平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

ダライ・ラマ『思いやり』(1)

2006年11月15日 | 最近読んだ本や雑誌から
ダライ・ラマが11月10日に国技館で講演会を開きましたが、私は行きませんでした。以前、ダライ・ラマの講演を聴いたことがありますが、だいたい毎回同じことを話している印象がありますので、とくに聴きたいという気も起こりませんでした。

最近、ダライ・ラマの『思いやり』(サンマーク出版)という本を読みました。これは、2005年4月に日本で行なった講演の筆記です。その中から、いくつかの言葉を紹介し、感想を述べてみます。

(1)愛と執着について
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 本当の意味での愛と慈悲とは、偏見のない心です。しかし、執着は偏った見方をする心なのです。さらに、愛と慈悲との心は智慧と密接に結びついていますが、執着は煩悩に、究極的には無明に結びついているのです。・・・
 執着は偏見に基づいた心なので、ある特定の人にだけ執着をするわけですから、その他の人たちに対しては距離を置いていることになります。そこで、執着と怒りとは同時に起こってくるのです。・・・
 本当の意味での愛と慈悲は、決して怒りの心とともに起きてくることはありません。本物の愛と慈悲は、現実を広い目で巨視的に見ているため、偏見をもつことはなく、怒りの心が生じる余地もありません。(17~18頁)
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真理の言葉ですね。五井先生と同じことを説いています。

それでは、どのようにしたら執着を捨て、愛と慈悲の心を自分のものにすることができるでしょうか。一般人対象のこの講演会でダライ・ラマが勧めるのは、「他人へのやさしさと思いやり」です。こういう心は本来、誰の心の中にも存在しているのだ、とダライ・ラマは言います。

もちろんその通りでありますが、やはり観念的という印象を避けられません。世間の人々は、「やさしさと思いやり」などそっちのけで、執着だけで生きています。この「無明」の闇をはらうには、「やさしさと思いやり」の勧めだけでは、あまりにもきれいごとという感じを否めません。「いいお話を聴きました」でおしまいでしょう。「やさしさと思いやり」だけでは、学校のいじめ一つなくすることさえできないでしょう。

ダライ・ラマ自身は「やさしさと思いやり」を実行できる聖者です。彼は、チベットを弾圧する中国に対しても愛と慈悲をもって対処している聖者です。彼は自分のからだから光明を放射し、言葉を超えて人々に安らぎを与える力ももっています。それは彼の長年の仏道修行から生まれたものです。しかし、彼の一般人向けの講演を聴いたり本を読むと、彼が説く道はあまりにも観念的、という印象をいつも禁じえません。

煩悩にまみれた凡夫がいかにして愛と慈悲の心に到達できるのか。そのことを真剣に考え、その道を求めたのが、法然・親鸞という浄土門の聖者でした。法然・親鸞は、ダライ・ラマのように僧侶にならなくても、誰でも日常生活の中で行なえる念仏一念という方法をあみ出しました。念仏の中にすべての煩悩、業想念を投げ入れるという道です。そして五井先生は念仏を「世界平和の祈り」という現代的な形に甦らせました。世界平和の祈りの中から、おのずと執着が薄れ、やさしさと思いやりの心が育ち、ついには偏見のない愛と慈悲の心に到達するというのが、誰でもが歩むことのできる無理のない道だと思います。