写真の左下の赤い屋根の見える集落が藁科川上流の「崩野」で、その上の濃い緑をしたこんもりした山の頂きが「智者山(標高1,291m)」です。そして、その稜線を辿って写真右側のぼこぼこした山の峰の一番高い頂上(分かりにくいのですが・・・)が「天狗石山(標高1,361m)」となります。
さて、このどこにでもありそうな山の稜線が、かつて"この峰々を黄金の金が行き交っていた"ということになると、ちょっと見る目が変わりませんか?
この尾根筋はかつて「川根街道」と呼ばれ、お隣の大井川筋・接阻峡で採取された金を駿府にまで運ぶ道筋だったそうです。写真には見えませんが、この崩野という集落の左隣にあった「八草」という集落は、その関所になっていたとか。
今はひっそりとした山の道を、右へ左へとたくさんの人や物が行き来していたのかと思うと、ちょっと不思議な感じがします。
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藁科川と黒俣川が分かれるあたりに、昼居渡の集落がある。ここから尾根筋を登り、八伏ー蛇塚ー洗沢ー富士城ー馬込ー智者山ー天狗石山ー長島ー梅津と、大井川の峡谷にある村々と藁科川を通じて駿府を繋ぐ道を「川根街道」と呼んでいた。この道筋は、梅地や犬間という接阻峡の村々で盛んに採金が行われていた戦国期から江戸時代初期には、物資の輸送路として重要な役割を果たしていた。また、中世には、足利尊氏の命を受けた今川範氏の軍が、足利直義派の佐竹兵庫入道や藁科某、鴇彦五郎などが篭る徳山城を攻略するために軍を進めた山道でもあった。
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「安倍・藁科の神楽 -清沢神楽・梅ヶ島神田神楽・有東木神楽調査報告書ー 」
(清沢神楽保存会・梅ヶ島神田神楽保存会・有東木芸能保存会.2003.P34)
さて、このどこにでもありそうな山の稜線が、かつて"この峰々を黄金の金が行き交っていた"ということになると、ちょっと見る目が変わりませんか?
この尾根筋はかつて「川根街道」と呼ばれ、お隣の大井川筋・接阻峡で採取された金を駿府にまで運ぶ道筋だったそうです。写真には見えませんが、この崩野という集落の左隣にあった「八草」という集落は、その関所になっていたとか。
今はひっそりとした山の道を、右へ左へとたくさんの人や物が行き来していたのかと思うと、ちょっと不思議な感じがします。
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藁科川と黒俣川が分かれるあたりに、昼居渡の集落がある。ここから尾根筋を登り、八伏ー蛇塚ー洗沢ー富士城ー馬込ー智者山ー天狗石山ー長島ー梅津と、大井川の峡谷にある村々と藁科川を通じて駿府を繋ぐ道を「川根街道」と呼んでいた。この道筋は、梅地や犬間という接阻峡の村々で盛んに採金が行われていた戦国期から江戸時代初期には、物資の輸送路として重要な役割を果たしていた。また、中世には、足利尊氏の命を受けた今川範氏の軍が、足利直義派の佐竹兵庫入道や藁科某、鴇彦五郎などが篭る徳山城を攻略するために軍を進めた山道でもあった。
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「安倍・藁科の神楽 -清沢神楽・梅ヶ島神田神楽・有東木神楽調査報告書ー 」
(清沢神楽保存会・梅ヶ島神田神楽保存会・有東木芸能保存会.2003.P34)
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