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大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

神楽の小道具

2012年03月06日 | 歴史&文化
神楽の舞手は、両手に小道具を持っています。何も知らないものですから、この道具の名前を調べてみました。

舞手が手に持って使う道具のことを総称して、「採り物」と言うそうです。採り物には「依り代(よりしろ)」=“神が宿るもの”という意味があるそうで、神が降りてくるための目印なんですね。

右手に持っている鈴の名は「神楽鈴」。働きとしては、神社の正面にぶら下げられている大きな鈴と同じで、その清々しい音色で、参拝者を敬虔な気持ちにすることと、参拝者を祓い清め、神霊の発動を願うものと考えられているそうです。

今は、鈴の音で神の私たちへの気持ちを慰める意味が強くなったと言いますが、もともとは、神楽を舞うことで神がかりした舞手を通じて、神の意志を伝える道具として必要とされたものだったということです。

また左手に持っている棒の先に紙をつけた採り物は、「幣(へい/みてぐし)」または丁寧に言って「御幣(ごへい)」というものだそうです。地元の方がなんと呼んでいたかは忘れてしまいましたが、神が依りつくためのアンテナ、あるいは神そのものの意味があるそうです。幣は、ギザギザに切り込んだ紙を垂らし注連縄や棟飾りとしてもぶらさがっているのを見ますが、あれは雷をデザインしたものなのでしょうか、何かが強い力でふり降りてくる感じがしますもんね。



古い納屋の取り壊し

2012年03月01日 | 歴史&文化
藁科川上流の八幡から右手に入る県道60号線。

昨年の台風15号の影響で、至る所で道が崩れてしまい、その補修作業が進んでいますが、大川地区の立石橋を渡ったすぐ右手のところも、道が半分亡くなってしまう程の被害が出た場所でした。

まさに日向地区の入り口にあたる部分のところで、この度本格的な改修工事を始めるために、う回路を設定するため、そこの部分にあった古い納屋と建物が取り壊されることになりました。

もちろん工事を進めるために仕方のないことなのですが、これまで、この倉庫を見ると地元に帰ってきたという目印になっていたものですから、取り壊しには、一抹の寂しさを感じてしまいます。

建物に向かって変ですが、“お疲れさま”と“ありがとう”を伝えたい気持ちになりました。


郷土の偉人~望月仲太郎~

2011年07月05日 | 歴史&文化
藁科川上流・大川地区・栃沢の公民館には“丸中記念館”という別称があります。

この名前がどこに由来するか知りませんでしたが、栃沢出身で、丸仲鐵工所を創業した「望月仲太郎」氏の業績を称え、その名を冠したことが分かりました。

調べてみると、創業は昭和9(1934)年で、設立は昭和23(1948)年。本社は丸子新田にあり、刃物の研磨機等を生産する木材加工機械メーカーということを知りました。

望月仲太郎氏は、その業績が認められ、昭和46年に黄綬褒章、昭和54年には勲五等旭日双光賞を受賞し、平成5(1993)年に逝去。当時の内閣総理大臣だった細川護煕氏により従六位に叙されています。

現在、栃沢集会所の入り口には、大川クラブさんが50周年を記念して、望月仲太郎氏の業績を称えた碑が建立されています。




釜石峠

2011年06月05日 | 歴史&文化
足久保でお茶の種を撒いた聖一国師さんが、生家の栃沢に帰りつくために越えて来たとされる釜石峠。それ以来幾多の人が往来したこの道はTeaLoadと名付けられ、現在でもハイキングコースとして整備されています。

藁科川上流・栃沢側の林道終点の手前、ハイキングコースの表示があるところに車をとめて、沢沿いの道を1時間ほどのぼりました。途中、ワサビ田の跡があったり、幾分道が悪くなっているところをロープづたいに歩きながら、次第に道は沢を離れて、尾根筋づたいに高度を上げていきます。最後は、人工林の中に2本の大きな杉が現れて、その間にちょこんと座ったお地蔵さま(大正元年作/如意輪観音像)が、優しい微笑をたたえ峠で迎えてくれました。

釜石峠、到着です。

今回は時間の都合で、突先山まではいけませんでしたが、今度はぜひ足を伸ばしてみたいです。

100年前の大川

2011年05月28日 | 歴史&文化
今から100年前というと、時代はだいたい大正時代(1912~1926)にあたります。その頃、この地域はどんな様子だったのでしょうか?

昭和の前の時代の当時の世相を口伝えで聞く、と言うことがほとんど不可能になってしまってきているため、断片的な記録から、その時代の様子を推し量るしか術はありません。

わずかですが、藁科川上流の大川地区の、100年前の暮らしぶりが垣間見られるような記録がありましたので、引用します。

100年後の大川では、一体今の社会がどのように語られているのでしょうか。タイムマシーンにのってのぞきにいってみたいですね。

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*大正6、7年頃の大川地区は、自家製の紙作りが盛んだった。

*坂ノ上の中央橋は、丸太を3、4本繋いだもので、毎年台風で流されていた。また、分校は1、2学年合わせて15名位の生徒数で、当時歌った童謡は、牛若丸・弁慶・桃太郎であったこと。

*その頃、小島から坂ノ上までは天王峠を越え、天秤棒を担いで荷物を運んでいたこと。

*大正10年には、大川地区(坂の上)に初めて発電所が完成し、電灯がついたこと。またその頃の小学校での筆記用具は、石版、石筆で、書物は風呂敷に包み、肩に背負って通学したなど。

*大正11年、坂ノ上分校は小学校2年生までで、3年生からは大川の本校に通ったこと。当時の服装は、絣の着物と羽織、尻切れの草履と穴あき足袋であったこと。

*大正12年頃、初めて坂ノ上に自転車屋が開業、主に中古の部品を組み立てる、自転車販売であったこと。同年秋の関東大地震は、大川でも感じられたこと。

*小学校3年の遠足は大原(片道約20km)まで往復徒歩で、むすび三個を風呂敷に包み、腰に巻いて行ったこと。

*昭和初期の遠足は、徒歩で八幡に集合し、馬車(運賃40銭)で街に向かい、帰りは安西から自動車(同60銭)だったこと。又、もう少し古い話として、安西橋がかかったのは明治5年頃で、大正末年まで2銭の通行料が掛ったこと。その後、昭和5年にコンクリート橋ができ、その工事費が5万円であったこと。

*藁科街道というのは、当時山崎から昼居渡間であったこと。明治末、幅員2m程の大まかな路線が確定。その後大正5年、現在の路線が完成して、物資の交流がかなり楽になったこと。

*大正10年頃、大川街道(八幡~湯ノ島)が幅員3mに拡幅され、荷車が通行可能となり、車力と呼ばれる運送屋が数軒大川に生まれた。

*戦前の道路整備に伴い、自転車でリヤカーを引きながら静岡まで1日で往復できるようになり、戦中・戦後もしばらくはそうであったこと。

*昭和28年4月、路線バスが静岡ー日向間で開通したこと。

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「ふるさと大川の方言」(大川クラブ創立80周年記念事業実行委員会.平成17年)




ぬっと突き出た正体は…!?

2011年05月24日 | 歴史&文化
藁科川上流の大川地区・日向から湯ノ島に向かう道の途中に、藁科川にそって大きく左にカーブする場所があり、その下にえぐられているのがイノ渕です。

その渕に下流側からぬっと突き出たコンクリートの構造物があって、上の車道から覗きこんでは、最初は橋げたの礎石の跡かなと思っていました。

でもそばに降りてみると、それが違うことを発見!(^0^)

写真で見ると右側の部分が、用水の引き込み口であることが分かりました。
どうして分かったかと言うと、今は使われていないので、藪に阻まれてところどころ跡を辿ることが困難ですが、ここを入り口に下流側の日向の集落まで、手積みの石垣で組まれた用水路があったから。

以前は、日向の今の郵便局があるあたりの字名・下島から藁科川に向かっての一帯に田んぼが広がっており、そのための水を、ここから取水していたのではないかと思います。

ところどころに残る石垣が立派で、これも文化遺産と感じました。


屋敷神と屋敷墓

2011年05月23日 | 歴史&文化
藁科川上流・大川地区の日向在住の友人のお宅に別用でお邪魔した際、家の裏に社がある、と聞いてどんなものかと見せて頂くことになりました。

この友人は代々この日向にお住まいの方で、御先祖は村長さんもお勤めになられたという名家。由緒あるお家の裏に回りこんで、20mほど急斜を登ると山の斜面の山腹に大きさ一畳ばかりのお社が祀ってあり、「山の神を祀ったものと聞いている」と教えてもらいました。

その下の台地状になった部分には、いくつかの墓碑があり、その中の戦争で亡くなったご先祖の墓は、以前は地区の陽明寺というところにあったものを、改めて敷地内に引っ越して祀ったものだそうです。

屋敷神と屋敷墓について、地域の歴史を著わした書に以下のような文章がありましたので、引用します。

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『家屋敷と屋号』

日向には、屋敷内に屋敷神と屋敷墓をもつ家々がある。そういう家には屋号がついていて、旧家であることが多い。そして、屋敷墓には初代である先祖をまつる。カジヤという屋号の家では、屋敷神としてカナヤマサン(金山社)をまつる。この家では屋敷神をショイガミといい、先祖が移住してきたときにもってきた神様だと言う。また先祖が刀鍛冶であったという家でも金山社をまつり、庄屋であった佐藤家や土着した小長井家でも屋敷神はやはり金山社であるとする。このように、日向には金山社を屋敷神とする家が非常に多い。鍛冶屋や刀鍛冶のように職業として金山社をまつる家もあるが、むしろ日向では金山社を屋敷神としてまつる習慣があるのではないかと考えられる。

屋敷神の呼称として、ほかにイチヤシロ(一社)という言い方がある。「屋敷の一番隅っこに氏神さんをまつるものだ」といって、これをイチヤシロというのである。つまりイチヤシロというのは、その土地に住み着くときにまずまつる、地の神的な意味を持つとも言える。個人の家の屋敷神に限らず、神官家の屋敷跡ネギヤシキ(禰宜屋敷)は、イチヤシロというところにある。白髭神社は何度か移転を繰り返しており、前述したように仮宮跡がこのイチヤシロである。この場所を字で一谷城と表記しているが、白髭神社は神官家のイチヤシロ(一社)であったという見方もできよう。なお、この屋敷跡には、現在も神官家の屋敷墓が残っている。・・・

『日向の七草祭』静岡市教育委員会.平成18年

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おくり神の行事

2011年05月16日 | 歴史&文化
藁科川上流の大川地区・日向で、今は行われなくなってしまった行事に「おくり神」という祭事があったことを文献で知りました。佐藤篤太郎さんの文章を拝読すると、随分と賑やかな行事であったようですね。

文中に「ミサキ石」とでてきますが、このミサキは、藁科川流域では清沢地区の杉尾などにも残る、地域外からやってきた者が不慮の死を遂げてその怨みが残った悪霊を指すと考えられます。だから大人たちは、みこしに石を投げる子どもたちを目にしても注意をしなかったのではないでしょうか?

写真は、このおくり神の出発点となった總石造りの祠です。


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『思い出のおくり神』

移り変わる時代の流れと共に、今は消えて、昔語りの一つとなりましたが、今から六~七十年前までは、旧幕府時代から続いた(今は町内)挙げての年中行事の一つであった「おくり神」の事について、記憶を辿ってみました。

これは、悪い疫病の神を、内から追い払って年中の無病息災を願う、信仰からの行事なのでありました。

祭日は、旧暦十二月八日であって、当日が近づき、人民惣代(今は町内会長)さんから、おくり神行事執行の旨、お布令が出ますと、村人たちは老若男女を問わず各戸一人以上は行事に参加する「きまり」がありました。又、集まる場所は、現存する陽明寺山門の前にある、境内の鎮守様をお祀りしてある、總石造りの祠の前でありました。

村人は大勢集まると、みんなで行事の準備に取り掛かり、まず、お供え物の仕度やら、「さあ、おれは、なわや七五三(しめ)、或いは、人形作り用のワラを持って来るよ、あんとあh」「おれは、竹を切って来らあ」又「それじゃあ、おらあ杉の小枝を取って来るに」「私は榊をとってくらあ」とか「俺は祈祷者用の『ゴザ』を持って来る、誰か『カネ』と太鼓をさがしてきて」と云う訳で、一同準備にてんてこまいなのです。

又しめ縄造りやら、なわをなう人、手慣れた器用者は、竹と縄を、それに杉の小枝でおみこしを造り、又、その中に飾る馬上の武者人形をワラで造る等など、なかなかに忙しい。

けれどもみんな一生懸命協力して、準備を整えるのでありました。そして準備完了の頃、祈祷者の御出まし。祈祷者は白紙や色紙で、御幣や「シメ」を作り、神前やおみこしへ飾り付け、献供の品々を供えて、御祈祷が始まる。色々の「手振り」を交えての読経、それが終わるまでの時間は、約40分間ぐらい。

その間、村人は祈祷者に従い、しわぶき一つ聞こえない、御祈りの謹慎状態なのでありました。

そして、それが終わると、さあ、一同は祈祷者を先導に、行列賑やかに、長さ一米五〇糎程の長い柄の御幣を打ち振り乍ら、村内へ繰り出し、用意の鉦や太鼓を「ドンドン・チンチン・ドンチンチン」と威勢良く打ち鳴らし、「オオクレオクレ、おくり神を送れ」と、声張り上げて、叫びながらの行進。中には、一同を励ますかの様に、益々大声の老年中年もありで、賑やかさは高潮するので、子ども達は半ば物珍しさと、面白さの気持ちで、行列に参加し大合唱となるのでありました。

そうした行列は、川上方面から、要所を順次に廻り、川下の方へとおみこし担いでねり進み、村はずれでおみこし治めの読経と共に、川へ流し納めて、行事は終わるのでした。

その時、川下へ下るおみこしに向かって、子ども達は、競争するかの様に、大はしゃぎで石つぶてを投げつけるのでしたが、なぜかそれをたしなめたり、止めだてする人は、一人もありませんでした。
このおみこしの納め場は、藁科川とその支流の篭沢川の合流点から、少し川上(百米位」「ミサキ石」と呼ぶ「ピラミッド」型の大石の所で行った事もあると、覚えて居ります。

その大石は(高さ三米余、廻り十米余)、水流の中央部であった為に、切り取って、今は其の残り株だけであります。

余談でありますが、川の合流点は、昔から浜辺に準じた信仰いまるわる処の様に思われます。

今も尚し風習に残っているのもあります。

蛇足ではありますが、行列で思い出した往時の道路は、今の県道・市道・農道・林道など、そのほかの橋梁は、村中に一米も一つも無く、道と云えば全部、人か馬しか通れない位の凸凹のせまい道で、橋はやはり、人か犬位が通るだけ、丸太や枝を編んで造った、但し水の流れを越すだけのものでありました。

現在は消えた送り神の行事、幼年時代のほのかな記憶を辿り、影を慕う気持ちで拙い筆を運びました。おわり

日向 佐藤篤太郎 一九〇一年生まれ
同所 佐藤とら  一九〇四年生まれ

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「ふる里わら科八社 第二集 」(大川寿大学講座受講生一同.静岡市中央公民館大川分館.1980)

藤の衣類フンダコ(藤太布)

2011年05月15日 | 歴史&文化
山の縁に紫の花を咲かせる藤の花は、目には嬉しいのですが、からみつかれている木の方としては、まさにがんじがらめで、たまったもんじゃあないでしょう。フンダりけったりというところでしょうが、そこから名前がついた訳では全くありませんが(・・・)、その藤の強いツルを、昔の人は衣服の繊維として利用していて、その藤の衣類をフンダコ(藤太布)といったそうです。

実物はまだ見たことがありませんが、きっと長持ちする丈夫な衣服だったことでしょう。一度新緑の山にあやかって、藤の衣服をまとってみたいものです。

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(二)藤太布の村

藁科川沿いには、羽鳥(服部)や富厚里(服織)といった織物地名が点在する。羽鳥には建穂神社があり、祭神は馬鳴大明神で、養蚕神である。また日向には、福田寺七草祭で、養蚕の豊作を予祝する「駒んず」と呼ぶ芸能を伝えている。養蚕に関わる地名や芸能を伝える藁科川流域は、早くから養蚕が盛んだったことを窺わせる。しかし、次のような伝説がある。
昔、藁科川の水源地の大間に、砂宮太夫という人物がいた。ある日砂宮太夫は海に出かける途中羽鳥を通りかかると、羽鳥は田植えの最中であった。ところが早乙女たちは、宮太夫の着ているタフを見て、その着物はなんだねと馬鹿にするように笑った。宮太夫は、早乙女たちに、秋の稔りは無いぞと言い残して去った。はたして秋になると本当に羽鳥の稲はみな実がないシイナばかりだった。
この伝説の、砂宮太夫が着ていたタフは、藤の繊維で紡いだ糸を織ったもので藤太布(フンダコ)のことである。伝説では羽鳥の早乙女たちは、砂宮太夫の着ていたタフを馬鹿にしたから、早乙女たちは少なくともタフではない織物の着ものを着ていたことになる。
羽鳥は帰化人の秦一族の流れが拓いたところと伝え、古代には絹織物が盛んな所だったと考えられている。この伝説は、上流部の織物と下流水田地帯の織物とが違っていたことを物語り、藁科川の流域一帯がみな養蚕の文化圏ではなかったことを示唆する。
また、大間は藁科川の水源地にあたり、砂宮太夫という名からして、水源地の祭祀を行う人物だったとも考えられ、水源祭祀をしないと秋の稔りがないということもまた示唆している伝説である。清沢も明治から大正時代まで養蚕が盛んだったというが、タフの織物もよくしたところである。山間部の農作業には丈夫なタフが必需品だったのだ。

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「安倍・藁科の神楽 -清沢神楽・梅ヶ島神田神楽・有東木神楽調査報告書ー 」
(清沢神楽保存会・梅ヶ島神田神楽保存会・有東木芸能保存会.2003.P35)


黄金のルート

2011年05月14日 | 歴史&文化
写真の左下の赤い屋根の見える集落が藁科川上流の「崩野」で、その上の濃い緑をしたこんもりした山の頂きが「智者山(標高1,291m)」です。そして、その稜線を辿って写真右側のぼこぼこした山の峰の一番高い頂上(分かりにくいのですが・・・)が「天狗石山(標高1,361m)」となります。

さて、このどこにでもありそうな山の稜線が、かつて"この峰々を黄金の金が行き交っていた"ということになると、ちょっと見る目が変わりませんか?

この尾根筋はかつて「川根街道」と呼ばれ、お隣の大井川筋・接阻峡で採取された金を駿府にまで運ぶ道筋だったそうです。写真には見えませんが、この崩野という集落の左隣にあった「八草」という集落は、その関所になっていたとか。

今はひっそりとした山の道を、右へ左へとたくさんの人や物が行き来していたのかと思うと、ちょっと不思議な感じがします。

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藁科川と黒俣川が分かれるあたりに、昼居渡の集落がある。ここから尾根筋を登り、八伏ー蛇塚ー洗沢ー富士城ー馬込ー智者山ー天狗石山ー長島ー梅津と、大井川の峡谷にある村々と藁科川を通じて駿府を繋ぐ道を「川根街道」と呼んでいた。この道筋は、梅地や犬間という接阻峡の村々で盛んに採金が行われていた戦国期から江戸時代初期には、物資の輸送路として重要な役割を果たしていた。また、中世には、足利尊氏の命を受けた今川範氏の軍が、足利直義派の佐竹兵庫入道や藁科某、鴇彦五郎などが篭る徳山城を攻略するために軍を進めた山道でもあった。

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「安倍・藁科の神楽 -清沢神楽・梅ヶ島神田神楽・有東木神楽調査報告書ー 」
(清沢神楽保存会・梅ヶ島神田神楽保存会・有東木芸能保存会.2003.P34)


風の鳴る峠

2011年05月08日 | 歴史&文化
かつてたくさんの人が、ここを目指し、ここで休み、ここで手をあわせ、ここを急ぎ、ここを横目に駆けくだって行ったに違いありません。

藁科川上流の大川地区・諸子沢から、お隣り安倍川筋玉川地区・横沢へ抜ける峠「一本杉」に行ってみました。

諸子沢地区の一番奥・大道島集落の道が切れる堰堤で車を置き、諸子沢川にかかる木橋を左岸に渡ってスタート。杉やヒノキの人工林の中を、途中源頼朝が、わが身の吉凶をうらないため切りつけたという謂われのある頼朝石や、ゴロリと斜面に転がった大きな岩、いくつかの小さな沢を渡渉しながら歩くこと約1時間。うなるような強い風が吹き込む峠の木立の中に、巨大な一本杉が現れました。樹齢200~300年ほどあるのでしょうか、枝を大きく張り出した杉の根元には、長年の風雨に耐えて目鼻がおちのっぺらぼうになったものと、首がとれたお地蔵さまが二体。また、杉の成長にすっかり幹に抱きかかえこまれ、持ち上がってしまったて大正8(1919)年作の山神社の石碑などが祀ってありました。

行き交う旅人の昔の姿を想像しながら、昼食をとる。その後は、横沢側へ200mほど下ってみたり、往復45分程度のピストンで、標高1.023mの天狗岳にも登ってみながら、いろいろな山道をまた歩くことができればと思いました。

八草神明社の跡

2011年05月05日 | 歴史&文化
藁科川上流の廃村、八草を再訪しました。

地図には社のマークがあるのですが、以前訪れた時には確認できなかった八草神社を探すため、行き止まった道に車を止めて、右手の尾根部に回り込む。すると20~30メートル登った地点に、真新しい八草の名家である高橋家の墓碑がありました。その周辺には、崩れた墓碑が散乱していました。

尾根部の人工林の中をそのまま登って、見当をつけていた台地状になった周辺を探してみましたが見当たらず、しばらく左手の方に続く尾根を歩いて行って鞍部のようになった地点で、足元に石段の跡を発見。
明らかに周囲の杉・桧の木立とはことなり、雷にでもうたれたのか、腐食した木々に取り囲まれた高台に、四角に並んだ礎石を見つけることができました。

多分、ここが八草神社の跡なのでしょう。

かつては参道を登り、人が集い、神楽が奉納され、地域の人々が手を合わせた場所。私たちの来訪を歓迎するかのように、さーっと雲間が切れ、光が指しこんだのが印象的でした。


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『八草神明社』

いにしえのこと、神社の裏山に杉の大木があって女神がいた。また、その向こう側の峰の中腹には池があって、ここには男体の竜神がいた。ある時、農家の女がこの池でタヤの汚物を洗った。竜神はこれに怒って女神と共に立ち去った。それからは池が枯れて山地となってしまった。今もここを池の段といっているが、ここの地形はやや窪んでいて大雨があると、水が一杯になる。また、大杉は山頂より二、三町(約二二○~三三○㍍)下った所にあって、夕日に照らされたその影は三十余町(約三・三㌔)も隔たった楢尾に達したという。

老杉の所在地は、今の崩野地内に属していて通称を女杉という。老杉は女神の去った後、おのずと倒れてしまったが、神木であるので人々は恐れて伐採する者もなく、その一部を氏神の社殿の用材に使ったのみである。

なお、志太郡東川根村智者山の大野神社の前に立つ観音は、この神木を用いて行基が彫ったものである。この大野神社は、往古には大野郷大野神社と称して大化三年(六四七)丙未の年三月に祭られた。祭神は猿田彦大神であった。社地は元は大野が岡にあったが、中古に、社地の北の方角に十余町(約一.一㌔)隔たった智者山神社の社地が神慮にかなったとの夢の告げと、毎夜、大野が岡からここへ火の玉が通ったと云うので現在の場所に移したのだと言う。

ある時、賊軍が乱入していたるところの人家を焼き、貨物を掠奪し崩野を過ぎ、八草に入ろうとした。村民は防ぐ力がないので、山林に逃げ隠れた。高橋家の祖先某は焼かれるよりは自ら焼く方が良いと障子を積んで火をつけたが燃え移らない。火種もなくなったので氏神の社殿に詣でて、賊軍の防御を一心に祈念し、大樹によじのぼって情勢をうかがった。その時、賊は荒らしに荒らして八草に押し入ろうとした時であったが、突然、神殿が振動し、異様な響きが起こり、向かいの山の峰の方でも山が崩れるような大声が上がった。賊軍はびっくりしてあわてふためき、食器を土の中に埋めてどこかへ逃げ失せた。高橋某は安心して樹を降り神殿を見ると、神殿の扉が開いていた。食器を隠した所を、とう椀ぼつと言い、中古、ここから異様な椀を掘り出したことがあったという。こうした次第で、氏子はますます尊崇の念厚く、年々祭事を怠らないという。(美和村誌)

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「藁科物語 第4号~藁科の史話と伝説~」(静岡市藁科図書館.平成12年)

大川地区の近年の地域おこし活動

2011年04月20日 | 歴史&文化
意外に最近の出来事についてまとまった資料が見当たらず、それならばということで、あちらこちらから抜き出し、地域の皆さんにも伺いながら、藁科川上流・大川地区の近年の地域おこしに関係するような活動や出来事を、年代順に並べてみました。

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1979年(S54)
    「ふるさと藁科八社」発行(~1981年第三集まで)
    「大川中学校体育館」完成
1989年(H元年)
    「大川の屋号と屋印」発行
    「大川の茶を考える会」発足
1990年(H2)
    「第1回大川夏祭り」開催@坂ノ上
1991年(H3)
    「摺墨庵」設置@大間
1992年(H4)
    「お茶しま専科」結成
    「大川運動会/小学校・中学校・地域」合同開催化
1993年(H5)
    「大川地域振興協議会」発足
    「楢尾小学校」休校@楢尾
1994年(H6)
    「湯ノ島温泉・玄国茶屋」オープン@湯ノ島
    「グリーンティー大川茶農業協同組合/茶工場」完成 
    「ティーロードハイキング」開催@栃沢
1998年(H10)
    「大川地域振興協議会/ティーロード事業」着手
    「聖一国師八百年記念事業実行委員会」設立
2000年(H12)
    「第1回大川収穫祭」開催(以後、毎年実施)
    「草庵/茶室」の完成・お披露目会開催
2002年(H14)
    「聖一国師生誕八百年」
「大川高齢者生活福祉センター」開所(4/15)@日向 
    「絵本/聖一国師」発行
    「聖一国師」発行
2005年(H17)
大川クラブ創立80年記念事業「ふるさと大川の方言」発行
    「栃沢茶を育てる会」結成@栃沢 
2007年(H19)
    「大川地区活性化研究会」結成
2008年(H20)
    「縁側お茶カフェ」スタート@大間
    「はばたけ大川」結成
2009年(H21)
    「乗り合い買いものツアー」開始@崩野・楢尾・大間
    「奥藁科Webの会」結成
2010年(H22)
    「静岡市移住促進対策事業」移住者受け入れ@日向
    「大川中学校グラウンド」芝生化@日向 
    「芝生でお茶カフェ」開催@日向
2011年(H23)
    「大川地域振興協議会」再発足
    「楢尾青少年の家」休所@楢尾

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あかあかと・・・

2011年03月31日 | 歴史&文化
藁科川上流の諸子沢のその奥の奥、大道島という集落に今も炭をやいていらっしゃるお宅があります。そこで実際に炭を焼いているところを見せていただくために前回に引き続き再度訪問さえていただきました。丁度炭材を詰めて、焚きつけはじめた段階で、窯の口には赤々と炎が燃えていました。生活にも上手に炭をとりいられていらっしゃるお宅で、まさに最先端のエコ生活です。

CD化を夢見て~大川音頭~

2011年02月27日 | 歴史&文化
この大川音頭がCD化されて、夏祭りや湯ノ島温泉などに流れる日を夢見て。


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『大川音頭』

作詞:勝見惣太郎
編曲:杉山孝雄

1.七ツ峰から藁科くだる
  トコザーンザ キワザーンザ
         ホラ 水は暮らしの宝水ヨーォォォ
         ホ ホ ホーイ ホイ
            (ヤレコラサンノチョウシデ)
         キワザーンザ トコザーンザ
         ソレソコダニヨー ホ ホ ホーイ ホイ

2. 茶祖の国師は京都の寺へ
   名馬スルスミゃ鎌倉へ

3. 七十五間の大間の滝は
   男だき女だきの福養滝

4. 海で育って登った鮎が
   奥の山女と味ばなし

5. あゆも山女もきらいじゃないが
   わさびやまぐろの妻になる

6. 出るの出ないので村中がさわぐ
   春はきのこで夏は茶で

7. 義理と人情で索道くだる
   杉と桧はどこへゆく

8. 西の天狗石山(てんぐやま)ハナ高天狗
   東天狗岳ハスばかり

9. 春は七草 豊年まつり
   茶の実ひろいとだれたゆッた

10. 月の八日にゃ薬師さんへまいろ
   薬師やくよけ やまいよけ

11. こないだおおきに夏また いじゃよ
   河原(かわ)へいっぱしりゃ ごせっぽい

12. 唄の文句もそろそろつきた
   茶山ぼつぼつ日が暮れる

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「ふるさと大川の方言」(大川クラブ創立80周年記念事業実行委員会.平成17年)