古代日本国成立の物語

小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取り組んでみよう。

◆古代の葛城地方

2016年11月30日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 葛城地方を広範囲にとらえると葛城・金剛連山の東側一帯、おおむね現在の奈良県北葛城郡、香芝市、葛城市、大和高田市、御所市を合わせた範囲になるが、葛城氏の本拠と考えられる地域は奈良盆地南西の最深部にあたる葛城市、御所市の一帯である。西へは葛城山と金剛山の間の水越峠を越えると河内に通じ、南へは風の森峠を越えて紀ノ川に出て、川を下れば大阪湾を経て瀬戸内海へ、紀ノ川を上れば吉野へ、さらに吉野から伊勢や熊野にも通じる交通の要衝である。葛城川から大和川を経て河内、難波へ出るルートもある。
 古代の奈良盆地には湖(仮に奈良湖と呼ぶ)があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は比較的平坦な盆地であり、現在は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目から河内平野に流れ込んでいる。亀の瀬は200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化でできた裂け目で、これによって奈良湖の水が流れ出すことになった。さらに縄文後期から弥生時代にかけて地底の隆起や大和川からの流出増などにより水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。
 奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されており、それより低いところでは見つかっていない。そして稲作農耕を主体とする弥生時代になってからの遺跡は標高40mでも見つかるようになる。この事実は、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯が肥沃で稲作に適した土地になっていき、弥生人が定住し始めたことの証拠であると言われる。このようにして豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。
 葛城氏の本貫である現在の葛城市や御所市の盆地部は標高が70mから100mで南から北へなだらかに下るほぼ平坦な土地であり、奈良湖の影響を受けない地域であった。したがって奈良盆地においては早くから人が住み始めたと考えられ、縄文時代後期から弥生時代前期にかけての重要な遺跡がいくつも見つかっている。

■秋津遺跡
 秋津遺跡は御所市大字條・池之内にある遺跡で、京奈和自動車道建設に伴う一連の発掘調査で古墳時代前期の大型建物や、それを取り囲む方形区画施設群が検出され、さらにその最下層の縄文時代晩期の層から流路と樹根、土器や石器、土製品(土偶)等がまとまって見つかり、水辺利用に伴う遺物の廃棄箇所も確認された。さらに驚くことに、この流路南岸付近で翡翠製の管玉が単独で出土した。この管玉は両端に平坦面があり、胴部の径がそれより大きい中ぶくれの柱状で、長さが3.84cm、幅2.03cm、厚さ1.55cm 、重さは 21.84g となっている。縄文時代の管玉は前期に出現するが、盛んに製作されるのは後期から晩期にかけてのことで、日本全国に出土例があるが、長さ 2cm 前後、直径 1cm 前後のものが多く、長さが3cm以上になる例は縄文時代晩期に限れば極めて少ない。現在まで周辺に縄文時代晩期の集落の発見はないが、流路岸辺の遺物の量が少なくないことから、この玉の持ち主が生活を営んだ集落は、近隣に未発見のまま残されている可能性が高いと考えられる。以上は橿原考古学研究所発表資料を参考に整理したが、縄文晩期にすでに有力者がいた可能性が高いということは、同時にまとまった集団がいたということをも物語っている。このことを間接的に裏付けるのが次の中西遺跡である。

■中西遺跡
 中西遺跡は前述の秋津遺跡の南西に広がる弥生時代前期の水田跡である。畦によって4m×3mほどの小さな区画に仕切られた水田が約850枚、広さは2万平米を上回り、日本最大規模の水田跡遺跡となる。これほど大規模な水田が開発されたということは、水田の開発と運営という一大事業を指揮する統率者の存在と、高い技術力と労働力を備えた集団の存在が想定できる。あわせて、ここから収穫される大量の米を消費する人々がいたことも想定される。前述の通り、残念ながらその集団の居住跡は発見されていないが、秋津遺跡の翡翠製菅玉から想定される有力者とあわせて考えると、この葛城には縄文晩期から弥生前期にはすでに有力者が統率する大きな集団が生活していたことがほぼ確実といえる。
 奈良湖の水位が下がって水辺に葦が茂るようになり、湖畔に近いところに大規模な水田を設けて水を張って田植えをする。水と共に生きる人々が鴨の姿に似て、この地に暮らす一族をいつしか鴨族と呼ぶようになったのだろうか。さらに想像を進めると、神武天皇から八咫烏、すなわち賀茂建角身命に与えられた論功行賞はこの一帯の土地だったのではないか。そのことは八咫烏がこの地で鴨族の首長となったことを意味する。

■鴨都波遺跡
 秋津遺跡・中西遺跡から少し離れるが2キロほど北には鴨都波神社があり、先に見たとおり、神社周辺には弥生時代前期から古墳時代後期にかけての集落遺跡が広がり、その出土物からみて早くから稲作が行なわれていたことが想定されている。秋津遺跡、中西遺跡との関係は明らかではないが先に想定した集団の一部が居住した村であった可能性が高い。同時に遺跡西側において弥生時代中期の方形周溝墓2基、弥生時代終末期の土壙、古墳時代前期(4世紀)の古墳2基・木棺墓5基、古墳時代中期の木棺墓が検出された。時代の経過に伴って継続的に墓が形成されており、この地域の有力者の墓域であることが確認できる。なかでも4世紀中頃の築造と見られる一辺20m弱の方墳である鴨都波1号墳からは三角縁神獣鏡4面、鉄剣、鉄刀、翡翠製の勾玉など豊富な副葬品が出土し、この墓の主の権力の大きさを物語っており、同時に中西遺跡の南にある5世紀初頭の築造で、記紀に登場する葛城襲津彦(そつひこ)の墓とも言われる宮山古墳とのつながりをも想起させる。加えて、翡翠製品の出土は秋津遺跡との関連も考えられる。
 遺跡の上に乗っかる形で鴨都波神社があることから、この集落に居住していたのが鴨一族であり、先の墓域は鴨一族の代々の長の墓域だったと考えられる。鴨族はこの集落に居住し、中西遺跡を含む一帯の水田で稲作を行った。鴨族の首長は次第に富を蓄えて4世紀中頃に鴨都波1号墳を築造するに至り、さらにこの鴨族の首長が葛城氏の祖となって5世紀に宮山古墳を築造するに至った、と考えるのは飛躍が過ぎるだろうか。鴨都波神社は鴨一族がその祖先を祀る神社であり、葛城氏の祖先を祀る神社でもある。すなわち、祭神である事代主神は鴨氏の祖先神であり葛城氏の祖先神でもある、と考えたい。一族が葛城氏と鴨氏に分かれ、その鴨氏の一部が京都の山城へ移動、この葛城の地に残った人々がこの神社を守り続けてきたのである。ここに祀られる事代主神とはどんな神だったのだろうか。
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◆鴨三社

2016年11月29日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 八咫烏から賀茂氏へと話が展開する中で触れないわけにはいかないのが鴨三社である。三社とも訪ねたことがあるのでその時の印象を含めて順に確認しておこう。

■高鴨神社
 高鴨神社は奈良盆地南西部の御所市鴨神にあり、主祭神として阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)またの名を迦毛之大御神(かものおおみかみ)、事代主命、阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと)、下照姫命、天稚彦命の5神を祀っている。少し長くなるが、高鴨神社の公式サイトにある由緒を引用する。(明らかな誤字等は訂正した。)

 この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で本社はその鴨族が守護神としていつきまつった社の一つであります。
 『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社」とみえ、月次・相嘗・新嘗の祭には官幣に預かる名神大社で、最高の社格をもつ神社でありました。清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社であります。
 弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。
 このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。
『日本書紀』によると、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されています。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の首長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました。
 この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。
 こうした建国の歴史にまつわる由緒ある土地のため、鴨族の神々の御活躍は神話の中で大きく物語られています。高天原から皇室の御祖先である瓊々杵(ににぎ)尊がこの国土に降臨される天孫降臨の説話は、日本神話のピークでありますが、その中で本社の御祭神である味耜高彦根(あじすきたかひこね)神・下照比売(したてるひめ)神・天稚彦(あめわかひこ)、さらに下鴨社の事代主(ことしろぬし)神が、国造りの大業に参劃されています。
 御本殿には味耜高彦根神を主神とし、その前に下照比売神と天稚命の二神が配祀され、西神社には母神の多紀理毘売(たぎりびめ)命が祀られています。古くは味耜高彦根神と下照比売神の二柱をまつり、後に神話の影響を受けて下照比売の夫とされた天稚彦、また母神とされた多紀理毘売を加え、四柱の御祭神となったものと考えられます。
 (引用終わり)

 鴨族はおそらく弥生時代以前より海のないこの葛城の地に定住して農耕中心の生活を始めたと思われる。阿治須岐詫彦根命の「阿治須岐」とは美しい農具で開墾することを表す形容詞であり、農耕の神として祀られたものと言われている。また、阿遅鋤高日子根神とも表記され、「鋤」の字が含まれることからも農耕神であることがわかる。この神は記紀で大国主神の子、すなわち出雲系の神とされる。鴨氏(賀茂氏)と出雲、葛城の関係についてはあとで整理してみる。

 それにしてもこの由緒には大胆なことが記されている。神武天皇が建てた王朝(葛城王朝)はその後の8人の天皇を経た後、崇神天皇の大和朝廷によって滅ぼされたとある。これは歴史家や研究者が述べることであって神社の由緒としては適切ではないように思うが、この文章からは神武を助けて葛城王朝の建国に大きな貢献を果たし、その後も天皇家外戚となったプライドと、崇神によってそれを挫かれたことに対する怨念すら感じてしまう。従一位に神階を得たこと、有名な上賀茂・下鴨の両社をも従える全国賀茂神社の総社であること、なども強い意志をもった主張を行間に感じる。祭神についても「主祭神の阿治須岐高日子根命は亦の御名を迦毛之大御神と申され、この大御神と名のつく神様は天照大御神・伊邪那岐大御神と三神しかおられず、死した神々をも甦えらせる事ができる御神力の強き神様であります。」と説明されている。古来より高貴なプライドが脈々と受け継がれてきたのだろう。

■鴨都波神社
 鴨三社の2つめが鴨都波神社。主祭神は積羽八重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)と下照姫命。高鴨神社の由緒には、弥生中期に鴨族の一部は葛城東麓の丘陵地から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめた、とある。一般には高鴨神社に対して下鴨社と呼ばれている。なお、積羽八重事代主命は事代主神と同一であると考えられている。
 この一帯は弥生時代前期から古墳時代後期にかけての集落遺跡である鴨都波遺跡があり、この神社はその遺跡の上にある。弥生中期後半の灌漑施設と考えられる大規模な護岸水路が見つかり、ここで稲作農耕が行われていたことが明らかとなった。この集落遺跡が弥生前期からのものであること、この近くにも京奈和自動車道の建設に伴って発見された国内最大規模となる2万平米にもわたる弥生前期の水田跡である中西遺跡があること、などから考えると、高鴨神社由緒にある「弥生中期に丘陵地から移ってきた」というのが本当であったかどうかが疑わしい。順番はむしろ逆ではないかと考える。

 それにしても、出雲の国譲りの場面で大己貴神(大国主神)の子として登場し、大己貴神に代わって国譲りを承知した事代主を祀るとはどういうことだろうか。高鴨神社に祀られる味耜高彦根神も同様に大国主神の子であった。この葛城一帯にいた鴨氏と京都山城の賀茂氏はまったく別の氏族であるとも考えられているが、やはり鴨氏(賀茂氏)と葛城、出雲の関係を解いていかねばならない。

■葛木御歳神社
 3つめが葛木御歳神社。祭神は御歳神(みとしのかみ)。神社由緒によると、「歳」は「トシ」であり、穀物、特に稲またはその実を意味する古語で、御歳神は稲の神、五穀豊穣をもたらす神だったという。高鴨神社と鴨都波神社の中間に位置することから、中鴨社と呼ばれている。高鴨神社由緒によると「東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入った」とある。古事記には、須佐乃男命と神大市比売(かむおおいちひめ、大山津見神の娘)の子である大年神(おおとしのかみ)と香用比売(かよひめ)の間に産まれた子、すなわち須佐乃男命の孫であるとされる。書紀にはこれに該当する記述はないが、ここでも出雲との関わりが確認される。

 以上、鴨三社を順に見てきたが、私にはいくつもの疑問が生じた。奈良盆地の南西、盆地の最深部といっていい葛城の地になぜ出雲と関わりのある神々が祀られているのか、この神々を祀る鴨族(鴨氏)は何者で、葛城氏とどんな関係だったのか、そもそも葛城氏とは何者か、そして高鴨神社由緒に書かれていることはどこまでが事実なのか、などなど。神武東征を順に追いかけてきたが、ここでさらに寄り道をしてこれらの疑問(古代史の最大の謎と言えば言い過ぎか)を探ってみたい。
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◆八咫烏と日臣命

2016年11月28日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 熊野から紀伊半島を縦断して大和を目指すことになった神武一行の先行きを案じた天照大神は八咫烏を使わせて道案内をさせることにした。そして一行は大伴氏の祖先である日臣命(ひのおみのみこと)が大来目(おおくめ)を率いて、烏の向かう所を探して追いかけ、ついに菟田下県(うだのしもつこおり)に到達することができた。ここでは八咫烏と日臣命が新たに登場する。まず日臣命から見ていこう。

 日臣命は天忍日命(あめのおしひのみこと)とされ、書紀第九段の一書(第4)における天孫降臨の場面では来目部(久米部)の遠祖である天クシ津大来目(あめのくしつのおおくめ)を率いて、矢を入れる筒である天磐靫を負い、防具として稜威高鞆(いつのたかとも)を腕につけ、手には天梔弓(あめのはじゆみ)と天羽羽矢(あめのははや)を持ち、音の出る鏃である八目鳴鏑(やつめのかぶら)も持ち、頭槌劍(かぶつちのつるぎ)を腰に差し、天孫の前に立って先導して地上に降りた、とある。天孫降臨と神武東征のいずれにおいても来目部を率いて先導役を果たす重要人物である。神武はこの先導役を評価して日臣を道臣(みちのおみ)と改名した。書紀においては日臣命、すなわち道臣命は大伴氏の遠祖であり、天忍日命は大伴連の遠祖となっている。特に天孫降臨における天忍日命は完全武装の姿で先導役を果たしていることから大伴氏は軍事担当であることがわかる。そして大伴氏が率いる部隊が久米一族である。道臣命は大和に入ってからも菟田県(現在の宇陀)の首長である兄猾を討ち、国見丘で来目部を率いて八十梟帥の残党を討っている。次に八咫烏について詳しく見ていく。

 書記において八咫烏はこの熊野山中での先導役として登場した後、2ケ所に記される。2度目の登場は磯城彦を攻めようとする場面で、神武は兄磯城(えしき)に使者を送ったが返答がなかったので次に八咫烏を遣わした。兄磯城は八咫烏の要請にも応えず弓を射た。八咫烏はいったん退却して弟磯城(おとしき)のところに向かい、弟磯城を味方につけることに成功した。弟磯城は兄の反抗の企みを暴露したが神武軍は尚も話し合いを続けようとして弟磯城を説得役に任じた。ところが、兄磯城は弟磯城の説得にも応じなかったため、ついに神武軍は戦いを決意し、椎根津彦の作戦により勝利を治めることとなった。余談であるが、このときに弟磯城に続いて説得役の控えとして兄倉下(えくらじ)、弟倉下(おとくらじ)の2名が選任されている。私は「倉下」を名に持つこの2名は高倉下の一族、すなわち尾張氏の系列ではなかったかと考えている。
 八咫烏の3度目の登場は、神武が即位後に東征の論功行賞を行った場面。道臣命、大来目、椎根津彦、弟猾、弟磯城、剣根(つるぎね)らとともに八咫烏も賞に入ったとあるが、他の者と違って賞の内容が記されていない。また、八咫烏の子孫が葛野主殿県主(かどののとのもりあがたぬし)であるとしてその正体が明かされているものの、書紀ではそれ以上のことは語られていない。

 平安時代初期に編纂された古代の氏族名鑑である「新撰姓氏録」には、山城国神別の項目に鴨県主について「賀茂県主と同祖である」として「神魂命(かむたまのみこと、神皇産霊尊のこと)の孫である鴨建津之身命(かもたけつぬみのみこと、賀茂建角身命あるいは鴨建角身命とも呼ばれる)は神武東征の際、神日本磐余彦天皇(神武天皇)が大和に向かう道中で、山があまりに険しくて道に迷ったとき八咫烏に化身して空を高く飛んで導いた。天皇はその功を喜んで特に厚く褒賞した。天の八咫烏の称はこれが始まりである。」と記している。八咫烏、すなわち賀茂建角身命は賀茂県主および鴨県主の先祖であるという。とすると、葛野主殿県主は賀茂県主あるいは鴨県主のことであると考えて差し支えないだろう。
 さらに「山城国風土記」逸文によると、八咫烏は先導役として神武に仕えた後、大和から山城を経て現在の賀茂に移ったとある。京都には上賀茂神社と下鴨神社があるが、前者には賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)が、後者は賀茂建角身命と玉依媛命が祀られている。玉依媛命には、川で用を足しているときに上流から流れてきた丹塗矢を床において眠っていたときに懐妊し、神の子である賀茂別雷命を生んだという逸話がある。下鴨神社は賀茂別雷命の母である玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るために「賀茂御祖神社」とも呼ばれている。
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◆尾張氏と大海氏

2016年11月27日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 私は尾張氏が丹後へ移る際、神武に服従して葛城に定住していた大海氏を同行させたと考えている。つまり大海氏はこのときに里帰りを果たすこととなった。大海氏は葛城に定住したあと、尾張氏と非常に近しい関係になっていった。だから尾張氏は丹後へ移る際に大海氏を頼ることができた。大海氏の本貫地は丹後国の加佐郡(現在の京都府舞鶴市)にある凡海郷(おおしあまのさと)である。勘注系図によると、饒速日命は大和に遷って登美屋彦(とみやひこ)の妹の登美屋姫を娶って可美真手命(うましまでのみこと)を設けた後、丹波国に戻っている。やはり、大海氏は饒速日命の系譜にあったと言えるのではないか。
 一方、葛城に残った大海氏から出た尾張大海媛が崇神天皇の妃となる。この媛の名はまさに尾張氏と大海氏の親密な関係を表している。神武王朝は崇神王朝との対立を解消するために腹心の部下である尾張氏と大海氏との間にできた娘を差し出したのではないだろうか。この媛、天孫本紀によると別名を葛木高名姫命という。葛城に住み、高貴で美しく名の通った媛であったのだろう。

 書紀の崇神紀には尾張大海媛と同じく崇神天皇の妃として紀伊国の荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくはしひめ)が登場する。その注記(一伝)として大海宿禰の娘であることが記されており、葛城に近い紀伊国に大海氏がいたことがわかる。また、時代が下った飛鳥時代、凡海麁鎌(おおあまのあらかま)なる人物がいて、大海人皇子(後の天武天皇)の養育に関わったとされ、大海人皇子の名は凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたとされている。その縁からか、大海氏と親密な関係にあった尾張氏が壬申の乱にて大海人皇子の味方に付き、天武天皇即位に尽力している。また、686年にその天武天皇が崩御した際の殯において故人と縁のあった者が順に誄(しのびごと)を述べる儀礼が行われたが、最初に誄を述べたのが大海宿禰麁鎌であった。このように大海氏(凡海氏)はその後も一定の勢力を維持し、神武王朝の流れを汲む天武天皇から重宝される存在となっていった。

 さて、丹後に移った尾張氏と大海氏であるが、尾張氏は丹後国造として丹波氏を名乗った一族と、丹後からさらに愛知に移って尾張国造として勢力を拡大した一族に分かれた。国造本紀に、成務朝のときに天火明命の十三世孫(勘注系図では十世孫または十一世孫、先代旧事本紀にある尾張氏系図には記載なし)の小止与命を尾張国造に定めたことと、尾張国造と同祖の建稲種命の4世孫にあたる大倉岐命を丹波国造に定めたことが記されているのは先に見た通りである。一方の大海氏であるが、こちらは地元で海部氏を名乗り、丹後国一之宮である籠神社の神職(社家)として丹波国造を支えながら連綿とその系譜を継いでいった。勘注系図によると、饒速日命は丹後に戻った後、最後は高天原で娶った佐手依姫命(さでよりひめのみこと)とともに養老三年に籠宮に天降ったことになっている。また、尾張氏が尾張国造として丹後から愛知に移る際に海部氏や丹波氏を同行させたことが想定される。現在の愛知県西部には「海部郡」や「あま市」があり、これらは海部氏が居住した地であろう。また、丹波氏は愛知で丹羽氏(尾張丹羽臣)となった。
 なお、丹後国は大和葛城の神武王朝と同盟関係にあったと書いたが、神武王朝と敵対する崇神王朝はその丹後を支配しようとして四道将軍のひとりである丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を派遣している。
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阿古師神社

2016年11月26日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2日間にわたる熊野ツアー、神武東征と徐福伝説を訪ねる旅の最後は三重県熊野市甫母町にある阿古師神社。祭神は、三毛入野命、天照皇大神、大山祗命、蛭子命、倉稲魂命。国道311号線の脇にある駐車場に車を停め、海岸に降りていく遊歩道を進む。歩くこと20分ほどだったか、降りきったたところにある小さな神社。

三重県神社庁のサイトから。
 口承によると、神武天皇東征の際、この紀伊の海上で暴風雨の難に遇って船団は漂流、天皇の御兄稲飯命、並びに三毛入野命は入水して薨御された。風浪治まって後、土民が両命を発見、帰港して二所に奉葬し、うち稲飯命の御陵を尊崇して産土神として祀ったのが室古神社となり、また三毛入野命の御陵を尊敬して祀ったのが当社となり、それが両社のの創始と伝える。尚、当社の社名は、古、当鎮座地の辺りを英寘崎と称していたことに依拠して付けられたと言われる。明治41年4月15日、村内各小祀の合祀を執行し、現在に至る。




拝殿。


本殿。


海側から。この参道をこのまま後ずさりで戻ると海の中へ入っていく。


二木島湾。湾の反対側には室古神社があり、稲飯命が祀られている。神武天皇の一行がこの沖合で暴風雨に合って遭難し、神武の兄である三毛入野命と稲飯命が海に入った(亡くなった)。その二人を祀る神社が湾を挟んで並立している。そして、この阿古師神社からさらに30分ほど遊歩道を行くと神武一行の遭難の地である楯ケ碕。室古神社と楯ケ碕、いずれも時間の関係で参拝できなかった。まことに残念である。



以上で2日間にわたる熊野ツアーは終了。充実の実地踏査となりました。


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徐福の宮

2016年11月25日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
花の窟神社、産田神社を参拝した後、国道42号線を少し北上、名勝の鬼ケ城を過ぎてすぐの交差点を右折して国道311号線に入るとまもなく波田須の村。国道をそれて車一台がやっと通れる村道を道なりに進むとやがて行き止まりになる。車を降りて徒歩30秒で到着。

矢賀の蓬莱山と呼ばれるこんもりした小さな山(山と呼ぶのがいいのかどうか)にある徐福の宮。



小さな祠は綺麗に整えられていた。


徐福の墓。新宮市の徐福公園にあった徐福のお墓は本物だとは思えなかったけど、このひなびた小さな漁村に建つ石碑を見ると、この村の人々が古代より脈々と受け継いで祀り続けてきたであろうこの宮が本当の徐福のお墓だと思えてくる。




国道311号線からみた矢賀の蓬莱山。なんともいえない侘しい雰囲気。2000年以上も昔、徐福はここに上陸したのだろうか。




徐福と日本神話の神々
前田 豊
彩流社
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産田神社

2016年11月24日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
花の窟神社をあとにして、国道42号線を少しだけ引き返して向かったのは三重県熊野市有馬町にある産田神社。祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智尊、天照皇大神、大山祇命、木華開耶姫命、神武天皇。日本書紀の神代巻上の一書(第5)には、伊奘冉尊が火の神である軻遇突智を産んだ時に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に埋葬されたと記されており、産田の名称は、伊奘冉尊の出産した場所によるといわれる。伊奘冉尊はここで軻遇突智を産んで花の窟神社に葬られた。

正面から。「産田神社」の碑がやけに新しくて白くて黒い文字が浮いていた。


社殿。七里御浜から集められた白石が一面に敷き詰められていて土足厳禁となっていた。この地方の人たちは子供を授かると安産祈願に産田神社にお参りし、ここの石を目をつぶって拾い、その石が丸ければ女の子、長細ければ男の子が生まれると伝えられ、無事に子供が産まれるとお宮参りの際に七里御浜で白石を拾い、元の石と一緒にここに返すという。


社殿を囲む瑞垣の両脇にある「神籬(ひもろぎ)」。古代の祭祀跡という。
社殿に向かって左側の神籬。


右側。


神籬が社殿の両側にあるということは、神籬が設けられたときにはすでにここに神社、あるいはその前身にあたる聖域が存在したということだ。



神社の西側を流れる産田川。川沿いの道路とともに整備された朱塗りの欄干の橋。これも神橋か。


この産田神社は先の花の窟神社とセットで参拝するのがいい。
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花の窟神社

2016年11月23日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
那智の滝をあとにして次に向かったのは三重県熊野市有馬町に所在する花の窟神社。祭神は伊弉冉尊と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)。

以下は神社公式サイトにある由緒。
日本書記に「 一書曰伊弉冉尊火神(いざなみのみこと)を生み給う時に灼(や)かれて神退去(さり) ましぬ 故(か)れ紀伊国 熊野の有馬村に葬(かく)しまつる 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには 花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。
花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。此の神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、此の霊地保護のため寛文9年9月、及び元禄8年11月四至限界御定書を下付し、且つ高札を建て殺生禁断を布令せられた。
又、昭和23年4月10日天皇陛下が皇太子殿下の当時、熊野地方御見学の途次御立寄りあらせられる。


駐車場のすぐ横にある土産物茶屋の「花の岩屋」をぬけて道路を渡ったところにある鳥居。


伊弉冉尊を祀る。背後は高さ約70メートルの巨岩でこれが花窟の御神体。


軻遇突智尊を祀る。


毎年二月二日と十月二日に行われるのが御縄掛け神事。訪れたのが2月12日だったので御縄がそのままの状態で残っていました。


御縄掛け神事の説明。


日本書紀のたったの一文から生まれた信仰なのか、あるいはこの地で語り継がれた神話が書紀に一書として取り入れられたのか。この巨岩がご神体というだけでなく、これに縄をかけて前に走る国道をまたいで広い浜辺から引っ張るというスケールの大きな神事がこの辺鄙な地で脈々と受け継がれていることに神話の史実性を感じた。熊野信仰が盛んになるずっと前の8世紀初めに正史である日本書紀に熊野が登場していることがそれを物語っているのではないだろうか。
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那智の滝(飛瀧神社)

2016年11月22日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
いよいよ熊野ツアーのクライマックス、日本三大名滝の一つの那智の大滝。落差133m、滝壺の深さは10m、落差日本一の名瀑です。

那智大社から下る途中でのショット。


那智の滝をご神体とする飛瀧神社の鳥居。


滝の真ん前。ここで拝みます。


銚子口の幅は13m。


料金を払ってお瀧拝所へ上ると滝つぼのすぐ近くへ。飛沫を浴びながら見上げる御神体は霊験あらたか。


初日は熊野本宮大社、熊野速玉大社、神倉神社を訪ね、二日目は大門坂から熊野古道を上って那智大社と青岸渡寺を参拝、最後に那智大滝を拝んで二日間に渡る熊野詣を完結。このあとは二日間の締めくくりとして、記紀神話と徐福伝説を訪ねます。
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熊野那智大社と青岸渡寺

2016年11月21日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
熊野三山の3カ所目、熊野那智大社。境内には神仏習合で建立された青岸渡寺が健在。神仏習合がそのまま残る珍しい場所。

以下は、那智勝浦観光ガイドのサイトより。
熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来より多くの人々の信仰を集めました。
今なお多くの参詣者が訪れ、熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一つです。
467段におよぶ石段の上に建つ6棟からなる社殿は、標高約500mに位置し、夫須美神(ふすみのかみ)を御主神としてそれぞれに神様をお祀りしています。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも言われる夫須美神は、万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、縁結びの神様また、諸願成就の神としても崇められています。
社殿は、仁徳天皇の御世(317年)に現在の位置に創建され、平重盛が造営奉行となってから装いを改め、やがて、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興しました。
徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われています。
境内には、日本サッカー協会のロゴにも用いられている“八咫烏(やたからす)”の烏石や、樹齢約850年の大楠が茂っています。
社殿並びに境内は、2004年7月、ユネスコの世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されました。


熊野古道もまもなく終点。この鳥居の扁額は「那智山熊野権現」となっている。


最後の石段。この鳥居の扁額は「熊野那智大社」である。


石段を上りきって右側に本殿がある。


本殿の右手、階段を降りたところに西国三十三ヶ所第一番札所の青岸渡寺。


ここは3年前にも参っている。そのときは那智大社を参拝することが頭を占めていて、この青岸渡寺で二礼二拍手をしてしまい、住職さんから注意されてしまった。今回は間違いのないように気をつけました。

境内から那智大滝を臨む。


ここから那智大滝の飛瀧神社まで足元の悪い石段をおりる。続きはまた明日。
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熊野古道

2016年11月20日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
熊野三山の3カ所目、熊野那智大社を目指して熊野古道をいく。大門坂駐車場に車を停めて熊野古道を歩いて登った。



推定樹齢800年の夫婦杉。手前の大門坂茶屋で平安衣装の貸出サービスをやっており、写真も撮ってくれるという。たまたまそんなタイミングに出くわしました。


熊野九十九王子最後の王子社「多富気王子(たふけおうじ)」


以下、Wikipediaより。九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。したがって、その分布は紀伊路・中辺路の沿道に限られる。

杉木立の中、ひたすら石段を上る。


那智大社まで30分くらいだったろうか、真冬の寒さの中であったが心地よい汗をかいた。宇多法皇が907年に熊野へ御幸したのを始まりとして法皇や上皇による御幸がたびたび行われ、熱狂的な熊野信仰のきっかけとなった。蟻の熊野詣を少しだけ体験してきました。



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補陀落山寺

2016年11月19日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
熊野ツアー2日目、まずは古代史を少し離れて平安時代へ。世界遺産にも登録された補陀落山寺。

以下は、那智勝浦観光ガイドより。
補陀洛渡海とは、平安時代から江戸時代にかけて、小さな船に閉じこもり30日分の脂と食糧をたずさえて、生きながらにして南海の彼方にあると信じられていた観音浄土を目指すというもので、補陀洛山寺は補陀洛渡海の出発点として知られる寺です。
2004年7月、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録され、ご本尊の千手観音は苦悩する人々を救うと言われ、重要文化財に指定されています。




補陀落渡海船。

生きながらにして観音浄土を目指す為、約30日分の食糧を積み込み、外から釘を打ちつけて航海に出たとされている。





信じる心とは恐ろしい。自ら進んでこの船に乗ったのか、何らかの理由で乗せられたのか。『熊野年代記』によると、この補陀落山寺からの補陀落渡海は868年から1722年の間に20回実施されたという。20人の名前が刻まれた碑もあった。
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阿須賀神社

2016年11月18日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
熊野速玉大社から車ですぐのところ、新宮川の河口付近の南岸にある阿須賀神社。ここも速玉大社の摂社で、祭神は事解男命(ことさかおのみこと)、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)となっており、事解男命以外は本宮大社と速玉大社に祀られている神である。この神社は熊野の神との関係よりも徐福上陸伝説があるために立ち寄った。

それほど広くない境内に本殿があり、その背後には蓬莱山と呼ばれる小さな山がある。


徐福はこの阿須賀の地に上陸し、蓬莱山の麓に住みついて里人に農耕や捕鯨、造船、製紙などの技術を伝えたという伝承が残されている。

徐福が探し求めた不老長寿の薬と言われる天台烏薬の木。


徐福の宮。徐福を祀る小さな祠。


境内からは弥生時代の竪穴式住居趾や土器類などが出土している。熊野の観光名所を紹介するサイトには復元された竪穴式住居があるとされて写真まで掲載されていたのに、残念ながら取り壊されていた。境内には新宮市立歴史民俗資料館があり、この遺跡や蓬莱山からの出土品が展示されていた。

常滑焼の甕。尾張と熊野の交流がわかる一品。



阿須賀神社の次は徐福つながりでJR新宮駅からすぐのところにある徐福公園へ。



ここには徐福の墓があった。


このあたりは「新宮市徐福」という地名。このテーマパークっぽい徐福公園を含めて新宮市は徐福上陸地を売り出したいのだろうけど、中途半端感が否めない。

熊野ツアーの初日、谷瀬吊り橋→本宮大社→速玉大社→神倉神社→阿須賀神社→徐福公園、と盛りだくさんの一日となった。疲れた身体は勝浦温泉で癒しました。
明日から熊野ツアー2日目を順に紹介します。2日目のコースは、補陀落山寺→熊野古道→熊野那智大社(青岸渡寺)→那智の滝→花の窟神社→産田神社→波多須徐福の宮→阿古師神社、というこれまたハードスケジュールになりました。
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神倉神社

2016年11月17日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
熊野速玉大社を参拝した後、そのまま歩いて神倉神社へ。速玉大社の摂社である。
以下は、速玉大社の公式サイトより。
神倉神社は、熊野大神が熊野三山として祀られる以前に一番最初に降臨された聖地です。天ノ磐盾という峻崖の上にあり、熊野古道中の古道といわれる五百数十段の仰ぎ見るような自然石の石段を登りつめた所に御神体のゴトビキ岩があります。
熊野速玉大社は、まだ社殿がない原始信仰、自然信仰時代の神倉山から、初めて真新しい社殿を麓に建てて神々を祀ったことから、この神倉神社に対して「新宮社」と呼ばれています。
二月六日には、奇祭「お燈祭」が行われます。

※お願い 神倉神社の石段は急勾配なので、御年配の方は下の鳥居でご参拝下さい。
また、飲酒者や踵の高い靴での登拝は、危険防止上、お止め下さい。


お年寄りはこの鳥居で参ってください、とのこと。実際に行ってみないとわからないだろうが、この先の石段は危険極まりない。上りはまだしも、下りは健常者でも細心の注意を要する。下るときにいったん足を踏み外すと一気にこの鳥居まで転げ落ちてくること間違いなし。石段は538段あるという。写真を見ているとそれほど危険に見えないが、急なだけでなく、手すりもなく、踏み面が10センチほどしかないため、真っすぐに向いて降りれないのだ。


ご神体であるゴトビキ岩の足元に建てられた拝殿。崖っぷちに組まれた石垣の上に祠が建っている。

ゴトビキ岩は神武天皇が東征の際に登った天磐盾と言われているが、とても登れる岩ではない。

参拝していた地元のお年寄り(石段上がって来たのか?!)から「拝殿横に立ってご神体に触れることができるよ」と教えてもらった。手を当ててお祈りをするとより願いが叶うらしい。


拝殿前から熊野灘を臨む。ゴトビキ岩は沖を航行する船にとって位置を知らせる目印になるだろうと思った。


毎年2月6日、ここで御燈祭が行われる。若者たちが火を燈した松明を手にわれ先にとこの石段を一気に駆け降りるという。足を踏み外して転げ落ちる人もいるだろうな。ここを参拝したのが御燈祭から1週間後の2月11日。拝殿付近にはご神体前で行われた神事の名残りか、たくさんの松明の燃えかすや焼け焦げた石が見られた。それにしてもこの石段だけでも行った甲斐があった。

このあと、徐福上陸伝説のある阿須賀神社へ。


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熊野速玉大社

2016年11月16日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
熊野本宮をあとにして向かったのは和歌山県新宮市新宮にある熊野速玉大社。主祭神は熊野速玉大神と熊野夫須美大神。


以下は神社の公式サイトより。

●熊野信仰の起こり
私達の祖先は、一体いつの頃から「神」の存在を感じたのでしょう?古代の人々にとって、生命の保証のない大自然の中で生きていくことは、想像を絶するほど過酷であったと思われます。自然は、言葉で言い尽くせない驚異、感動、苦しみ、そして恵みを私達に与えます。
人間の生活を、また自らをも破壊してゆく自然の猛威、一方で暖かい光と豊饒の恵みをもたらす生命の泉としての存在・・・大自然の脅威と恵みは、古代人の心に「恐れ」と、気高く聖なるものへの「畏れ」を生み出していきます。
その中で私達の祖先は、自然をも超越した完全無欠の神を望まず、大自然の中にこそ存在し、災害も恵みも合わせ与える厳しくも温かい神を望みました。
熊野には、自然が作り上げた神聖な場所がいくつも残っていて、そのような特別の場所に、熊野三山の神々は降り立ちました。

●神倉山と新宮
「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように十二の神殿が完成しました。
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。 十月の例大祭では、お旅所に新宮の由来となった最初の宮である「杉ノ仮宮」を造り、古式に則って神事が行われます。


なぜか「由緒」として記述された文章ではない。

神橋を渡って参道を進む。


この神門をくぐると拝殿。


拝殿。



御神木の「梛(なぎ)」。
神社公式サイトによると「境内にそびえる樹齢千年のナギの大樹は熊野権現の象徴として信奉篤く、古来から道中安全を祈り、この葉を懐中に納めてお参りすることが習わしとされています。熊野牛王とナギの葉をいただくことが、難行熊野詣を無事果たす大きな支えとなりました。」とある。


このあと、摂社の神倉神社へ。そこでは衝撃の危険極まりない階段がまっていた。
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