この写真の風景を前にして「栃沢って“コ・チュウ・テン”じゃねえのかなぁって思う」
(コ・チュウ・テン・・・???)
と音ばかり頭に響いて、全く要領を得ない私に、故事を引いて「コは壷のことだな。チュウは中で、テンはお天とうさん。つまり壷中天とは、壷の中に天が広がっている、一種桃源郷のようなことさ」と、栃沢のお茶農家・山水園のご主人、内野清己さんに教えていただきました。
壷中天、たしかに。
藁科川上流のこの地区を訪れるのは、これが初めてではなかったのに、今回栃沢川を渡った南側の集落にはじめて入ってみると、俄然奥行きの深さのようなものを感じて、びっくりしました。今まで縦にしかみていなかったものを、横から見て、改めてその広さに気づいた時のよう。角度を変えると、そこに違った遠近感を生じる茶室や日本庭園のようなたたずまいをなんとなく感じていたものですから、その実感を、ずばりとピンで刺しとめられた、そんな鋭い言葉でした。
大風が吹き渡った高い秋空のもと、黄色いツワブキの花に出迎えられ、今日は栃沢に山水園さんを訪ねました。
まずは早速招きいれていただき、ご主人自ら淹れたお茶を頂く。円盤型の平たい不思議な形をした急須で、濃いと感じた瞬間にさっさっと舌の奥へと走り去っていくおいしいお茶には、茶菓子の羊羹があうこと、あうこと。お話は、東福寺のかえでの話題から、先日のお茶カフェのふりかえり、果ては経営とはなんぞやに至るまで、縦横無尽の楽しい歓談にすっかりもてなして頂きました。
歓談後はお時間をもらって、集落の中を案内していただく。
その土地の方に、地域を案内していただくほど、幸せなことはありませんよね。
道々、路傍に生える草花を観察したり、「ここは川をせき止めて泳いだ」などの幼い頃の思い出話や書き物では表すことのできない地域の言い伝えなど聞きながら歩く道中は、飽きがきません。
さっとメモ書きした「壷中天」を、帰宅してからインターネットで調べてみました。
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『壺中、天有り』
「漢書」方術伝、費長房の故事によると、昔、中国に費長房という役人がいて、何気なく役所の窓から往来を眺めていると、城壁の下に座って一人の老人が薬を売っている。気になり、仕事が終わってから、老人をたずねる。老人は、横に小さな壷を置いていた。老人は、店をたたんで、壷の中にハッと入って見えなくなってしまった。面白いものを見つけた、仙人でなないかと思い、神秘なものを見せてもらおうと考えた。次の日の夕方、そこへ出かけていって、昨日壷の中に入って消えたところを見てしまったと告げた。是非とも今日は自分を一緒に壷の中へ連れていってくれないか、とお願いした。老人と一緒に、その壷の中へ入って行った。その中には美しい山水があり、金殿玉楼があって、歓を尽くして帰してもらった、という話である。壺中の中に天がある。壺中、天有り。日常の生活の中に一つの別天地を持つことを「壷中の天」という。人間はどんな境遇にあろうとも、自分だけの壷中の天を創りえるものである。壺中天とは、まさに、俗事を超越する一刻の楽境であり、自分の現実生活の中に別天地をもつということである。
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この故事を読んで、思い出した詩がありました。書き出してみます。
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私の理想の国
私が大切にしたいのは、
国の大きさでも、繁栄でもないよ。
まあ言えば、
その国はごく小さくてよい。
人口も、ごく少なくてよい。
その国の住人たちは、
生きることと、死ぬことを大切にするから、
船や車で遠く飛び出して行ったりしない。
少しは武器みたいなものがあったとしても、
誰も使おうとはしない。
商売取引きは、
縄に結び目をつけた簡単な約束で済ませる。
それでいて、食事はゆったりとおいしく作り、
着るものは清潔な布を用いる。
日々の楽しさと平和に満ち足りている。
隣の国は近くて、
犬の遠吠えや鶏の鳴く声さえ聞こえるけれど -
他の国の住民と往来しない。
そして、ずいぶん年をとって、静かに死んでいく。
これ以上のどんな文明に
ほんとうの幸福があると思うかね。
「タオ・・・・・ヒア・ナウ・・・・・」加島祥造訳.PARCO出版.1993
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おもてなしに感謝の意を表して