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大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

渕の名前

2010年10月04日 | 歴史&文化
「今日は○○渕で遊ぼうか」「明日は××渕で魚とりだ」

子どもの頃の遊びを地元の方に聞くと、川遊びに行く際は渕の名前を言い合い、その渕ごとに遊び方も決まっていたそうです。

「○○渕で、アユをたくさん採った」「××渕では、でっかいウナギがかかったこともあった」

と昨日のことのようの語ってくださる様子には、ほんとうにそんな川で遊んでみたかったなぁ、と思わせられます。

それぞれの渕や瀬に名前がついていたことは、川と暮らしがつながっていた昔の方にとっては当たり前のことなのでしょう。けれども、近くの川と言えば、人を遠ざける三面護岸のコンクリートで、瀬も渕もなくまっすぐな上、“遊んではいけない”川のそばで育った私としては、そのこと自体も、とても貴重なことと思えるのです。

昨日、日頃懇意にしていただいているお隣のトシさんが「よぉっ」とやってきたので、日向近辺に残る渕の名前を伺ってみました。すると「ニヤリ」と頬をゆるませ、すらすらっと上流側から渕の名を紹介してもらいました。
忘れないうちに記録しておきます。


【ネコ渕】
諸子沢川との合流点の下流側で、県道60号線沿いに建っている小さな祠よりやや上流にある渕。トシさんもその名の由来は分からないとおっしゃっていましたが、東北地方などの河川の渕名に残る“猫”渕か、幼い子どもが落ちて亡くなった“ねんねこ”渕が短くなったものでしょうか?

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・・・・また(日向・道光渕の)近くに、嫁さんが自殺した嫁とり渕、子どもが落ちて死んだねんねこ渕もある。ねんねこ渕には大きな穴があり、これがやまさ渕にある穴と通じていると言われ、川を流していた材木がねんねこ渕で消えてしまい、やまさ渕に現れたという話しもある。

『安倍川流域の民俗』静岡県立静岡高等学校郷土研究部.昭和55年
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【マラ渕】
小さな祠の横にある渕。車道側からはよく見えませんが、河道からだと大きな石が斜めに立ち上がっているとのことで、その様子を男根に擬してついた名前だそうです。


【イノ渕】
ガソリンスタンドを過ぎて、日向の集落が途切れ、湯ノ島に向かう県道が左に大きくカーブする地点にある渕(写真参照)。近くの川岸には、親水式の階段が整備されていて、車道の対岸は、地名に城山と残るかつての山城跡があります。
トシさんのお話しだと、その昔、この城山と現在の大川中学校の裏山の高台にある「矢上げ辻」というところで、矢を放ちあった戦があり、中学校の体育館あたりに矢が落ちたことにちなみ、そこを「矢下」と呼んでいたそうです。


【シロダイ渕】
やはりお城と関係しての名前でしょうか、イノ渕よりやや下流側にある渕の名前です。


【カマ渕】
以前、このブログでも紹介した不動沢との出合いにある渕で、現在大川小学校の川開きはここで行われています。
かつては、この渕の上流側の左の岸に「タタミ石」という、子どもが10人ほど寝そべることができるような大きな平べったい石があったそうで、トシさんもその上にのって遊んだと教えていただきました。


ベールの下の「よきかなっ!」

2010年10月01日 | 歴史&文化
宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の中で、主人公の千が働く温泉宿に強烈な悪臭を発するすごい化け物がやってくるシーンを覚えていますか?

オクサレ様といって、川に流されたありとあらゆる汚物を飲み込み、悪臭をまきちらすドロドロのヘドロのような姿となって湯場にやってくる訳ですが、主人公・千の献身的な世話のかいあり、一転!。全ての汚れを吐き出して、最後に「よきかなっ!」の言葉を残し、白髭の好々爺の姿となって飛び去っていきます。

白い髭の人物は、川の神様である白髭神社をモチーフに擬人化したものだと考えられますが、藁科川を含む安倍川流域には、この白髭神社が圧倒的に多いそうです。

ちなみに、藁科川上流の大川地区・清沢地区にある神社を書き出してみると、実に23の神社の中で、約3分の1の8つの神社が白髭神社となり、その多さが分かります。

なぜ白髭神社が、これほど多いのかについてはいろいろな説があるそうですが、一番広く言われているのは、ふるく朝鮮からの渡来人が定着した証拠であるという説だそうです。

羽鳥(はたおり)や富厚里(ふくおり)などの地名や、建穂神社に祀られた養蚕の神である馬鳴明神の存在、またで古くから伝わる七草祭りの演目の中で養蚕の場を再現するような「こまんず」の踊りが残っていることなどは、古く絹糸を産する技術を擁して渡来した秦氏が、流域一体に住み着いたからではないかと言われていますが、はっきりとした確証はありません。

白髭神社の秘密は、未だ謎のベールに包まれたままです。

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【大川地区】
大 間 白髭神社(猿田彦命)
楢 尾 天 満 宮(天穂日命)
八 草 神明神社(伊佐那岐命・伊佐那美命)
崩 野 白髭神社(猿田彦命)
湯ノ島 飯綱神社(保食神)
諸子沢 白髭神社(猿田彦命)
日 向 白髭神社(猿田彦命)
栃 沢 子安神社(天八下魂日命・天御中主命・水速女命)
坂ノ上 坂ノ上神社(天照皇大神・木花咲耶媛命)

【清沢地区】
小 島 天 満 宮(天穂日命)
鍵 穴 八幡神社(誉田別尊)
坂 本 清沢神社(瓊々杵命)
寺 島 白髭神社(猿田彦大神・稲田姫・金山毘売神)
赤 沢 山之神社(大山祇神)
杉 尾 子 神 社(大国主命)
黒俣・中塚 子神社(大国主命・須佐之男命・埴安姫命)
黒俣・中村 白髭神社(猿田彦大神)
黒俣・久能尾 大渡神中亜・佐久地神社(瀬織津姫命)
黒俣・光野 白髭神社(猿田彦命)
黒俣・峰山 子神社(大国主命・菅原道真公)
相 俣 白髭神社 (猿田彦大神)
昼居渡 天 満 宮(菅原道真公)

『安倍川流域の民俗』(静岡県立静岡高等学校郷土研究部、昭和55年)

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シャル・ウィ・盆踊り?

2010年09月29日 | 歴史&文化
季節はずれの話題になりますが、娘に「この夏、一番楽しかったのは?」と聞くと、「盆踊り!」という答えが返ってきました。

これまでも、相当踊りの輪の中には入ってきたつもりでしたが、成長と共に、音に合わせて体を踊らせるということが自分なりにしっくりくるようになったのでしょう。また、これまで家族中心だったのが、同年代のお友達と一緒に輪の中に加わったことも、彼女の印象に残った原因かもしれません。

以前このブログでもレポートした通り、藁科川上流の大川地区での盆踊りは、今は8月13日の夜に、「大川夏祭り」として坂ノ上で開催されています。

今でこそ一箇所ですが、人も多かった昔は、どうやら、それぞれの地区でオリジナルスタイルの盆踊りが行われていたようです。地元の歴史に大変お詳しい方に伺ったところ、藁科川最上流部の崩野というところでは、駿府城の築城を祝ってのことか、頭に塔型の冠をつけた盆踊りが行われていたということでした。どんなイデタチだったのでしょうね。

また、「安倍川流域の民俗」という本を見ると、同地区の日向という地域でも、明治の末年まで、男女一緒に七七七五調のしゃれた文句をいくつも歌いついでいく形の盆踊りが踊られていたとのことで、今で言う「踊りませんか(シャル・ウィ・ダンス)?」という誘い文句に「ササラをすらず」と言ったとあります。ササラとは、細い木や竹をつなぎあわせて作ったもので、有東木の盆踊りのように本来はこのような道具を持って踊ったようです。

今では踊る姿や節回し、誘い合う様子もなかなかイメージできませんが、歌詞の部分が記録されていたので、少しでも当時の盆踊りを再現するため、先の文献を引用します。

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『大川型盆踊り』

ササラをする
大川地区の日向で、かって昔風の盆踊りをやろうという時に、「サラサをすらず」といった。有東木などで使われているササラの話しをしても、そのようなものは見たことがない、という返事が返ってきて、実際のササラは全く伝えられていないが、かってはササラを使用したにちがいない。・・・(中略)・・・
ここの盆踊りは土地の人が「ハウタばかりだっけ」というように、短い詞章を次から次へと思いつくままに歌っていくもので、男女混合で輪を作り、締め太鼓に合わせて、ミセのカドのような広い所で踊ったという。諸子沢では寺でやったそうだ、という話しも聞かれたが、実際に諸子沢では確認できず、ただササラという言葉は聞いたことがある、という程度だった。その他、坂ノ上・栃沢でもかっては類似のものがあったようで、清沢地区の小島(大川の下流にあたる)で行われていたものも、このタイプに属すようである。太鼓を打つ人や歌出しに特定の人が決まっていたわけではないが、日向ではやはり歌の上手の血筋みたいなものもあり、親子揃って上手だった、という家もある。だいたい大正時代頃までで、古い盆踊りは踊られなくなってしまったようだ。次に日向に伝わる詞章を掲げておく。

<日向の盆踊り歌詞章>

お月ゃちょいと出て 山の腰を照らす
金のかんざしゃ 髪照らす

盆にゃおいでよ 彼岸にゃ来でも
死んだ仏も 盆にゃくる

盆が来るそで 蓮の葉が売れる
わしのかわらけ まだ売れぬ

恋にこがれて 鳴く蝉よりも
鳴かぬホタルが身を焦がす

ぽんとたたいた 太鼓の音に
あの世この世の戸が開く

わしが上手で 歌うじゃないが
音頭出す衆の息休め

この他にももっとたくさんの詞章があったし、中には即興で気の利いた文句を作った人もいたに違いない。右の内、最後の歌は、歌出しが交代する時に歌うもので、こうして歌い手をかえては次々に踊りついでいったのである。

『安倍川流域の民俗』静岡県立静岡高等学校郷土研究部.昭和55年

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盗人日和

2010年09月22日 | 歴史&文化
今夜は月がこうこうと射す十五夜さん。

そんな夜、堂々と“泥棒”ができると聞いたら、ドキドキしませんか?
それも子どもだったら。

あるんです、そんな夜が!

中秋の名月の今晩、藁科川上流の大川地区で「盗人番(ぬすっとばん)」という伝統的な行事が行われました。この「盗人番」を知らせるチラシから、その内容を抜粋してみましょう。

「お月見会(盗人番)のお誘い
今年は9月22日が『中秋の名月』です。
おじさんたちが子どもの頃、お月見の夜は縁側にすすきを飾り、だんご、お酒、里芋、栗、柿などをの供えて、秋の収穫に感謝しながら、月を眺めました。
そして、子ども達はよその家に行き、供えてあるだんごや栗などに手を合わせ、だまって袋に入れ盗んできました。
それでも、この晩だけは大人たちは何も言わず、見て見ぬふりをしていたので、毎年このお月見が楽しみでした。
お月見は9月22日の夜の7時ごろ、次のおじさんたち○○さん、○○さん、○○さんがそれぞれの家で待ってるよ。」

ということで、我が家もささやかながら、月にお供え物をして、袋と懐中電灯を片手にした娘達を、地域の盗人の親分・・・ではなく引率してくださる大人の方に預け、見送ってきました。

かつては盛んだったこの行事も、一時は子どもが少なくなって中断してきた時期もあったのですが、今回私たちの地域では、我が家が入居したこともあって、地元の方々がこの取組みを復活してくださいました。感謝・感謝!です。歴史に大変お詳しい小学校の校長先生によると、江戸時代よりも前の風習が、こうして残っているのではないかとおっしゃっていました。

月を愛でる。感謝の気持ちを捧げる。神様の使者である子ども達にそれを与える。

ささやかながら、この行事が伝える基本的な態度は、忘れてはならないとても尊い振る舞いを今の私たちに伝えているのではないでしょうか。

木枯の森

2010年09月20日 | 歴史&文化
先日の12日、藁科川下流の羽鳥で「羽鳥八幡神社祭典」が行われたとの記事が、静岡新聞に掲載されていました。

このお祭りは、日頃は同地区の八幡神社に祀られた「ご神体」を神輿に乗せて、藁科川の中洲にある「木枯しの森」へ年に1回、本家帰りさせるというもの。当日は、地域の男衆約20名が神輿を担いで、八幡神社から1時間半かけて町を練り歩き、最後は掛け声と共に藁科川を渡り切り、木枯しの森へとご神体を届けます。

中州にこんもりと森が残った木枯しの森の景観は、今も昔も人々の目をひきつけます。

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『木枯の森(こがらしのもり)』

藁科川最下流牧ケ谷橋の上の中州にある直径100m、比高10m足らすの基盤岩の小丘を覆う森。牧ケ谷の山の先端が中州に取り残されたものと思われるが、羽鳥地区に帰す。現在も橋がないため、中洲に渡るには川越えをしなければならない。昭和29年、県の名勝地に指定される。
丘頂には木枯八幡宮が奉ってある。また本居宣長撰文・佐野東州書による名碑「木枯森碑」(天明7年(1787)建立)、駿府の儒医で国学者でもある花野井有年の「ふきはらふこずゑのおとはしづかにて なにのみたかきこららしのもり」と刻した歌碑がある。
既に平安中期の勅撰和歌集『後撰集』に「木枯しの森の下草風はやみ人のなげきはおひそひにけり」(巻9)、『古今和歌六帖』にお「君恋ふとわれこそ胸を木枯しの森とはなしに蔭になりつつ」の歌が見える。『枕草子』(能因本)では「森は大あらきの森。しのびの森。ここひの森。木枯の森。・・・」(115段)と讃えられている。この「木枯の森」を山城国(今の京都府)にある森とする説もあるが、『新後拾遺集』巻11の「人知れぬ思ひするがの国にこそ身を木枯の杜はありけれ」(読人しらず)などは正にこの森で、以後も駿河国の歌枕として詠まれた和歌は少なくない。
古来より羽鳥・牧ケ谷・山新田・建穂・産女新田との間で、その所有権について争われて
きたが、服織村名主の石上藤兵衛(1724~91)の取計いにより、以後は羽鳥村に所属するようになった。
川の中洲にあるため近年侵食が激しく、平成2~3年護岸工事が行われた。
毎年旧暦8月15日に羽鳥の八幡神社から八幡様が木枯の森へ「本家帰り」する祭りが行われる。

『藁科物語 第3号~藁科の地名特集~』(静岡市立藁科図書館.平成6年)より抜粋

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「薬師如来」とは、どんな仏様?

2010年09月11日 | 歴史&文化
地域の仏様への理解を深めるため、先日、薬師堂に訪問した際に見せていただいた、平成22年8月に宗野勘次郎様より寄進された“『薬師如来』とはどんな仏様”という史料を掲載させて頂きます。

薬屋さんではなく、お医者さんだったのですね。

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『薬師如来』とはどんな仏様

 如来像の中でただひとつ持ち物を持つのがこの薬師如来です。右手は施無畏印(セムイイン)、左手は与願印(ヨガイン)にして、この左手に薬壷を持っています。でも、薬剤師ではなく、今でいえば医師の意味です。ですから病気を治すのが第一番のご利益になります。『大医王仏』とも呼ばれる根源でもありましょう。
(坂ノ上薬師如来は眼病を治す御利益があります。)
これは薬師如来十二大願の一つである「除病安楽」からきています。除病安楽とはどんな病気でもすぐに治してしまうという宣言なのです。
 十二大願とは薬師が如来になるため修行をしているときに立てた誓いのことで、その全てが叶い如来となり、はるか東方に浄瑠璃光世界を開き、その国の教主となったのです。ですから薬師瑠璃光如来とも呼ばれています。
 十二大願のいくつかを見ましょう。
「諸根具足」。これは障害を持つ人の身体が正常に戻るということです。
「欲求満足」。あらゆる生き物が自由自在に活動できるようになる。
「苦悩解脱」。いろいろな悩みや苦悩から解放する。
仏の道に近づきたいと願う人には、仏道に導くという意味の「安立大乗」、地獄に落ちないように正しく指導してくれる「具戒清浄」。おいしいものが飽きるほど食べられる「飽食安楽」。美しい衣服が着られるようになる「美衣満足」などなど・・・。
 健康で長生きしたい。また死後の世界を約束されるよりも、今現在をいかに元気で楽しく生きるかが、日々の生活に追われる人々の願いであり、この切実な願いを叶えてくれるのが薬師如来なのです。

平成七年二月八日
坂ノ上薬師如来保存会

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坂ノ上の薬師堂について

2010年09月10日 | 歴史&文化
先日8日の法要を訪ねた坂ノ上の薬師堂について、史料から抜粋します。


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『坂ノ上薬師堂について』

薬師堂は、現在無住のお寺で、地元坂ノ上の町内会が管理し、毎月八日の縁日には、更に上流の日向地区にある陽明寺の住職により法要が行われています。この創建についての文献史料は全く残されておらず、確実なことは分かっていません。地元の古老の勝見惣太郎氏(故人)によると、奈良時代に付近の豪族坂上氏によって行基菩薩(668-749年)を開山として建立、江戸時代には向陽寺の境内に再建されたと言います。寺はその後荒廃して無住となり陽明寺の末寺となりますが、薬師堂は安政元年(1854年)に失火により焼失し、さらに寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となりましたが、現在のお堂は昭和四年(1929年)に再建されました。

薬師堂のあったと伝えられる向陽寺については、江戸時代の史料にその記述を見ることができます。
文政3年(1820年)桑原獣斎編『駿河記』には、
○曇華山向陽寺 洞家 日向陽明寺末在西
 本尊地蔵 木仏薬師大像長一丈許
 (他に)三拾三体行基大士作
とあり、さらに天保六年(1835年)新庄道雄編『修訂 駿河国新風土記』では
向陽寺
 禅 曹洞宗 日向陽明寺末
 本尊 薬師如来
  此本尊 木仏にて長一丈余の大像なり
  寺説に行基の作と云伝ふ
とあり、開山については触れられていませんが、安置仏の作者をいずれも行基としています。
 また文久元年(1861年)駿府浅間新宮神主中村高平の著『駿河志料』によれば、
 【向陽寺】同寺(陽明寺)末、曇華山と号す、西にあり、本尊地蔵、薬師高一丈木像
  三十三体の仏像を安置す
とあります。現在薬師堂に安置される中尊の薬師如来と他の古仏群は、その法量(仏像の大きさ)や制作年代なとから、一揃いのものであったとは考えにくいが、『駿河記』の編纂された文政年間には、すでに同じ場所に安置されていたものと思われます。

昭和四年に再建されたという現在の堂の建物には、中央に薬師如来、左右に古仏群が雑然と安置されています。中尊の薬師如来は現在も「目の神様」と呼ばれ、年齢の数だけ「め」の字を書いた紙を奉納すると眼病に霊験があると信仰されています。これと同様に「目」「め」の字を奉納する祈願方法としては福島県地方の例が紹介されています。(後略)

~『坂ノ上薬師堂諸像について』(福田泰之.平成9年)より一部加筆して引用~
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薬師堂の例会

2010年09月08日 | 歴史&文化
9月に入っても続いていた暑さに、恵みを与える台風の雨。
今朝は七時、降り始めの小雨の中を、友人からの紹介で、毎月8日に行われている坂ノ上の薬師堂の例会を見学しに伺いました。
麓に車を止めると、山の中腹から、雨で湿った空気の中を、読経の声が低く響いてきます。
参道の石段をあがると、いつもは閉まった扉が開け放たれて、右に町内の当番の方が3名、左に御詠歌を吟じるご夫人の方2名と、真ん中の陽明寺の住職さんを挟み、一緒にお念仏を唱和されていました。

声と木魚と鐘のアンサンブルが、眼下に見渡す雨の坂ノ上の町内へ染み渡っていきます。

境内の中は10畳のほどの広さでしょうか、正面にいまだ金色の光が失せていない薬師如来さんが鎮座し、その両サイドを15の木像たちが脇を固めていました。
10分ほどの読経の後に、「あとは、よろしく」との声をおかけになって住職さんは退席し、続いてお二人のご婦人による5つのご詠歌が披露されました。

薬師如来のご栄光をたたえるような詞に、耳の底に残る鈴と鉦(しょう)の凛とした音色。

ご詠歌が唄い終わって、「おつかれさまでした」の声に、全体で25分ほどの例会が終わりました。
私の方から自己紹介と今日の訪問動機をお伝えすると、そのまま居残っていただいて、壁に貼ったメの字の張り紙のことやこの薬師堂の由来などについて、いろいろと教えていただきました。
前日には周りを掃き清められたという清潔なお堂の扉を閉めながら、「残していくのは、なかなか大変だな」とポツリ。
決して声高ではないつぶやきに、伝統を守っていくことの重みを感じると共に、守ってきたことに対する地域の方々の矜持・誇りを感じた一言でした。

山里の廃村・八草

2010年09月02日 | 歴史&文化
藁科川の最上流の人が住まなくなった山村・八草(やくさ)を訪ねてみました。

温泉のある湯ノ島を通り過ぎ、欄干に「縁側お茶カフェ」の横断幕がかかる湯島大橋の手前を左に入る。
直にカーブミラーと長い立ち話をしているような立派な庚申塔をパスし、続いてY字路の真ん中に「楢尾青少年の家」の看板がにょっきりと立つ分岐点を再度左の「崩野」方面に曲がり、しばらく一本道の山道を走ると、崩野の集落に渡る橋の手前を「登り尾」という地区に向かう道が左に鋭角に曲がっていて、一段と狭くなった道をギアを落として登っていきます。
左手には、折り重なった山々の中腹に楢尾の集落が見え隠れし、路肩がくずれたダートを慎重に通り過ぎると、やがて道が途切れ行き止まりとなりました。

「八草」です。

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「八草」
藁科川上流の崩野川右岸の智者山の中腹の山間に位置する。智者山神社と深く関わった集落。八草の大家の高橋家(本川根に移住)の祖先は、智者山神社別当職を世襲した。当地は戦国期、井川金山へ通じる重要な拠点として歴史がある。また慶長6年(1601)の高橋家文章によると、井川金山の出入りを監視する番所が智者山に置かれ高橋氏がその役を勤めた。
「藁科物語第3号~藁科の地名特集~」
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車をとめた道の終点からのわき道を5メートルほど登ると、すぐに畑とセットになった家屋に出くわす。その辺り一帯は切り開かれて、「こんにちは」といえば、中から人が出てきそうな比較的新しい感じの家で、家主の方が茶畑や畑の手入れに通いで使っている様子でした。
森の奥から「あおーうぁおー」とのアオバトの大きな声が誘っているようで、山腹をトラバースするような山道を入っていきました。
すぐに2件目のお家に出くわし、こちらは古くなった家屋の横にハチ箱が備え付けられてあって、ブンブンと羽音を立てたミツバチがびっしりと密集していました。目の前には背丈以上にのびきったお茶畑。そのまま道なりに更に奥へと入っていくと、途中小さな沢を渡たり、放棄された茶畑に囲まれた三軒の家が並ぶ最後の廃屋に辿りつきました。
眺めがよく、夏の雲がもくもくと立ち上がり、裏手には雨乞い信仰の山として知られる智者山の山腹が広がっていました。
炭焼き小屋のようなものも残り、この景色を見ながらほぼ自らの手で自給して暮らした山里のかつての生活に、思いを馳せる。
帰り道では、斜面を駆け上がる2~3頭の山ザルと出会い、威嚇するような奇声に、人の気配が消えつつある廃村に、急速に自然の支配が手を伸ばしてきている実情を思い知らされたよう。
踏み分け道を見つけ、少し山の方へも足を伸ばしてみましたが、社殿の跡を見つけることはできませんでした。

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「八草神明社」
いにしえのこと、神社の裏山に杉の大木があって女神がいた。また、その向こう側の峰の中腹には池があって、ここに男体の竜神がいた。ある時、農家の女がこの池でタヤの汚物を洗った。竜神はこれに怒って女神と共に立ち去った。それからは池が涸れて山地となってしまった。今もここを池の段といっているが、ここの地形はやや窪んでいて大雨になると水が一杯になる。また大杉は山頂より二、三町(約220~330メートル)下ったところにあって、夕日に照らされたその影は三十余町(約3.3キロ)も隔たった楢尾に達したという。老杉の所在地は、今の崩野地内に属していて通称を女杉という。老杉は女神の去った後、おのずと倒れてしまったが、神木であるので人々は恐れて伐採する者もなく、その一部を氏神の社殿の用材に使ったのみである。(後略)
「藁科物語第4号~藁科の史話と伝説~」
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藁科の谷

2010年08月27日 | 歴史&文化
藁科川の地形を子ども達に伝えるとき、手の平を上に両手の小指側をあわせて、お碗を作るようにくぼませるような形をしてみます。
すると、指先が七ツ峰などの1,000メートル級の山々となり、指や手のひらの皺がたくさんの支流、そして本流の藁科川は手と手をあわせた部分の窪みにあたることになります。
手のひらにできる小さな流域地図。
できればそれを左右に揺すると、この地に起こってきた地形の変化や戦乱、流域の人々の喜びや悲しみが揺りかごとなって、この地の自然や文化が育まれてきたと言えるのではないでしょうか。
それを表現するだけの知見は私にはありませんが、以下にコンパクトに分かりやすくまとめた文書を見つけましたので、引用します。


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「藁科谷」と流域の村むら

安倍川水系の一支流である藁科川は、全長29.2メートルの清流である。アユ釣りのメッカとしてして知られ、その源流は、七ツ峰や天狗石山、天狗岳などの峰々から始まる。北から南に向かって南下する本流には、東西方面から崩野川、諸子沢川、杉尾川、黒俣川、氷川、坂本川(清沢川)、水見色川、小瀬戸川、飯間谷川、久住谷川、大門川など、数多くの支流が流入し、複雑な谷筋を形成している。各集落は、この沢筋に沿った谷間に入り組む形で開発され、長い歴史を刻んできた。
流域は、江戸時代、「藁科の谷」と呼ばれ、一つのまとまった領域を形成していた。上流域は、三方を1000メートル級の山塊に囲まれているが、閉塞された行き止まり空間ではなかった。尾根筋には高位緩傾斜が発達し、そこが古くからの人や物資の行き来する交易路ルート取りとして利用されてきた。
遡って中世の時代、「藁科越え」は大井川上流域に通じる重要な戦略的物資補給ルートとして位置づけられていた。藁科の谷で、東西と南北方向の道筋がクロスする中継路としての伝統があった。戦国時代、朝比奈(藤枝市)から小瀬戸に抜け、そこから本川根(川根本町)に米を運び込むルートがあり、八草には金山へ送る物資を見張る番所が設けられていた。また、「藁科口水見色」という表記もあり、まさに、藁科の谷への出入りは、沢筋の谷間と谷間をつなぐ峠道を伝播ルートとして、外部から文化が持ち込まれる歴史があった。
明治22年(1889)の市町村制施行により、藁科の谷の村むらは、新たに再編され、服織村、中藁科村、南藁科村、清沢村、大川村と命名された。これらの新しい村名は、「服織荘」、「藁科郷」などの歴史的由来や、「清沢」、「大川」など川の名前にちなんで命名されてきた。
この「服織荘」は平安時代後期の荘園、「藁科荘」は室町時代の荘園の存在を意味しており、この谷筋の開発の古さを示している。荘園時代の生業が何であったかは明確ではないが、山間地域の自然を利用した特産物を産出していたことが考えられる。その生業風土は、羽鳥の建穂寺に伝わる養蚕の守護神とされる馬鳴大明神への信仰や、栃沢の名馬摺墨の生誕地伝承、大間の福養の滝で沐浴させると駿馬になるという伝承を育んできた歴史に反映されてきたと言えよう。また日向福田寺観音堂の七草祭では、稲作の豊作を祈願する田遊びが行われており、中世の生業として水田稲作が重要であったことを今に伝えている。さらに小瀬戸遺跡からは、ヤト(谷)の湿地に開発された鎌倉時代から室町時代にかけての水田跡が発掘されており、小さな沢筋に入り組んだ水田開発の古さを示している。
カイト(常畑)の畑作では、お茶栽培が普及する以前、麦の栽培が盛んに行われていた。また、「切杭伝説」を伝える原坂家では、畑に麻を栽培することを忌んできたと言い、このことは、逆に、畑作物として麻の栽培もかつて重要であったことを示唆している。このように藁科の谷筋は、温暖な風土と豊富な水に恵まれた土地柄の中で、農業の他に、製糸や紙漉きなど、手工業的生業も発達させていたことがわかり、閉塞された谷の歴史の古さが想像されるのである。

「藁科川流域の民族」静岡市文化財課.平成21年
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諸子沢の地蔵堂祭り

2010年08月25日 | 歴史&文化
先日24日に、藁科川上流の諸子沢という地区で行われた「地蔵堂祭り」という祭礼に寄らせていただきました。

日もとっぷりと暮れた七時頃のこと。県道60号線を「諸子沢」の道標にそって右折し、川沿いの真っ暗な山道を自信なくくねくねと曲がった先に、提灯の灯りが見えてきました。車を車道に止めて、大間方面に通じる峰林道の坂道をのぼった踊り場から、地元の皆さんがテーブルを持ち寄った縁日の屋台が並んでいます。そのすぐ先には、サイコロに屋根を葺いたような端正な地蔵堂の扉が、その晩は大きく開け放たれて、中からはお坊さんの読経の声が響いてきました。まずは、お焼香をして合掌。

静岡の市街地・安西の川除け地蔵祭りと同じ24日に開催され、昔から子どものお祭りとして受け継がれきたそうです。提灯には地元の子ども達の名前がはいっていて、本日の主賓には花火やお菓子などが振舞われ、たいそうご満悦な子ども達でした。

かつては舗装されてなく、カーブでは何度も切り替えしたという悪路も、今日では立派に舗装されていて、集まったのは30名ぐらいでしょうか、地元の方々がそのコンクリートの上にゴザ敷いてどっかりと座り、飲んだり、食べたり、歌ったりで和やかに時間は流れます。

最後にはもらって嬉しい食料品や日用品が並ぶくじ引き大会が行われ、あちこちから歓声があがりました。いつもはひっそりと地域の人々を見守る地蔵堂も、今日は笑顔や歓声に囲まれて、火照ったよう。

はじめて参加したのに、どこかとても懐かしく感じる温かなお祭りでした。


流域の歴史&文化物

2010年08月24日 | 歴史&文化
前回の生きもの同様、藁科川流域の歴史や文化については少しずつ調べています。
調べれば調べる程、あーあれも行きたい、これも見たいと、どんどん期日だけは去って行きます・・・。まだ清沢の黒俣川方面は未知の領域で、ほんとうに奥が深いですね。
あわてない、あわてない
こちらも、情報お待ちしていまーす!

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【県指定無形民族文化財/2件】
清沢の神楽、日向の七草祭

【その他の大きな祭礼等】 ※確認中
洞慶院の開山忌、羽鳥八幡神社祭典、鍵穴不動尊の祭礼、一色天満宮秋の例大祭、諸子沢の地蔵堂祭り、坂ノ上の松明、久能尾のナガシダイ、小島のタイナガシ、富厚里のアゲンドーロー、八幡のアゲンドーロー、陽明寺の大般若会、福田寺の春秋祭礼、黒俣東光寺の百万遍

【伝承・言い伝え】 ※確認&入力中
239話確認(37話入力)

【祠・石碑】 ※まだまだ確認中
地蔵尊、庚申塔含め66箇所100体以上

【巨木・特徴ある樹木】 ※確認中
*県指定天然記念物/黒俣の大イチョウ、黒俣の大ヒイラギ
*市指定天然記念物/杢左衛門の大アカガシ
*その他の巨樹/竜珠院の大カヤ、清源寺の大カヤ、中藁科小学校の大イチョウ、浅間神社の大クス、峰山のスギ、坂ノ上の大ヤナギ、栃沢のシダレザクラ

【城跡】
山城跡/7地点
(萩多和城跡、水見色砦跡、中村砦跡、羽鳥砦跡、久住砦跡、安倍城跡、小瀬戸城跡)

【遺跡】
52箇所
(縄文時代遺跡/8箇所、弥生時代遺跡/1箇所、古墳時代遺跡/33箇所、中世遺跡/9箇所、近世遺跡/1箇所)


【県指定文化財/9件】
木造不動明王立像(2体)、木造吉祥天立像、紙本墨書増壹阿含経、清沢神楽、日向の七草祭、木枯森、黒俣の大イチョウ、黒俣の大ヒイラギ

【市指定文化財/7件】
坂ノ上薬師堂仏像群、木造阿弥陀如来坐像、木造伝大日如来坐像、木造伝阿弥陀如来坐像、雲版、建穂寺関係歴史資料、杢左エ門の大アカガシ

【国指定文化財/1件】
日本カトリック教会谷津巡回教会

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