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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【日曜特集】岐阜基地航空祭2014【6】飛実団,異機種大編隊第一飛行展示(2014-11-23)

2018-09-16 20:07:31 | 航空自衛隊 装備名鑑
■岐阜航空祭多機種の最大名物
 岐阜基地航空祭、いよいよ戦闘機から練習機に輸送機まで多機種の航空機が編隊飛行、異機種大編隊が展開される瞬間がやってまいりました。

 日本は専守防衛だからこそ戦闘機を始め主要な装備の自主開発能力を持つ必要がある、自主開発できなくとも開発を行う姿勢を見せなければ、第一線航空機を供給する国からの政治的圧力に屈しやすく、専守防衛を堅持する事への政治的な空隙を醸成しかねない。

 一方で、日本は武器輸出三原則を拡大運用した事で、海外への装備供給という選択肢を敢えて封じており、結果的に量産効果のうすい割高な防衛装備品を調達することしかならなくなりました。しかし、規制を行う国の兵器輸出は購入側からも厳しいものがあります。

 スウェーデン製軍用短機関銃はヴェトナム戦争中にアメリカ軍の准制式火器となっていたのですが、スウェーデンはヴェトナム戦争に反対する立場から輸出を中止し、アメリカはS&W社に代替装備開発を依頼しています。これは受け手からすれば重大な問題でしょう。

 中立国などには供給を維持していましたが、スウェーデン装備は近年の武装中立政策転換まで、それ程の多くは売れていません。その後は例えばCV-90装甲戦闘車が成功し欧州共通装甲戦闘車の地位を射止めたように、傑作装備を多数輸出するようになっていますが。

 日本の防衛産業は、レーダー等の汎用品や情報処理装置での躍進、画像素子と映像システム等は大きな評価を受け、多くの海外製装備品の基幹技術として転用されていますが、完成品としての装備品輸出は事実上不可能となっており、自衛隊専用ともなっています。

 結局近年の野田内閣による緩和措置までほぼ全ての防衛装備品を輸出できなくなりました。ただ、この政策の難点は日本製電子機器や汎用品には兵器転用可能な技術が多く、武器を輸出していないわが国でも、その政策は思った程の世界から評価を受けていない点です。

 その一方で、これは輸出による量産効果を目指すには破滅的な禁止政策なのですが、これをもとに高コスト化を擁護する究極の保護政策ともなりえる、海外へ輸出を自制するのだから海外から輸入も自由自在としない、いわば防衛装備品の鎖国政策ともいえました。

 限られた予算ですが、日本は防衛装備開発を、それこそ草創期は国産戦闘機などもってのほか、作業服や防寒着などの被服の開発や、缶飯はじめ糧食関連の装備開発など、いわば太平洋戦争で灰燼に帰した軍需産業の生き残り、小規模なものに限られる事となりました。

 そして連合国により廃止されることなく民生事業へ転換した新興産業を再編し協力しての防衛産業育成でした。しかし、1950年の朝鮮戦争勃発とともに国連軍装備整備や補給などの日本における重工業復興の端緒についたことから、転換点を迎える事となります。

 日本の装備開発は、戦後の自衛隊草創期こそ分野は限られていましたものの、将来はすべての分野で国産化を志向し、その一例で航空防衛では世界最高水準の戦闘機を含め航空機開発を目指す、という防衛力整備と防衛産業の一体化により進展していったわけですね。

 F15戦闘機を航空自衛隊は最終的に213機導入しましたが、F-15、この施策は日本の防衛政策をその後30年以上にわたって大きく貢献することとなりました。これを調達費用が半分程度であるといってF16を導入した場合ではこのようになったかはわかりません。

 F-14戦闘機が導入当時には大きな競争相手として認識されていますが、長距離迎撃能力があるとして有力視されつつ費用面で導入にいたら無かったF14を導入していた場合でもここまでの実績は残せなかったでしょう。それはF-15の高い発展性が裏付けていました。

 アメリカ空軍が将来戦闘機として当時は戦闘爆撃機として航空阻止能力が重視されていた戦闘機開発に敢えて一線を画し、1960年代に開発を開始したF15は迎撃専用の戦闘機を一歩凌駕し、航空優勢を喪失している空域へ長大な航続距離をもって展開する戦闘機です。

 敵制空権下へ進出するF-15戦闘機は相手の迎撃戦闘機をすべて撃墜することで制空権を確保するという、制空戦闘機、という性能を期して開発された戦闘機です。このため、長大な航続距離を有する戦闘機として開発され、火器管制装置も最高度の物を搭載しました。

 しかし、当時は戦闘機に様々な性能を盛り込んだ場合、機体が重く鈍重となり軽量戦闘機との格闘戦に勝てない、という問題を含んでいました。航続距離を稼ぐには大量の燃料を搭載、遠距離戦闘を行うには空対空ミサイルの大型化とレーダーを受け入れねばならない。

 この点についてはアメリカ空軍もヴェトナム戦争においてF4ファントムが遙かに格下のMiG21戦闘機やMiG19戦闘機に格闘戦を挑まれ苦戦した経験があります。空軍には軽量戦闘機もありましたが、軽量戦闘機は戦闘行動半径の問題から主流とはなり得ていません。

 F4ファントムは、当時としては長距離レーダーを搭載し専門のレーダー管制要員を搭乗させる複座型を基本としています。これにより軽量戦闘機の攻撃を受けた場合は高度なレーダーによりその接近を長距離から捕捉し、専門のレーダー管制士官が追尾してゆきます。

 長射程のスパローミサイルにより一方的に撃墜する、という運用を基本としていました。しかし、混戦となりますと遠距離を隔てた目標が味方のF100スーパーセイバーが戦闘爆撃任務に当たっているのか、敵のMiG19が攻撃を行っているのか、簡単にはわかりません。

 識別、そこでIFFという敵味方識別装置を搭載し、レーダーを照射した場合に味方戦闘機であれば応答する自動識別装置を搭載したのですが、これがよく故障する。結果、あてにならないので肉眼で目標を確認することとなり、この確認の間隙で格闘戦になってしまう。

 F4ファントムはF104スターファイター戦闘機が一基搭載するJ79エンジンを二基搭載しています。このJ79はアメリカがジェットエンジン草創期から高性能と世界の第一線を担っていたイギリスのロールスロイス社製エンジンを初めて上回った高性能エンジンでした。

 F-4戦闘機はそのJ79エンジンをF4は二基搭載しています。機体は大型レーダーの搭載で確かに重い機体ですがJ79の双発でこれを上回る高性能を発揮できましたので、MiG21に対抗することは充分可能でした。空対空戦闘でも運動性能は当時の戦闘機として充分です。

 ただ、当初F4はミサイルキャリアーとして格闘戦を想定した訓練が不十分であったことから、訓練を転換するまでは苦戦を強いられました。初期型には機関砲不要論の影響があり、これも設計時点で格闘戦不要論が海空軍の要求仕様に影響していたとも言えるでしょう。

 ここでF4を運用していた海軍は専門教育課程として有名なトップガンをミラマー航空基地に設置しますが、同時に海軍と空軍が次期戦闘機の開発を開始しました。作戦運用環境と航空戦闘の様相転換へ対応する、文字通り世代交代を期した戦闘機を欲した訳ですね。

 F111アードバークとして海軍と空軍の共通戦闘機を開発していましたが、これはミサイルキャリアー時代の象徴するような航空機として開発されていまして、実体は戦闘爆撃機、いや爆撃機が戦闘機の形状をしている、多少自衛戦闘は可能な爆撃機、という設計だ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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