ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

過ぎたるは、停職・・・Shoahの場合。

2010-09-08 20:07:06 | 社会
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言いますね。個性の国・フランスでも、度を超すといけない場合もあるそうです。8月31日のル・モンド(電子版)が伝えています。

度を超してしまったと非難されているのは、高校教師のペデルゾリさん(Catherine Pederzoli)。ナンシーの高校で歴史を長年教えてきた、58歳のユダヤ人女性です。授業中および強制収容所跡への修学旅行の際に、中立性と政教分離の原則に反した教育を行った、という理由で4カ月の停職を命じられました。

彼女は、ここ15年ほど、教え子の高校生をポーランドやチェコに残る強制収容所跡へ連れて行っています。その中には、もちろんアウシュヴィッツも含まれています。当初は何ら問題はなかったのですが、3年前に校長が替わってからは、彼女は何かと非難の対象となり、いろいろとトラブルに見舞われてきたとか。ユダヤ人に反感を持つ人物が校長になってしまったということなのでしょうか・・・

特に、昨年12月、文相のLuc Chatel(リュック・シャテル)がナンシーを訪れた際、彼女の教え子たちがデモを行った。強制収容所跡を訪問する修学旅行への参加人数を半減されたことに対するデモだったのですが、これが最後のだめ押しとなったようです。生徒たちを焚きつけて、デモを組織した。さらには、生徒たちを洗脳している!

そこで停職4か月の決定がなされたわけですが、この件で取材に訪れたマスコミに対し、ナンシー・メッスを所管する教育委員会は、今回の決定は調査委員会の事前報告書に基づくものだと言っているそうです。その事前報告書を通信社のAFP(Agence France-Presse)が入手。その事前報告書の中で調査委員たちは、彼女の教育が政治的見解の表明を差し控える義務、中立性、政教分離に反していると指摘。さらには生徒たちを洗脳し、自分の言い成りにさせていると非難。また、強制収容所跡への修学旅行の準備に時間をかけ過ぎていると問題視しています。

しかし、問題を大きくしたくはないのでしょう、教育委員会は、今回の停職4か月の決定は、修学旅行に関する一般的な問題から派生していることで、ショアの歴史や記憶を教えることに関係しているものではないと強調しているそうです。ショア(la Shoah)とは、カタストロフといった意味で、フランスではこの語でホロコーストを意味しています。教育委員会は、さらに、停職中も彼女の給与は支払われると、言い訳がましく付け加えているそうです。

ペデルゾリさんは、自らの民族の悲惨な歴史を、次代を担う高校生たちにしっかり伝えていきたいと思っているだけなのかもしれません。しかもその教育の一環としての修学旅行。強制収容所を目の当たりにする教え子たちのために、準備もかなり時間をかけて行ったそうです。そうした熱心さが、周囲の非ユダヤ人教師たちから、白い目で見られることになってしまったのかもしれません。

停職処分を不服とするペデルゾリさんは、行政裁判所に取り消しを求めて提訴。2週間で、判決が出るそうです。彼女の弁護士は取材に応えて述べています。彼女がもしクリスチャンだったら、キリスト教についてどんなに熱心に教えても生徒たちを洗脳したとは言わなかったに違いない・・・

パリ4区に、「ホロコースト記念館」(Memoire de la Shoah)があります。この建物は、第二次大戦中に没収されたユダヤ人の財産を基に建設され、2005年1月から一般に公開されています。悲惨な記憶が風化しないように、多くの資料を蒐集し、整理、公開するとともに、ホロコースト関連のプロジェクトを支援しているそうです。展示されているのは、当時の悲惨さを今に伝える数多くの写真。そして、囚人服のような縞模様のみすぼらしい服や帽子、穴の開いてしまった食事用のボールとスプーンなど、実際に強制収容所で使われていた品々・・・なお、この団体の名誉会長は、アウシュビッツを辛うじて生き延び、戦後フランスで政治家となり、厚生大臣時代には妊娠中絶を合法化したシモーヌ・ヴェーイユ女史(Simone Veil)。その崇高な人格、強靭な精神力、確かな眼力は、今でも多くのフランス人から尊敬されています。

こうした立派な施設までありながら、それでも拭いきれないユダヤ人への差別意識。ペデルゾリさんの勤務する高校の校長だけがユダヤ人への反感が特に強いとは言い切れませんね。程度の差こそあれ、反ユダヤの感情は多くの人々の心に巣食っているのではないでしょうか。しかも、戦後65年の現在、こうした異民族に対する不寛容が燎原の火のごとく、世界のいたるところで広がってきているのではないでしょうか。ユダヤ人、ロマ、移民・・・人間は、少数派を犠牲にすることによってしか自らの不満を解消できない生き物なのでしょうか。