■震災後最初の終戦記念日
祖母の兄が戦時中戦車第11連隊に所属していたようで遺品の当時撮影された写真を見て”士”の部隊記号にて気づきました。撮影地は千島列島、終戦後に不法な攻撃を行ったソ連軍に対して反撃を加え一時的に撃退した戦車第11連隊です。当方、祖父は関東軍衛生兵で終戦時ソ満国境で抑留された経験があったり、海軍特別攻撃隊の隊員として土浦の予科練で訓練中に終戦を迎えたり、物凄い経験を持っていたりすることは知っていたのですが、終戦後から震災後、という特集、あの終戦後の惨状とくらべれば現在の状況は原子力災害を含めた東日本大震災の被害というものは、なんとか復興できる水準、ということもできるでしょう。
しかしその一方で、東西冷戦という二極構造を背景に強い経済力を持つ日本を必要とした国際情勢が醸成されるまでの期間、脱重工業と軽工業農林水産業という風潮にあって、朝鮮動乱という一つの転機、そして戦時中に培われた、いわば戦前の制度や組織体系の問題点のみを解消した戦後型の政治構造、意見集約構造、意思決定過程という複合的要素からなる政治システムを構築することができた、この構築の背景には外圧とその外圧をうまく調整することができた官僚機構、巨視的微視的調整に依拠した長期的視野を持っていた政治家の存在があったということを忘れてはなりません。そういう意味で、幸運と実力の相互作用があったのですね。
今日の状況に目を移らせますと政治家を長期的に養成する国民的責務、官僚機構との監視と協同という重要な部分に目を向けることなく今日まで過ごしてしまったのではないか、という痛烈な反省があります。いわば、現在の政権に対する意見は当然いろいろとあるのですが、政治家の水準は国民水準の縮図、養成する努力を怠ってきたのですから致し方ないというほかありません、しかし、それ以外の部分については戦後行った努力の多くが間違っていなかった、ともいえます。もちろん、政治家を養成するということは一朝一夕にできるものではありません。まず、教育体系から討議と意見集約、というものを省いてしまいましたので、どうしてもこの分野が弱くなりんす、自己主張とそれに至るまでの調整、説得し必要な変更を全体を崩さず受け入れる、ということは深い教養と潤沢な知識量に裏打ちされることで初めて醸成されるのですが、一方に傾注し過ぎたきらいがある、これが背景と考えます。
厳しい時代が来る、と繰り返していますが多極化時代、グローバリゼーションの時代において日本の経済大国としての地位が求められるかと問われれば、これは一概には言えないこととなってしまいました。その結果、必然としての日本の成長を後押しする国際社会の空気、としかいえない無機質で曖昧模糊とした一種の国際的合意的な風潮もいまはありません。その状況下で、例えば安全保障面での一種の鎖国政策を続ける現行憲法への拘りは滅びの美学というような為政者としてあまりに無責任な政策であるといわざるをえませんし、国家が存続するために必要な措置というものは、例えば安全保障面での厳しい判断であっても行わなければ政治の責任を果たす事が出来ないでしょう。政治家の要請もそうですが、防衛面での必要な相違体系の構築など、最悪の状況下に陥った場合の選択肢を広める準備、というものはそうした意味で今考えなければならない命題です。お盆の行事とともに、そんな事を考えたりしました。
冒頭に記した厳しい経験の祖父たちですが、普通の市民として戦後を営んできました。普通の市民でもそうした境遇に立ち向かえたのですから、やれないわけがないという復興への心構えという一視点、もしくは私たちであっても突如苦労の世代と後世に称されることになる可能性もあるという一点、両方があるわけです。特集で繰り返しましたが、政治が機能すれば復興は早いのでしょうが、逆の状況となり今後日本は厳しい方向へかじ取りしてしまったばかりです、安全で繁栄につながった方向へのかじ取りが行える可能性の模索、そして将来への準備というものはこういう日だからこそ私も改めて今夜考えたいです。
北大路機関:はるな
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