇の時代に尾張連同祖の建稲種命の4世孫にあたる大倉岐命を丹波国造に定めたとある。この大倉岐命は海部氏系図に16代目としてその名が記されている。海部氏は代々、丹波国造として出石を含む丹波地方を治めていたのであるが、その関係で出石神社に収められた二面の鏡を召し上げたのかもしれない。
 鏡の次は剣であるが、十種神宝にあるのは八握剣である。記紀には十握剣(十拳剣)がよく登場するが、これは握り拳10個分(十握り分)の長さを持つ剣という意味で、以下のようなシーンに見られる。伊弉冉尊が火の神である軻遇突智(かぐつち)を生んだために亡くなったときに伊弉諾尊は十握剣で軻遇突智を斬った場面、天照大神と素戔嗚尊による誓約で素戔嗚尊の十握剣を三段に折って天真名井ですすいで噛み砕いて吐いた息から宗像三女神が生まれる場面、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治しようと十握剣で切り裂いたところ大蛇の尾から草薙剣が出てきた場面、経津主神と武甕槌神が出雲の五十田狭之小汀で十握剣を逆さまに突き刺して大己貴神に国譲りを迫る場面などなど、剣が登場する場合はほとんどが十握剣になっているのだが、十種神宝ではなぜか八握剣。三種の神器である草薙剣が十握剣かどうかは定かではないのだが、もしかすると八握剣だったのかもしれない。鏡が咫鏡、玉が尺瓊勾玉とくれば、剣は握剣か。
 4つの玉については正直なところ、よくわからない。「珠」は「玉」と同じ意味で使われていると思うが、古代には「魂」や「霊」などの字も使われた。呪力や霊力が宿るもの、あるいは体内に宿る霊力や呪力を発揮するときの媒体となるもの、ということになろうか。4つの玉の効用は諸説あるが、玉の名前から考えると次のようになろうか。生玉は生命を維持し活力を与える玉、死返玉は生命を蘇らせる玉、足玉は心身の満足を与える玉、道返玉は邪心を正しい道に導く玉。
 最後に比礼。蛇比礼と蜂比礼は古事記にも出てくる。大穴牟遅神(大国主神)が須佐之男命(素戔嗚尊)の娘の須勢理毘売(すせりひめ)と結婚しようとしたとき、父の須佐之男命は大穴牟遅神を蛇の部屋に閉じ込めた。妻の須勢理毘売命が夫に蛇の比礼を授けて「この比礼を三回挙げて打ち振って払いなさい」と言い、その通りにすると蛇が鎮まって無事に蛇の部屋を出ることができた。次に呉公(むかで)と蜂の部屋に入れられたときも同様に呉公と蜂の比礼を使って何事もなかったかのように出てくることができた。いずれも夫婦二人で試練を乗り越えさせるための結婚の儀式であろうが、まさに蛇比礼と蜂比礼が使われている。ここから考えると、これらの比礼は邪悪なものを遠ざける力を持っていると考えられる。そこから類推すると最後の品物比礼は全ての邪悪なものから守ってくれる比礼とでも言えようか。

 天日槍が持参した神宝は但馬では神として祀られ、また時の天皇が手に入れたいと望んで神庫に収められ、そのことが8世紀の古事記、日本書紀に記された。また、天孫族を自称する物部氏の神宝の原型となって物部氏の史書にも書き残された。天日槍は単なる渡来人ではなく、当事の政権およびその後の政権に大きな影響を与えた人物であったといえよう。

 
神社の起源と古代朝鮮 (平凡社新書)
岡谷 公二
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垂仁天皇(その8 天日槍の神宝①)

2017年07月08日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 垂仁88年、天皇が群卿(まえつきみ)に対して「新羅の王子、天日槍が初めて来日したときに持ってきた宝物は但馬にある。但馬国の人に尊ばれて但馬の神宝となっているが、その宝物を見たい」と言った。その日のうちに使いを派遣して天日槍の曾孫である清彦に宝を献上するように伝えたところ、清彦は羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具を神宝として献上した。
 清彦は出石の小刀だけは奉るまいと思って衣の中に隠していた。ところが天皇によるねぎらいの酒席で小刀が衣から出てしまった。天皇から問われて隠すことができないと思い、宝であると答えて献上した。神宝はすべて神府(みくら)に収められたが、後日に神府を開けてみたところ、小刀がなくなっていた。再び天皇に問われた清彦はとっさに「小刀はひとりでに自分の家に戻ってきたが今朝はもうなかった」と答えた。天皇はそれ以上追及することをやめた。小刀はひとりでに淡路島に行き、島の人は小刀を神だと思って祠を立てて祀っているという。

 崇神天皇(その7)で見たように、崇神紀にこれとよく似た話が出てくる。天皇は出雲大社に収められた神宝を見たいと言って武諸隅(たけもろすみ)を派遣して献上させたという話だ。大和の支配者である崇神王朝が出雲大社に祀られる神宝を取り上げたことは、崇神王朝が出雲の地を支配したことを意味すると考えられる。それと同様に、但馬の神宝を献上させたことは、垂仁天皇が但馬を支配することになったと考えられる。

 ここで但馬の神宝について考えてみたい。すでに天日槍のところで見たが、記紀に記される神宝を今一度確認しておく。まず古事記では「珠二貫、浪振る比礼、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼、奥津鏡、辺津鏡の8種は伊豆志神社の八座の大神である」となっている。次に書紀の本編には「羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具の7種を但馬国に献上した」とある。最後に書紀の別伝には「葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・膽狭淺大刀の8種を奉った」とある。

 これらをみて思い出すのが先代旧事本紀に記された天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)で、饒速日命が降臨時に天神御祖(あまつかみのみおや)から授けられた、いわゆる十種神宝(とくさのかんだから)である。その内容は「息都鏡ひとつ、辺都鏡ひとつ、八握剣ひとつ、生玉ひとつ、死反(まかるかえし)の玉ひとつ、足玉(たるたま) ひとつ、道反(ちかえし)の玉ひとつ、蛇比礼ひとつ、蜂比礼ひとつ、品物(くさぐさのもの)比礼ひとつ」となっており、特に古事記にある神宝に何となく似ている。これらは石上神宮に収められたとされている。
 旧事本紀によると「饒速日命の子である宇摩志麻治命(うましまじのみこと)はこの瑞宝を神武天皇と皇后のために奉り、鎮魂(たまふり)の祭祀を行った」とあり、これが宮中で行われる鎮魂祭の始まりとされている。そして、石上神宮では現在でも宮中と同じ日に鎮魂祭を行っている。神社公式サイトによると「饒速日命の子の宇摩志麻治命が天璽瑞宝十種で、瀛津鏡・邊津鏡・八握剣・生玉・足玉・死人玉・道反玉・蛇比禮・蜂比禮・品物比禮と鎮魂(たまふり)の神業とをもって、神武天皇と皇后の長久長寿を祈ったことに始まると伝えられています。鎮魂の呪法には、猿女系・阿曇系・物部系などあり、当神宮は『先代旧事本紀』に記された物部氏伝来の鎮魂呪法で、宮廷の鎮魂祭にも取り入れられています」とあり、旧事本紀の内容が現代まで伝承されてきたことがわかる。そしてこの十種神宝は布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)として石上神宮に祀られているのだが、崇神天皇7年に宮中から石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)すなわち石上神宮に遷された。

 記紀および旧事本紀に記された神宝を一覧で確認した上で、次回で順に考えてみる。




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垂仁天皇(その7 天日槍の渡来)

2017年07月03日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 書紀の垂仁紀には都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と天日槍(あめのひぼこ)という二人の渡来人が登場する。少し長くなるが、両者の渡来について確認する。まず都怒我阿羅斯等から。

 ある説によると、都怒我阿羅斯等は崇神天皇のときに日本に聖王がいると聞いて大加羅国(任那)からやってきた。途中、穴門(長門国)に着いたとき、伊都都比古(いつつひこ)なる人物が「自分がこの国の王である」と言って都怒我阿羅斯等を引き止めようとした。彼はその言葉を嘘と見破って従わずに引き返したが、道に迷って島々や浦々を巡って北の海を回って出雲国を経て越国の笥飯浦(けひのうら)に到着した。彼の額には角がはえていたのでその到着したところは「角鹿(つぬが)」と名づけられた。ようやく大和に到着したものの、崇神天皇が崩御したため、次の垂仁天皇に仕えることになり三年が経過した。
 また別の説によると、都怒我阿羅斯等が国にいたとき、黄牛(あめうし)に農具を背負わせて田舎道を進んでいたところ、黄牛がいなくなった。足跡を追いかけると、役所の中に続いていた。そこにいた老人が「お前の牛はこの役所に入った。役人たちが『この牛は農具を背負っているから殺して食べてもいいだろう。もし飼い主が返せと言ってきたら品物で弁償すればいい』と言って牛を食べてしまった。もし役人に『牛の代わりに何が欲しいか』と聞かれたら『村で祀る神が欲しい』と答えなさい」と言った。案の定、役人がきて「牛の代わりに何が欲しいか」と聞いてきたので老人に言われたとおりに答えたところ、白い石をもらうことになった。都怒我阿羅斯等はその白石を寝室に置いておいたところ、美しい童女に変身した。彼はたいへん喜んで交わろうとしたがちょっと離れたスキに童女は消えてしまった。「童女はどこへ行ったか」と妻に聞いたところ、「東のほうに行った」と答えたので、彼は追いかけた。すると海を越えて日本の国に入っていった。童女は難波で比売語曽社の神となり、また豊国でも比売語曽社の神となって二箇所で祀られるようになった。

 次に天日槍の渡来を見てみる。垂仁3年、新羅の国王の子である天日槍がやって来た。持ってきたものは、羽太玉ひとつ、足高玉ひとつ、鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかいしのたま)ひとつ、出石小刀ひとつ、出石鉾一枝、日鏡一面、熊神籬(くまのひもろぎ)一具、以上7種である。これらを但馬国に献上して、それ以降は神宝とした。
 一説によると、天日槍は艇(はしぶね)に乗って播磨国の宍粟邑(しさわむら)に到着した。天皇は三輪君の先祖の大友主と倭直の先祖の長尾市(ながおち)を播磨に派遣した。二人は天日槍に「お前は誰だ、どこの国の者だ」と尋ねたところ、「自分は新羅国王の子である。日本に聖王がいると聞いて、自分の国を弟の知古(ちこ)に授けてやって来た」と答え、葉細珠、足高珠、鵜鹿鹿赤石珠、出石刀子、出石槍、日鏡、熊神籬、膽狭浅太刀(いささのたち)の8種を献上した。天皇は「播磨の宍粟邑と淡路の出浅邑のいずれか好きなほうに住めばいい」と言ったところ、天日槍は「自ら諸国を歩いて回って気に入ったところに住みたい」と答え、天皇はそれを許した。それで天日槍は菟道河(うじがわ)を遡って近江国の北の吾名邑(あなむら)に着いてしばらく住んでいた。その後、近江から若狭国を通り、但馬国の西に到着して住むところを決めた。天日槍は出嶋(いずし)の人の太耳(ふとみみ)の娘の麻多烏(またお)を娶って但馬諸助(もろすけ)が生まれた。諸助から日楢杵(ひならぎ)が生まれ、日楢杵から清彦が生まれ、清彦から田道間守(たじまもり)が生まれた。

 さらに古事記を見ておきたい。古事記では垂仁天皇ではなく、応神天皇の段に天之日矛(天日槍)が登場する。
 昔、新羅の王子がいた。名前は天之日矛と言う。天之日矛が日本にやってきた経緯を記すと、新羅に阿具奴摩(あぐぬま)という沼があり、この沼のそばで身分の低い女が昼寝をしていた。そこに太陽の光が虹のように輝いて女性の陰を照らした。そばに身分の低い男がいた。男はその様子を不思議に思って見ていると、女は妊娠して赤い玉を産んだ。男はその玉を貰い受け、常に腰につけていた。この男は谷間に畑を作っていたが、その畑を耕す農夫の食料を牛に載せて谷に入ろうとすると、国王の天之日矛に出会った。天之日矛は男に「お前はなぜ食料を牛に載せて山に入るのか。お前はこの牛を殺して食べるだろう」と言って男を捕まえて牢獄に入れようとした。男は「私は牛を殺しません。ただ農夫に食料を送ろうとしているだけです」と答え、腰の玉を天之日矛に渡した。天之日矛は男を許し、その玉を持って帰ってきて床に置いた。するとその玉は美しい少女になり、天之日矛は少女を妻とした。少女はいつもいろいろなご馳走を作って夫に食べさせた。
 そうするうちに天之日矛は思い上がって妻を罵るようになったので妻は言い返した。「そもそも私はあなたの妻になるような女ではない。私の祖国に帰ります」と言ってすぐに小船に乗って逃げていき、難波にたどり着いた。この女神は難波の比売碁曽社(ひめごそのやしろ)にいる阿加流比売(あかるひめ)である。
 天之日矛は妻に逃げられたことを知ってすぐに追いかけたが、難波に到着する間際で海の神が遮って入れなかった。そこでいったん引き返して但馬国に到着した。天之日矛は但馬に留まって、多遅摩俣尾(たじままたお)の娘の前津見(まえつみ)を娶って生まれた子が多遅摩母呂須玖(もろすく)で、その子が多遅摩斐泥(ひね)、その子が多遅摩比那良岐(ひならき)、その子が多遅麻毛理(もり)、多遅摩比多訶(ひたか)、清日子(きよひこ)である。清日子が当摩之咩斐(たぎまのひめ)を娶って生まれた子が酢鹿之諸男(すがのもろお)と妹の菅竈由良美(すがくどゆどらみ)、多遅摩比多訶が姪の由良美を娶って生まれた子が葛城高額比売命(かつらぎたかぬかひめのみこと)である。高額比売は息長帯比売命(おきながたらしひめ)の母親である。
 天之日矛が持ってきたものは玉津宝と言って、玉緒がふたつ、浪を起こす比礼、浪を鎮める比礼、風を起こす比礼、風を鎮める比礼、沖津鏡、辺津鏡、合わせて8種で、これは伊豆志神社の八座の大神である。

 さて、これらの話にはよく似た内容が含まれており、また興味深い点がいくつもある。以下に整理したうえで、順に考えてみたい。



 書紀では垂仁紀に記載されているが古事記では応神天皇の段に記載される。古事記に記される息長帯比売命は神功皇后のことで応神天皇の母親である。古事記は紀伝体で書かれているため、応神天皇にまつわる話として記載する意図があったと考えられるので、神功皇后が朝鮮半島から渡来した天日槍の系譜にあることはそこそこ蓋然性がありそうだ。一方の正史である書紀は編年体であるため、天日槍が渡来したとされる垂仁天皇の時代に記載されたと考えられるが、書紀は天日槍が神功皇后につながることを記載していない。神功皇后が渡来系であることを書いてしまうと、子である応神天皇もその血を引くことになる。日本国天皇に新羅人の血が入っていることなど正史に書けるはずもないのだ。ちなみに、書紀は神功皇后が夫である仲哀天皇の没後すぐに自ら指揮をとって新羅へ出兵して勝利したことが詳しく記されている。神功皇后が新羅系であることに触れると自らの祖国を攻撃したことになるので、それも避けたかったのだろう。私はここでは古事記のほうに信憑性があると考えたい。

 都怒我阿羅斯等と天日槍の話はよく似た内容が書かれているために、この二人が同一人物であるという説がある。確かによく似ている。とくに古事記に記された天日槍の妻の状況が阿羅斯等の場合と酷似している。垂仁紀にはこの二人の他にも崇神天皇の時に任那から渡来した蘇那曷叱智(そなかしち)という人物も登場している。垂仁天皇は彼が帰国する時に任那王への贈り物として赤絹百匹を持たせたところ、途中で新羅人に奪われてしまい、これが両国の争いの始まりであるという話が記載されるが、実は都怒我阿羅斯等はこの話の別伝として登場するのだ。崇神天皇に会おうとして日本へ来たが、天皇が崩御したために会えないまま垂仁天皇に仕えた。そして帰国する時に赤絹を授けられたので国の蔵に収めておいたところ新羅人に奪われてしまい、ここから両国の争いが始まったという。これまた瓜二つの話しである。垂仁紀の構成はこうなっている。

 ①本編(蘇那曷叱智)
  ・蘇那曷叱智の帰国
  ・任那と新羅の争いの始まり
 ②ある説
  ・都怒我阿羅斯等の来日と帰国
  ・任那と新羅の争いの始まり
 ③また別の説 → 古事記の天之日矛の話に酷似
  ・都怒我阿羅斯等の牛と白石
  ・比売語曾社の神
 ④本編(天日槍)
  ・天日槍の来日
  ・神宝の献上
 ⑤別の説
  ・天日槍の来日
  ・神宝の献上
  ・天日槍の系譜

 これを見ると、①の蘇那曷叱智と②の都怒我阿羅斯等が同一人物、③の都怒我阿羅斯等と古事記の天之日矛が同一人物、古事記の天之日矛と④⑤の天日槍が同一人物、と考えることができる。つまり、蘇那曷叱智、都怒我阿羅斯等、天日槍の3人が同一人物ということになる。あるいはそれぞれの話は酷似しているが全く同一ではないため、別の人物の事績を混同しただけなのかもしれない。現時点では継続検討課題ということにしておきたい。

 ところで、3世紀後半の朝鮮半島はどのような状況だったのだろうか。天日槍は新羅から、都怒我阿羅斯等は大加羅から渡来したとなっているが、実は半島のこれらの国が国家として体をなすのは4世紀に入ってからである。朝鮮半島の正史とされる「三国史記」は自国の歴史を長く続く由緒ある国に見せるために建国の時期を紀元前後にまで遡らせているが、朝鮮半島で高句麗、百済、新羅の三国が繁栄した実質的な三国時代は4世紀から7世紀と考えるのが妥当とされる。とすると3世紀後半の垂仁紀に記された都怒我阿羅斯等、天日槍、蘇那曷叱智の祖国がそれぞれ大加羅、新羅、任那となっているのは、3人の事績が4世紀以降のことであったが何らかの理由で垂仁天皇の時代にもってきたという可能性がある。これも継続検討課題にしておく。ちなみに、大加羅というのは統一国家ではなく小国群の総称であり、任那もその地域に含まれていた。
 
 
 余談めいた話になるが、都怒我阿羅斯等の話に登場する伊都都比古なる人物の名は魏志倭人伝の伊都国を連想させる。垂仁天皇は3世紀後半の天皇であるから、ぎりぎり魏志倭人伝の時代と重なっている。北九州にあった伊都国の勢力が穴門(長門国)まで及んでいたのであろうか。書紀はその伊都国の王を伊都都比古と記したと考えることはできないだろうか。伊都国の王が倭の女王を名乗って魏に朝貢していたという説がある(私はその考えに立たないが)。崇神天皇を慕って渡来した都怒我阿羅斯等に対して伊都都比古は「自分がこの国の王である」と騙そうとした。よく似た話だ。
 
 
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垂仁天皇(その6 石上神宮)

2017年07月01日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 垂仁天皇は日葉酢媛との間に5人の子を設けた。順に、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、大足彦尊(おおたらしひこのみこと)、大中姫命(おおなかつひめのみこと)、倭姫命、稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)である。垂仁30年、天皇は第一子の五十瓊敷入彦命と第二子の大足彦尊に対して「それぞれ欲しいものを言え」と問いかけたところ、五十瓊敷入彦命は「弓矢が欲しい」と応え、大足彦尊は「皇位が欲しい」と応えた。天皇はそれぞれ望みのままに、五十瓊敷入彦命に弓矢を与え、大足彦尊に「皇位を継げ」と言った。そして垂仁37年、天皇は大足彦尊を皇太子とした。一方の五十瓊敷入彦命は垂仁39年に茅渟の菟砥(うと)川上宮で剣一千口を作った。五十瓊敷入彦命が弓矢を望んだのは、軍隊を掌握したい気持ちを言い表したのではないだろうか。
 
 余談になるが大阪湾のことを古来、茅渟の海と呼ぶ。神武東征において、神武の兄の五瀬命が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから血沼(ちぬ)の海と呼んだことが由来となっている。私は大阪府貝塚市の生まれであるが、大阪府南部、泉州一帯の多くの小学校校歌の歌詞に「茅渟の海」と「葛城の山」が入っている。子供の頃にはそんな由来を知る由もなく校歌を歌っていた。
 
 五十瓊敷入彦命が剣一千口を作った菟砥川上宮は古事記では「鳥取之河上宮」となっており、大阪府阪南市自然田にある玉田山公園あたりとされている。すぐ近くを菟砥川が流れ、自然田の隣は和泉鳥取という村である。なぜここで剣を作ることになったのかはわからないが、剣一千口は石上神宮に納められ、その後すぐに五十瓊敷入彦命は石上神宮の神宝の管理を担うことになった。剣一千口をはじめ石上神宮の神宝を納めている倉を神庫(ほくら)と呼ぶが、これは要するに武器庫である。古事記には、神武東征の際に熊野で神武一行を救った剣、布都御魂が石上神宮にあると記されている。弓矢が欲しいと天皇に望んで手に入れたことも含めて五十瓊敷入彦命は軍事担当の任に就いたのではないだろうか。
 
 垂仁87年、年老いた五十瓊敷入彦命は妹の大中姫命に対して「自分は年を取ったために神宝の管理ができない。これからはお前がやりなさい」と言い、大中姫命は固辞したものの強引にその役割を譲ってしまった。しかし大中姫命はその任を果たすことができず、物部十千根にその役割を授けることにした。物部十千根は前回に登場した五大夫の一人であり、物部氏が石上神宮の神宝を管理することになった最初の人物である。物部氏は五十瓊敷入彦命が担っていた軍事担当を引き継ぐことになったのだ。

 ここで気になることがある。物部氏は饒速日命の後裔であり、その饒速日命は神武東征の最終決戦で神武に敗れて神武王朝に仕えることになったはずだ。前回みたように垂仁天皇のときに神武王朝は終焉を迎えたと考えられるが、それにしても敵方の勢力に武器の管理を任せて、さらに軍事担当を任命するとはどういうことだろうか。当ブログ第一部の神武東征の「熊野に上陸」のところで、神武を救った布都御魂はもともと高倉下すなわち尾張氏が管理していたが、その後に何らかの理由でその役割が物部氏に代わった、ということを書いたが、その理由がこの垂仁天皇の時代に求めることができそうだ。物部氏、尾張氏ともに神武王朝を支えた氏族であったが、物部氏は寝返って崇神王朝側についたという可能性を考えたい。物部氏はその後、6世紀における蘇我氏との勢力争いに敗れるまで祭祀担当、軍事担当として大きな勢力を誇る氏族となったのは周知のところである。一方の尾張氏は、崇神王朝においては崇神天皇の妃に尾張大海媛を出したくらいで目立った活躍はない。この違いをどう理解すればいいだろうか。
 
 これまで何度も参照した「先代旧事本紀と勘注系図」を再び見ることにする。まず、勘注系図によると海部氏の始祖である彦火明命の子に天香語山命、さらにその子として高倉下の名がみえる。一方の先代旧事本紀では物部氏の祖である饒速日命の子として天香語山命が登場し、その天香語山命は尾張氏の祖であり、高倉下命と同一人物となっている。あわせて饒速日命の別名は天火明命であるとしている。整理するとこうだ。



 また、書紀の本編では火明命は尾張連の始祖であり、一書では天香山(天香語山と同一)が尾張連の遠祖となっている。いずれにしても、これらのことから天香語山命を尾張氏の祖とすることに問題はないと考える。そしてその天香語山命は新潟県西蒲原郡弥彦村にある越後国一之宮の彌彦神社に主祭神として祀られる。神社の公式サイトにある由緒には「御祭神は天香山命。天照大御神の御曾孫で、神武天皇御東征に功績をたてられた後、越の國開拓の命をうけ、漁業・製塩・農耕・酒造等越後産業文化の礎を築かれた。神社創建年代は詳かではないが、、、(後略)」と記されている。神武東征の功績とは熊野における布都御魂の一件を指すが、その功績ある天香山命を何故、越の国へ行かせたのか。尾張氏は神武東征後に葛城の高尾張邑に定着したと考えるのであるが、その祖である天香語山命を越の国に行かせたのは神武王朝によるものではなく、神武王朝終焉後の崇神王朝によるものではなかったか。具体的には垂仁天皇の時と考えるが、物部氏を石上神宮の武器庫を任せる重要な役割に登用し、一方の尾張氏を越の国に左遷したのだ。尾張氏は神武王朝において布都御魂を管理する役割を担っていたが、それを物部氏に明け渡すこととなった。物部氏は何らかの手を使って崇神王朝に取り入って生き残りを図ったのだ。この策略が神武王朝の終焉を早めることになったのかもしれない。


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