平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」(3)

2006年12月23日 | 江本勝と水からの伝言
北海道大学・古川義純助教授は『AERA』の記事で、江本氏の実験のやり方を次のように批判します。

「実験のやり方も大雑把で、温度も水蒸気の量も一定でない。いろんな結晶ができるから、観察者がきれいな結晶を探せば見つかるだろう。50個中いくつにどのような結晶ができたのか、データを取らなければ意味がない」

→この批判はたしかにその通りだろうと思います。

しかし、この主張は、逆に言えば、実験のやり方が精密で、きちんとしたデータを取れば「意味がある」、ということを含意していることになります。それでは、精密な実験をして、きちんとしたデータを出せば、科学者は、音楽や想念波動が水に影響を与えることを、科学的事実として承認するのでしょうか? 私にはそうは思えません。

江本氏がどれほどデータを出したところで、そのデータは、物質と精神は無関係という現在の科学のパラダイムに根本的に反する以上、認められないでしょう。しかも、どんなデータにも必ずケチを付けることができます。なぜなら、どれほど精密な実験をしても、そこには必ず「ゆらぎ」があるからです。温度、水蒸気、気圧、重力、電磁波、容器・・・様々な物理的条件を完全に一致させることは、ほとんど不可能です。たとえば、温度が0.1度違っても、湿度が0.1%違っても、それは「同じ物理的条件」ではなくなります。Aという試験管とBという試験管は、厳密に言えば同じ条件ではありません。結晶写真の違いは、「愛・感謝」と「ばかやろう」の言葉の違いのせいではなく、0.1%の湿度の違いのせいだ、という可能性は否定しきれません。ましてや素人が行なった粗雑な実験では、いくらでもあらが探せます。その結果、現在の科学パラダイムの枠組みの中では、結晶の違いは、想念波動の違いではなく、物理的条件の違いだと解釈されるでしょう。

つまり、科学者は、一方においては、「実験の精度が粗い、データが出されていない」、と批判しつつ、他方、「そんなことは理論的にありえない、考えられない」という否定も用意しているのです。こういう二重の否定の前では、どんな「意味のある」実験も「トンデモ科学」に解釈されてしまいます。

江本氏はインタビューの中で、

「結晶の撮影は本来は温度や湿度のコントロールができた部屋でやるべきでしょうが、中小企業なので限界がある」

と述べていますが、実際にその通りだろうと思います。水の結晶写真は、非常に劣悪な条件の中で、科学に素人の江本氏が自己資金で独自に開発してきた技術なのです。

体制科学者は数億円もする立派な研究室や測定装置を持っていて、それなりの研究費をもらって、恵まれた条件で実験できます。もし、江本氏の説がトンデモ科学であり、こういうトンデモ科学が蔓延することが有害だと考えるのであれば、大学から預かっている自分の研究室で、物理的条件をほぼ一致させ、一方の水には「愛・感謝」の言葉を見せ、他方に水には「ばかやろう」を見せた水の結晶写真を撮り、その両者がほとんど同じようなデータになることを示せばよいのです。そうすれば江本説は一発で反証されます。雑誌やインターネットで批判するよりも、よっぽど強力な啓蒙活動になります。

ところが、体制科学者の中で、水の結晶写真を撮った人が一人もいないようなのです。実験検証もしないで、江本氏を批判ばかりしてもしかたありません。なぜ江本氏の仮説を検証しないのかといえば、実験をしても、結果は明らかだし、自分の業績にもならないので、時間と金の無駄だと考えているからでしょう。

江本氏は、『ちくま』という雑誌の2006年4月号でも斎藤貴男氏のインタビューを受けていますが、その中で、

「一番悲しいのは、〔私を批判する科学者が〕なぜここに来ないんですかと。現場を確認もせず、データも見ないでニセ科学だって。そのこと自体が非科学的でしょう」

と反論しています。江本氏を批判する科学者は、自分は実験しなくても、江本氏の実験を実際に見て、ここがおかしい、あそこを直せ、と具体的に指摘すればよいのです。そして、江本氏がそれを受けいれるか、受けいれないかで、江本氏が詐欺師かどうかの本質がわかりますし、江本氏が実験の手法を改善したことによって、データにどのような変化が出るかもわかります。そういう経路を通して科学的真実が徐々に明らかになるはずです。

しかし、そんなことは「考えられない」「あるはずがない」という思い込みが先に立てば、建設的な対話は不可能です。体制科学者は、そもそも江本氏と対話をする気さえないのです。科学に素人の江本氏は、大学で科学を教えている我々の説に従うべきだ、と考えているのでしょう。それを受けいれないので、江本氏はトンデモ科学者だということになるわけです。これは体制科学者の側の怠慢と傲慢だと思います。