湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。
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湯島⑯
二ツ岩付近の昔の材木情景を二ツ三ツ挙げて尽きぬ慕情のなつかしさが浮かんでいる村の人達の共通の懐古かも知れない。
ホーキ沢に修羅を敷いて、丸太を配列して組立てそれを沢底に敷く。その丸太の上を木材を走らせて山出し(運材)する方法その他は肩に委ねて人力を以て搬出した。
この方法は大川村各地で取り入た出材夫の作業であったが、肩の担い方は山方の人が力もちだと途中の分担の人夫等苦労するので、毎日交代制で山方と土場に区別、運搬したと伝う。
山出した木材(川利運材)は筏に組んで藁科川を流下した。筏の組み方は丸太をたくさんつなぎあわせたもので、水に浮かべたものをイカダ組み方は丸太を並べる一枚のいかだに大小に区別し、太いもの五本、細丸太十本位にして前の切口を揃えて並んだものを小さな「ねこ」を丸太に打込み、それを樫木の細いものを二本上下に支えて置いて、藤の綱でゆわえ、前後同様に組み立て三枚乃至五枚位に一連とし、川の流れの水勢によって尾にそだをとりつける仕組み。「そだ」は杉の葉をたばにしたもの。急流のとき二把、普通時一把位だと伝う。「ねこ」は金ねこ、木製ねこ。木製のものは樫木の成年木のものを二寸五分位に切断して小さく割り、先をとがらし元を幅広く削ったものをその道では「ねこ」と呼んでいた。厳寒の作業も真夏の太陽の下の仕事も皆天職として毎日義経もどきにピョンピョンと飛んで、イカダ乗りが筏から落ちればだめとトビ一本にかけた人生でもあり、当時は尊い稼業だったに違いない。には水に達者な猛者がいた。竹の筏も同様な方法の仕組みであったと伝う。
省力化した作業も架線によって藁科川の沿岸まで運材搬出した。木材は堆積置場で川狩りの季節を待ち、九月十月の頃になると村の人達のほとんどが人夫としてかり出され、一日何程の労賃収入を得た。この川狩風景も一入懐かしい思い出で、当時の若者達の特異性を持つ仕事でもあった。川狩が始まると、大川村各字の人夫達や清沢村や静岡市の飯間辺りの人達が湯島に泊り込みで出掛け、流下すると共に、大川村の各の人夫連が静岡市まで出稼ぎに行き、約二十日間位は不在であった
昔、奥地の原始林の伐木された際は、皆大木であったので、大間川は水量が少ないので水を貯めて一度に放出して木材を流下した鉄砲川運材方式も用いられた。その木材の堆積置場がないので、二ツ岩から中島辺り積んで玉取(木材の太さを計等する法)(一名うぐいすの谷わたり)には人夫が数十名で約一か月位を要したと伝う。
大正九年頃大川村日向立石を取水口にして水力発電所設置なるや川狩は廃止したので、陸路運搬として馬力業が繁昌し、湯島にも飼育頭数五頭があって営業を開業し、藁科街道を往来していた。
戦時中は、軍用保護馬に指定を受け、毎月鍛錬日に参加し、徴発馬として従軍している。
水力発電所取り入口が完成後も川狩は当分の間、会社との話し合いで継続されていた。
最近は大型車両による運搬で今昔の感が深い。湯島では馬の飼育戸数が昔から多い処から、牛馬斃死処理埋葬地が上湯島日掛に指定しあるも、現在までに処理埋葬した頭数は僅かと伝う。明治の末期頃は藁科川が砂利が堆積して運航の便がよい頃は赤い旗を立てて湯島二ツ岩の岸辺には荷物を積み込んだ曳航の船が毎日往復したと伝うも、川の荒廃が多い今日では採等不能ばかりか、今日の若者達ならなんだ馬鹿ばかしいとしてあざけり笑う、先ず実現不能は確実だ。
『大川の風土記』(小沢慶一.1966)
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湯島⑯
二ツ岩付近の昔の材木情景を二ツ三ツ挙げて尽きぬ慕情のなつかしさが浮かんでいる村の人達の共通の懐古かも知れない。
ホーキ沢に修羅を敷いて、丸太を配列して組立てそれを沢底に敷く。その丸太の上を木材を走らせて山出し(運材)する方法その他は肩に委ねて人力を以て搬出した。
この方法は大川村各地で取り入た出材夫の作業であったが、肩の担い方は山方の人が力もちだと途中の分担の人夫等苦労するので、毎日交代制で山方と土場に区別、運搬したと伝う。
山出した木材(川利運材)は筏に組んで藁科川を流下した。筏の組み方は丸太をたくさんつなぎあわせたもので、水に浮かべたものをイカダ組み方は丸太を並べる一枚のいかだに大小に区別し、太いもの五本、細丸太十本位にして前の切口を揃えて並んだものを小さな「ねこ」を丸太に打込み、それを樫木の細いものを二本上下に支えて置いて、藤の綱でゆわえ、前後同様に組み立て三枚乃至五枚位に一連とし、川の流れの水勢によって尾にそだをとりつける仕組み。「そだ」は杉の葉をたばにしたもの。急流のとき二把、普通時一把位だと伝う。「ねこ」は金ねこ、木製ねこ。木製のものは樫木の成年木のものを二寸五分位に切断して小さく割り、先をとがらし元を幅広く削ったものをその道では「ねこ」と呼んでいた。厳寒の作業も真夏の太陽の下の仕事も皆天職として毎日義経もどきにピョンピョンと飛んで、イカダ乗りが筏から落ちればだめとトビ一本にかけた人生でもあり、当時は尊い稼業だったに違いない。には水に達者な猛者がいた。竹の筏も同様な方法の仕組みであったと伝う。
省力化した作業も架線によって藁科川の沿岸まで運材搬出した。木材は堆積置場で川狩りの季節を待ち、九月十月の頃になると村の人達のほとんどが人夫としてかり出され、一日何程の労賃収入を得た。この川狩風景も一入懐かしい思い出で、当時の若者達の特異性を持つ仕事でもあった。川狩が始まると、大川村各字の人夫達や清沢村や静岡市の飯間辺りの人達が湯島に泊り込みで出掛け、流下すると共に、大川村の各の人夫連が静岡市まで出稼ぎに行き、約二十日間位は不在であった
昔、奥地の原始林の伐木された際は、皆大木であったので、大間川は水量が少ないので水を貯めて一度に放出して木材を流下した鉄砲川運材方式も用いられた。その木材の堆積置場がないので、二ツ岩から中島辺り積んで玉取(木材の太さを計等する法)(一名うぐいすの谷わたり)には人夫が数十名で約一か月位を要したと伝う。
大正九年頃大川村日向立石を取水口にして水力発電所設置なるや川狩は廃止したので、陸路運搬として馬力業が繁昌し、湯島にも飼育頭数五頭があって営業を開業し、藁科街道を往来していた。
戦時中は、軍用保護馬に指定を受け、毎月鍛錬日に参加し、徴発馬として従軍している。
水力発電所取り入口が完成後も川狩は当分の間、会社との話し合いで継続されていた。
最近は大型車両による運搬で今昔の感が深い。湯島では馬の飼育戸数が昔から多い処から、牛馬斃死処理埋葬地が上湯島日掛に指定しあるも、現在までに処理埋葬した頭数は僅かと伝う。明治の末期頃は藁科川が砂利が堆積して運航の便がよい頃は赤い旗を立てて湯島二ツ岩の岸辺には荷物を積み込んだ曳航の船が毎日往復したと伝うも、川の荒廃が多い今日では採等不能ばかりか、今日の若者達ならなんだ馬鹿ばかしいとしてあざけり笑う、先ず実現不能は確実だ。
『大川の風土記』(小沢慶一.1966)
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