■粟生光明寺探訪記
九月の半ばというところですが暑さと共に椛が疲れていて紅葉の準備を始めている事に驚くところです。
光明寺、ここは長岡京市粟生西条ノ内、阪急電鉄長岡天神駅から3㎞ほどの立地にあります西山浄土宗の総本山、粟生光明寺という呼び名でも親しまれ長岡天神駅にも駅前の天神さんとともによくよく見ると粟生光明寺という大きな立て看板が存在感を放っている。
長岡京市、この地名は新潟の長岡を思い浮かべる方もいらっしゃるようですが京都市のお隣、そして人口8万という府下第四の都市でもあります。そしてこの光明寺は紅葉の名所なのですが、同時に長岡京市の市木もモミジとなっていまして、何か共通しますね。
無用庵隠居修行。光明寺を拝観に探訪しましたのは、法然さんのお寺を拝もう、というもちろん崇高な意気込みはあるのですが、もう一つはBS朝日が放映する時代劇スペシャル-無用庵隠居修行、その聖地巡礼といいますか、舞台の様子を実際に見たいという思い。
法然上人、時代劇の舞台とはなっているのですが聖地巡礼とは本来の宗教的な意味で用いるところの聖地巡礼にもふさわしい浄土宗の聖地となっています、何故なら、念仏を唱えれば誰でも救われる、この浄土宗の祈りは12世紀、ここから始まったのですから。
御影堂に至る石階段は、階段といえば南禅寺や金戒光明寺の情景が記憶によみがえるのですが、ここ光明寺の石階段は一つ一つの段差は低く、なにか招かれているような不思議な情感が漂う。しかし法然さん始まりの金戒光明寺からは阪急と京阪の距離がある。
高橋茂右衛門宅。この大きな堂宇と伽藍は遡ればもともと、粟生野の里の村役である高橋茂右衛門、その個人宅があった場所という。今では青々と田圃が稲穂を湛えていますが、その昔は京都と奈良を結ぶ街道にあり、ここに法然さんが立ち寄った事が一つの縁、と。
金戒光明寺では比叡山を降りた法然さんが最初に腰かけた、という岩から紫雲が立ち上り、法然を懐かしんだ信徒や弟子たちにより巨大伽藍が整備されることとなりましたが、勿論、腰かけた時代から堂宇が造営されるまでは大きな時間を要したのは言うまでもない。
比叡山を降りて自ら衆民を救う信仰の在り方を求めた法然さんは、やみくもに念仏を唱えるという一つの答えを導き出す前に、先ず奈良において仏教の本質を学ぶべく学業の徒を目指したといいまして、当地にはその際に一晩の宿を借りたという歴史がありました。
国家宗教から民衆の宗教へ仏教が転換する前の時代に、日本仏教は末法元年をへていた関係で大衆の拠り所よりも世界の終焉に備えるという、いわば民衆とは真逆を向いていた時代に在って、法然さんの民衆救済を願う求道者としての姿勢は高橋茂右衛門に響く。
高橋茂右衛門夫妻は、法然の情熱を聞くうちに、ほんとうの救済への道を見出した際にはもう一度当地においてその法話をお聞かせ願いたい、という願いを託し、その実現までは実に20年もの月日を要したということですが、法然は念仏というものを当地で語った。
浄土門根元地、当地がこう呼ばれますのは法然が先ず当地において念仏の重要性を語った為、といわれています。承安5年こと西暦1175年の話であり、弟子の蓮生が建久9年こと西暦1198年、当地に庵を開いたことが、今に至る光明寺の始まりとなっています。
時代劇スペシャル、日向半兵衛を水谷豊が演じる無用庵隠居修行につきましては、新作がまもなく放映されるということで旧作は一挙再放送されているまさにその最中という、こうした中でこれもご縁なのだろう、とこう長岡京市まで歩みを伸ばしました次第です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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九月の半ばというところですが暑さと共に椛が疲れていて紅葉の準備を始めている事に驚くところです。
光明寺、ここは長岡京市粟生西条ノ内、阪急電鉄長岡天神駅から3㎞ほどの立地にあります西山浄土宗の総本山、粟生光明寺という呼び名でも親しまれ長岡天神駅にも駅前の天神さんとともによくよく見ると粟生光明寺という大きな立て看板が存在感を放っている。
長岡京市、この地名は新潟の長岡を思い浮かべる方もいらっしゃるようですが京都市のお隣、そして人口8万という府下第四の都市でもあります。そしてこの光明寺は紅葉の名所なのですが、同時に長岡京市の市木もモミジとなっていまして、何か共通しますね。
無用庵隠居修行。光明寺を拝観に探訪しましたのは、法然さんのお寺を拝もう、というもちろん崇高な意気込みはあるのですが、もう一つはBS朝日が放映する時代劇スペシャル-無用庵隠居修行、その聖地巡礼といいますか、舞台の様子を実際に見たいという思い。
法然上人、時代劇の舞台とはなっているのですが聖地巡礼とは本来の宗教的な意味で用いるところの聖地巡礼にもふさわしい浄土宗の聖地となっています、何故なら、念仏を唱えれば誰でも救われる、この浄土宗の祈りは12世紀、ここから始まったのですから。
御影堂に至る石階段は、階段といえば南禅寺や金戒光明寺の情景が記憶によみがえるのですが、ここ光明寺の石階段は一つ一つの段差は低く、なにか招かれているような不思議な情感が漂う。しかし法然さん始まりの金戒光明寺からは阪急と京阪の距離がある。
高橋茂右衛門宅。この大きな堂宇と伽藍は遡ればもともと、粟生野の里の村役である高橋茂右衛門、その個人宅があった場所という。今では青々と田圃が稲穂を湛えていますが、その昔は京都と奈良を結ぶ街道にあり、ここに法然さんが立ち寄った事が一つの縁、と。
金戒光明寺では比叡山を降りた法然さんが最初に腰かけた、という岩から紫雲が立ち上り、法然を懐かしんだ信徒や弟子たちにより巨大伽藍が整備されることとなりましたが、勿論、腰かけた時代から堂宇が造営されるまでは大きな時間を要したのは言うまでもない。
比叡山を降りて自ら衆民を救う信仰の在り方を求めた法然さんは、やみくもに念仏を唱えるという一つの答えを導き出す前に、先ず奈良において仏教の本質を学ぶべく学業の徒を目指したといいまして、当地にはその際に一晩の宿を借りたという歴史がありました。
国家宗教から民衆の宗教へ仏教が転換する前の時代に、日本仏教は末法元年をへていた関係で大衆の拠り所よりも世界の終焉に備えるという、いわば民衆とは真逆を向いていた時代に在って、法然さんの民衆救済を願う求道者としての姿勢は高橋茂右衛門に響く。
高橋茂右衛門夫妻は、法然の情熱を聞くうちに、ほんとうの救済への道を見出した際にはもう一度当地においてその法話をお聞かせ願いたい、という願いを託し、その実現までは実に20年もの月日を要したということですが、法然は念仏というものを当地で語った。
浄土門根元地、当地がこう呼ばれますのは法然が先ず当地において念仏の重要性を語った為、といわれています。承安5年こと西暦1175年の話であり、弟子の蓮生が建久9年こと西暦1198年、当地に庵を開いたことが、今に至る光明寺の始まりとなっています。
時代劇スペシャル、日向半兵衛を水谷豊が演じる無用庵隠居修行につきましては、新作がまもなく放映されるということで旧作は一挙再放送されているまさにその最中という、こうした中でこれもご縁なのだろう、とこう長岡京市まで歩みを伸ばしました次第です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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