難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

耳の日と要約筆記事業

2008年03月03日 22時05分37秒 | 要約筆記事業
080302_1315~001.jpg080302_1319~001.jpg耳の日記念文化祭で「障害者自立支援法の今後の運動」について、ミニ講演がありそれを聞いて一年前の運動を思い出した。


【要約筆記事業の地域への移行の経過】
障害者自立支援法の地域生活支援事業がスタートしたのは、平成18年の10月だが、東京都は同年3月ごろからコミュニケーション支援事業の手話通訳事業と要約筆記事業を区市に移行することを言い始める。

7月に東京都との予算交渉で、東京都の要約筆記奉仕員派遣事業は残しつつも区市への移行を明らかにする。

東京聴覚障害者自立支援センターは、要約筆記者派遣事業の委託契約のモデル案の検討を続け、8月には区市へ委託契約の依頼文書を配布し始めた。

一方、東京都の手話通訳者等派遣センターは司法や医療、教育など分野の他、対人支援の高度の専門性が求められる通訳を30年以上担ってきたが、年間70000万円に上る手話通訳派遣事業が一挙にカットされ、区市への移行を打ち出された。

平成19年1月、東京都は経過措置もなく、いきなりゼロ査定にした。要約筆記者派遣事業も半額近くに減額される。
3月3日の耳の日大会で、聴覚障害者関係団体長名の緊急アピールを配布。

手話通訳派遣事業はすでにすべての区市で実施されていたが、区市の通訳派遣と東京都手話通訳等派遣センターに登録された手話通訳の双方を選択できるように、区市と交渉を繰り返した。
また、一部の区市で有料派遣の動きがあり、全都的、全国的に反対運動が高まる。市議会で有料化が決まってしまった。これは後日病院の通院だけ無料化に修正された。


【難聴者協会の運動】
難聴者協会は、すべての区市に対して、要約筆記者派遣事業の開始手話通訳等派遣センターと契約するように交渉することにした。
事務所は日常業務の合間を縫って、区市に電話をかけまくり、アポイントを取る。
協会とは別組織の自主的な地域の難聴者の会に支援法の合同学習会を呼び掛け、二回以上開催したがいつもいっぱい参加があった。

平日に各区市を回るのは大変だったが難聴者協会と登録要約筆記者の会、地域の難聴者の会で回った。
ほとんどの区市は要約筆記を知らない。東京都の事業で実施されていたからだ。

さらに東京都にも区市へ契約を促すように求めたが、課長が変わってから約束を反故にされたのは悔しい。


【センター派遣方式のメリット】
要約筆記者派遣事業はほとんどの区市で実施されていなかったため、東京聴覚障害者自立支援センターが養成、派遣してきた要約筆記者が区市に派遣できるような契約を結んだ。

これは、要約筆記者が区市ごとに登録されてしまうと派遣される人の地域が偏り、例えば昼間派遣される人が少なくなって、派遣に応じられない恐れがある。またそれぞれの地域の要約筆記派遣の経験が共有できない。

センターで派遣される場合は、どの区市に対しても近くの人だけではなく、派遣の内容に応じたレベルの人を派遣できる。また、いろいろな派遣の事例をセンターが集約することで、派遣のコーディネートのノウハウが蓄積され、対人支援技術も高まる。

地域で養成された要約筆記者が派遣されるのが良い場合とそうでない場合がある。
病院や司法などその地域の通訳を避けたいという心理を持つ難聴者もいる。
大学や企業、裁判、調停等のノートテイクなど高度の専門性が要求される場合もあり、誰もがとは行かない。
衆議院、参議院の傍聴の時の要約筆記派遣は両院から派遣等センターに直接依頼がある。


【要約筆記者のレベルアップ】
聴覚障害者自立支援センター時代は、要約筆記者をさまざまなレベルに分け、いろいろなテーマで研修は年間30回以上も行っていた。
それだけの研修が求められる現場も多いためだ。この研修の指導力も問われるため、要約筆記指導者研修も有料で行われていた。
この研修が東京の要約筆記を支える。

難聴者協会やサークルの例会だから、レベルは低くても良いということにはならない。
手話を使う難聴者と要約筆記が頼りの難聴者と対等の議論が求められ、要約筆記者も難聴者もそのための要約筆記を追及して来た。
高齢者の集まりはそれで対人支援が必要だ。


ラビット 記




訃報:丸山一郎さんと白木力さん☆えにし☆

2008年03月03日 20時27分59秒 | 福祉サービス
080226_1518~001.jpgゆき@志の縁結び係&小間使いさんからのお知らせ


丸山一郎先生が逝去されたとの知らせがあった。
大きな足跡を残された方だった。

フランクボウ氏との交流は有名だ。
http://blogs.dion.ne.jp/rabit/archives/6587475.html

全国難聴者連絡協議会の時代に、厚生省(当時)に要約筆記の養成事業の開催を繰り返し陳情した。
実は、その時に応対されたのが丸山一郎専門官で、要約筆記筆記奉仕員事業を初めてメニュー事業に取りあげてくれた方である。

障害者の自立とは何か追う時に、彼の業績が険しい山行の道しるべになる。

心からご冥福を祈る。


ラビット 記
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「えにし」の会に参加してくださっていたお二人の悲しいお知らせです。

【白木力さん、1日夕刻に】
通称バリ研、バリアフリーデザイン研究会
http://www.barrier-free.jp/concept/index.html
を親友の丸山力さんたちと1992創設、バリアフリー思想を広めた
熊本の建築家、白木力さんが、肝臓ガンのため亡くなりました。
1994年を皮切りに、様々な職種の人に呼びかけてヨーロッパを訪ね、
ノンステップバス,ノンステップ路面電車の導入を提唱、
http://www.barrier-free.jp/old/european/index.html
http://www.barrier-free.jp/old/europe/tour.html
熊本で夢を実現しました。
また、街中の小さなお店や診療所を障害のある人たちと一緒に回って
バリアフリーデザイン賞を出すなど、
ユニークな活動を展開しました。
3月3日 19:00 お通夜  自然庵(じねんあん)  096-342-0983
3月4日 14:00 告別式  自然庵    熊本市黒髪二丁目37-32
「えにしを結ぶ会」の第1回で、堀田力さんと顔をあわせ、
「力が3人そろえば、サンニンリキ、じゃなくて、千人力」
と笑い会っていた姿が忘れられません。
まだ55歳でした。
【丸山一郎さん、2日夕刻に】
自立生活運動を1977年、日本に初めて紹介、
その後も、日本の障害施策のために力をつくしてこられた
丸山一郎さん(埼玉県立大学教授)がすい臓がんのため
亡くなりました。65歳でした。

丸山一郎さんのお仕事をご存じない方はえにしのHP
http://www.yuki-enishi.com/ の「物語・介護保険の部屋」
第3話「自立」VS「自立」
第32話元祖・寝たきり起こし、そして、再びGHQ
をごらんください。英語堪能な丸山さんだからこそ発見できた
知られざる歴史をお読みいただけます。
直接飛ぶには、
http://www.yuki-enishi.com/kaiho/kaiho-03.html
http://www.yuki-enishi.com/kaiho/kaiho-32.html

“究極の障害者自立支援法”、オーフス方式のうみの親
デンマークのエーバルト・クローさん
http://www.yuki-enishi.com/challenger-f/challenger-f05.html
を日本に招くことができたのも丸山さんのおかげでした。

文子夫人によると:
自宅で過ごしたいと望んで、2月12日に退院。
近所の診療所のお医者さんが1日おき、ナースが毎日訪ねてくれ
夫人と二人のお子さんに囲まれておだやかな日々、
夫人が蒸しタオルをつくりにほんの1-2分、そばをはなた間に
静かに息を引き取られました。

お通夜は5日(水)午後6-7時
告別式は6日(木)午前11時から
杉並区永福1-8-1 03-3323-0321
築地本願寺和田堀廟所で。
昨年12月13日の「えにしメール」でお知らせした
「病床からの訴え」は、「えにし」のHP
http://www.yuki-enishi.com/ の「医療福祉と財源の部屋」に
「日本の障害者雇用は50年も前のILO勧告と条約に違反。
社会保障削減のなかで、さらに危機的状況」というタイトルで
ご紹介してあります。

2月には、車いすに乗って最終講義で学生に語りかけ
「卒業式にもでたいなあ」とおっしゃっていたのですが、
かないませんでした。





耳の日と障害者権利条約 

2008年03月03日 13時30分09秒 | 権利

ィの日20080302.jpgィの日200803022.jpg3月2日、耳の日記念文化祭が東京聴覚障害者連盟の主催で開かれた。
例年は土曜、日曜の二日間の開催だが今年は規模を縮小して、日曜をメインにしたということだ。

朝、開館と同時に「障害者権利条約とろう者」、「障害者自立支援法の取り組み」のミニ講座の会場の席が見る見るうちに埋まる。およそ運動としては「固い、重い」課題だが一般の聴覚障害者にこんなにも大きな関心があるとは思わなかった。

「障害者権利条約とろう者」の説明では、権利条約のどこがろう者に関わっているかを最初に説明した。
1.手話の言語の認知 音声言語と同列に認められたこと。
2.手話でコミュニケーションする権利が認められたこと。
3.手話の習得、ろう文化のアイデンティティの保障
4.手話で教育を受ける権利が認められたこと
国は手話で教えられる教員の養成が義務つけられたこと。
5.ろう学校の継続が担保されたこと。

説明と同時に、驚きの表情が広がる。連盟の役員クラスでも手話が言語として認められたというくらいの認識だったようだ。

障害者の権利条約は、これまでの各種の人権条約、権利を補強する人権の条約であることを強調した。
はじめに、なぜ自分で手話を使わないか、手話通訳に頼んだか説明した。法律の条文のような言葉が出てくるが、これは漢字、熟語を単純に表現しただけでは理解できない、もっと深い理解が出来るような手話表現が必要だからだ。
きちんと理解できるということが条約の意味であること、権利だということを分かってもらう必要があるからだ。

権利条約は、聴覚障害という言葉がない。障害の種類を規定せず、障害の程度も示していないのはなぜか。
第一条に「障害のあるすべての人のすべての人権及び基本的自由を完全かつ平等に享有することを促進し」目的(第1条)とあることを紹介した。
すべての人のすべての人権及び基本的自由、つまり種類や程度を問うことなく
、保障しようとしていることだ。
また、機能障害を持つ人が社会の理解と環境のバリアーによって起こるのが障害としていること。つまり、障害者が機能障害を持っていることが「障害」ではないこと。

コミュニケーション方法は聴覚障害者だけではなく、すべての障害者に関わる問題として受け止めていること、あらゆる方法、手段が網羅されていることも説明した。

条約と憲法、国内法との関係も説明する。署名と批准とはどういうことか。条約の発効には20カ国の批准が必要だが、まだ16カ国であること、日本政府は署名したが、批准のための国内法の整備を検討していること。政府は法律改正の幅を最小限度にしたいこと、障害者側は大幅に変更して欲しいことと要求している。


国連で世界ろう連盟と国際難聴者連盟が一緒に取り組み、日本は政府と障害者団体が一緒に代表団を構成して条約の成立に積極的に関わったこと。
全難聴が国連で精力的にマッケイ議長や各国政府に働きかけ、日本代表団とともに活動したこと世界ろう連盟などの団体との交流も写真で紹介した。


ラビット 記