「すまんね、頼むよ」 最強硬派“最後の陸相”阿南の意外な一言 阿南陸相との思い出 笠井正隆さん
満州や南方戦線時代を振り返る笠井正隆さん=大阪府枚方市
先の大戦で日本の無条件降伏に最後まで反対し、徹底抗戦を唱えたことで知られる終戦時の陸軍大臣、阿南惟幾(あなみこれちか)。
戦時中、わずかな期間ながらも当番兵として仕えた元陸軍兵士、笠井正隆さん(93)
大阪府枚方市=にとって、「部下思いの穏やかな大将」という忘れられない存在だ。
本土決戦を主張した果て自刃した事実上の「最後の陸相」。
元部下は、最強硬派と言われた阿南の別の一面をそばで見ていた。(池田祥子)
阿南は、敗色濃厚となっていた昭和20年4月、鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣に就任。
戦争末期のポツダム宣言受諾をめぐって徹底抗戦を唱え、
国民に終戦が伝えられる直前の8月15日未明、
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と記した遺書を残し、割腹自殺を遂げた。
「すまんね、頼むよ」。
昭和19年、叱られるとばかり思っていた笠井さんは、阿南の思いがけない言葉に耳を疑った。
当時フィリピンに赴任していた笠井さんは、3カ月間だけ臨時で、インドネシアやニューギニアを支配下に置く第2方面軍司令官を務めていた阿南の当番兵となった。
当番になったばかりの頃、部屋を掃除し終えた後に灰皿を替えて、何度か吸い殻を持ち帰った。
ただの吸い殻と思っていたが、ある日、阿南が吸っているのは葉巻で、「吸い殻ではなく、再び火を付けて吸うのだ」と、上司に注意を受けた。
さぞ司令官はご立腹だろうと翌日、身が縮む思いで阿南の前に進み出た。
厳しく叱責されるとばかり思っていたが、阿南からかけられたのは、予想外の穏やかな言葉だった。
笠井さんの当時の階級は上等兵。
司令官の阿南とは「足軽と将軍ほど立場に開きがあった」。
しかし、その後も阿南は一度も声を荒らげることがなかったという。
笠井さんは、20歳だった17年1月に陸軍に入隊。満州に展開する関東軍第12特殊無線隊に配属された。
初年兵時代、思い出すのは先輩兵から受けた数々のビンタだ。
厳しい階級社会だった軍隊生活では、鉄拳制裁など上官から部下への理不尽な振る舞いは少なくなかった。
「ようされました。なにかにつけて『眼鏡を外せ、足を開け、歯を食いしばれ』とくる」。
今でも、テレビの大相撲中継で力士が激しい張り手を繰り出すたびに、びくっと体がすくむことがある。
「嫌な思いが多かったですよ」。
それだけに、阿南に仕えた3カ月間は、笠井さんにとって新鮮だった。
笠井さんは戦後、阿南の壮絶な最期を知った。
その激しさに「私の持つ閣下のイメージとは違う」と驚いた。
阿南の最期には、陸軍トップとして強硬論を最後まで貫きながら、自身の死でポツダム宣言受諾後の陸軍の暴走をおさめようとしたという見方がある。
笠井さんの脳裏からは恰幅(かっぷく)がよく、穏やかで親切だった大将の姿が、戦後70年を迎える今も、消えたことはない。
◇
【阿南惟幾(あなみ・これちか)】
明治20年生まれ。陸軍士官学校・陸大卒。
侍従武官、陸軍次官、第2方面軍司令官などを経て昭和20年4月7日、鈴木貫太郎内閣の陸相に就任。「内剛外柔」「公正無私」とも評されるが、ポツダム宣言の受諾をめぐって、戦争継続を強固に主張。
最終的には昭和天皇の聖断を受け入れ、鈴木首相に一連の態度をわびた上で自決した。
阿南の自決で陸軍内部に強かった戦争続行論は沈静化し、暴発を回避したとされる。