生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場でメタエンジニアリング(その1)その場で進化思考 

2024年02月22日 11時12分13秒 | メタエンジニアリングのすすめ
その場でメタエンジニアリング(その1)            
 定年退職後の10年間は、どっぷりとメタエンジニアリングに嵌まってしまった。その結果、最近のその場考学では、「その場でメタエンジニアリング思考」が習慣となってしまった。そのいくつかを紹介してゆこうと思う。

題名;その場で進化思考

 太刀川英輔著「進化思考-生き残るコンセプトをつくる」(2021)は、現代人がイノベーションを創出する能力を備えているのは、生物学的な進化論から説明できるという。これは、まさにエンジニアリングに関するメタ認知だと思う。
そこで、少し引用しながらメタエンジニアリング思考を試みる。

① 優れたデザイン(創造)の定義
・関係性こそが良いデザインの本質にある (p.12)
・創造とは、人とモノとの新たな関係性を生み出すこと
・人類の創造は、あらゆる分野の専門分化によって矮小化した (p.13)

② 創造は進化を模倣している
「疑似進化能力」;身体の一部を進化させるために道具がつくられた 
 (例)目=顕微鏡、望遠鏡、声=拡声器、消化器官=調理法、冷蔵庫、足=靴、乗り物

③ 創造とは、言語によって発現した「疑似進化」の能力である (p.48)


これらのことをメタエンジニアリング的に拡張解釈すると、以下になる。

・ヒトによる創造は、エンジニアリングにより発現した人類の生存能力の進化である。
 一般に、動物の進化とは、生存競争に勝つために、そのための必要能力を高める方向に進化してゆく。ところが、ヒト以外の動物は、エンジニアリングの能力が無いために、自分自身の体の一部を進化させなければならない。これには、膨大な時間を要する。しかし、人類はエンジニアリングという能力を身につけたために、その創造物によって、疑似進化をすることが可能になった。

・眼の進化;敵を素早く発見するために、動物の目は進化をした。しかし、人類は顕微鏡や双眼鏡により、小さな物や遠くの物を発見できるようになった。

・声の進化;遠くの仲間に危険を知らせるために、また、敵を威嚇するために、動物は独特の発声をする。そして、その発声を明確かつ大きくするように進化してきた。しかし、人類は拡声器により、その進化を獲得した。

・消化器官の進化;動物は、自身の体がより強固になるような消化器官を進化させてきた。人類は、それと同等な進化を調理法の開発や、冷蔵庫を創造することで、短期間に進化させることができた。

・足の進化;動物は、敵から逃げるため、または敵を捕らえるために足の能力を進化させてきた。人類は、様々な乗り物を発明して、その能力を獲得した。また、悪路を長時間移動する必要のある動物の足の裏は進化させてきたが、人類は靴を発明して、その能力を獲得した。

 このように考えてゆくと、「ヒトによる創造は、エンジニアリングにより発現した人類の種としての生存能力の進化である」から「ヒトによる創造は生物の進化そのもの」との結論になる。

・進化の速度と、絶滅に至る速度の関係
 
 他の動物に比べて、進化のスピードが極端に早いということは、絶滅までの期間が短く、かつ絶滅に要する時間も短くなると云うことになるであろう。
 このような懸念は、21世紀になってからの多くのイノベーションにあてはまるように思う。上にあげたヒトの諸器官の疑似進化は確かに「生物としての進化」と呼べる物だが、例えば、様々なSNSやチャットGTP等は、生物の進化というよりは、生物としての退化のように思えるからである。
このようなことを、いかにして克服するかが、メタエンジニアリングの主題の一つになる。

ジェットエンジンの技術(12)第15章 実用化初期(その2)

2024年01月29日 08時07分14秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第15章 実用化初期 1940年代までの歴史(その2)

 1919年から1930年前半は、15世紀の大航海時代になぞらえて、大飛行時代ともいわれる。コロンブス等と同じく、大西洋横断やアジアへの空路の開発が各国により競われた時代だからである。多くの飛行記録が達成され、主要国は、航空会社を設立した。その多くは、現在も存続している。その結果、航空機を持たなかったスペインとポルトガルは、中南米での権益に大きな打撃を受けることになった。
 
 速度の問題が解消されると、長距離飛行への課題はもっぱらエンジンの信頼性であった。つまり、IFSD (in Flight Shut Down、飛行中のエンジン停止) が最大の問題であった。特に点火系と冷却系に問題があったと云われているが、私の経験では、それは1950年代の乗用車と全く同じといえる。電解質である水が、銅製のラジエターと鉄製のエンジンを高温で巡るので、問題の解決には冷却液を変更する必要があった。航空機の運航会社にとっては、安全性と信頼性の確保は最重要課題であり、このための技術が次々と開発された。
 
 転機となったのは、1927年5月のC.リンドバーグのニューヨーク・パリ間の33時間5810kmの無着陸飛行の成功であった。この飛行は第1次世界大戦前に提案された「オーディグ賞」の獲得が目的で、それ以前に何人もの死者を出していたが、彼はその賞金25,000ドルと世界的
な名声を得た。

 この飛行の成功には、いくつもの理由付けがある。諸説は、彼の若さと勇気、翼型を始めとする飛行機の性能向上を挙げているが、やはり、エンジンの信頼性の進化が最大の理由であった。この機体の搭載エンジンはライト・ホワールウィンドエンジンと呼ばれ、1923年に米国のカーチス・ライト社が開発した航空用エンジンであり、一連のワールウィンドシリーズの始祖となった。1920年代のアメリカやオランダ等の多くの航空機に使用された。(5)


図15.4 リンドバーグによる大西洋横断飛行の成功(5)

 一般の旅客機としては、1933年には乗客10名を乗せることのできるBoeing247が運航を始めた。さらに、1938年には客室の与圧を行ったBoeing307が運航を始めた。このBoeingの機体はユナイテッド航空が一手に引き受けたために、TWAとアメリカン航空は、ダグラス社に依頼してDC2型機の開発を依頼して、これを導入した。

 P&W R-1340が機体に搭載されたP&Wの最初のエンジンであり、その後ワスプシリーズとして合計34,966台のエンジンが生産された。ちなみに、P&W社は1925年にF.B.Rentschlerの発案により設立された。同社が配布しているカタログの冒頭には、次の言葉が述べられている。「the best aircraft could only be built around the best engine」。また、「aviation could progress beyond a one-man show only through larger aircraft, capable of greater speed and range」として、その後のエンジン技術の発展に貢献した。
                          

図15.5 Boeing247に搭載されたP&W R-1340エンジン(Wikipedia)

 第2次世界大戦中に軍用機用に大型化されたレシプロエンジンは、終戦直前から民間機用に転用が始まった。ボーイングB-29爆撃機(太平洋戦争末期の日本本土空襲に多数導入された)を原型としてC-97ストラトフレイター輸送機が開発され、1944年11月に初飛行した。エンジンはP&W R-4360エンジンに換装された。
 さらに、大型・長距離旅客機Boeing377がC-97を基に開発、大戦後の1947年7月に初飛行し、パンアメリカン航空のニューヨーク― ロンドン線に就航した。この機体は、日米路線にも多く投入され、映画評論家の淀川長治が黒澤明の代理としてアカデミー賞授賞式に出席する際や、マリリン・モンローとジョー・ディマジオが新婚旅行で日本を訪れた際にも使用された。
また、同年初飛行のダグラスDC-6は、客室を与圧して700機を超すベストセラー機になった。この機体は日本航空にも採用されて、ジェットエンジンを搭載して1958年初飛行に成功したDC-8の登場まで長距離機として多くのエアラインに採用された。一方で、これらの登場によりクイーンメリー号などの豪華大型客船による大西洋横断航路は急激に衰退した。
このように、軍用機として開発された航空機を、直後に民間機に改修することは、新型機の開発のコストを軽減するために頻繁に行われた。この手法は、機体では続かなかったが、エンジンでは20世紀末まで行われていた。

15.2 ピストンエンジンからジェットエンジンへの切り替え

 1940年代後半では、運行中の旅客機はレシプロエンジンが主流であったが、エンジン製造会社は、次第に大型のジェットエンジンの開発に集中していった。
 P&Wは、1947年にすべてのピストンエンジン関連事業をカナダのP&Wに移管し、ジェットエンジン専門会社となった。海軍との契約で、PT2ターボプロップエンジン(出力6000hp, 4.2MW)、更に翌年にはJT3ターボジェットエンジン(出力3.7ton, 36.5kN)の開発を始めた。また、量産としては、1947年から海軍用にJ42ターボジェットエンジンを生産したが、これはホイットルのW2エンジンの発展型をRolls-Royce社から技術導入したものであった。
他方、GEはRolls-Royce社の技術を全面的に導入した。第2次世界大戦末期における、英国政府とRRの決断については、第12章で述べたが、具体的にはこのようであった。
 
 当時、レシプロエンジンで大成功を収めていた米国のエンジンメーカーは、ジェットエンジンの旅客機への採用には消極的だった。吉中 司は「アメリカ・カナダにおけるジェットエンジンの発達と進展」の中で次のように述べている。
 『1941年10月1日 , 分解されたホイットルW1-X型エンジンとPJ社の技術陣が 、イギリスから空路アメリカに到着する。アメリカ陸軍航空隊は,すでにターボ過給機でずいぶん経験のあるゼネラルエレクトック(General Electric)社をジェットエンジン製作会社として選んでおり, PJ社技術陣の助けを得てW1-X型エンジンのコピーを、GE1-Aという名称で製作し、1942年3月18日、GEのマサチュセッツ州リン市の工場で地上試験を開始している。』(p.58)(3)
 これにより、米国でのジェットエンジンの開発・製造が開始されることになった。さらに、敗戦国ドイツからはフォン・オハイン博士を始めとする大人数の科学者と技術者が米国に移住することになり、米国産のエンジンは急速な発展を遂げることができた。
 一方で、日本では空白の7年間の期間中であり、一切の航空機用エンジンに関する活動は行われなかった。

ジェットエンジンの技術(11)第15章 実用化初期(その1)

2024年01月21日 12時21分23秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第15章 実用化初期 1940年代までの歴史

 1903年のライト兄弟による動力有人飛行の成功以前にも、動力飛行機は存在した。ウィリアム・サミュエル・ヘンソン(William Samuel Henson, 1812- 1888)はイギリス生まれの発明家で、彼が1840年代に構想した「空中蒸気車」は固定翼、推進力、降着装置、尾翼など後世の飛行機の特徴の大方を備えた先駆的なものであった。この、固定翼と動力を組み合わせたのはヘンソンが史上初とされているが、実機は製作されず構想のみに留まった。

 しかし、彼の協力者であったジョン・ストリングフェロー(John Stringfellow, 1799 - 1883)は、ヘンソンが飛行機械開発を断念した後も独自に研究を続け、1848年に蒸気機関を積んだ単葉の模型飛行機(図6.1)をわずか10 ft(3 m)だが飛ばすことに成功したとされる。

 その後約20年間は飛行機開発から遠ざかるが、1馬力の蒸気機関で動く三葉の模型飛行機を製作した。これは総重量が16 lb.(約7 kg)という軽量さを実現しており、1868年にロンドンの水晶宮における航空博覧会で公開飛行に供せられた。固定翼の動力模型による、史上初の公開飛行とされている。(1)


図15.1 ストリングフェローの単葉飛行機(ロンドン科学博物館)(1)

 ヘンソンとストリングフェローは、ことにあたって国際企業「空中輸送株式会社」を起業しており、世界初の民間航空会社ということができる。これ以降、英・米・仏では膨大な数の民間航空事業への試みが行われたが、いずれも膨大な資金の調達に苦労をした。当時の技術は、現代のものとはかけ離れているので、本稿では省略をして、第2次世界大戦後の進化の歴史を10年刻みで辿ることにする。それは、エンジンの性能が、ほぼ10年刻みで飛躍的に向上したためで、その歴史を図15.2に示す。


図15.2 第1世代から第6世代までのエンジン性能の進化

 20世紀に入ると、航空機開発熱は欧米で急速に高まり、毎年多くの起業や飛行が行われた。そのすべてを列挙することはできないが、特に第1次世界大戦では、偵察機、戦闘機、爆撃機など多くの軍用機が開発された。それを受けての大戦直後の1919年と1920年の2年間の、民間航空機分野では激しい動きは、欧米の主要国間でのフラッグ・キャリアーの育成と、国際間の主要航空路の争奪戦が開始されたことを示している。
 
 それは、これ以降延々と続く国家の威信をかけた競争の前触れであった。また、様々な競技会の開催などにより、軍用機よりも民間航空用の方に圧倒的な開発熱が喚起されて急速な発展を遂げ時代でもあった。欧米各国のこのような経験の積み重ねにより、民間航空機用エンジンは製造技術と信頼性を次第に獲得し、1930年代には大型旅客機による定期航空路の開発が始められるまでに発展した。

15.1 レシプロエンジンの旅客機
 
 飛行機の開発熱は急激に高まったが、動力源としてのジェットエンジンの開発は容易には進まなかった。一方で、技術的に着実なレシプロエンジンの進化は急激に進んだ。特に1920年から1939年の間は航空機の「熟成の季節」とも云われている。現代でもそうであるが、航空機とエンジンは製造面での裾野が広い。二つの大戦に挟まれたこの期間は、鉄工業を始めとして多くの産業が育った時代であった。その中にあって、旅客機の定期航空路の成否は安定した飛行速度の獲得であった。当時の飛行機はエンジン性能が十分でなく、向かい風では大幅に速度が落ちてしまい、例えばパリ・ロンドン間でも向かい風では途中で燃料切れを起こす始末であった。そのために先ず行われたのは、エンジンの出力を増すことであった。
初期に適用された技術は、既存のエンジンを改造するもので次のものがある。(2)

① ピストン頭部を加工して、シリンダー内の圧力をあげる
② 出力上昇に合わせて、燃料の混合比をあげる
③ 過給機を装備する

 しかし、このような改善ではまだ定期航空路の開設には適しておらず、もっぱら当時盛んに行われていたスピード競争に優勝するためのものであった。その一つに「シュナイダー杯」がある。あのアニメ映画「紅の豚」に出てくる水上飛行艇による速度競争で、長期間継続された。その優勝者の記録を図15.3に示す。


図15.3 シュナイダー杯の勝者の記録(2)

 この間に行われた技術の革新は、エンジンの水冷方法と過給機(エンジンの場合には、スーパーチャージャーと呼ばれる)の改善であった。通常のラジエターでは空気抵抗が増すために、翼面に多数の真鍮や銅管を流れに沿って這わす加工が行われた。また、エンジン軸の後端に増速ギアーを介してターボ式の過給機を付けて、そこから気化器をとおしてシリンダーに燃料と圧縮された空気を送り込む過給機も開発された。(2)

続く

第14章 日本での実用化と7年間の空白(その3)

2023年12月31日 07時19分58秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
14.2.3 日本ジェットエンジンという会社

 禁止期間が終了すると、直ちに1953年に石川島重工、三菱重工、富士重工、富士精密、後に川崎航空機が出資による日本ジェットエンジン㈱(以後,NJE)が設立された。通産省の補助金を受けて、J01, J1, J2などのエンジン試作と試験が続けられたが、搭載する機体の具体的な計画までは進められなかった。会社の設立当時の状況について、プリンス自動車の社史には、次のような言葉が記されている。
 『ジエット機、とくにそのエンジンの試作研究については、ばく大な費用を要するものである。欧米における研究も、各国政府の多大な援助によってそれぞれ達成せられたものであり、更にその性能向上のために、引続きあらゆる援助を与えているのが実状であった。
 これに反し、わが国においては、航空機工業再開直後のことでもあり、ジエット・エンジンの研究開発に対する政府の基本方針も確立されておらず、加うるに、敗戦による復興経済の途上にあって、企業はいまだ資本蓄積も充分でなく、個々の企業が独力でこの研究にたずさわる程の体制には、到底達してはいなかったのである。いわんや、こうした新事業の開発にみられ勝ちな、排他的研究態度をとられるにおいては、ジエット・エンジンの早期開発は望むべくもなかったのである。
こうした情勢の中で、通産当局は、航空機生産審議会の答申もあって、政府出資の国策会社設立を計画し、関係機関協議の結果、とりあえず第1 段階として、石川島重工業株式会社、富士重工業株式会社、富士精密工業株式会社、新三菱重工業株式会社4社の共同出資によりジエット・エンジンの研究開発会社を設立することになった。』(pp.231)(11)
 
 日本ジェットエンジン㈱が1967.8に関係者に配布した「社史」がある。この書には、発行日も発行社名もない。私の手元にあるのは、今井兼一郎氏に送られた1冊であり、添付の送り状の日付は昭和42年8月となっているので、それを発行日とした。
 内容は、本文が41ページで、そのあとに全従業員の名簿が続いている。先ずは、その中から我々がお世話になった方々を拾ってみる。ちなみに、社長は植村甲午郎である。



 取締役 土光敏夫
 研究部長 永野 治
 第1研究課員 石田一男
 第2研究課員 飯島 孝
 第2設計課長 今井兼一郎
 第2設計課員 土光陽一郎、杉山佐太郎、関根正信、村島完治
 工作技術課 榎本喜一  試作部次長 板垣乙吉
まだまだ数名おられるが、いずれも「ひとから、ひとへの技術の伝承」でお世話になった方々だった。

年表によると次のような経緯を辿っている。
 昭和28年7月23日創立 資本金 4000万円(その後、毎年増資)
 昭和29年7月31日 JO-1組立完了 同年12月15日 運転開始
 同年10月1日 J1 試作着手見合わせ、同日 J2設計着手
 昭和30年4月1日 J2設計中止
 同年6月11日 本社田無に移転
 同年12月25日 JO-1 運転実験打切
 昭和31年3月31日 防衛庁よりJ3エンジン3基受注
 同年11月16日 J3 第1号機(#31)組立完了
これ以降、順次試運転が行われたが、圧縮機破損、サージング発生、ベアリング破損、タービン翼破損などが、連続して発生している。
昭和34年10月1日 設計業務石川島に移管(前日に、多くの技術者は退社)
同年12月31日 技術関係残留社員全員退社
昭和35年4月30日 残務整理残留社員全員退社

 「まえがき」には、『戦後わが国航空機工業再建の要請に応え、いち早く航空エンジンメーカーが大同団結をして、・・・。』とあるが、それが防衛庁からの受注も順調に進む中、多少の開発遅れのために、わずか数年で解散してしまったことと、それから20年ほど後に、全く同じことを繰り返した歴史の理を知ることを目的とし読み進める。

 20年後の繰り返しとは、V2500エンジンの開発作業のさなか、それまで一致団結して設計にあった設計統括班を解体するばかりか、総ての設計グループを解散して、各社に戻してしまったことを指す。ジェットエンジンの開発には、巨大な資金とリスクが伴う。特に開発資金の回収には、機体製造会社の数倍の期間を要する。従って、世界に伍する産業として成長するためには、日本の一企業では、到底勝つことはできない。さらに、エンジンの設計についていえば、それは個別システムの統合作業にあらず、全体を一つのインテグレートしたシステムとして考えなければ、一つのエンジンを完成ささることはできない。 
 バラバラになった組織下でのジェットエンジン産業は、防衛庁の要求を満足させるエンジンの設計はできても、世界市場に乗り出すエンジンの開発は不可能であると考える。なぜ、同じことを繰り返されるのか、その理由をこの社史の中に見つけたように思う。

 既知のように、昭和27年4月の解禁と共に、大宮富士重工㈱が320万円の補助金を受けて、研究試作を開始、また、石川島重工業㈱は、駐留米軍からジェットエンジンを借用して、研究調査を始めた。しかし、『欧米に著しく引き離されてしまった現実を思えば、この際むしろ各社一致協力して、これに当たるべきことは当然考えられるべきであろう・・・。』(p.5)とある。

 そして、設立時の「覚書」は、『次の各項を誠意を以って遵守し、違反しないことを約する。』(p.6)として、15の項目が述べられている。しかし、そこには官製のために、いくつかの無理があることが見受けられる。それは、第5条の「役員は4社同数とする」、「もし合併が行われた場合には、権利は1社分として再配分する」、「将来当事者間に紛議を生じた場合には、通産大臣はその指名する者の裁定によって、・・・」などであり、ある一社の独走を敢えて阻む内容になっている。困難な開発作業をすすめれば、当然主導的な役割を果たすチームが必要になるが、私には、そのことを敢えて認めない内容に思える。そのことが、新エンジンの設計上でいかに重要であるかは、私のV2500とGE90エンジンでの経験が示している。

 続いての「設立趣意書」では、復興中の日本にとっての重化学工業の振興が、いかに重要であるかが述べられている。つまり、狭い国土と人口稠密、資源不足であるが、その条件は現在もなんら変わりはない。当時は、多くの若者の命が失われて、若者不足の老齢社会であることも共通している。

4項目の「従業員」の特徴は、総務部長に通産省の役人を充てたくらいであり、後は至極普通と思われる。
7項目は「親睦会」とある。中核社員である出向者は、親会社の組合に属しており、早くから「親睦会」が発足した。このこともJAECと酷似している。もっとも、我々の場合は、単なる飲み会であったが、これが毎週のように行われた。
8項目の、「エンジン開発経過」には、多くの写真が収録されている。「大宮作業所運転場」、「富士重工の燃焼実験装置」、「富士精密の補機実験装置」、「石川島の翼回転試験装置」、「日本精工の軸受試験装置」、「田無の高速翼列実験装置、燃焼実験装置、様々な加工機械」などであり、このこともFJR710やV2500と同じである。ただし、FJR710の場合は、多くの回転実験装置は航空技術研究所にゆだねられていた。
 特筆事項としては、新明和工業が防衛庁のC46輸送機をFTBに改造して、J3エンジンを胴体下に懸吊して、機内には運転計測室を設け、高空再着火試験を行ったことが記されている。このことも、同様なことがFJR710で再現された。
 そして、最後に、本題の第12項の「事業中止」の項目が、僅か2頁で語られている。これでは、教訓を残すには不十分と言わざるを得ない。しかし、この様なことの再発防止の教訓が遺されていれば、後のJAEC設計統括班の解体は免れたかもしれない。

 冒頭は、『J3エンジンの基本的開発が完了し、その生産が石川島で行われることになったので、今後事業を継続して行くために、新たなる目標を何に置くべきか、我が社としては重大な死活問題に直面するに至った。』(p.37)で始まっている。
 どうも、散々資金を投入して完成されたエンジンの製造が石川島一社に独占されてしまい、他の4社が、追加資金の供出を拒否したことが主原因と思われる。石川島から「製造権実施料」を取って、資金に充てる案も検討されたが、防衛庁からのみの受注量に期待が持てないとのことで、沙汰止みとなった。そして、会社の解体は必然となってしまった。
 
 このような経緯を見れば、後の歴史は必然的に起ったと言えよう。要は、組織の在り方だった。実際、RJ500もV2500も同等な権利を有する開発組織では、開発中に色々な問題が生じたときの対応の調整は困難を極めるし、その時の時間と経費の浪費は膨大である。 GE,PWA,RRでの経験者は、そのことを知って、二度と同じ組織形態は望まなかった。即ち、その後は、ある一社がプライムになり、共同開発相手を募集して、個々に参加条件を決めて、単機種の開発にあたると云う組織形態である。 
 その様な中で日本の個々の会社では、プライムになるには、あまりにも力不足で、RSPに甘んじざるを得ないのは、当然と思える。やはり、歴史上唯一のチャンスは、RRとの50対50のRRJAEL社で、それは、当時の英国と日本の特殊な国情下でのことだった。そのような政治情勢の偶然は、もう二度と訪れることはない。

14.2.4 JRシリーズの研究のはじまり


 1939年に設立された東京三鷹の逓信省所管の中央航空研究所の後を受けて、1955年に改めて総理府に航空技術研究所(NAL)が設立されて、それ以降の民間航空機用エンジンの研究の中心的な拠点となった。しかし、NATO戦略の一部に組み込まれた西ドイツと比べて、防衛との関係を一切遮断した研究は、実用とは離れたものと言わざるを得ない状態だった。

 民間航空機用では、すでに欧米に大きく差をつけられており、当初この研究所が扱ったのは、垂直または短距離離着陸機用のエンジンであった。日本の狭い国土と短い滑走路に適した航空機とエンジンの研究に終始することになる。そこで必要なのは、各種の要素試験装置であった。このために研究所の設置に続けて、直ちに第1次6か年計画が実行された。主な設備は、空気源、圧縮機試験用、タービン試験用、実機燃焼器用、小型航空燃焼器用、高速翼列用、構造強度試験用、軸受試験用などの試験設備であった。(10)そして、技術的な研究を主目的とした研究用エンジンJRシリーズが始まった。幸い、全て要素に対して、試験設備が整えられていたので、多くの研究論文が発表された。また、それらを組み合わせて、要求性能を満足できるエンジンの設計も可能だった。

 一つは、垂直離着機用エンジンであり、もう一つは短距離離着陸用エンジンだったが、前者が先行した。いわゆる「リフト・ジェットエンジン」である。このエンジンに第1に要求されることは、軽量化であり、世界一の推力重量比の達成が目標とされた。
 まず、JR100エンジンで推力重量比10の実現が試みられ、既存の材料と加工法で実現するための構造設計がすすめられた。このエンジンは、垂直離着陸機VTOLのエンジンの姿勢制御の研究に用いられ、1971年に試験用テストベットの自由飛行に成功した。
 つづいて、JR200,220の設計が行われ、推力重量比15を達成した。このためには、サイクル温度の高温化技術が必須であり、各要素の性能向上の中で、特に高温タービンの研究への注力が続けられた。


図3.9 JR100エンジン(10)

第14章の参考・引用文献;
(1)「日本の航空宇宙工業戦後史」日本航空宇宙工業会(1987)
(2) 林 貞助「旧陸軍試作の補助ジェットエンジンの全貌(その2)」日本ガスタービン学会誌、5-17(1977)
(3) 「幻のジェットエンジン「ネ-230」」日立製作所、日立タービン60周年記念会(2010)
(4)八島 聰「翼列失速フラッタに関する研究」東京大学博士論文(1977)
(5)芹沢良夫「変転の日々に生きて」日本機械学会誌87-793 (1984)
(6)棚沢 泰「極限状態でのネ-20」日本ガスタービン学会誌10-40(1983)
(7)長島利夫「ガスタービンの発明と技術変遷―航空用エンジンを主テーマに」日本ガスタービン学会誌36-2(2008)
(8)大槻幸雄、「日本における発達・開発process全体像」日本ガスタービン学会誌 36-3(2008) p.180-183
(9) R.C.ミケシュ「破壊された日本軍機」石澤和彦訳、三樹書房(2014)
(10)松木正勝「国産ジェットエンジンの開発」日本ガスタービン学会誌(2000) p.346-351
(11)「プリンス自動車株式会社 社史」(1997)
(12)「IHI航空宇宙30年の歩み」石川島播磨重工業(1987)
(13)前間孝則「ジェットエンジンに取り憑かれた男」講談社 (1989)
(14)八田圭三「ジェットエンジン再開」日本航空宇宙学会誌、第33巻 第374号(1985)


その場考学との徘徊(75) 都心部の坂道と階段(その3)信濃町~四谷三丁目

2023年12月13日 10時41分21秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(75)     
題名;都心部の坂道と階段(その3)  場所;信濃町~四谷三丁目 月日;2023.12.8
テーマ;迷子になりそうな町
作成日;2023.12.12                                                

TITLE: 都心部の坂道と階段(その3)信濃町~四谷三丁目

 今日は、信濃町駅から北に向かって歩くのだが、終点は「その1」で歩き始めた四谷三丁目の荒木町の交差点になる。つまり、新宿通りを挟んで、その1では北側、今回は南側になる。
 中央線の信濃町駅は、神宮外苑や明治記念館に行くために、何度も降りたことがあるのだが、いきなり千日谷を下るのは初めてだ。ちなみに、谷の名前は、ここの領主の法要が千日間行われたことに拠るとか。下った先の窪地で、早速に方向が解らなくなって、いきなり引き返すことに。



 坂の途中には、公明党の建物がある、中央線から看板がよく見える処だ。道なりに進むと、旧東宮御所の門の前の通りに出てしまった。神宮外苑から迎賓館に通じる道で、大学への通学によく通った。現在は、上宮御殿になっているので、かつてよりも守衛さんの数が多い。



 方向転換をして坂を下ると、中央線を潜ることになる。そこから先は一本道だ。

 次の目当ては、若葉公園ですり鉢の底のような地形だと書いてある。
途中で道を聞いてなんとかたどり着いたのだが、何もない公園だった。
しかし、公園からは、次の暗闇坂が見通せる。昼でも暗闇だったそうだ。
丁度、保育園児の一団が降りてくる処だった。




 暗闇坂を登り切って、細い路地を進むと、須賀神社の裏手に出る。そこには何故か36歌仙の絵入りの額が並んでいた。このあたりでは、四谷十八ヵ町の鎮守様として、かつては江戸の五大祭りの一つとして有名でしたとある。社名の須賀は、須佐之男命が出雲の国で八俣の大蛇を討ち平らげ拾い「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」との故事に基づき名付けられた。





 社務所には、やはり朱印帳の列があったが、私は、鳥居のストラップを選んでだ。なぜ鳥居なのかは解らないが、外人向けなのかも知れない。赤い紐は、「叶むすび」と呼ぶそうで、丸(四角)と十字の結び目が、叶という字になっている。


 
 拝礼を済ませて、正面から出る。すぐに天王坂という長い階段がある。しかし、その先はまた上り坂になっている。 谷底を左に行けばゴールの四谷三丁目だが、反対方向へ曲がる。服部半蔵の墓がある、西念寺を目指した。



 
 西念寺への道は単純だったのだが、お寺の境内は崖の上。通りがかりの人に聞いてもどこが入り口か解らない。
崖に沿ってこのまま進むか、思い切って「観音坂」という名の急坂を登るかの選択だった。道を聞いた人が登るので、話しながら坂を登ったのが正解だった。登り切った角を更に曲がり、結局、迷った場所の対角線の位置に山門があった。
 墓所は広いのだが、境内は意外に狭く、半蔵の墓と信康の供養塔はすぐに見つかった。





 服部家は徳川以前の松平時代の譜代家臣で、2代目服部半蔵正成が徳川家康に仕えて武功立て、8千石の旗本になった。彼は、いわゆる忍者ではなく、「槍の半蔵」と呼ばれる豪傑だったらしい。なぜこの地に家康の長男で、信長から切腹を強要された信康の供養塔を建てたのかは、よく分からない。




 山門でUターンをして、四谷三丁目へ向かう。途中には「東福院」と「円通寺」が有り、それぞれが「東福院坂(別名は天王坂)」と「円通寺坂」の中程にある。坂を登ったり下ったりで、
ウオーキングにはうってつけだった。



 そして、ついに地下鉄丸ノ内線が通る新宿通りとの交差点に出た。道の向こう側には、その1を歩き始めた荒木町の人力車の頭飾りがある赤い街路灯が見えた。





 全行程は7900歩、2時間強のウオーキングでした。

その場考学との徘徊(74)神楽坂はジグザグが楽しい

2023年12月12日 08時07分38秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(74)    

題名;都心部の坂道と階段(その2)  場所;神楽坂 月日;2023.11.28
テーマ;神楽坂はジグザグが楽しい
作成日;2023.12.11   
                                             
TITLE: 都心部の坂道と階段(その2)飯田橋駅東口~飯田橋駅西口

 今回は神楽坂なのだが、有名な商店街は歩かずに、ジグザグに登って、頂上にある有名な神社でUターンして下るルート。再び「東京人」の地図が頼りだ。



 神楽坂の横道は、とにかくわかりにくい。かつて、自衛隊のOBさんに誘われて、何回か飲食をしたのだが、どの店も小さく看板がなく、二度とその場所へ行くことができない。
 スタートは飯田橋駅の東口。このJRの駅は東京駅側が大きくカーブしていて、改札口まで随分と歩かされるのが特徴。
駅を出るとすぐに大きな歩道橋がある。ここで既に方向が解らなくなる。神楽坂に行くには、歩道橋に上がってはいけない。唯一の横断歩道を渡る。




 神楽小路という、外堀通りと平行の細い裏道を神楽坂に向かって歩く。ここには、昔あったといわれる期待した店はなかった。神楽坂の商店街を少しだけ上り、すぐに右に曲がって、細い路地をジグザグに進む。案内書には「路地裏ラビリンス」とある。
本田横丁を抜けると、筑土八幡町の交差点に出る。正面に神社の長い階段が見える。



階段は、男坂と呼ばれて50段。ここは、かつて牛込台地と呼ばれており、北の端が今日の目的地の赤城神社になっている。          残念なことに、両神社とも宝物殿は見当たらなかった。最近は、どこも若い女性が朱印帳を持って社務所に行列をしている。ここも、数人が並んでいた。 



 階段を一旦降りて、西に向かう。この辺にも階段があるはずなのだが、見つからないうちに、「神楽坂上」の交差点に出てしまった。

 交差点から、神楽坂を少し下って、善国寺に出る。毘沙門天で有名なのだが、像を拝むことはできなかった。七福神の小さな根付けを購入。
 少し戻って、今度は神楽坂の西側を巡る。地蔵坂と呼ばれる細長い道で、途中に光照寺がある。北条氏の出城の一つで、牛込氏の居城跡とあるのだが、看板以外に見るものがなかった。
 そこから、更に下ると、大江戸線の牛込神楽坂駅に出る。道路の反対側には、袖摺坂の狭い階段を見ることができる。すれ違うたびに、袖が摺れるそうだ。横には、マンションの土台を利用した公衆便所がある。地下鉄が開通する前からのものなのだろう。



 確かに、すれ違いが難しい階段を上りきると、住宅街に突き当たる。右に曲がって、朝日坂を下ると神楽坂の遙か上に出た。東西線の神楽坂駅がある。信号の下に、赤城神社の入り口がある。



 境内はかなり広いようで、拝殿が見えない。参拝者が出てくる方向へ進むと、いくつかの階段があり、やがて眺めの良い場所に拝殿があった。つまり、ここが台地の端のように見える。

 


 帰路は、神楽坂商店街を一気に下った。両側の商店は、さすがに飲食店が多いのだが、通常の八百屋や雑貨店もあり、上の方は普通の商店街だった。家への土産物を探したが、良い店がない。そろそろ飯田橋駅と思ったところに「陶柿園」という瀬戸物屋が有り、店先に特売品として江戸切子が並んでいた。中に、手頃なぐい飲みが有り、それを奥さんの誕生日プレゼントとして求めた。江戸切子にしては安価だったので、店の主人に聞くと「江戸切子の職人が、中国に滞在して、現地教育を行った場所で、生産されている」と。つまり、中国製なのだが、模様も、切り込みも確かなものに見えた。夕食時に早速試したのだが、握り心地が大変良かった。



 飯田橋駅の新宿よりには、江戸城の石垣の大きな名残がある。駅ビルのテラスから全体を見ることができる。



その場考学との徘徊(73)都心部の坂道と階段(その1)

2023年12月09日 07時40分26秒 | その場考学との徘徊
題名;都心部の坂道と階段(その1)  場所;荒木町 月日;2023.10.28
テーマ;四方八方階段だらけ 
作成日;2023.12.8                                                

TITLE: 都心部の坂道と階段(その1)四谷三丁目~曙橋

 図書館のリユース本の棚で、「階段で歩く東京の凸凹」という雑誌が目に入った。「東京人」という月刊誌の2021年3月号だった。その中からいくつかを試してみることを始めた。半日ウオーキングにうってつけだ。



 初回は、新宿区荒木町で昔は花街だったそうだ。「東西南北の四方が塞がれたすり鉢」と云われている狭い地域のようだ。確かに、地図を見ただけで、そのすごさが歴然としている。



 1から6番までの階段すべてを効率的に廻るルートの作成から始めた。
出発地の地下鉄丸ノ内線の四谷三丁目駅は飲食店が多く、友人と居酒屋やそば屋を楽しんだ記憶があるが、昔の花街の路地に入るのは初めてだ。入り口の赤い柱の街灯の上には、人力車の飾りがついている。これが目印になっている。やはり、細い道の両側には、小さな飲食店が並んでいる。



 最初の階段からやけに狭そう。あたりには車はなく、もっぱら自転車が放置されている。車が入ってこないせいだろうか。



路地は複雑で、方向が解らなくなり易い。うっかり登ると、上の道に出てしまう。

 しばらく行くと、小さな池がある。「笞の池」とある。
昔、徳川家康が鷹狩りの途中に寄って、ムチを洗ったと書いてある。
実際このあたりには湧き水があり、相当な広さだったとある。鯉が寄ってくるのは、餌やりの人がいるからなのだろう。




池の畔には弁財天がまつられている。



そこからUターンをして、別の階段に向かった。とにかく、狭い場所なので、あっという間に6つを制覇することができる。



 最後の、曙橋の通りに上る階段の先には、防衛庁の電波塔を真正面に見ることができる。これで、方向が確認できるので、安心だ。

 曙橋の陸橋からの眺めは、下の通りまでの高さを実感できる。
そこから、一旦坂を下りて、近くの新宿区歴史博物館へ向かった。

 この博物館には、一度来たことがあるのだが、今回は林芙美子展が行われている。マスコミに騒がれた作家程度の認識しかなく、作品も読んだ覚えがないのだが、その独特の人生には興味があった。周辺の、淀橋浄水場の絵が描かれた四角いマンホールの蓋が面白い。



 生誕120年記念展なのだが、中身は充実していた。シベリア鉄道経由でヨーロッパを回り、パリに在住。帰国後は、大戦中に従軍作家として中国大陸を巡り、奥地の占領時には、第一陣とともに行動したとある。


 入り口にあるジオラマが素晴らしい。現在の新宿駅周辺が克明に表されている。鉄道の線路、駅舎、周辺のビルの屋上の機器や配管類まで再現されているのは面白い。



 また、内藤新宿時代の町並みも見事だ。私の母校の都立新宿高校の位置も、甲州街道と玉川上水の関係からはっきりと解る。現代のジオラマでは、3代目の校舎の屋上プールの形まで再現されている。新たに開通した明治通りのバイパスを挟んで、新宿御苑の木々の一本一本や建物まで正確なのには驚かされる。




第14章 日本での実用化と7年間の空白(その2)

2023年11月27日 12時48分51秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第14章 日本での実用化と7年間の空白

14.2 空白の7年間の影響

 日本は敗戦によって1945年から7年間、航空に関するすべての研究、開発、製造が禁止された。具体的には、昭和20年8月15日の無条件降伏後、8月24日には日本国籍のすべての航空機の飛行禁止、9月22日には「降伏後の日本に関する米軍の最初の政策」が発表されて、全ての軍用機と民間機の破壊が開始された。さらに、11月18日にはGHQからの覚書が発表されて、航空機に関する生産・研究・実験を始めとする一切の行為が禁止された。それによって、中央航空研究所、東京帝大航空研究所が廃止された。(1)

 一方で、諸外国はその間に、レシプロエンジンから、ターボジェットエンジンへの大幅な切り替えが行われた。とくに米国では1950年からの朝鮮戦争用にジェットエンジンの大量生産が行われ、F100、F102戦闘機などの生産が進んだ。

 日本が終戦直前に完成させたネ-20エンジンは、4台の完成品が米国に接収されて、米国内で運転試験が行われた。合計22回で11時間46分のデータと分解検査の経過が詳細な調査報告書に纏められた。このようにジェットエンジンは、最先端の軍事技術として、その当初から期せずして国際間で技術の伝承と共有が進んでいたことになる。

14.2.1 残された日本軍機

 この間に破壊された日本製の機体とエンジンについては、米軍による詳細な記録が残され、その多くはワシントンの国立公文書館に保管されている。それらは、多くの写真を交えた大型本としてスミソニアン協会の国立航空宇宙博物館の元主席学芸員の手によって纏められた。原題は「Broken Wings of the SAMURAI」(9)
 そこには、当時の戦場を始め世界各地に保存されている機体とエンジンについての詳細な記録も含まれている。特に東南アジアでは、残された機体とエンジンをもとに、戦後直後の各国の軍用機に関する技術の伝承も行われたと記されている。
 
 「序文」には、『1945年6月末までに、8000機の体当たりがあり、4800機の陸軍機と、5900機の海軍機が特殊攻撃用に改造されていた』、と記されている。それらは、製造時は戦闘機、爆撃機、練習機および偵察機だった。このように、すべての航空機は特にエンジンの換装などにより、用途を比較的容易に代えることが可能で、このことは、現在でも広く行われている。
 戦争の終末期には、米軍は上陸を敢行しなければならない。この作戦に対して、上陸地点で、無数の特攻機が上陸用舟艇に乗り移る局面で、戦艦や輸送艦に対して用いられると考えられていた。そのような状態では、本土上陸作戦は大いに危険であると判断されたことは、容易に推測される。

 1946年末時点で、処理を終えた航空機の総数は12,735機で、そのうちの1,589機は、処分ではなく取得と記録されている。残された機体の一部は、エンジンと共に完全な状態でパナマ運河を通過して、ニューワークに送られ、オハイオ州デイトンの航空資材センターで一覧表が作成され、その際に独自の航空機識別番号が付与された。その中には飛行艇もあった。当時、米国が日本の航空機技術の系統化に、いかに熱心だったかが解る。
 
 当時、飛行艇の設計技術は米国よりも日本が優れていたようで、特に次の様に記録されている。(9)
 『アメリカに別便で輸送された、この川西H8K2 「エミリー“Emily”」(2式飛行艇12型)は、戦後入手した日本軍機の中でおそらく最も役に立った機体である。第2次世界大戦中の4発飛行艇の中で最も効率の良
いことが認識されていたので、その艇体形状は何回も滑水試験を繰り返して徹底的に評価されたのである。
貴重な調査結果は後にアメリカ海軍P5M 「マーリン」、P6M「シー・マスター」およびR3Y「トレードウインド」飛行艇に適用された。』(p.127)


図14.8 2式飛行艇12型(9)

  この飛行艇のエンジンは、三菱火星22型(1,850馬力)で、最高速度は高度5,000mで465km/h、M0.38、
航続距離 7,153km(偵察過荷)とある20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門を装備し、爆弾最大2t(60kg×16)または航空魚雷×2の爆装が可能なので、当時としては飛行性能と装備に関して世界でも有数な能力があったと思われる。
 なお、飛行艇のエンジンはレシプロ機では大きな変更は必要ないが、ターボエンジンの場合には、エンジン
前方から波しぶきを被った時の水吸い込みに拠るエンジン停止が大問題になる。

14.2.2 影響の概要

 我が国のジェットエンジンの歴史は、松木正勝により次のような5期間に纏められている(10)
第1期 第2次世界大戦終了まで(黎明期)
第2期 終戦から1952年の航空再開まで(一切の活動禁止期)
第3期 航空再開から1970年まで(基礎技術の蓄積期)
第4期 1971-1988年の通産省大型プロジェクト終了まで(発展期)
第5期 1979年からの国際共同開発期(実用期)

 当初から現在まで、航空機用エンジンの研究と開発には官用・民用を問わず国家予算からの援助が続けられている。軍用機(現在は自衛隊機)に関する諸技術の維持・向上が主目的だが、その技術の多くが民間機用エンジンの国際共同開発で維持され、さらに更新されている。このことは、自衛隊機用のエンジン開発は、よくても10年に一度なので、その間の技術者の維持・育成と新技術の取得は、民間用のエンジン開発プロジェクトに頼らざるを得ない状況から生じている。この状況は、軍用機用エンジン開発に継続して膨大な予算があてられている米英の状況とは全く異なる。

 その様な状況下にあって、1979年から始まった国際商品としての民間航空機用のジェットエンジンの開発は、既に40年間も続いているが、国際共同開発の枠組みから脱して、独自のジェットエンジンを開発できる状況にはない。僅かに、ホンダジェットがビジネス機の分野で頑張っているだけである。この状況は、空白の7年間の影響から、まだ抜け出せていないと考えられる。つまり、第5期が40年間以上も続いており、第6期への入り口は見えていない。

 第2期の一切の航空関係の研究と産業が禁止された期間中には、我が国の技術は産業用ガスタービンの分野で続けられた。それは、運輸技術研究所、機械試験場などの国立研究機関が主であった。
 
 この間の実例としては、「鉄研1号ガスタービン」が挙げられる。このエンジンは戦時中に石川島芝浦タービンで開発中だった高速魚雷艇用のものを、堀り起こして改造したとされている。戦後、航空用に従事していた海軍空技廠と中央航研の技術者約20人が、鉄道技術研究所(以下、鉄研)に入り、開発予算を獲得した。この時の石川島芝浦タービンの社長は土光敏夫で、彼はこの後も航空用の立ち上げに大いに貢献した。この時のメンバーの山内正男(後の航空宇宙技術研究所所長)は、「しかし、航空用ガスタービンの隠れ蓑というような意図は全くなかった」と語っている。(13)

 しかし、当時の鉄研の所長の中原寿一郎の「日本はいま航空の研究は禁じられているが、いつか必ず再開される日が来る。その日のために、この人たちは大切に育ててほしい。」(13)という言葉が遺されている。このガスタービンは、完成後の試験運転で何度も失敗を繰り返し、そのたびに改良が加えられた。潤沢な研究費と、実験室を長期間自由に使うことを提供した土光のお蔭であった。

 最終的には、1時間以上の定格・耐久運転に成功したが、目標の燃費には遙かに及ばず、更に騒音が都市部の機関車には不適当ということで、鉄道用の動力源としての採用には至らなかった。
このガスタービンは、後に運輸技術研究所に引き継がれ、和歌山県の興亜石油の給油所内のコンプレッサー駆動用として使用された。このように、技術の伝承は人を通じて行われていたが、基礎技術は維持できても、航空用としての実用化と運用面の技術は全く育成ができずに、その影響は今日まで続いている。

コラム

終戦直後の大学の航空学科とその学生の動向が、八田圭三「ジェトエンジン再開」(17)に詳しく書かれている。このような人脈によって日本のジェットエンジン技術は、かろうじて保たれたと云える。
 
 『それにしても 戦時中に大膨張していた各大学の工学部の航空学科としては,多数の学生をかかえているわけですから,この禁止指令は反抗できない占領軍命令とはいえ大変だったわけで,学生をそのままほうり出すわけには参りませんので,マッカーサー司令部とあれこれ交渉して,やっと在校生だけは,航空以外の教育をして卒業させるという了解(当時の大学は3年制でしたので,航空学科の学生が1学年卒業すると教,助教授の数も1/3 減らし,3年間で消滅するという条件でした)をとりつけたわけです。それでたとえば東京帝大第―工学部の卒業生のなかに内燃機関学科(航空学科原動機専修の過渡的学科名)卒業という方がおられたりすることになった次第です。私は幸い機械工学科に採用され引きつづき大学にのこれましたが,それらの結果,工学部や研究所の航空関係のかなりの数の教,助教授が退任を余儀なくされました。しかし航空機や航空原動機の設計や性能に直接結びついた講義や研究はできませんが,航空に直接的に関係のない流体力学の研究や教 育ができないわけでなく,航空原動機はいけないが陸舶用のピストンエンジンや,ガスタービンに関する研究や教育は行われたわけです。戦後私なども機械学会などで今から思うと極めて初歩的で恥ずかしくなるようなガスタービンの話を良くしたものです。』





第14章 日本での実用化と7年間の空白(その1)

2023年10月21日 06時55分28秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第14章 日本での実用化と7年間の空白

 ジェットエンジンに関する日本での研究と開発は、比較的早くから始められた。航空機工業が産業としての形態を整えたのは、昭和5,6年のことだと云われている。(1)その科学技術的な基礎を構築するために、1920年に東京帝国大学に航空学科が創設された。特に大学での流体力学と燃焼理論に関する研究は、世界的にも進んでいた。ジェットエンジンについては、12.3.4で示したように、種子島大佐の下で研究が開始された。
 しかし、当初はエンジン名の「ネ」(燃焼の頭文字)が示すように、初期には構造がより簡単な燃焼器のみを基本とするロケットが注目されていた。それは、陸軍の戦闘機や輸送機のレシプロエンジンの出力が限界に近づいたために、その補助推力を得るためのものであった。しかし、試作と実験を繰り返しても、期待した性能は得られなかった。そして、俄かにジェット機の開発が実用に向かって加速されたのは、海軍によってドイツからもたらされたエンジンの断面図によるものであった。

14.1 日本での実用化
 1944年7月、日本からの天然資源と引き換えに取得したドイツのBMW003Aの図面が潜水艦(伊号第29など)で日本に運ばれた。しかし、全ての潜水艦は連合軍により撃沈され、総ての技術史料は海の藻屑と消えたのだが、わずかにシンガポールから空輸された15分の1の断面図だけが日本にもたらされた。そこから、産官学あげての本格的な実用機の開発が急ピッチで進んだ。この時点で、失敗続きとはいいながらも、実機テストを積み重ねていたので、断面図一枚からでも、詳細設計が見通せたのであった。
14.1.1 ネ―0からネ―4まで
 
 1943年(昭和18年)に、陸軍に於いてレシプロに代わる、連続燃焼の燃焼器の開発が俄かに始められた。
燃焼効率もさることながら、目的はロケットとして機体の下部に装着して補助推進力を得るためのもので、冷態時(非燃焼時)の空気抵抗により優劣が競われた。ネ―0用の燃焼器として候補になった6種類の図を(図14.1)に示す。


図14.1 ネ―0用の燃焼器(2)  


図14.2 陸軍航空機用補助ジェットエンジン(2)


 その改良型の燃焼器に圧縮機を取り付けたネ―3(軸流圧縮機)とネ―4(遠心型圧縮機)が、キ―48Ⅱ型の双発軽爆撃機に搭載されて空中試験が行われた。燃焼飛行試験に成功した時の写真を(図14.3)に、その時の性能諸元を(図14.4)に示す。この時点では、軸流式に軍配が上がった。熱効率は悪いが、得られた推力による機速の増加が大きかったためである。


 図14.3 キ―48Ⅱ型の第1回燃焼試験飛行(2)


 図14.4 ネ―4のエンジン性能((2)のデータより筆者作成)

 
 しかし、これらの成功の裏では、軍用機用のピストンエンジンの質及び生産数の低下が顕著になり、実戦機用の改良と増産と整備に注力されることになり、この種の開発は中断してしまった。そして、それ以降はジェットエンジンの開発は海軍の手にゆだねられることになった。その中断に関して、当時の関係者は『ネ―4による日本初のターボジェット推進飛行を実施し得たものと、今もって痛恨に堪えぬ』(2)(p.31)と激白している。
先に述べたドイツ軍の事情と酷似しており、技術とハードの信頼性欠如が問題だった。

14.1.2 ジェットエンジン「ネ-130,230、330」

 ドイツからもたらされた断面図をもとに進められた開発プロジェクトは、海軍の航空技術廠が有名であるが、民間各社でも並行して開発がすすめられていた。そのことは、日立製作所の「日立タービン60周年記念会」から発行された、「第2次世界大戦中の日本におけるジェットエンジン技術」(3)に、当時携わった社員自らの記録として示されている。この書は、A4サイズで21ページにわたり、当時設計や製作に直接に作業にかかわった人たちによる生々しい未公開の資料ということになる。
私は、日立のOB会のご厚意により偶然に入手した。内容の紹介は、いくつかの文節を直接に引用する。すべての文章は、直接かかわった人たちの言葉なのだから、それがベストの方法だと思うゆえである。そもそもの始まりは、このように記されている。三菱、日立、石川島による3社同時並行の競争だったことがわかる。

 『“ネ-230”の試作は、1944年(昭19)4月、当時の日立工場松野原動機部長がタービン設計課長の柴田を連れて帝国海軍空技廠に出頭して種子島大佐から潜水艦によってドイツから送られて来たジェットエンジンの断面図を1枚下付されて、至急設計試作せよと命じられたところから発足している。 この席上には見知らぬ民間会社の人達が同席していた。それは、三菱、石川島、中島飛行機からの技術者と責任者達であって、三菱グループ、石川島グループとの競争試作への命令が下された。日立の航空機機体部門は中島飛行機と組むことが示された。』(p.1)

 具体的な分担について、ネ-20と、これらのエンジンとの関係は、次のように明確に示されている。
『昭和19年の7月空技廠で、タービンロケットに関する大会議がひらかれ、日立からは松野さんが出席され、私はカバン持ちでお供をした。柴田さんか山中さんもご一緒だったと思うが、記憶はない。この席上ドイツから潜水艦で持ってきたというタービンロケットの組立断面図1枚が配られた。写真で引き延ばしたというこの図面には、寸法が1箇所も記入されていない。 三菱の人だったと思う、使われているボルトの太さを想定してそれから計算してみると、ロケットの全長はこれこれの大きさになると発言した方がおり、うまいところに目をつけたものだと感心した覚えがある。この会議の結果、日立はネ-230の開発を、それを搭載する飛行機は中島飛行機が担当することに決まった。ネ-130は石川島、ネ-330は三菱担当と決まったのもこの会議のときである。ネ-20は空技廠自身が開発を担当したもので、海軍はネ-20 の開発に全力をそそぎ、民間三社の開発にはあまり口出しはしなかったと、いまはそんな気持ちもしている。』(p.15)

 そして、直ちに設計と試作が始まった。『唯1枚の断面図を頼りに設計試作することは、戦時下とは言え全くの難題であったが、タービン設計課は全力を挙げてこれに取組み、当時の設計課内で各人の分担を定めて総合設計と部分試作に取組み、翌1945年(昭20)の6月に試作機を組立て、火入れを行うに到った。6月20日のB29による大爆撃によって日立工場は壊滅に等しい状態になったが、この時、試作機2機は高萩工場に移されていて難を免れた。試作を通して最も難行したのは、タービンの中空冷却翼の成形であったと記憶している。』(p.1)
 
 設計については、こんな記述がある。
『「“ネ-230"のネは燃焼する(非火薬燃料を)という意味で230はスラスト・ ホース・パワーが2300馬力であることを示す」と呼称の意味を柴田さんから伺いました。推力の計算は山中さん作成の技術資料にあった計算式に依りました。噴出する 燃焼ガスのモーメンタムからエンジンに吸込まれる空気のモーメンタムを差し引くという理論通りの式でした。ダイヤフラムの設計では燃焼室を出る800 ℃のガスによる熱変形が心配でしたが、別に新しいことはしませんでした。』(p.3) 

 特に、高圧タービンの冷却設計には苦労をされたようで、試運転の様子も詳細に書かれている。
 『高温ガスの中での、ディスク、翼は高温度にならないように、空気圧縮機からの圧縮された空気でディスクのまわりを包み、翼を中空にして圧縮された空気を流入させて、高温化を抑制する構造にすることになったのですが、耐熱合金を中空にする加工は加工工数の関係で困難であることなどからパイプを原材料として 成形加工によって中空空冷翼を成形する方法が採用されました。 製作完了後、高萩の試験場に据付けられて試運転が始まったが、ガス噴出口から見ると翼の温度は相当高い様子である。試運転中に翼が損傷したなら万事休すの気持ちで試運転に携わっていたのですが「青木さん」の記述にありますように仕様通りの出来栄えで試運転が終わりほっとした記憶が強く残っております。』(p.6) 

 これと同じ経験は、後に1970年から始まる三鷹の航空技術研究所におけるFJR710の高圧タービンの高温試験機に引き継がれることになる。私自身が設計したタービン翼が、回転が上がるにつれて赤色から橙色になり、さらに透明に見えたときには心臓が高鳴った。実に25年間のギャップがあったことになる。

 試運転については、ネ-20で活躍する「永野少佐」との関係が示されている。後に、石川島播磨の副社長としてFJR710の設計と、それに続く日英共同開発事業の立ち上がりで、大いに活躍をされた方である。
 『起動には30kw程度の電動機が使われましたが自力で加速するところまでもって行くのが思ったほど容易でありませんでした。私はもっと楽に始動出来るものと予想していましたので、それを見てタービン・ブレードの入口側のプレス加工の関係でシャープでなく円くなっていることが気になりました。竹内さんが何かの折りに「ブレードの代わりに円い棒を立てて置いてもタービンは回る 」と言われたことがありますが、空技廠の永野少佐もこれをかなり気にしておられました。』(p.4)

 3月に入り、B29による本土爆撃の恐れにより、3月2日と4月11日に、拠点を移したとある。そして、いよいよ試作機の飛行機への取り付けが行われた。
 『「ネ-230」は一号機で、中島飛行機製の本体に二号機と共に左右に搭載され、機名は火龍と命名されていたということでした。飛行機の全長11.5メートル、2台のジェットエンジンの中心距離4.5メートル。最大時速約800キロメートル、航続距離1000キロメートルという計画であったとのことでした』(p.8)
 その後、日立工場は6月10日にB29の「大爆撃」にあったが、その前に高萩に移動したために、終戦までに9000回転までの運転に成功した。試運転についての記述は以下のとおり。
 『私が書いた前記の一文によると、ネ-230の一号機が完成したのは昭和20年5月、ひきつづき2号機、3号機が完成しており、1,2号機は運転の結果使用不可能なまでに破損し、3号機の運転にはいろうとしたときに終戦になってしまったと、残念そうに書いている。ただ私のおぼろげな記憶では、この3台のほかにもう1台あったと思われてならないのである。田無にあった中島飛行機の発動機試運転場に、たしかに一台運びこんでいる。杉林のなかを一部伐りひらいてつくった運転場で、コンクリート造りのものものしい運転室がいくつも並び、人影はなく、こんな処に置いて帰るのかと思ったことをかすかに覚えている。』(p.13)
 
当時の中島飛行機田無工場の写真(図14.5)によれば、日立や中島の工場は何度も空襲にあったようだが、この写真にある田無工場の「ウナギの寝床」は、無事石川島播磨重工のジェットエンジン工場として21世紀初頭まで存続した。(確かに、工場建屋の形は似ているのだが、ごく近隣の他の工場との説もある)


図14.5 中島航空金属製作所(後のIHI田無工場?)

 技術の伝承については、終戦後にGHQの呼び出しに応じて話された内容として、次のような記述がある。
 『先生(沼池教授)のお話を要約すると、戦後GHQの呼出しに応じて行ってきた。(中略)米国でできなかったことを君達は成功した。その原因を教えてくれ、ということであった。それは「カルマンの学説に対して、沼池の翼の干渉理論の方が正しかった。軸流圧縮機の効率の良否だ」と説明した。』(p.11)
 当時の日本の高速流体理論が、カルマンよりも優れていたとは驚きなのだが、V2500設計時にも、同じことがあった。東大航空学科卒で石川島播磨重工業(現IHI)の若手社員であった八島 聰が書いた圧縮機内の非定常流に関する学位論文(4)が、Rolls-Royceの最先端の理論よりも、はるかに優れていたことが、今も同社内で伝わっている。なお、IHIが担当したネ-210エンジンについては、8月に松本での台上試験で最高回転数までに成功したが、異物吸い込みで破損したと伝えられている。

(注記)田無工場は中島飛行機の工場又は下請け(豊和産業)でアクチュエーターを生産しており、当時の発動機試験場は現在の東大和市にあったガス電の所にありJ01などの開発に使われた、との話もある。

14.1.3 「ネ-20」エンジン
 このエンジンの開発時の正式な日本語の記録はない。そこで、実務に携わった芹沢良夫「変転の日々を生きて―海軍ジェットエンジンの開発など」日本機械学会誌 [1984](5)から一部を引用する。
 彼の経験はわずかに4か月半だったが、当時の開発プロジェクトの様子を知ることができる。
 『昭和19年設計開始、20年4月試作第1号の実験に入った。恐らく試作を12台ぐらい作り、搭載した双発戦闘機「橘花」で試験飛行に成功し,終戦の時はすでに量産に入っていた。私の着任はその実験の初日であったが、挨拶もなく、実験見学、仕事に入った。』(p.1328)
 また、当時の技術レベルについては、以下のように記されている。
『実験の始めに,軸流送風機の翼列の知識不足から圧力が出なかつたが,推定で計算をやり直し, ペンチで羽根をひねって見事に圧力を出した。断面図の見違いで,円周上に並んだ円筒状の燃焼室を,一つのリング状の燃焼室と間違え,燃焼の偏りに悩んだ。高圧の燃料ポンプが難しく,多くの変わった試作をしたが,歯車ポンプに落着いた。噴射弁,その直後の空気と燃料を混ぜるスワールカップ,一次,二次の燃焼室の形,溶接の苦労, タービンについても材質,冷却,強度などの努力、またスラストが大きく,軸受でも,ミッチェル式 などいろいろな試作をした。』

 ネ-20を搭載した橘花の飛行試験については、周知のように2回目の試験の滑走中に、補助装置のロケットの燃焼時間を誤り、離陸できずに木更津の海に着水し、その歴史を閉じた。それと同時に、全ての技術に関する資料は破棄されてしまった。しかし、米軍に接収されたエンジンは米国で研究され、英文の論文と単行本が存在する。そのリストが下記のように記載されている。

『参考のため「ネ-20」に関する論文と単行本の一部を添えておく。
(10-1)種子島時休氏の研究の全容は,同氏 がSmithsonian Instituteの要請によって書かれた“The Technical History of the Development of the jet Engine in Japan”(1968) に詳しく述べてある。
(10-2)その内容を整理したもの“The Technical History of The Development of The Jet Engine in Japan”という題目で,防衛大学の紀要Vol. 10, No.1 (1970),pp. 23-27.に掲載されている。
(10―3) Robert C. Mikesh 著“KIKKA” (Nomogram Aviation Publications,Mass. 1979)
中には「ネ-20」と「橘花」の生立ちと,specificationが詳しく書かれている。』(5)


ネ-20エンジンは実物が日本に実在する。(図14.6)その経緯については、技術の系統化の項で述べる。




図14.6 ネ-20エンジンの実物写真(IHI提供)


図14.7 ネ-20エンジンの断面図(IHI提供)

 しかし、当時はれっきとした技術の系統が存在した。それは、ネ-10からネ-20への伝承であった。
ネ-10エンジンは、海軍空技廠で実機試験が繰り返されていたが、遠心圧縮機のために所定の圧力比を得るために回転数を異常に高くし、結果インペラー等の破損事故を繰り返していた。そこで、前部に4段の軸流圧縮機を加えたネ-10改、更に改良を加えたネ-12の開発を進めていた。そこに、ドイツから全段軸流圧縮機の断面図が送られてきたというわけであった。つまり、基本的な設計技術も製造技術も十分に備わっていたわけである。また、タービン動翼についても、蒸気タービンの度重なる事故調査から、翼の振動問題や製造方法に関する十分な技術の蓄積があった。(2)
ジェットエンジン技術は、当時の国際関係の中にあって、特に同盟国間の技術の伝承と国家による援助が早期から行われていた。この国際間での協力の伝統は、現在もなお続いている。また産官学の連携についても同様で、このことはまさに最初のネ-0から始まっている。

 『陸軍では、川崎航空機が1942年11月に第2陸軍航空研究所の委託により,東京帝国大学航空研究所の援助を得ながら,ターボジェットエンジンの研究試作を開始した。林貞助技師以下僅か10名がこれに当たり,「ネ-0ラムジェットエンジン」を開発し,早くも1943年12月23日 には陸軍99式双発爆撃機「キ-48」に搭載して試験飛行に成功した。これは日本においてジェット推進による空中で運転した最初のエンジンであった。』(p.180)(2)
このように、航空機用エンジンに係わる技術の伝承と系統化は、当初からヒトからヒトへであった。それは、この製品が何よりも安全性が必要であり、かつ広範囲な科学と技術の同時適用が必要なためであったからと考える。
終戦までの間に製造された航空機用エンジンの数は、三菱重工が約5万1000台、中島飛行機が4万6726台、川崎航空機が約1万4000台という膨大な数であった。しかし、これら全ては軍需用であった。民間機としては、昭和13年の「航研機」による周回飛行距離世界記録の樹立、翌年の「ニッポン号」の世界20か国、5万2800キロに及ぶ世界一周飛行などの記録があるのみである。(3)周回飛行距離世界記録とは、これを実現するために特に設計された飛行機で、関東平野の一周約400キロのコースを62時間以上無着陸で飛行し続けた記録であった。

 しかし、このような軍用偏向には大きな欠点があった。それは、品質管理、コスト分析といった工業化としての基本的課題が全く追及されなかったことである。特に品質管理に関しては、エンジンの運用上に大きな問題があった。当時の日本の飛行機は、単発機の性能では世界一であったが、大型の4発機はうまく操縦ができなかった。これはエンジンの性能がバラバラだったためと云われている。また、エンジン修理に於いては、他のエンジンからの交換部品が手直しをしないと取りつかないといった問題があり、全体としての稼働率は世界最低のレベルだった。
さらに、戦術面でも大きな問題が語り継がれている。ゼロ戦に悩まされたアメリカ軍が、個々の空中戦では不利と考えて、新たな戦闘法を実行することを決定した。それは、戦場まで高空で大編隊を移動させて、一気に急降下攻撃をする戦法であった。このためには、飛行性能、特にエンジンの性能が均一でなければならず、アメリカの工場では当時品質管理が徹底的に行われていた。その結果、ゼロ戦はその後連戦連敗になってしまった。この品質管理に関する話は、私自身が戦後まもなくGHQ(連合軍総司令部)で品質管理(敢えてQuality Controlと呼ぶ)を学んだIHIの先輩から伺ったのだが、その教育は朝鮮戦争にあたって、修理などを日本企業に委託せざるを得ず、短期間に急遽行われたものとも伺った。これ以来、特にIHIの航空エンジン部門では、Quality Controlに関する研究と実践が大いに進むことになるのだが、そのことは後の章で説明する。

飛行中のモニター画面の楽しみ方(その2)

2023年09月01日 13時16分47秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(72)         
題名;JALの旅  場所;機内にて 月日;2023.8.24
テーマ;向かい風 作成日;2021.11.24                                                

TITLE: 飛行中のモニター画面の楽しみ方(その2)

 昨年の11月に続いて、奈良での3泊4日の一人旅を終えて、伊丹空港から羽田空港までの空旅を楽しみました。今回の機体はBoeing787-8ですが、機内は満席。午後5時台のフライトでしたが、奈良からの空港リムジンの都合で、3時前に伊丹に着いてしまいました。途中、猛烈な雷雨に遭ったのですが、空港も「雷警報のために全作業を中断します」でした。そのために、3時台は1時間以上のおくれ。4時台は15分遅れのペースでしたが、搭乗者の一人が行方不明で、結局5時台の15分前に、やっとゲートを離れました。

 前回(2022.11.17)と同様に、帰路ではもっぱらモニター画面とにらめっこをすることにしました。ジェットエンジン屋としては、雷雲が散在する中での機速と高度の関係に興味が湧きます。
あるタイミング毎に目的地からの距離、機速、高度、それと風向きが表示されるので、それを記録してみました。昔、米国大陸を南北に飛んだ時に、飛行高度を遙かに超える雷雲の柱を、何本も避けながら飛んだ記憶が蘇ってのことです。

帰宅後に、グラフ用紙にプロットをしてみると、色々なことが分かりました。


 
 グラフから、結構色々なことが読み取れます。
① 飛行高度(当日は6400mですが、前回は8839m)は、1メートルの上下もなく、ほぼ200kmの間保たれている。
② そのためには、機速は結構大幅に上下している。
③ 上昇中は、スピードもどんどん上がるが、前回は、水平飛行の直前から、スピードを下げて高度がオーバーしないように調整していたが、今回は最高速度と、最高高度が一致。AirBus機とBoeing機の違いなのか、機長の好みなのかは不明。
④ 向かい風では、機速は大幅に落ちる。落ちる分の、約半分をエンジンの出力を上げて、大幅な遅れを避ける。
⑤ 当日のフライト中では、Max.38m/sの向かい風で、これは時速137km/hなので、その時の機速の17~21%に相当する。
などでした。実数のデジタル数字の表示なので、結構楽しむことができました。

 奈良では、今回は、学生時代(1960年代)に何度も泊めていただいた禅宗のお寺で、当時の娘さんに60年ぶりにお会いできました。女性3代で寺を継いでおられるそうです。当時は、ジャンボ機が初めて飛び始めた頃でした。