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大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

七草祭り

2011年02月09日 | 歴史&文化
藁科川上流の日向地区に400年以上から伝わる県指定の無形文化財「七草祭り」にはじめて参加しました。
前日の「大日待」と呼ばれる前夜祭から始まって、当日は午前10時からの「日の出の祈祷」、お昼1時からの「禊」、そして田楽が舞われる「夜の祭り」という三部構成でした。地区の住民の皆さんを結集して、練習から、部隊の準備、当日の舞や運営、最終日の片付けと3日間エネルギーを費やして維持されてきたパワーに圧倒されました。

縄文時代の大川

2011年01月18日 | 歴史&文化
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勝見惣太郎氏「ふる里道中(二)」

縄文時代は、今より八・九千年前から二千年ほど前までと言われる。この間に縄文式土器という土器が、さかんにつくられた。日本各地で掘り出されるこの土器が、大川にもあった。
弥生時代には、ムラ人たちが共同で田畑を作り作物を分けあって暮らした。そしてムラを治めたり、よそのムラとのつきあいに指導者ができた。


「縄文式時代」 約五千年~二千年前(大川地方)

日本の原人という三ケ日人・牛川人・明石人の頭骨化石は一万年以前のものと言われる。では、藁科の祖先は、大川の原人はどうなのか。
何はともあれ、日向字野田の段で出土した縄文土器の発見は、画期的な偶然であった。

三千年前のものと言われるこの土器が発掘された動機は、昭和二十五年、この土地を所有する旧大川村が施設の財源に当てる必要から地元の佐藤吾兵衛氏に払い下げた。佐藤氏は、この山を畑にするため、昭和二十六年から開墾作業を続ける内発見したというもの。戦後の食糧増産で厳しい対応に迫られていた頃である。それにしても貴重な土器の多くは、県内外の人たちに持ち運ばれたというが、当時の世相からすれば、止むを得ないことであったかも知れない。

野田の段という地名は、広い陸田(畑)の段丘と解釈されるが、もとは烽火の段であったかも、という説もあるが、確かに当時の部族には、何か異変のある時の警報や何かを起こし始めようとする時の合図に、焚火を煙らせてあげることが重要な手段であった。
狩猟と農耕に生きる部族間では、お互いに共通した観念に立って連携を緊密にしたことも確かである。
それにしても部族たちは、どのように展開したのだろう。他の場所にもまたあった筈の文化遺産がないのは、先に述べた地質変動のいたづらとも言えるが、小規模な山の崩壊は今でも続いている。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

中生代・新生代の大川

2011年01月17日 | 歴史&文化
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勝見惣太郎氏「ふる里道中(二)」

「中生代」 約二億~六千万年前

この時代は、古生代のような大規模な変動は少ないが、河川の氾濫は一層激しくなり、大量の土石流が南下して河床がだんだんと下がってきた。
しかし地上には雑草が生い茂り、松・杉・桧などが発生し、両生類、軟骨魚類など葉中動物が繁殖したという。


「新生代」約六千万年~現在まで

この時代は、第三紀と第四紀に区分され、代四紀は更に洪積世と沖積世に分けられる。この時代は哺乳類の全盛期で、その末期に人類が出現したという。しかし気象状態が不安定となり、百万年前から氷河時代の寒冷期に入った。積雪の圧力で固まった万年雪が、自体の重みで低地に移動する速度は、早くても1日十米を越えないという。このように冷え込んだ地球は縮み上がって高い山脈を造り、日本平や牧の原台地を盛り上げるなどの造山運動が起こり、氷河の流入と相まって海面を押し上げたと言われる。

さて、藁科・安倍の両河川は、何億年もかかって静岡・清水の平野を造成し、三保の岬もつくったが、奥地の山は、これとは裏腹に、崩れ落ちて骨と皮になった。そして残ったものは巨大な硬岩の山とその谷間にある水成岩、例えば礫岩(こもち岩)、頁岩(粘板岩)、砂岩(硬砂岩)などが、数億年の歴史を伝えている。今にして思えば、自然は美しく蘇り、地震災害に最も強い日本列島の基盤になっている。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

古生代の大川

2011年01月16日 | 歴史&文化
ぜひともお会いしたかった今は亡き方のお一人に藁科川上流・大川地区の坂ノ上にお住まいだった勝見惣太郎さんがいらっしゃいます。
大川地区の歴史に関して造詣が深く、色々な資料文献でしっかりした文章をのこされていらっしゃいます。
特に1980年前後に続けて発行された「ふる里わら科八社」という地元の方々が編集された歴史書では、大川地区の歴史を古生代から書きつけていらっしゃり、その壮大なスケールの構想力と、それを次世代に残そうとご尽力された情熱に、深く教えられます。

その功績を称え、少しでも後世に残すお手伝いをしたく、勝見さん執筆された「ふる里道中」を抜粋します。


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勝見惣太郎氏「ふる里道中(二)」

「古生代」

日本列島が誕生したという、約五億年前の岩石層が、埼玉県の秩父で発見され、この層を秩父古層と名づけた。
列島の基盤と言われる最も古いこの地層が、大川地区で95%、清沢地区で50%と続いている。
その頃、藁科・安倍・川根筋の山々は、一連の高原になって、駿河湾が、吉津・谷津辺りまで入江になっていたというように、安倍川筋も深い入り海になっていたという。
そして牧の原台地が地下に、日本平が海底に沈んでいた頃、奥地の高原では、地震や火山活動、造山活動など、地殻の大変動が頻発していた。
このような激動の中で、風化した土石流が、洪水のたび毎に駿河湾めがけて押し出し、広大な扇状地の駿河平野を造成した。
然し、それは、何億年もの長い地質時代の変動で、恐ろしい現象が毎年のように続いたいたという訳ではない。
古生代というこの時期は、氷河の発達したこともあったが、だいたい温和で、いろいろの生物が発生した。植物では菌類、シダ類、ヒカゲノカズラ、スギナなどが育ち、動物では無脊椎の貝類が栄えた。
厳しい環境の中で育ったこれらの植物は、それなりに強い生命力を保ちながら、今でも、農家の厄介ものになっている。
でも、美しい黄緑の毛並みを地上に這わせるヒカゲノカズラは、その昔、神事に参列する諸公や公卿達が、冠の左右に吊るして飾ったというほど清浄な感触をそのままに、高山の湿地に自生しているが、土地の人は何気なく見過ごしている。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

萩多和城

2011年01月11日 | 歴史&文化
中世の山城「萩多和城」は、藁科川上流の支流・篭沢川沿いの林道を走ること20分程。大川地区・日向の地元有志で建立された石碑と、その前のひろがった跡地からは、藁科の谷がよく見渡せます。
ここで地元の歴史をよく知る古老とご一緒させて頂き、「大川は温かい」という話を伺ったことが忘れられません。

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「萩多和城(通商、萩の平)」

萩多和城跡に立てば、西方遥かに「徳山城」の砦「高山」が霞の中に聳えて、中継の城「護応土城跡」が直線の内に眺められる。
また重なる山並みは、南方に起伏して、藁科川流域が、細長く尾を引き南下している。坂ノ上の「陣馬河原」は有名であるが、ことに良く見えて足元の様な感じがする。

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「ふる里わら科八社~第三集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

一目惚れ

2010年12月15日 | 歴史&文化
これは藁科川流域ではありません。
出張で訪れた栃木県日光市大室地区で出逢った水車です。

1月の研修準備のため、現地の方に森づくり活動の元気な事例をご紹介いただいた帰り、降りてきた田んぼの真ん中で回っていました。
再現されたものと言いますが、新しいものではありません。
透き通った勢いよく流れる用水の水を受けて、2メートルばかりの水車が力強く回っていました。
ギシギシときしんだ音が間段なく響いてくる掘っ立て小屋を覗がせてもらうと、線香の原料となる杉の葉を粉にするため、水車の回転する力を、5~6本の上下する杵の運動に変える仕組みになっていて、粉っぽい室内にほのかなs杉の香りが充満していました。「水神」の銘が刻まれた小さな祠が、小屋の脇にたたずんでいました。
森に囲まれ、自然のエネルギーを使い、無理なくたゆまず、人の目を気にせず、やりべきことを淡々とやっている姿に一目惚れ。

かつてこの藁科川流域にも、いくつかの水車が回っていたと聞きます。
また、静岡にお茶をもたらしたとされる藁科川上流・栃沢地区出身の聖一国師さんが、中国の宋より持ち帰った伝来品の中に水車図があり、大川地区センターにその図面が貼られています。
この地にも再び水車が回るのを夢見て。

スリルとロマン入り山里レシピ

2010年11月22日 | 歴史&文化
さて、こちらスリルと男のロマンがスパイスされた山里特製のレシピでございます。さてこれは、何御飯でしょうか?

①Hachinoco-Gohan
②ハチのコごはん
③はちのこごはん

答えは…












全部正解!蜂の子御飯でした(^^;)ゞ

藁科川上流の日向にある大川中学校グラウンドで開催された収穫祭で、はじめてのご対面。話としては聞いていたのですが、こうして食べるのははじめてでした。

薄い醤油&お酒ベースで、そのまんまの形をした蜂のシャリッとした歯応えと、時々プチリとはじける蜂の子の食感が楽しめる、優しい味の炊き込み御飯で、お味は、もちろんグット!

味覚もさることながら、こうしてお料理として出されるまでのストーリーが、まずは飛んでいる蜂さがしから始まって(目印をつける場合もあり、その方法にもいくつかあり)、どちらに飛び去るかを見定め、蜂の巣の在りかをさぐり、リスクを犯して発煙筒を炊いて(地元には専用の発煙筒あり)袋に入れて持ち帰り、あの一つ一つの巣穴からピンセットで丁寧に取り出すという、涙ぐましいほどの危険と手間がかかったお料理なのでございます。

この一連の作業を語るときの地元の男衆の顔の輝きといったらありません!
そんなお話を聞くと、またまたおいしくなる、かつては山の貴重なタンパク源です。

収穫祭での出展など疲れが貯まっていた仲間も、これを食べたら復活したとか。
ぜひ、地元の方のお話つきで召し上がっていただきたい、お薦めレシピの紹介でした。

コ・チュウ・テン

2010年11月09日 | 歴史&文化
この写真の風景を前にして「栃沢って“コ・チュウ・テン”じゃねえのかなぁって思う」

(コ・チュウ・テン・・・???)

と音ばかり頭に響いて、全く要領を得ない私に、故事を引いて「コは壷のことだな。チュウは中で、テンはお天とうさん。つまり壷中天とは、壷の中に天が広がっている、一種桃源郷のようなことさ」と、栃沢のお茶農家・山水園のご主人、内野清己さんに教えていただきました。

壷中天、たしかに。

藁科川上流のこの地区を訪れるのは、これが初めてではなかったのに、今回栃沢川を渡った南側の集落にはじめて入ってみると、俄然奥行きの深さのようなものを感じて、びっくりしました。今まで縦にしかみていなかったものを、横から見て、改めてその広さに気づいた時のよう。角度を変えると、そこに違った遠近感を生じる茶室や日本庭園のようなたたずまいをなんとなく感じていたものですから、その実感を、ずばりとピンで刺しとめられた、そんな鋭い言葉でした。



大風が吹き渡った高い秋空のもと、黄色いツワブキの花に出迎えられ、今日は栃沢に山水園さんを訪ねました。

まずは早速招きいれていただき、ご主人自ら淹れたお茶を頂く。円盤型の平たい不思議な形をした急須で、濃いと感じた瞬間にさっさっと舌の奥へと走り去っていくおいしいお茶には、茶菓子の羊羹があうこと、あうこと。お話は、東福寺のかえでの話題から、先日のお茶カフェのふりかえり、果ては経営とはなんぞやに至るまで、縦横無尽の楽しい歓談にすっかりもてなして頂きました。

歓談後はお時間をもらって、集落の中を案内していただく。
その土地の方に、地域を案内していただくほど、幸せなことはありませんよね。
道々、路傍に生える草花を観察したり、「ここは川をせき止めて泳いだ」などの幼い頃の思い出話や書き物では表すことのできない地域の言い伝えなど聞きながら歩く道中は、飽きがきません。

さっとメモ書きした「壷中天」を、帰宅してからインターネットで調べてみました。

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『壺中、天有り』

「漢書」方術伝、費長房の故事によると、昔、中国に費長房という役人がいて、何気なく役所の窓から往来を眺めていると、城壁の下に座って一人の老人が薬を売っている。気になり、仕事が終わってから、老人をたずねる。老人は、横に小さな壷を置いていた。老人は、店をたたんで、壷の中にハッと入って見えなくなってしまった。面白いものを見つけた、仙人でなないかと思い、神秘なものを見せてもらおうと考えた。次の日の夕方、そこへ出かけていって、昨日壷の中に入って消えたところを見てしまったと告げた。是非とも今日は自分を一緒に壷の中へ連れていってくれないか、とお願いした。老人と一緒に、その壷の中へ入って行った。その中には美しい山水があり、金殿玉楼があって、歓を尽くして帰してもらった、という話である。壺中の中に天がある。壺中、天有り。日常の生活の中に一つの別天地を持つことを「壷中の天」という。人間はどんな境遇にあろうとも、自分だけの壷中の天を創りえるものである。壺中天とは、まさに、俗事を超越する一刻の楽境であり、自分の現実生活の中に別天地をもつということである。

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この故事を読んで、思い出した詩がありました。書き出してみます。

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私の理想の国

私が大切にしたいのは、
国の大きさでも、繁栄でもないよ。
まあ言えば、
その国はごく小さくてよい。
人口も、ごく少なくてよい。
その国の住人たちは、
生きることと、死ぬことを大切にするから、
船や車で遠く飛び出して行ったりしない。
少しは武器みたいなものがあったとしても、
誰も使おうとはしない。
商売取引きは、
縄に結び目をつけた簡単な約束で済ませる。

それでいて、食事はゆったりとおいしく作り、
着るものは清潔な布を用いる。
日々の楽しさと平和に満ち足りている。
隣の国は近くて、
犬の遠吠えや鶏の鳴く声さえ聞こえるけれど -

他の国の住民と往来しない。
そして、ずいぶん年をとって、静かに死んでいく。
これ以上のどんな文明に
ほんとうの幸福があると思うかね。

「タオ・・・・・ヒア・ナウ・・・・・」加島祥造訳.PARCO出版.1993

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おもてなしに感謝の意を表して

藁葺きの門

2010年10月27日 | 歴史&文化
藁科川上流の大川地区でも、藁葺きはここ一軒になってしまったのではないでしょうか?
とても趣のある門構えで、その昔、この門にはちゃんと門番がいて、この家を守っていたと地元の方から伺いました。

日向地区の大川中学校の横にあるこちらのお宅は、かつてこの地を治めていた名家中の名家。
室町時代の後期頃に、日向に移り住んだといわれており、源氏の流れを汲む武家で、それまで土砂崩れや川の氾濫等自然災害が絶えなかったこの地に、土木技術を持ち込んで開墾に成功した土地の開祖にあたります。

この門がある前の通りが、いわば日向のメインストリート。

かつては、役場、郵便局、学校、商店、鍛冶屋が並び、物を運んできた人が泊まるところもあって、この藁葺きの門のあるお宅にはお医者さんも雇われていたとか。字名は中村と称し、まさに村の中心街だったところです。

いちど街ブラにいらっしゃってみませんか?

十三夜の盗人

2010年10月20日 | 歴史&文化
知りませんでした、お月見に十五夜の他にも十三夜があるなんて・・・
ということは、お月様を愛でる機会が一度ならず二度あるなんて・・・

調べて見ると、お月見の風習自体はどうやら太古の縄文時代からあったそうですが、十五夜を愛でる仲秋の名月はもともと中国で行われていた行事が伝来してきたもので、むしろ日本独自の伝統的な観月は、十三夜の方であったとのこと。完全な円ではない、このいくらか欠けたところに美意識を感じるのが、なんとも和心っぽいですよね。

そして、昨晩が旧暦9月13日の十三夜。

残念ながら写真のような片欠けの月は、空一面が雲に覆われてしまっていて、その顔を拝むことはできませんでしたが、子ども達にとってお月見といえば、これっ!
以前このブログでも紹介しました「盗人晩」のパート2が開かれました。

『盗人日和』
http://blog.goo.ne.jp/hatya0623/e/f6ba09117a13e61d4b3d4f2dda49864c

夜の七時に近くのお家に集まった子ども達10名と一緒に、お供え物をしてある地区のお家を回りましたが、走るわ、走る子どもたち!

あっという間に地域の中を駆け巡り、袋いっぱいにお菓子などのお供え物をせしめて、ホクホク顔の小さな盗人達でした。

※写真は他のホームページに使用されたいた画像を添付しました

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『月見』

 旧暦八月十五日の仲秋の名月に月見をする。縁側にテーブルをなどを置いて、薄や萩を飾り、供え物として枝豆、里芋、サツマイモ、甘柿、ヘソモチ、酒などを備える。このうちヘソモチというのは、米の粉で作った大小の丸団子を重ねたものである。これを生のまま供え、翌日茹でて食べる。月見に供えるヘソモチという呼称は、県下中西部に広く見られる。ただし、他の地域では丸く平たい団子の中央部を指でへこませて作るのが一般的である。

 月見は旧暦九月十三日にも行う。同じようにヘソモチなどを作って供えるというが、この日をヌスットバン(盗人晩)と称し、かつては子どもたちが各戸の供え物を盗んで回った。「月の出ている時には、盗ってきて良い」などと言われ、供え物が盗まれても怒る人はいなかった。

 『ふる里わら科八社 第三集』には、月見の供え物だけでなく甘柿や梨なども取って回ったが、取ったものはその夜のうちに必ず食べつくさなければならなかったと記されている。

 こうした風習もかつては各地で見られたが、盗むことを戒めるどころか、むしろ知らぬうちに供え物が無くなることを縁起の良いことと解していたようである。

 なお日向では月見に供えた枝豆の殻を乾燥させて保管しておき、翌年の元旦に焚き付けとして利用するという風習がある。

~『日向の七草祭』(静岡市教育委員会.平成18年)から引用~
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日向白髭神社の秋の祭礼

2010年10月17日 | 歴史&文化
先週の坂ノ上・諸子沢でのお祭りに引き続き、藁科川上流の日向地区の白髭神社で、秋の祭礼が開催されました。

地元日向の方々が、神社の拝殿の中に小さい子からお年寄りまで所狭しと集まって、祝詞や舞が奉納されるのを見守ります。式の後には直会となってお酒やおかずが振舞われる宴となり、最後にはお餅まきがおこなわれて散会となりました。

穏やかなお囃子のメロディーが奏でられる中で、恵みの秋を祝いながら、集落の多くの人が直接顔をあわせて、世間話やお互いの境遇を語りあい交流する有難さを感じるひと時でした。

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『白髭神社祭礼』

 日向の氏神である白髭神社の祭礼は、春と秋の年二回行われている。現在、春は四月の第一日曜日を祭日としているが、もとは四月二日であった。また秋も、もとは十月二十一日が祭日であったが、現行では近くの休日に実施するよう改められている。

 祭り当番は、前日から幟立てや拝殿の飾りつけなど祭りの準備をする。拝殿の天井には注連縄を巡らした五色の色紙で作ったシデを飾り付ける。この飾り付けの下で神楽を奉納するのである。また事前に海岸へ行き、ハマイシ(浜石)を拾いシオバナ(潮花)を汲んで来る。

 祭り当日は午前十時から拝殿にて神事が執行される。現在の司祭者は、川根本町在住の神職である。古くは地元の神職内野家が司祭していたが、明治中期に跡継ぎが途絶えてからは、八草の高橋家が担当していた。佐藤助廣さん(大正十五年生)が若い頃には、八草から神主が歩いてやってきて、祭りの頭屋(当番組の代表)の家に一泊し、祭りを執行していたという。

 さて祭りの式次第は、修祓、一拝、開扉、献饌、祝詞奏上、神楽奉納、玉串奉奠、撤饌、閉扉、一拝、直会の順である。神主の祝詞奏上のあと神楽が奉納されるが、現行では春に順の舞、秋に弓の舞を舞っている。そのほか春のお祭りでは、拝殿の外に設けられた湯立釜の前で、湯立神事が行われる。今では湯釜の前で祝詞を奏上するのみとなっているが、かつては湯立が終わると御座返しという神楽舞の奉納もあった。この舞は湯立に使った榊の葉と小豆の粒くらいの浜石と米を盆にのせて、「あき、あられ、ゆきやこおりと、へだつれど、おつれば同じ谷川の水」と舞人が唱えながら、盆にのせたものを四方へ撒くという舞であった。その他にも三宝の舞、恵比寿・大黒の舞などが伝承されていたというが、現在は途絶えている。

 神事終了後に直会が催される。昔は神楽を習得したい若者にとって、この無礼講の直会が、熟練者から指導を仰ぎ、技を磨く絶好の機会でもあった。現在は直会の締めくくりに拝殿での餅撒きが行われており、これを楽しみに集まってきた老若男女で拝殿内は大いに賑わう。

 なお、祭りを盛り上げるため、一時期、子どもの神輿のお渡りもあった。

~『日向の七草祭』(静岡市教育委員会.平成18年)から部分的に抜粋し一部構成~

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坂ノ上公民館

2010年10月15日 | 歴史&文化
一目見ただけで、どこかとても懐かしい。窓越しに子ども達の唱歌が聞こえてきそうな、そんなレトロでやさしい建物が藁科川上流・坂ノ上の県道沿いにあります。

坂ノ上公民館です
木造平屋の一戸建てで、以前はテレビの撮影にも使われたことがあるという昭和な雰囲気のあるたたずましいで、思わず引き戸を引いて中をのぞいてみたくなります。

先日、この建物で打ち合わせがあり、はじめて舞台裏の奥の部屋に入りましたが、白黒のパノラマ写真で昔の坂ノ上の東側を撮影したものが掲示されていました。
現在とは様子が違って、手前の平地には田んぼが広がり、後背地の斜面にはも利用されていたことを裏付けるかのように、密集したものではなく、ボサボサしたような木々が生えています。

対岸の高台に、見慣れない大きな建物があり、打ち合わせの始まる前に、地元の方に尋ねたところ、
「これは大川小学校の分校だよ。小学校4年生までは、この辺りの子が通っていました。僕の頃はそうだな、子ども達は60人以上はいたかな。」
とのお返事が返ってきました。

この公民館自体も、かつて校舎として利用されていたものが移築されたそうで、その時の白黒のスナップ写真も屋内に飾られています。

とにかく雰囲気が良く、30畳ほどの広いスペースもあって、集会スペースや小さな台所もついています。一般への貸し出しも可能ということですので、グループでのお泊り会、夏の合宿などに利用されてみてはいかがでしょうか?

藁科川ファンクラブ名誉会長

2010年10月13日 | 歴史&文化
流域の皆さん、またこの川に関わりのある方は、それぞれの想いを藁科川に寄せています。
それを改めて「大好き!」と公言することは、「なにを今さら」「気恥ずかしい」という面もありますが、そんな私には実は強い後ろ盾がいるのです。

文学者の中勘助氏です。

勝手に「藁科川ファンクラブ名誉会長」の座にあがめている氏は、みなさんご存知の通り、夏目漱石にその才能を見出され、代表作の「銀の匙」をはじめ鳥の物語や詩集・随筆など数々の作品を世に出した作家であり、詩人というマルチ文学者でした(1885~1965年)。

服織中学の校歌も作詞され、現在、新間の見性寺前に中勘助文学記念館があるなど、数々の足跡を、この藁科の地に残されていますが、昭和18年に転地療養のために静岡に来て、はじめは今の杓子庵がある楠ヶ谷の前田一夫さんのお宅に1年六ヶ月の間身を寄せ、そのまま戦時の疎開生活となって、今度は羽鳥の石上広吉さんのところで3年間すごしたとのこと。

その間、藁科の自然に魅せられ、人情豊かな地元の方との交流が楽しく、帰京してからも「もう一度あの服織に帰りたい」「私くらい幸せな疎開生活を過ごした者は他にはいないようですね」と周囲に漏らしていたそうです。この会長の弁には、会員として思いっきり共感。

さて、そんな中氏の作品のいたるところには、藁科の自然や風景などが読み込まれているそうです。

「銀の匙」しか読んでいない不真面目な会員としても、この機会に藁科図書館の中勘助コーナーに通ってみたいと思います。会長、失礼しました!<(__)>


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わらしな川

 私が静養の為、服織へ転地した時には(昭和18年)東京は物資食料共ひどい欠乏をきたしていた。静岡にはなにかありそうな気がして行ってみたらやっぱり何もなかった。がしかし藁科川があった。それは全く予想しない収穫だった。
 私は従来山にも海岸にも湖畔にも住んだことがある。けれどもまだ美しい川のほとりの生活を知らないで、かねがねそれを願っていたのである。
 藁科川は実に美しかった。ことに服織村の前、そして象山(さきやま)-これは谷津と大原の境にある、かたちから私が名をつけた。
 このあたりから安倍川との合流点までが最も眺めがいい。私は藁科川を愛した。


 わらしなの川の堤のたち柳
   われたちよらば 靡(なび)きこんかも

 風すさぶ荒石原に入もなし
   わらしな千鳥 たれを呼ぶらん

 藁科川 夏がれ水の 瀬をほそみ
   河原青みて  み草おいにけり

 なきまよう うぶめの橋を わかれきて
   こゆるも 悲し こがらしの森


 はじめ私は新間 樟ヶ谷の農家にいた。対岸は吉津で、そこの山に「姫山」という名をつけた。


 夢にこし 吉津乙女が かえりゆく
   わたり瀬かくせ わらしな川霧

 雪よふれふれ むかいの山に
   小忌のころもと 姫山に
 しんとふれふれ 藁科こえて
   かよう恋路を  姫山に


 私は終戦前後、四年半ほど服織のお世話になった。そして帰京ののちも藁科川をなつかしんでやまなかった。


 冬ごろも はとりおもえば 藁科の
   篠ふく風も 恋しきものを


月間『東海路』東海名店会発行.昭和39年12月号所蔵

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大相撲わらしなぁ場所~♪

2010年10月12日 | 歴史&文化
は、もちろん開催されたことはありませんが・・・・^_^;、遠く江戸時代から、ここ藁科川流域では郷土相撲がとても盛んだったそうです。

先日レポートしたような流域で開催される秋のお祭り(+春も)の境内には、なんと一緒に土俵も設けられて、そこで近隣の村々は言うに及ばず、遠く静岡の市街地のあたりからも力自慢がおしかけて、村はその熱気であふれかえったと「南藁科とその周辺」という書物に書いてありました。

とりわけ、藁科川上流の大川地区では、この風潮が盛んだったそうで、村じゅうあげて力自慢に熱をあげ、勝者・強者への憬れは大変なものであったとのこと。このような雰囲気が、きっと以前このブログの「怪力レジェンド」でお伝えした時雨山丹六伝説を産み出したんでしょうね。

どれだけ盛んだったか、下記の文章にその様子がしのばれます。

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・・・・・
村の若者には一人ひとり四股名(しこな)がつけられ、大川相撲開帳ともなると飛び入りの若者は勿論、近隣からの見物客は村にあふれ、臨時の旅籠(はたご)が設けられたり、諸種の仕度には三日も四日も費やし、客の往来する夜道は峠まで提灯(ちょうちん)の火が連なったといわれます。又勝者に与えられる景品は山となし、一日の取組みではさばききれず、三日間ぶっ通しの大会も珍しくなかったそうです。時には専門の力士や行事を招いたり、腹の上に臼をのせ餅つきの力くらべまでしたそうです(六十年位前まで)。このような愛角熱は終戦時まで続いたそうです・・・(後略)

『南藁科とその周辺』小野田護.昭和54年

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そうやって見ると、神社の注連縄もお相撲さんの回しにみえてきたりして・・・!?



坂ノ神神社の秋祭り

2010年10月11日 | 歴史&文化
「ずっとつづいているよぉ。あの手水の石に書いてあるのは、わたしの祖母の時代のものだから」
と、はじめた参加したお祭りの席で、お隣になったおばあさんへ祭典の来歴を尋ねると、こんな答えが返ってきました。
ずっと続いている、自分も、母も、その祖母の頃からも、ずっとずっと・・・。

昨日は、秋晴れのさわやかなお天気のもと、藁科川上流の坂ノ上神社にて行われた秋の例祭にお邪魔してきました。

青空に高くたつ幟(のぼり)を目印に、坂ノ上・薬師堂に登る石段をそのまま上り詰めていくと、モズの高鳴きがこだまする林の中に、やがて子ども達の声が交じり、山頂の高台の鳥居をくぐると、既に境内には地元の方々が集い、飾りつけられた拝殿では、厳かに式典が進行していました。

一.修
二.一拝
三.開扉
四.献饌
五.祝詞
六.玉串
七.神楽
   座揃・順の舞
   米の舞・弓の舞
   太刀の舞
八.撒饌
九.閉扉
十.一拝

笛と太鼓にあわせたお神楽が奉納され、そのゆっくりしたテンポの踊りと繰り返される音色を目の当たりにしていると、通常の時間の流れのタガがはずれていくような錯覚を覚えます。

神の召し上がったものを頂く直会(なおらい)に当たるものでしょうか、部外者の私にも「おひとつ、どうぞ」とお赤飯とてんぷらやお豆の入ったお弁当が手渡され、お神酒が振舞われました。また子ども達には宝探しが行われ、境内のあちらこちらに隠されたお札を探し回る子どもたちの姿が微笑ましかったです。

境内の周辺を見て回ると、拝殿の横に設けられた湯立釜の前では式典の途中で祝詞が奏上され、その手前に立った無縁仏にお供えする施餓鬼棚には大きなお餅が乗っかっていました。

本殿が天照皇大神(アマテラスオオミカミ)を祀っているということでしたので、左側の小さな社殿は火の神とされる美しい女神、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)のものなのでしょうか?

ちょっとお供え物を覗かせてもらうと、右からゴボウ・ダイコンナ・サツマイモの野菜がのった三方(さんぼう)、次には煮干やワカメなどの海産物がのった三方、続いて、お菓子ののった三方、中央のお酒とお塩、お餅をのせた三方の前は、みかんをのせた果物の三方、そのお隣はアマゴと思われる川魚をのせた三方、そして一番左はじにはレンコン・ニンジン・キュウリの乗った野菜ののった三方が供えられ、山のもの・海のものが盛りだくさん。

また祭典の終盤には、境内に張り巡らされていた五色の色紙で作ったシデが飾り付けられた注連縄が縁起物として配られ、最後には舞の踊り手が拝殿前に躍り出て、天に向かって弓を放つ儀式が行われ、参拝者が落ちてきた弓を拾いあいました。

ここまで来るとお祭りも三々五々の散会。

木漏れ日いっぱいの古(いにしえ)の時間が流れた境内を後にしました。