■航空祭飛行展示
ブルーインパルスがやってくるだけで五万人は来場者がふえるという。

小牧基地上空にC-130H輸送機の編隊が飛来します、そして今年の小牧基地航空祭は主役がC-1輸送機、退役が間近となっている入間基地からのC-1輸送機の地上展示で、文字通りこの共演を見られるのは今年最後、競演というような編隊飛行はできないか。

C-1輸送機は輸送航空団編成時代にはこのC-1輸送機も小牧基地へ配備されていました、立川輸送航空隊、自衛隊の輸送機部隊は自衛隊創設と同時に新編された立川輸送航空隊からはじまりまして、1958年に新設の美保基地へ輸送航空団が新編されています。

3機編隊のC-130H,この3繋がりという訳では無いのですけれども、小牧基地というのはいまでは輸送機という印象の基地ですが、もともとはF-86D全天候戦闘機、アフターバーナーを備えた最初の自衛隊戦闘機でレーダーを備えた初の自衛隊戦闘機の基地でした。

第3航空団の小牧基地、もともとこの航空団は松島基地で新編されましたがF-86D最初の飛行隊は、岐阜基地の第101飛行隊であり、この飛行隊が編成完結後に小牧に移駐し、続いて1959年、小牧で第102飛行隊は編成されると、航空団司令部も小牧基地へ。

三沢基地へ第3航空団が移駐したのは1978年であり、三沢基地はそれまで北部航空方面隊司令部と第81航空隊を置き、輸送機部隊である第1輸送航空隊が新編されたのは意外にも1978年という、戦闘機の代わりに輸送機が来たという歴史があります。

第1輸送航空隊が新編当時に運用していた輸送機がC-1輸送機で、1981年からC-130H輸送機の配備が開始されますと、小牧基地へ集中配備されるようになり、今日に至ります。もともとC-1は沖縄返還前の要求仕様で、航続距離が不足したという背景もある。

航空救難団飛行展示の開始です。この小牧といえば厳しい訓練で知られる救難教育隊の基地、という印象がありますが、意外にもこの小牧での救難教育隊は、1959年航空救難隊小牧救難分遣隊創設から始まりました、そう、伊勢湾台風のあった年ですね。

浜松基地に救難教育隊はありまして、それが1971年に救難教育隊が浜松基地から移転、逆に小牧救難隊はこの1971年に浜松へ移転しまして浜松救難隊となった、F-86D戦闘機が配備されていた、ということを踏まえますと何故か納得できてしまうのですが。

UH-60J救難ヘリコプターとU-125救難機、といいたいところですが、U-125救難機は用途廃止で形式消滅が決定しています。ただ、わが国は世界でも稀有なほどに、戦闘機訓練空域が全て海上に設定されている、つまり航空救難は海上が主戦場というもの。

U-125救難機、日本以外に訓練空域が全て海上の国、となりますとシンガポールあたりでしょうか、と調べてみますと、あの国は戦闘機訓練をアメリカ本土で実施しているため、海上だけという国は見つからず、ニュージーランドは戦闘機を持っていません。

UH-60Jよりも素早く遭難現場に駆け付ける任務、将来的には無人機がU-125の後継機になるという話も側聞するのですが、まず、U-125を全廃しますと操縦士も居なくなるわけで、そこでMQ-9あたりを導入して上手くいかなかった場合はどうするのか。

カミカゼ特攻機の時代は終わったのですし、繰り返すように訓練空域がすべて海上という稀有な国家なのですから、LR-2でもT-400でもいいので、もう少し救難というものを政治は直視する必要があるのではないか、こんなこと思ったりするのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
ブルーインパルスがやってくるだけで五万人は来場者がふえるという。

小牧基地上空にC-130H輸送機の編隊が飛来します、そして今年の小牧基地航空祭は主役がC-1輸送機、退役が間近となっている入間基地からのC-1輸送機の地上展示で、文字通りこの共演を見られるのは今年最後、競演というような編隊飛行はできないか。

C-1輸送機は輸送航空団編成時代にはこのC-1輸送機も小牧基地へ配備されていました、立川輸送航空隊、自衛隊の輸送機部隊は自衛隊創設と同時に新編された立川輸送航空隊からはじまりまして、1958年に新設の美保基地へ輸送航空団が新編されています。

3機編隊のC-130H,この3繋がりという訳では無いのですけれども、小牧基地というのはいまでは輸送機という印象の基地ですが、もともとはF-86D全天候戦闘機、アフターバーナーを備えた最初の自衛隊戦闘機でレーダーを備えた初の自衛隊戦闘機の基地でした。

第3航空団の小牧基地、もともとこの航空団は松島基地で新編されましたがF-86D最初の飛行隊は、岐阜基地の第101飛行隊であり、この飛行隊が編成完結後に小牧に移駐し、続いて1959年、小牧で第102飛行隊は編成されると、航空団司令部も小牧基地へ。

三沢基地へ第3航空団が移駐したのは1978年であり、三沢基地はそれまで北部航空方面隊司令部と第81航空隊を置き、輸送機部隊である第1輸送航空隊が新編されたのは意外にも1978年という、戦闘機の代わりに輸送機が来たという歴史があります。

第1輸送航空隊が新編当時に運用していた輸送機がC-1輸送機で、1981年からC-130H輸送機の配備が開始されますと、小牧基地へ集中配備されるようになり、今日に至ります。もともとC-1は沖縄返還前の要求仕様で、航続距離が不足したという背景もある。

航空救難団飛行展示の開始です。この小牧といえば厳しい訓練で知られる救難教育隊の基地、という印象がありますが、意外にもこの小牧での救難教育隊は、1959年航空救難隊小牧救難分遣隊創設から始まりました、そう、伊勢湾台風のあった年ですね。

浜松基地に救難教育隊はありまして、それが1971年に救難教育隊が浜松基地から移転、逆に小牧救難隊はこの1971年に浜松へ移転しまして浜松救難隊となった、F-86D戦闘機が配備されていた、ということを踏まえますと何故か納得できてしまうのですが。

UH-60J救難ヘリコプターとU-125救難機、といいたいところですが、U-125救難機は用途廃止で形式消滅が決定しています。ただ、わが国は世界でも稀有なほどに、戦闘機訓練空域が全て海上に設定されている、つまり航空救難は海上が主戦場というもの。

U-125救難機、日本以外に訓練空域が全て海上の国、となりますとシンガポールあたりでしょうか、と調べてみますと、あの国は戦闘機訓練をアメリカ本土で実施しているため、海上だけという国は見つからず、ニュージーランドは戦闘機を持っていません。

UH-60Jよりも素早く遭難現場に駆け付ける任務、将来的には無人機がU-125の後継機になるという話も側聞するのですが、まず、U-125を全廃しますと操縦士も居なくなるわけで、そこでMQ-9あたりを導入して上手くいかなかった場合はどうするのか。

カミカゼ特攻機の時代は終わったのですし、繰り返すように訓練空域がすべて海上という稀有な国家なのですから、LR-2でもT-400でもいいので、もう少し救難というものを政治は直視する必要があるのではないか、こんなこと思ったりするのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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はい、今日の善通寺で思い知らされました。