山あいの里は、すっかり日が落ちるのが早くなりました。
方角によっては3時にもなると既に影に覆われてしまうところもありますが、日向ぼっこをするかのように、馬頭観音像たちが、ほっこりと気持ちよさそうに暮れ残った秋の斜陽に照らされていました。
藁科川上流の日向という集落の入口には、この馬頭観音と庚申塔がそれぞれ八基ずつ、集められた形でまつられています。馬頭観音のほうは、その昔、今で言う籠沢川沿いの林道を奥に入った字チャアラ(茶荒)と字ヤスミイシ(休石)の境にあったそうで、荷馬車が馬が急な曲がり角を曲がりきれなくてよく落ちた場所があり、その供養のために建てられたものだそうです。
この馬頭観音群の一段高くなったところに祀られている石像に刻まれた文字を左肩の部分から読むと、
「為記念征露従軍馬、維時明治三十八年十二月立之」
と記入されています。
明治38(1905)年を調べてみると、その年はポーツマスでの講和条約で日露戦争に終止符が打たれた年にあたりました。このような山里からも、村人の暮らしの生命線だった馬が徴収されて、藁科川を下っていった当時の歴史がしのばれます。
そのような道中や戦争で命を落とした馬たちの悲劇を永劫に包み込むような優しい地蔵の微笑です。
方角によっては3時にもなると既に影に覆われてしまうところもありますが、日向ぼっこをするかのように、馬頭観音像たちが、ほっこりと気持ちよさそうに暮れ残った秋の斜陽に照らされていました。
藁科川上流の日向という集落の入口には、この馬頭観音と庚申塔がそれぞれ八基ずつ、集められた形でまつられています。馬頭観音のほうは、その昔、今で言う籠沢川沿いの林道を奥に入った字チャアラ(茶荒)と字ヤスミイシ(休石)の境にあったそうで、荷馬車が馬が急な曲がり角を曲がりきれなくてよく落ちた場所があり、その供養のために建てられたものだそうです。
この馬頭観音群の一段高くなったところに祀られている石像に刻まれた文字を左肩の部分から読むと、
「為記念征露従軍馬、維時明治三十八年十二月立之」
と記入されています。
明治38(1905)年を調べてみると、その年はポーツマスでの講和条約で日露戦争に終止符が打たれた年にあたりました。このような山里からも、村人の暮らしの生命線だった馬が徴収されて、藁科川を下っていった当時の歴史がしのばれます。
そのような道中や戦争で命を落とした馬たちの悲劇を永劫に包み込むような優しい地蔵の微笑です。