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大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

今年の締めは頼朝石で決まり!

2010年12月31日 | 祠・石碑
一度探しに行ったのに見つからず、懸案となっていた頼朝石。
今年の締めにふさわしく、念願かなって遂にその場所を訪ねることができました!

ご案内いただいたのは、地元の友人とその親御さん。
このお父さんが、間伐の手伝いに山に入った時にありかを知り、祠&石碑好きの私にわざわざご連絡くださり、この大晦日のお忙しい中、お二人に連れて行って頂きました。
感謝・感謝です<(__)>

場所は、藁科川上流の諸子沢の奥地。

県道60号線を諸子沢方面に右折し、中村を過ぎてずっとそのまままっすぐ大道島方面に登りつめたところの砂防堰堤に車を止めた、まだその先。
堰堤前の川を左岸側に渡渉し、そのまま山道を7~8分ほど登ると、道の左側に、こんな山奥に田んぼの跡があること自体に驚く1、8段の水田跡が現れます。

頼朝石は、この水田跡の丁度中段ぐらいに位置し、石組みの一部として、ひっそりと残っていました。
木製の立て札はありますが、膝下ぐらいの古びたもので、案内していただかなければ、きっとわからなかったことでしょう。

言い伝えによると、平治の乱に敗れ、捕らわれの身となった頼朝公が、伊豆に流される途中に運試しに切りつけたとされる石だそうで、そう言われてみると確かに刀の跡のような傷が石に2~3条入っています。

失意の若き日の頼朝は、この刃跡に吉凶何を読み込んだのでしょうか?

「あの石の脇の沢沿いには、2~3の大きな石があって、その下にと武田信玄の埋めた財宝が眠っていると聞いたことがあるよ」

帰りがけに声をかけた諸子沢の方が、そんな話も聞かせてくれました。

頼朝と信玄。

山の奥深くに残る大きな伝承を地元の方に伺うことができ、今年の藁科川流域の探訪も最高のクライマックスとなりました。

チェケラ★地蔵

2010年12月03日 | 祠・石碑
大変失礼しました<(__)>。
帽子を目深に被っている様子が“今ドキ”な感じがしたものですから、つい・・・

改めてご紹介させて頂きます。

このお地蔵さんは、藁科川上流・坂ノ上北側の宇山という地区にある「子安地蔵」さんです。
本名は「預天賀(よてんが)地蔵尊」というんだそうですが、傍の庚申塔や馬頭観音の石仏と一緒に、県道60号線沿いの立派な祠の中にいらっしゃっいます。

左手には、意のままになんでも願いを叶えてしまう仏の教えを象徴した栗のような形をした如意宝珠(にょいほうし)を手の平にのせています。右手は指のところが掛けてしまっていますが、かつてはシャクシャクと音の鳴る杖(錫杖/しゃくじょう)を持っていたのでしょう。比較的新しいお地蔵さんだなと思っていたら、下記のような文献を見つけ、大正時代(大正10年/1922年ごろか)に作られたものだとのこと。それでも丁度100年ぐらいたっていて、百寿のお祝いをしないといけませんね^_^;

この祠の脇を流れる日向・坂ノ上の発電所の用水路建造に縁があり、それ以来他の坂ノ上のお地蔵さんと一緒に、ここでも毎年9月1日には地元住職による念仏が唱えられ、地元の方々に大事にされているお地蔵さんです。

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「坂ノ上のお地蔵さん」

大正六、七年頃から始まったことでございます。坂ノ上に発電所が出来る話が出て、宇山地区を通る水路が必要だからと、地主に相談に来たそうです。話を聞けば、ここより百メートルほど登った所の切杭と言う場所から藁科川を
せきとめ山すそを川伝いに水路を掘り、宇山を通って坂ノ上西平に第一発電所を作る計画だから、「ぜひ宇山を通してほしい」と、申し込んだのだそうです。地主の人達も「畠を取られても仕方がない。」と賛成しました。

そうして大正六年から三年かかって、ようやく水路が出来上がりました。水路の幅は2メートル、深さは1メートル八十センチあります。出来上がって水路を良く見ますと、水の流れは速く「これでは、子どもはもちろん、大人も危険だ」。とても見ていられなくて、五人ほどで相談しました。守り神にお地蔵様をおまつりする事に話がまとまりました。早速、日向陽明寺住職に聞きあわせた所、快くお世話して下さいました。住職に聞きますれば「焼津市の小川地蔵尊は、大そう子どもを守って下さるお地蔵様ですから、そのお姿をお借りしたらどうですか。」と言われました。

そこで地区の人達は町の石屋さんにお願いして、作って頂いた訳でした。お地蔵様を小川地蔵尊からお借りするときに、預天賀地蔵尊と言う名を頂きましたが、終戦後、坂ノ上子安地蔵尊と、名前が変わり、町内会長様が住職を頼みまして今でも供養しています。

背丈七十センチ、胴回り一メートル十五センチで、左の手の平の玉は子どもを守ってくださる玉で、親指と人差し指で円を作っているのは、杖を持つところだそうです。とても可愛い顔をして「いつでもお参りしてね」と子どもを見守っています。

坂ノ上  遠津よ志
(第4組)川久保ひで
     森藤よね
     森藤まつ
     遠津とり

『ふる里わら科八社(第二集)』
(大川寿大学講座受講生一同.静岡市中央公民館大川分館.1980)

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富沢の「切り抜き地蔵」

2010年11月12日 | 祠・石碑
藁科川中流部の富沢の切り通しには、祠が集まっている場所があります。

小川地蔵から、疣地蔵、魚地蔵とそれぞれユニークなお地蔵さんたちが並んでいる中で、木造のひときわ立派な祠を覗き込むと、あたかも教室のミニュチュア版のように、三十体ほどの小さな仏さんたちが、こちらを見て仲良く並んでいます。

どなたかの優しい心遣いで、赤い帽子をかぶっていますが、あるものは斜にかぶり、あるものは落としてしまっていて、お地蔵さんとは言え、性格が見えるようで、思わず微笑んでしまいます。

この中で、一番奥ののっぽのお地蔵さんが「切り抜き地蔵」と呼ばれています。

この「切り抜き地蔵」さん。その昔、藁科川の上流からこの地に流れついたものだそうで、下記のような言伝えが残されています。

訪れたときには、山陰に暮れゆく夕日に照らされた祠の最後列で、前の「おはたしの地蔵」たちを先生のように見守っていました。


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切り抜き地蔵

・・・富沢の勝景の地に祀られている「切り抜き地蔵」は、明治十四(1881)年十一月、岩山を切り抜き、田畑の引水開さく工事の時、渓流にのって流されてきた地蔵尊で、村人の一人が拾いあげて家に祀っていたが、それだけではもったいないと考え、村人に相談したところ、多くの人々に拝んで貰う方が、地蔵尊も浮かばれるということになって、切り抜きの地に祀られるようになった。そのころ、大病と精神病に苦しむ一家があり、たまたまこの地蔵尊に祈願したところ、奇蹟的に全快した。それからだれ言うとなく、「難病ほどなおる」と言い伝えられ、霊験あらたかで、遠近の人々の信頼を集め、病気平癒祈願にこの地蔵尊を訪れる人が多くなった。祈願がかなえられた人々の感謝のしるしが、ホコラの中にあふれるばかり。・・・「おはたしの地蔵」が三十一体も奉納され、石燈籠も寄進されている。線香の香のたゆとう中に、おぼろ気な顔がほのみえ、いときわ目立つ痛ましい額の傷から、人々に代わって、病苦、悪霊を一身にひきうけた慈悲の光が無表情の中に、なにかおごそかな威厳さえ含んでいるように感ぜられる。「おはたしの地蔵」は、心を静めることによって、救われた人々の感謝のよろこびのように、みんな微笑をたたえていた。(1962/1/21)

『野山の仏』戸塚孝一.金剛社.1963

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日向の馬頭観音群

2010年11月04日 | 祠・石碑
山あいの里は、すっかり日が落ちるのが早くなりました。
方角によっては3時にもなると既に影に覆われてしまうところもありますが、日向ぼっこをするかのように、馬頭観音像たちが、ほっこりと気持ちよさそうに暮れ残った秋の斜陽に照らされていました。

藁科川上流の日向という集落の入口には、この馬頭観音と庚申塔がそれぞれ八基ずつ、集められた形でまつられています。馬頭観音のほうは、その昔、今で言う籠沢川沿いの林道を奥に入った字チャアラ(茶荒)と字ヤスミイシ(休石)の境にあったそうで、荷馬車が馬が急な曲がり角を曲がりきれなくてよく落ちた場所があり、その供養のために建てられたものだそうです。




この馬頭観音群の一段高くなったところに祀られている石像に刻まれた文字を左肩の部分から読むと、

「為記念征露従軍馬、維時明治三十八年十二月立之」

と記入されています。

明治38(1905)年を調べてみると、その年はポーツマスでの講和条約で日露戦争に終止符が打たれた年にあたりました。このような山里からも、村人の暮らしの生命線だった馬が徴収されて、藁科川を下っていった当時の歴史がしのばれます。



そのような道中や戦争で命を落とした馬たちの悲劇を永劫に包み込むような優しい地蔵の微笑です。

あいたたたっ、歯いたたたっ

2010年10月23日 | 祠・石碑
いろんな痛みがありますが、歯の痛みは耐え難いものの一つ。
もちろんお医者さんにかかるのが、一番良い方法に違いありませんが、昔はそんな手立てもなく、あの切り裂くような歯の痛みにはホトホト困ったことでしょう。

そんな歯の痛みから人を救うお地蔵さんは、以前このブログでも紹介しました「あごなし地蔵」の他にも、流域各地で残されています。皆さんのそばにもありませんか?
写真のお地蔵さんもその一人で、藁科川中流にある富沢の切り通しのところに祀られた「歯いた地蔵」です。

本来は弥勒菩薩という種類の石仏で、手を頬にあて瞑想をしている姿をしていて、別に歯の痛みに絶えがたくって手を当てている訳ではないのですが、このポーズが「あいたたたたっ」と痛みに耐えかねてそれを癒すかのように連想されたのでしょう。

ちょうど訪れた時間帯が、夕方の柔らかい日差しがお地蔵さんいっぱいにあたっていて、私には歯の痛みをこらえるというよりは、陽光に気持ちよさそうにウトウトするお姿に見えました。

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「歯いた地蔵」

聚落(集落)がまだ山の中腹に散在していた徳川の末期、この菩薩は山沿いの小高い所に祭られていたが、それは恐らく墓標であったであろう。そしてこの弥勒菩薩は村人達かは「歯いた地蔵」と呼んでいる。明治の中頃にお、今の切り抜きの地に移されて、岩盤を切り開いて、観音像や疣地蔵と並んで祭られた。
どうしてこの菩薩を拝むと歯痛がてきめんにおさまったのか、何がきっかけで、そうした信仰が生まれたのか、そのいわれを話してくれる古老もいまは絶え、聞くすべもないが、昔から今に至るまで歯痛に悩む人が訪れる。子どもの歯痛には親は手のほどこしようがなかったと見えて、藁をもつかむ思いで、この菩薩にすがったのである。一つの暗示が驚くべき力を発揮したことは、の人々の素直な心におうところが多かった。今でも子どもを連れた母親が祈る姿がみられる。
「歯いた地蔵」も、疣を取り除いてくれる疣地蔵も、観音像も、この山村の人々と共に苦楽を共にして生きてきた神々である。

「野山の仏」戸塚孝一.金剛社.1963年

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日向の耳地蔵

2010年10月14日 | 祠・石碑
以前のこのブログで坂ノ上の耳地蔵についてお伝えしましたが、同じく藁科川上流の日向地区にも見つけました“耳地蔵”さん。

ひっそりとした場所に建っており、坂ノ上に比べるととても小柄レスラー(失礼!)ながらも、いやいや・なかなか・どうして、首からではありませんが、祠の廻りには“お果たしの石”をしっかり&どっさりとぶら下げています。その数や、坂ノ上の耳地蔵にも負けてはおりません。

場所は、日向地区の釣り堀・あまご処さん手前の出逢いの吊り橋を渡って、右側5mほど入った
三本の大きな杉の木の下。地元の切杭の方にお話しを伺ったところ、水難から地区を守る“川除け”地蔵の意味もあるそうで、場所は吊橋の架け替えなどに伴い、2回ほど移動したことがあるとのこと。今でも、そのお地蔵様の存在を知ってる人が「お参りさせてくりょ」と、時々訪れるのだそうです。

ところで、皆さんは“穴のあいた石”を河原で探したことがありますか?

私は何度もトライしていますが、ほんとにちょこんと穴の空いた石を1回(しかも穴を大きくしようとしたら割れてしまいました・・・)だけしか見つけたことがありません。

けれども、です。
なんとお話しを聞いた、この切杭にお住まい地元の方は、あの五円玉をでっかくしたような“お果たしの石”を、これまでに何個見つけたと思いますか?






















20個以上!!!
(゜◇゜;)


だいたい普通の人は人生において1~2個しか見つけることができないものを、優に20個以上見つけているんだそうです!びっくり!!
もちろん、そんなにすぐには見つからないそうですが、探そうと思って時間をかけると、ある程度最後の方には“呼んでくれる”(うぁー)んだそうです。

当然、聞きたくなりますよね。その秘訣というか、見つけ方というか、探し方というか・・・



















教えてもらいました~!!!!!!!!!やったぁー
(*´艸`)


実はある場所にいくと、よく見つかるところがあるんだそうです。

「ふしぎだよなぁ~」

とその方ご自身もおっしゃっていました。
不思議です、全く不思議です。

その場所は秘密です(ごめんなさいね)。今度さがしにいってみよー

久能尾の馬頭観音

2010年10月02日 | 祠・石碑
先日、藁科川上流・鍵穴のガケ崩れの地点の交通制限を迂回するため、林道を杉尾まで登り、黒俣川沿いの谷を下りました。

エンジンブレーキに蠕動する車体の揺れを感じながら、S字が続くつづら折の車道を駆け下ると、久能尾の集落の手前の曲がり角に、三体の石仏を見つけました。

車を止め、手をあわせ、写真を撮らせてもらう。
どの石仏も頭に馬をいただいた馬頭観音でした。端正なつくりで、完成度も高く、文字も比較的はっきり肉眼で読み取ることができました。


【左】
左側面/平崎治作建之

【中央】
正面・右/大正十二年七月二十七日
正面・左/栗毛馬八末?
右側面/堀田新吉之建

【右】
正面・右/大正七年
正面・左/七月五日死ス
右側面/青毛
左側面/遠藤佐市建之


大切にされた馬だったのでしょう。
「青毛」に「栗毛」、一言刻まれた馬の面影が、祠の後ろに立ちのぼりました。



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『馬頭観世音』

藁科川約40キロの流域に点在する集落は険しい細い道によって結ばれていが、長雨の跡には土砂が崩れ、橋が落ち、交通が一時麻痺する。山と谷との間を縫って行く道は、至る所に難所があるが、またそれだけにwonderful viewの連続である。

昔はこの山道の交通機関としては馬車であり、(静岡から八幡まで)荷物の運送は馬力と荷車であったが、峻険な山道は主に馬の背に荷物を積んで運んだ。馬車の馭者の吹く真鍮のラッパは、山間にこだまし、馬子が馬子唄をうたいながら峠を越えて行く詩情は、古老の思い出話の中にあるばかりである。

「昔の道は今の道とは違って、あの峯を通り、向こう側の川の岸を通って鍵穴に抜けていた。夜道を歩く人の持つちょうちんのあかりがきれいだった。」と老婆は語るのである。

終戦前は疎開のための運輸には、この馬力や荷車が復活して、一役買って人々は助かった。岩盤が地表から高く出ていて、つまづいたり、すべったりする急な坂道、岩石が道路に崩れ落ちて、今作ったばかりと思われるような古代の細石器が、石刄鏃のようの鋭く尖った石につまずいて、怪我をしたものである。昔はさらに険しい細い道であったから、人も馬も傷つき、あるいは谷に落ちたことも多かったであろう。そうした遭難に逢った危険な地点には、必ず柔和な相をした地蔵尊や慈悲相をあらわした観音菩薩や怒りを含んだ馬頭観音が祭られている。遭難した子供や、おとなや、馬のために地蔵尊、観音像、馬頭観音が建てられて、その霊を慰め、再度の災難を未然に防ぐために祭られた。

昔、荷を運ぶには、山道では馬力が一番便利であった。重い荷を背に積んだ馬や車を乗せた荷をひく馬は可愛そうのようによく働いた。そのschnock(あわれ)な姿を思い浮かべては愛馬の話しを聞かせてくれるおばあさんもいる。

馬頭観音は、六観音または七観音の一つで、三面二臂(さんめんにひ/または六臂)にして、頭上に馬頭を頂き、忿怒相を現している。主として畜生道を化益し、功徳の深甚なること、悪因縁を滅することは、あだかも馬の水草をのみ、念じてその余を知る所がない。藁科川流域に見られる馬頭観音は、その数において、庚申塔につぎ、文字を刻んだ馬頭さまは少なく、頭上に馬頭をいだいている観音像が多い。これらはみな石仏であるが、堂内仏で木像の馬頭観音も一体見られたし、また立派な牛頭観音の石仏も、個人の家の庭において、一体見られた(1962.7.10)

『野山の仏』(戸塚孝一.1963)

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耳地蔵

2010年09月30日 | 祠・石碑
このお地蔵さんはデカイです。

“ちょこん”とした石仏のイメージではなくって、美術室の石膏像のような大きさです。
おまけに、南の島で選ばれてしまった冬季オリンピックのスケルトンの選手のような赤い帽子と涎掛けが不釣合いで、恰幅のよい首から下げた数々の石は、チェーンを首に巻いて入場した往年のプロレスラーを彷彿とさせます。

それもそのはず。

かつてこの重たいお地蔵さんが野ざらしであった頃、「江戸を見せてあげよう。」と言っては村の若者たちが、左右の耳のところに手をあてて持ち上げる力比べの相手をしていたそうですから。

また、ある時はばくち打ちが、勝負に勝つために、この地蔵尊に願をかけて出掛けたというから、なんとまあ踏んだりけったりな訳で・・・。

でもそういう人ほど、「心はあったか」ということはよくある話し。ご他聞に漏れず、このお地蔵さん、耳の病気を治してくれることでたいへん名高い、藁科川上流・坂ノ上の「耳地蔵」さんです。

その御利益のあらたかなるや、このお地蔵さんにお参りして、病気が治った者は、河原等で見つけた穴の開いた石を“お果たしの石”としてお供えすることになっていましたが、かつては、その石でこのお地蔵さんの体が見えなくなるほどに、うず高く積み上げられていたと言うから、すごいっ!

けれども今はのんびりと、隣の弘法大師の石仏さんと並んで昔の思い出話などに語り合いながら、藁科川の流れを穏やかに田んぼの角から見つめています。


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『耳地蔵』

安倍郡大川村坂ノ上(現・静岡市大川)の中央の田んぼの中(現在は、田んぼの北側角の藁科川沿い)に小さな地蔵が建っている。由来は分からないが、昔から耳地蔵と呼ばれ、耳をわずらう者が祈願すれば必ずなおしてもらえるというので信仰する者が多かった。なおれば願果たしに、近くの河原から耳の形をした穴のあいた石を拾ってきて、ひもに通し、地蔵の首にかけてやるか、または穴のあいた石を地蔵の前に供えることになっていた。
最近は村の人でも、地蔵の存在すら知らない人もあるというが、古老の話しによれば、昔は願果たしにあげた穴あき石が積み上げられて、地蔵の身体が見えなくなるほど信仰者が多かったということである。地蔵はもと、の寺の境内にあったものを、同寺が廃寺になってから、ここに移されたものであるというが、年代など詳しく知っている人はいない。

『ふるさと百話4』静岡新聞社.昭和47年

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地蔵尊へのお参り

2010年09月01日 | 祠・石碑
9月1日といえば「防災の日」の高鳴る訓練のサイレンのもと、ひっそりと地域の人たちがお地蔵様をお参りする風習が毎年同じ日に残っていると聞いて、藁科川上流の坂ノ上という集落を訪ねました。
この坂ノ上(さかのかみ)は藁科川最奥の八つの地域から成る大川地区の中では最も大きな集落で、以前ご紹介した大川地区の夏祭りが開催されるなど、112世帯314人ほどの住民の方々が暮らしています。

ここに4つのお地蔵さまが村の入口や西、宇山などに祀られ、この日の朝に、地域の人々が祠を清めお参りするそうです。その時間帯には間に合いませんでしたが、新たな石仏を探すため、今日は坂ノ上の南という地区まで足を伸ばしてみました。徐行スピードで周囲に目を凝らしながら走りましたが、一向に埒があかず、車をとめて、集落の中を歩くことにしました。南は、坂ノ上公民館そばの中央橋を渡った東側の斜面にあります。

物置小屋で作業されていらっしゃるご婦人を見かけ、声をかけてみました。
すると2つ返事で「それなら、河原の方にいらっしゃるよ」と藁科川の方を指差す。

“いらっしゃる”という敬語に、地域の人たちの地蔵に対する敬愛の念を読み取りながら、小さな流れにそって、開墾された畑の中を河原の方に下っていくと、新調された赤い目印の祠がすぐに目に飛び込んできて、駆け足となりました。

地元の方は「子安地蔵」と呼んでいるそうです。

子どもの不幸をみた親達が、子どもらの健やかな生育を祈って祭られたそうで、とろけるような柔和な顔立ちながら、まだ厳しい夏の日差しをしっかりとしたお堂に守られ、河原で遊ぶ子ども達の姿を追って、川の方をずっとずっと見続けていました。

あごなし地蔵

2010年08月31日 | 祠・石碑
本に挿入された愛らしい顔立ちの写真に、ぜひ出会って見たいと探していたお地蔵さんがいました。
だいたいこの辺りと、地図についた石碑のマークや、参考資料の文章から場所の見当はついていたのですが、それでもこれまでは、なかなかその姿を見つけ出すことができませんでした。
「一体どこにあるんだろう」と再度、文章を読み直して、藁科川上流の下湯ノ島の集落に入る手前のところで、今日はピンときました。
道脇の小高くなった岩山と、小屋の間に2つの小さな石碑を発見して「あれだ!」と直感。
車を止めて、急いで小屋の裏へと回り込み、3メートルばかりのほんの僅かな踏み跡を一気にのぼると、丘の上に数十体の祠がひっそりと建っていました。

「あった!あった!!」

どの石碑もツタが這い、苔がむし、あるものは倒れ、あるものは埋まり、急いで急いで、それらを取り払う。
地中に胸まで埋もれていたのが、意中の「あごなし地蔵」でした。
顔にはびっしり苔がついていたけれども、30センチばかりのその体つきからあごなし地蔵に間違いありません。

(あぁ、間に合った・・・・)

もちろん村の人たちに手入れされ、土中に埋もれ所在がわからなくなるまでに至るはずもないのですが、掘り起こしている最中に、妙な感動がどこからかやってきて、目頭が熱くなりました。

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「あごなし地蔵」

下湯島は戸数三十七の小である。の入口は峻険な山で、これを切り開いて上湯島に通じる道をつけた坂道の左側、藁科川に面した小山の上に、庚申塔、弥勒菩薩、馬頭観音菩薩、地蔵尊などの石仏群が、十体余も立ち並んでいるなかに、三十センチぐらいの小さなあごなし地蔵尊を見つけた。浮き彫りの地蔵尊の後背の左側に「虫歯守護、あごなし地蔵大菩薩」。左側に「祈願成就為小沢弘寅年三歳、日向、佐藤成一郎建立」。左側面に「おきの国すき郡中すど村大字かみにし」と刻まれている。肉身の三歳児が虫歯に苦しめられ、地蔵尊に祈願して快癒したそのお礼のため、また一つには虫歯に苦しみ悩む人がないようにとの願いで、この石仏を建てたのであろう。「あごなし地蔵」とは思いきった名をつけたものである。あごがなければ歯がないし、歯がなければ虫歯にならないし、苦しめられることもないと思ったからであろう。山の人の温かく素朴な心が、地蔵尊の姿や、微笑をたたえた顔容から、あふれてくるようである。(1962.6.24)

『野山の仏』戸塚孝一.金剛社.1963)
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陽明寺の地蔵

2010年08月22日 | 祠・石碑
朝の5時と夕方の6時、私が住んでいる山里に鐘の音が響きます。

時報の機械的な電子音とは違ったやわらかく響き渡る音とその余韻が、なにか単に時間を告げること以外の、鐘を鳴らす人と私の、また鐘の音を聞いている人同士のつながりを感じさせるようで、とても好きです。

この大きな鐘がさがるお寺は陽明寺といって、永正7年(1510年)と言いますから、今から丁度500年前に雲叟(うんそう)という和尚さんが開山したお寺です。本尊は薬師如来で、例年7月26日は、檀家さんが会し、ありがたいお経が読み合わせされる大般若会が開催されます。

http://www.okushizuoka.jp/blog/okawa/diary/2010/0728075329.html

この境内にあるお地蔵さんは腹痛や歯痛を治すと言われ、写真のようにボコボコです。
それには、こんな由来が残っています。

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『陽明寺地蔵尊の由来』

むかし、この土地にごんざえもんというおじいさんがおりました。おじいさんは、ある日のこと、ここから約十キロ西にある、小さなに行きました。そのときそのでは、大きな山火事があり、村の人達は大変騒いでおりました。おじいさん、これは大変なことと思っておりましたが、ふとその道ばたにお地蔵様のあることに気づきました。そのお地蔵様は石の大きい1メートル以上もあるお地蔵様でした。おじいさんは、お地蔵様に言葉をかけました。「地蔵さん、わしと行くか」と言いました。その時お地蔵様は、だまっておじいさんの背中に、軽々しくおぶさりました。
おじいさんはそのお地蔵様をおぶって「それでは帰ることにしようか」と言い、遠い坂道をとぼとぼとわが家に帰りました。そしておじいさんは、このお地蔵様をどこにおまつりしようかと思い、考えた末、お寺さんの門前におまつりしました。
お寺さんへは、毎日子どもが大勢遊びに行き遊んでおりました。するとお地蔵様は、大変子どもが好きで、子どもさんの言うことはなんでもよく聞いてやりました。子どもは大変喜んで、毎日、毎日お地蔵様のところへ遊びに行きました。
ある日のこと子どもは突然歯が痛くなりました。子どもはお地蔵様に私は急にここが痛いのですと言い、お地蔵様の歯のところを小さな石でたたきました。またお腹の痛い子どもはお地蔵様のお腹のところを、私はここが痛いですと言い、小さな石でたたきました。
そのため石のお地蔵様は子どもがたたいたところが、だんだんくぼんでなくなりました。それでもお地蔵様はなんとも言わずに、子どもとよく遊んでやっておりました。
今はそのお地蔵様もお寺さんの境内に村人達によりお堂が立てられておまつりされていて、毎年お盆の十六日におまつり法要をしております。

『ふる里わら科八社 第一集 』(大川寿大学講座受講生一同.静岡市中央公民館大川分館.昭和55年)

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弥助観音

2010年08月09日 | 祠・石碑
藁科川沿いの国道362号線を遡り、八幡のところで右折し、県道60号を10分ほど走ると、寺島という集落があります。

お茶を静岡にもたらした聖一国師さんが、地蔵尊を建立したことから“寺島”という町名がついたとの言い伝えがありますが、ここの氏神様が祭られている白髭神社の中段には、いくつかの石像が祀られています。

「顔の部分が割れてしまったのかな?」

以前、この場を訪れた時に、顔の部分がコンクリートでつなぎあわされている小さな石の像を見て、単に痛ましいものと感じただけでしたが、後から以下のようなこの像にまつわる言い伝えがあったことを知り、衝撃的でした。「野山の仏」という本に、紹介されていたお話を少し易しく言い直して再話します。

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『弥助観音』
ここがまだ駿州安倍郡寺嶋村と言われていた頃のこと、弥助というそれはとても利口な村人がいました。頭の鋭い人であったので、当時のお役人たちの矛盾や不合理なところを正しては、村人のために尽くし、村全体が幸せになるよう努めていました。けれども、役人の方としては、そんな弥助の働きが面白くない。このような人がいたのでは、村を思うように治めることができないと、弥助を召し捕ることに決めました。

ある朝、役人たちが捕まえにやって来ることを村人からの通報で知った弥助は、裏山に逃れて、桜の木によじ登り、枝影に隠れました。役人たちは、この周辺の地域きってのお金持ちであり、弥助の親友だった富沢(とんざわ)の六郎兵衛を先頭にして、鉄砲を持ってこの寺島に乗り込んできました。

寺島の橋を渡って弥助の家に到着した役人たちは、その家を守っていた弥助の母に罪状を告げて、「弥助はどこか」と存否を尋ねました。すると老母は、「いない」と息子の不在を告げながらも、息子の身を案じて、弥助の隠れている裏山の方をちらりと見てしまいました。「あそこだっ!」と役人たちと六郎兵衛は、弥助が山に逃げたことを察して、老母が目をやった山に向かいました。

「やすけさーん、やすけさーん」と大きな声で呼びかける六郎兵衛を先頭にしながら、山を登る役人たち。その声を聞いた弥助。もともと六郎兵衛とは親しい間柄だったので、これはてっきり、六郎兵衛が自分のことを救いに来てくれたものと思って、隠れていた桜の木の上から「ここだ、ここだ」と返事をしてしまいました。

“ズドーン・ズドーン・・・・”

弥助を見つけた役人たちは、いっせいに鉄砲を放ち、顔を撃たれた弥助は、もんどりをうって木から落ちる。それでもまだしばらくは息があったと見えて、側にきた役人たちと六郎兵衛の顔を見るなり、
「よくも六郎兵衛、私をだましおったな!救いにきたと思ったら、役人たちの道案内だったとは。生まれ変わって七代までもたたってやる!!」
と言い、息を引き取ったそうです。

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このような言い伝えが残る「弥助観音」の石像は、顔の部分が破損して三つに壊れた訳ではなく、人工的にはじめからわざと割って、それを組み立ててのせたものだそうで、弥助が鉄砲で打たれて顔を割られた有様をかたどったものと、その本には書かれてありました。

それを知って、この像と向かい合う時、“すさまじさ”に身の気がよだちます。

このお話を紹介した「野山の仏」の作者はこう結んでいます。

「・・・恐ろしいまでに強力な権力に、レジスタンスを感じ、正義を愛した弥助が、村人の不幸を代弁した結果が、この悲惨な銃殺になって死を遂げたことを、村人は我がことのように悲しんだに違いない。この石仏を見ていると、弥助の無念の顔や、村人の怒りに満ちた心が感ぜられるし、昔の不幸で暗かった時代を生きた農民の姿が浮かんでくるようである。」
(「野山の仏」戸塚孝一、金剛社、1963)

洪水から村を救ったお地蔵さん@小瀬戸

2010年08月04日 | 祠・石碑
先月18日の日曜日、イベントの会場となる河原を最終確認で出かけた帰りの時のこと。藁科川の中流域の小瀬戸辺りをバイクで通過しようとしたところ、祠の周りになにやら人だかりが・・・・。

「んっ???」

と思い思わず原付を道脇に寄せ、その集まりに目を凝らすと、お坊さんがお経を上げ、その周りに地域の人たち30人ほどがゴザを敷いて、談笑していました。

そばによって声をかけると、古老の男性を紹介され、この川除け地蔵にまつわるお話を丁寧に教えてくれました。あまりにすばらしいお話だったので紹介させてください。

「むかしは、よく小さな子どもたちの面倒は、大きくなった子どもがおぶってみていてあげていたものでした。そんなある日、大きな悲鳴声が聞こえ、村人たちが何事かと思い駆けつけてみると、おんぶひもがゆわえられた地蔵が倒れていて、その下敷きになった幼子が亡くなっていたそうです。

その夜、子どもを弔って、疲れにうとうとしていた村人の夢に地蔵がでてきました。“きょうは本当に申し訳ないことをした。この償いはいつか必ず果たすから”といって、そのお地蔵様は消えたとのこと。聞いてみると、周りの村人もみな同じ夢をみていたとのことで、なんとも不思議なことだと口々に言い合いました。

その年の秋のこと。ここ小瀬戸に大風が吹いて、川が氾濫しそうになったことがありました。村人たちは懸命に土嚢をつみ、石を積み上げ、必死に流れをおさえようとしましたが、力及ばず、いよいよ濁流が決壊しようとしたその時、川の底が青白く光り、何事かと思い村人たちが覗き込むと、そこには大水を防ごうと力をふりしぼる地蔵さんがいました。おかげで村は洪水から救われ、それ以降お地蔵様をたたえ、こうして年に1回供養しているのです」

路傍の何気ない祠に、こんな心温まるエピソードと、それを伝え続けている小瀬戸の人たちの気持ちに接することができ、とても豊かな気持ちです。

山村に受け継がれる庚申信仰

2010年08月02日 | 祠・石碑
藁科川の流域には、お地蔵さんの他に「庚申塔」と刻まれた石碑がたくさん建っています。この庚申信仰は、その地域や集まり毎に違っているそうですが、普通、農業生産の神様、厄除けの神様、福の神、その土地の神と考えられています。

静岡市では、この藁科川沿いの清沢や大川、またお隣の安倍川の玉川、または井川地域で庚申信仰は盛んだったそうで、この影響で至る所に自然石の庚申塔が建てられています。その塔には、真言密教の青面金剛童子(しょうめんこんごうどうし)の姿は彫られていませんが、「庚申塔」の三文字、時に「庚申供養塔」の五文字のこともあります。

二ヶ月に一度まわってくる「かのえさる(庚申)」の夜(俗にお日待ちの夜ともいうそうです)には、祭壇の前で、夜どおし皆で飲食して語り明かし、人々の心の中にある悪魔を見守り、自己反省して信仰を深めると同時に、農業の生産に関わる知識を交換する場にもなり、の伝承を受け継ぐ機会も提供していたと言います。この一夜は、夫婦の接近も忌み禁じられて、清浄であることが求められていたそうです。

最近では、このようなお日まちの夜を過ごす集まりはすっかり減ったようですが、それでも大川地区の日向などで、今なお共同で飲食し、親睦を深めているところがあるそうです。
このような1年に5~6回の集まりと、60年に一度廻ってくる「かのえさる」の年を待ち受ける庚申信仰は、平安時代に大陸の方から日本に入ってきたのが始まりだそうで、室町時代以降に、庚申待ちの塔が盛んに建てられたとのこと。それが時代の流れと共に、生産や悪病よけの威力を持つ庶民の神の色が濃くなってゆき、今日でも山村地域を中心にひそかに受け継がれています。

藁科川を見守る

2010年07月31日 | 祠・石碑
とにかくこの藁科川のほとりや流域には、お地蔵様の祠や庚申塔の石碑がたくさん建っています。

川や堤防の安全を祈願した川除け地蔵や、かつて馬が大切な交通手段であった頃、交通の安全や、命を落とした馬を弔うために頭に馬の形をかたどった馬頭観音などが、川の要所要所に数多く見受けられます。

その数や66箇所、数は100体以上!!

こんなたくさんのお地蔵様たちに、晴れの日も雨の日も、毎日川や交通の安全を見守られているのですね。ありがたや、ありがたや
このブログでも、そんな1つ1つ個性的なお地蔵様たちの横顔をお伝えできればうれしいです。