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榛名防衛備忘録:将来自衛隊の海外任務(第一回)・・・冷戦期の一国平和主義を超えて

2015-02-25 23:05:47 | 国際・政治
◆国際公序に反する一国平和主義
 本年は終戦70年の区切りとなる年ですが、終戦後大日本帝国憲法を改正し制定された日本国憲法は平和主義を念頭としたものとなりました。

 唐突ですが、一国平和主義、我が国では良い響きとして受け取られているものですけれども、一方、一国主義、という単語は例えばイラク戦争期のアメリカの施策として我が国内世論にて強く批判されてきました、国際協調や国際公序に沿うべき、という意味からです。

 しかし、翻せば我が国の一国平和主義も、周辺国との間で中立条約を結ぶでもなく、国土の防衛に責任を持っているかと言われるならば自国領域の島嶼部、竹島などへの侵攻を軍事的に強い行動をとらず占有を任せるなどしましたし、国際協調へ軍事力の参画を長く忌避してきた我が国の姿勢も、やはり一国主義であったといえるでしょう。

 さて平和主義、平和は日本国憲法の身に明示されているものでは無く、例えば我が国も加盟する国際の平和と安全が国連の最大任務として国連憲章の大前提となっているように国際公序の最大の悲願であり、その実現と維持はほとんど唯一無二の理想として広く人類に共感を得られるものです。

 しかし、日本国憲法の最大の相違は平和を手段として、更に軍事的手段を憲法上放棄、実質的に放置したことにあり、重武装を以て中立条約を周辺国と締結し自国領域を他国へ利用させない永世中立国を目指すのでもなく、諸国間の合意を得ない一方的な一国平和主義を目指しています。

 その定義は徹頭徹尾定かではなく、曖昧模糊としており、議論としては軍事力の義務を国連警察軍駐留に任せ軍事負担を周辺国に任せるという討議は一応は学識者の間にて為されたものですが、現実性を持ったことはありませんでした。結局憲法上問題の無い軍事機構を創設したうえで、自由主義を掲げる友好国同士の例外的な同盟条約を以て防衛力を整備するという選択肢を選択しました。

 祈念する平和主義、というべき政策は国際の平和と安全への貢献も関与も経済的政治的なものにとどめ、軍事的な危機へは予防外交の一旦、国際法上では武力行使に当たる概念を日本国憲法上禁じられた武力行使に含まれないと解釈し参画するものの、この他にはなにも、というところ。

 特に軍事力を通じた国際の平和と安全への参画は1990年代の国連平和維持活動への参加まで、ほぼ完全に封じ、例外的に自由主義圏の一国、同盟国であるアメリカへの基地提供を行うと共に国内の自衛隊基地を国連軍指定基地として供するのみに留めています。

 一方で万一防衛政策が破綻した際には、祈念する平和主義として国土戦を前提とした専守防衛政策を掲げてきましたので、最初に戦場となるのは国土であり国民の財産生活文化が根付く場所を戦場として抗戦する施策を国民全体が支持していたのは、現在も続く視点、不思議という他ありません。

 国土を戦場として戦う勇気というものは、それがいかに危険かはサイパン島や沖縄に樺太千島の歴史を少し見るだけでかわるものですから、これが勇気によるところなのか無知によるところなのか単なるモラトリアムとして決断を回避してきたのかは、敢えて触れませんが今考えれば凄いことでありました。

 一方で国際平和維持活動への参画が1990年代にはじまった際には、その背景として既に生起している諸国での武力紛争による悲劇を放置するというそれまでの政策、諸国民の戦禍に呑まれる塗炭の苦しみを平和主義という名の下で無視し、関心を以ても関与を回避し続けました。

 一部が不戦の題目を公共の場で叫び自己陶酔に耽ることで国際の平和と安全への諸国間の努力へ参画した錯覚に陥り、諸国の紛争の拡大へは打つべき手を無視し続け、拡大により数字のみ羅列され膨大化し続ける災禍へも一国平和主義の名の下無視し続けています。

 更に自国領域へ突き付けられる軍事脅威の増大を黙々と訓練をし続ける防衛力を担う同胞を一部は顧み多くは知ろうとせず極一部は罵声を以て品位の限界を示しました、ただ、政策面からは建前と本音を分ける我が国の伝統、その是非は置き、可能な範囲内での防衛力整備は厳しい現実と向き合う努力の最たるものとは言えましたが。

 この状況下において本土侵攻や限定戦争の災禍に見舞われず今に至るのは献身的な防衛への努力と政治の難しい調整と均衡が重なった産物ではあるのですが、何かの偶然が、危機は具現化することはりませんでしたので我が国の戦後史に直接影を落とす事はありませんが常に存在しています。

 1950年代の朝鮮戦争に台湾海峡での1960年代の過熱が激化すれば波及する可能性もあり、や1970年代の日中接近と中ソ対立が連関すれば限定戦争へ転換する可能性、また1980年代の新冷戦が我が国へ波及した可能性も高く、必然の結果などではなく僥倖というべきものかもしれません。

 しかし、この状況を歴史的なマルタ会談での米ソ協調路線転換までを平和裏に乗り切り、その後の国際公序への参画を我が国は求められたわけです。具体的には参画せず平和が破綻した状況の国々へ、地域紛争の多くが最貧国に生じた、経済的問題の末に発生した状況下が多くありましたが、彼らの自己解決を求める事への批判があった、と。

 故に経済的に余裕がある、経済大国である我が国であるからこそ、三角が求めらr多訳で、結果的に平和主義は国際公序に叶うものであるが、一国平和主義は国際公序に反する一国主義と解せられたわけです。こうして、我が国は国際貢献へ転換したわけですが、今回からこの在り方と将来について、考えてゆこうと思います。

北大路機関:はるな
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