■一夜城探訪
岐阜基地航空祭にて話題となりました岐阜県は一夜城こと墨俣城に行った話題です。

墨俣城、岐阜県大垣市墨俣町墨俣に所在する城郭です。模擬天守となっていますが、大垣市というのは大垣駅前に大垣城もありますので、城郭が多くて羨ましいなあ、と思ってしまうところ。岐阜県にはこのほか、岐阜城や郡上八幡城に天守閣が。

豊臣秀吉の出世城、と呼ばれていまして、それは豊臣秀吉が未だ木下藤吉郎だったころ、織田信長の美濃攻略への重要な前進拠点として短期間で築城を果たしたという。当然天守閣を有するようなところではなく、実態は野戦築城に近い形だったという。

永禄9年こと西暦1566年に築城したというところ、いまの地図を見ると、木曽川と長良川が離れていて、渡河が大変そうに見えるけれども、当時は木曽川堤防も長良川堤防もない時代なので、ほぼほぼ近くを流れていた時代があるという。

大垣市墨俣歴史資料館、これが正式名称なのですが、美濃を侵攻するならば木曽川渡河が大変で長良川はその先、実際にやったのか、という疑問符はあるという。一応このあたりに城郭があったのは確かで、池田恒興の家臣伊木忠次が改修した記録はある。

信長公記、織田信長スゲー集ともいわれる日本初の信長ファンブックは太田牛一が著したもので、ここに洲股要害という砦のような描写があるけれども木下藤吉郎が築いたかは触れていない。江戸時代の寛政年間に書かれた絵本太閤記にはでてくるけれども。

遺構もないところに、平成初期、観光誘致のために複合式層塔型三重四階RC造模擬天主閣を造営したというものだけれども、一方で、2㎞程離れた岐阜県岐阜市柳津町の佐波八幡神社には一夜城築城の木材を供出した事で社領安堵となった記録とかもある。

木曽川と長良川は定期的に氾濫を繰り返し、というよりも岐阜基地航空祭の際に見える金華山山頂の岐阜城とかは、金華山そのものが100万年単位で丘陵地が木曽川と長良川の氾濫に削られてあの標高になったというのだから。堤防は江戸時代のもの。

薩摩義士伝、という木曽川堤防を幕府の命令により築堤し、農民から尊敬された歴史が岐阜にはある。ただ、薩摩義士伝、といま検索するとむさくるしいオッサンが第一話ひえもんとり、とか、肝練りじゃさあ今宵は存分に楽しめ、と出てくるのだけれど。

二層櫓はあった、改修により高櫓が構築された、ともいわれていますし、渡河点は戦略上の要衝であるので室町時代には斎藤氏自身が城郭というか防御施設を造営して斎藤利為を城主に置いた、という記録があったりするのだけれども、一夜城説は。

大河ドラマなんかでは一夜城は重要な展開となるのだけれども、司馬遼太郎が新史太閤記にも記しているのだけれども、結局のところこの城郭の大半は浪漫で形成されているのだよなあ、という印象です。地元に城郭があるのとないとでは、違うのかもしれない。

城下町には、寺町があって明台寺など複数の寺院があり、一応旅館と、鮨屋に中華と焼肉屋でははなくって焼き芋屋か、そして小学校中学校もある、昔は大垣氏に合併される前に墨俣町という地名であった。すると地元に城郭があると郷土愛に、繋がる、か。

墨俣城というのは、過疎化が進む現代にあって、地元に城郭があるという事で、御城の城下町に帰省するというもしくは、ここに定着するという、いわば過疎化からこの地域を護っている歴史ロマンなのかもしれない、そんなことを散策の際、思いましたね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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墨俣城、岐阜県大垣市墨俣町墨俣に所在する城郭です。模擬天守となっていますが、大垣市というのは大垣駅前に大垣城もありますので、城郭が多くて羨ましいなあ、と思ってしまうところ。岐阜県にはこのほか、岐阜城や郡上八幡城に天守閣が。

豊臣秀吉の出世城、と呼ばれていまして、それは豊臣秀吉が未だ木下藤吉郎だったころ、織田信長の美濃攻略への重要な前進拠点として短期間で築城を果たしたという。当然天守閣を有するようなところではなく、実態は野戦築城に近い形だったという。

永禄9年こと西暦1566年に築城したというところ、いまの地図を見ると、木曽川と長良川が離れていて、渡河が大変そうに見えるけれども、当時は木曽川堤防も長良川堤防もない時代なので、ほぼほぼ近くを流れていた時代があるという。

大垣市墨俣歴史資料館、これが正式名称なのですが、美濃を侵攻するならば木曽川渡河が大変で長良川はその先、実際にやったのか、という疑問符はあるという。一応このあたりに城郭があったのは確かで、池田恒興の家臣伊木忠次が改修した記録はある。

信長公記、織田信長スゲー集ともいわれる日本初の信長ファンブックは太田牛一が著したもので、ここに洲股要害という砦のような描写があるけれども木下藤吉郎が築いたかは触れていない。江戸時代の寛政年間に書かれた絵本太閤記にはでてくるけれども。

遺構もないところに、平成初期、観光誘致のために複合式層塔型三重四階RC造模擬天主閣を造営したというものだけれども、一方で、2㎞程離れた岐阜県岐阜市柳津町の佐波八幡神社には一夜城築城の木材を供出した事で社領安堵となった記録とかもある。

木曽川と長良川は定期的に氾濫を繰り返し、というよりも岐阜基地航空祭の際に見える金華山山頂の岐阜城とかは、金華山そのものが100万年単位で丘陵地が木曽川と長良川の氾濫に削られてあの標高になったというのだから。堤防は江戸時代のもの。

薩摩義士伝、という木曽川堤防を幕府の命令により築堤し、農民から尊敬された歴史が岐阜にはある。ただ、薩摩義士伝、といま検索するとむさくるしいオッサンが第一話ひえもんとり、とか、肝練りじゃさあ今宵は存分に楽しめ、と出てくるのだけれど。

二層櫓はあった、改修により高櫓が構築された、ともいわれていますし、渡河点は戦略上の要衝であるので室町時代には斎藤氏自身が城郭というか防御施設を造営して斎藤利為を城主に置いた、という記録があったりするのだけれども、一夜城説は。

大河ドラマなんかでは一夜城は重要な展開となるのだけれども、司馬遼太郎が新史太閤記にも記しているのだけれども、結局のところこの城郭の大半は浪漫で形成されているのだよなあ、という印象です。地元に城郭があるのとないとでは、違うのかもしれない。

城下町には、寺町があって明台寺など複数の寺院があり、一応旅館と、鮨屋に中華と焼肉屋でははなくって焼き芋屋か、そして小学校中学校もある、昔は大垣氏に合併される前に墨俣町という地名であった。すると地元に城郭があると郷土愛に、繋がる、か。

墨俣城というのは、過疎化が進む現代にあって、地元に城郭があるという事で、御城の城下町に帰省するというもしくは、ここに定着するという、いわば過疎化からこの地域を護っている歴史ロマンなのかもしれない、そんなことを散策の際、思いましたね。
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