91歳だった母さんの食欲が、去年の夏頃から極端に落ち始め、心不全の診断もあったりして、「ああ、いよいよなんだな」と、僕は身構えた。
けれど、何時そのときが来るかは誰にも分からない。どんどん衰弱していった母さんは、それまでショートステイに通っていた施設から受け入れを断られ、急きょ、僕が働く特別養護老人ホームに引っ越した。
そこで僕が突きつけられたのは、もう自力で立つことも出来ず、認知症で会話も通じなくなった母さんに、延命治療を施すかどうかという、あまりに重すぎる選択だった。父さんは三年前に他界しており、遠方に住む兄は介護にとんと無関心。親戚づき合いも無く、僕がひとりで決めるしかなかった。
ところで、こんなアメリカ映画があった。平凡な市民である主人公が、妻と幼い子供たちを連れてスーパーへ買い物に行ったら、建物が深い深いミスト(霧)に包まれる。その中には正体不明の巨大モンスターが潜んでいて、屋外じゃ次々と市民たちが食糧にされてるらしい。
やがてそのスーパーもモンスターのターゲットにされ、パニック状態になった客や店員たちはカリスマを装った狂人に煽られ、異常な行為に走っていく。そこまではまあ、ホラー映画にありがちな展開だ。ありがちゆえに我々観客は、ぎりぎり平常心をキープしてる主人公ファミリーはきっと生き残るだろうと予想し、案の定、彼らはクルマで脱出することに成功する。
ところが、モンスターは一匹や二匹ではなく無数にいて、もう逃げ場は無かった! いよいよ追い詰められた主人公は、あんな化け物に喰われるぐらいならと覚悟を決め、所持していたピストルの弾丸を、愛する妻と子供たちに……
それだけでもう、じゅうぶん想定外の展開なのに、作者はさらなる悲劇を用意していた! 自分の手で家族を射殺してしまった主人公は、もちろん最後の一発を自分のこめかみに撃ち込もうとするんだけど……
そこで、ズンゴゴゴと物々しい機械音が近づいてくる。ひとまず引き金から指を外した主人公の、虚ろな眼に映ったその音の正体は、もう市民を見放したとばかり思ってたアメリカ軍の戦車や爆撃ヘリで、少なくとも主人公ファミリーを救うには十分な大部隊だった!
いなばうあああぁぁぁーっ!!と僕の耳には聴こえた主人公の絶叫で、観客を奈落の底に落としたまま映画は終わるんだけど、10年以上前に初めて観たときは、ここまで悲惨だとむしろファンタジックに思えて「こりゃ凄い。面白い!」と感じた記憶がある。
けれど、今はちょっと観るに耐えないかも知れない。自分の決断で肉親の生命を断ち、その罪悪感を背負ったまま残りの人生を生きなきゃならない主人公の心情が、母さんの延命治療を断った僕自身とシンクロしかねないからだ。
あの主人公みたいに胸を引き裂かれるような日々が何ヶ月も続き、僕はみるみる体重と髪の毛を失った。そして護るべき人が旅立って、自分が生きてる意味さえ見失いつつあった。
そんなタイミングで僕の前に現れたのが、新入りナースのマチダさんだ。天国にいる父さんと母さんが、僕に生きてく意味をプレゼントしてくれたんだと解釈すれば、泣ける。
変わりなさい、と言われてる気がした。強くなりなさい、前を向いて歩きなさいと。だから、僕は一世一代の賭けに出た。たかがケータイ番号を記したメモ1枚。大多数の人から見れば喜劇だろうけど、僕は真剣だ。
昨日、メモを渡せただけでも大きな第一歩。さらに前へ進めるか足踏みするかは、マチダさんの反応しだい。そして今、彼女が眼の前にいる。
あっ!と僕の存在に気づいたマチダさんは、いつものように笑顔で手を振ってきた。
「これから出勤ですか?」
「はい」
「ホッとします!」
「ありがとうございます!」
普段とちっとも変わらないやり取り。ちなみに僕は、相手が歳下であろうが後輩であろうが分け隔てなく、敬語で接している。同僚とはある程度の距離を置きたいのと、単に敬語とタメ口を使い分けるのが面倒くさい、というのもある。歳下の大先輩もいるし、線引きが難しいのだ。
それはともかく、ひとまずホッとした。無視はされなかったし、どうやら「きもっ!」とも思われてない。けれど、あのメモを彼女がどう解釈したのか、それを推察するにはあまりに一瞬の会話だった。
まあ、仕方がない。彼女は急いでいたし、周りに他の同僚たちもいた。焦るな。いずれ答えは出る。
とりあえず2階に上がり、詰め所で連絡ノートに目を通してから、入居者さん用の食堂へと向かった私に、お掃除パートでお喋りおばさんのタキさん(仮称)が待ってましたとばかりに声をかけてきた。
「昨日、またやらかしたで、あの子! ナース大泣きさせて大問題になってるわ!」
「あの子って、エムさん?」
「そう、あれあれ。エムさん!」
エム(M)と言ってもマチダさんのことじゃない。僕が働く部署に最近入ってきた若い女性介護士の通称“エムさん”は、恐ろしく性格が悪い。特に、僕やタキさんみたいなパート職員には凄く嫌われてる。つまり、媚を売る相手と軽んじる相手をはっきり区別し、態度も言葉遣いも器用に使い分ける女。
あらゆる相手に敬語で接する僕は当然のごとく軽んじられ、イビリに近い言葉を何度も浴びて来たけど、さすがに還暦近くにもなると聞き流す術が身についてる。怒ったら敵の思うツボだと知っている。
パート職員はほぼ全員被害を被り、共通の敵になっているから“エムさん”という通称を使い、しょっちゅう愚痴をこぼし合う。僕はお喋りすぎるタキさんがちょっと苦手だったのに、エムのお陰で今や戦友だ。
それにしても、ナースが泣かされたという話は聞き捨てならない。あのエムがイビリの標的にするのは、間違いなく格下の相手だ。
「泣かされたナースって、もしかしてメガネの?」
「そう、マチダさん!」
やっぱり! ツワモノ揃いのナース軍において、エムが狙うならマチダさん以外に考えられない。しかも、昨日? 昨日は僕も出勤していたけど、その件は知らなかった。
午後から出勤するようになって以来、僕はトイレ掃除と3時のおやつ、夕食の配膳準備が主たる職務で、体調不良のせいもあり、最もハードな入浴介助には滅多に入らない。昨日もそうだった。僕はおやつ担当で、エムは入浴介助に入っていた。
そして僕がマチダさんにメモを手渡したのは、彼女が風呂場から食堂に入居者さんを連れて来てくれたタイミング。ちくしょう、あの前後にやられたのか!
エムに何を言われたのか分からないけど、そんな時こそ電話して欲しかった! エムの悪口で盛り上がろうなんて思わない。ただ、「あの人の言うことは正面から受け止めないで」とか「たぶん彼女は何らかの精神疾患を抱えてると思う」ぐらいのアドバイスはしたい。あんな女のせいでマチダさんが辞めることにでもなったら最悪だ!
もし、僕の妄想が妄想でなかったら……つまり、マチダさんが本当に誘いを待ってくれてるとしたら、エムにイビられた一件は僕に電話する良いきっかけになり得たはず。「職場で言えないグチとか話したくなったら」って、まさに今でしょ!
なのに、昨夜はかかって来なかった。やっぱり、勘違いだったか……いやいや、自分が彼女の立場なら、そう簡単に電話なんか出来ないぞ。エムは僕がいる部署の職員だし、そいつにイビられましたなんて言いにくかろう。
よし、いい感じだ。この調子で妄想を続けよう。恋なんて、妄想できてるうちが花だ。答えが出たあとに待ってるのは現実だけ。現実は厳しいもんだと相場は決まってる。
そんなことを考えながら便器をブラシで磨き、ふと振り返ったら、尿瓶を持ったマチダさんと鉢合わせになった。えっ!?
おい、ちょ、待てよ! え〜と、僕は彼女になにを言うつもりだったっけ?
「全部のおトイレ、掃除してくれてるんですか?」
「えっ? あ〜、はい」
「大変じゃないですか! 毎日?」
「まあ、そうですね」
確かに、1階と2階を合わせて7つあるトイレを毎日1人で掃除するのは、なかなか重労働だ。けど、ひとりで黙々とやれる仕事は最も自分向きで、実は有難いと思っている。
「その代わり、僕はオムツ交換とかしてないから」
「いや、でも……助かります。ありがとうございます!」
「とんでもないです」
なんていい子なんだろう。やっぱり、好きだ!……と刹那に思う間もなく、尿瓶のオシッコをそれ用の便器に流したマチダさんは、トイレを去っていった。
あそこで、エムの話を切り出せただろうか? それはちょっと強引だろう……いや、強引でもいいから言うべきだったか。「そんな時こそ電話して下さいね」って。
ああ、でも、言わなくて正解だ。マチダさんは、あのメモについていっさい触れなかった。普段より、ちょっと緊張してるようにも見えた。普通に考えれば、僕の誘いを待っていることは、まずあり得ない。
やっぱり勘違いだった。思い込みだった。やれやれ、あれ以上、踏み込まなくてよかった。嫌われなくてよかった。無かったことにしてくれて、本当によかった!
いやいやいや、おいちょ待てよ。それで済ませていいのか? 妄想が妄想に過ぎなかったことは、まあ間違いないとしても、妄想だけで終わらせていいのか? それじゃ僕には下心しか無かったことにならないか?
マチダさんに辞めて欲しくない、元気づけてあげたいっていう気持ちは、嘘じゃない。だったら、妄想はとりあえず切り離して、エムの取扱注意事項だけは伝えるべきだ。できるだけ早く。鉄は熱いうちに打て!
結局、今日はそれ以降、マチダさんと顔を合わす機会が無いまま帰宅となった。彼女のケータイ番号は、彼女から電話してくれないかぎり知る由もない。仮に知ってても、いきなり電話して「エムになにを言われたの?」なんて尋ねたらそれこそアウトだろう。焦るな。焦るとロクなことにならん。
自宅の小さな風呂に浸かりながら、僕は考えた。明日言おう。もし明日チャンスが無ければ、明後日でもまあ、ぎりぎりセーフか。それ以上引き延ばしたら「今さら何?」ってことになりかねない。話のネタには賞味期限がある。
ようし、彼女の出勤日を確かめて、心の準備をしておこう。今度こそ自分から話を切り出せるように!
急いで風呂から上がった僕は、うすら禿げた頭を乾かすことも忘れ、月に一回配られる全職員のシフト表を開き、ナースたちの欄を見た。
僕にはまったく関係ないけれど、世間はゴールデンウィークの真っ只中。マチダさんは、明日から4連休を取っていた。
(つづ……いて欲しいけど)
☆☆☆☆☆☆☆
以上、何から何まで実話です。実際のところゴールデンウィークは昨日終わったけど、今日は私が公休日なもんで、マチダさん(仮称)とは5日間も会えないまま。
もう今さらエム(例のMさん2号)の話も出来ないし、正直、自分自身の勢いも失速中。やっぱり、妄想あればこその恋。
ただ、好きと思える女の子と出逢えただけでも大収穫。彼女に会えると思うだけで出勤する足取りが軽くなるし、妄想できるチャンスがまたあれば、懲りずに何度でも妄想します!