世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

雪は降るか

2008年01月20日 22時48分01秒 | Weblog
今日明日中に東京には雪が降るともっぱらの噂だ。
しかし雪はまだ降っていない。
雪は降るのか。


「スウィーニー・トッド」を見てきた。
お帰りティム。
「シザーハンズ」のときの君が帰ってきたようだね。
こないだの「チャーリーとチョコレート工場」のときには感じなかった君のあのちょぼさを今日、改めて感じたよ。
いや、決して君をけなしてなんかないさ。
君にとってあのちょぼさ加減は特技といっても差し支えないじゃないか。
荒唐無稽な物語、薄い人物設定、尻つぼみのラスト、ほんとひとつひとつのちょぼさが際立って君らしい作品に仕上がっていたよ。
そのちょぼさを莫大なお金を使っていい具合にさらにちょぼくしていたね。
お帰りティム。
君のそのちょぼさを時を経てもなおこの目で確かめれてよかったよ。
君のちょぼさが大好きだよ。ほんとさ。僕は君のそのちょぼさが好きなんだ!

話は変わって、
ガルシア=マルケス「予告された殺人の記録」を読んだ。
これは非常に泉鏡花「夜叉が池」に似ているなと思った。
「近代」を背負って閉鎖的な町にやってきた男。
町娘をめとって、そこからはじめる「旧近代」的な慣習のためのいさかい。
無益な生贄と伝統に縛り付けられた男たち。
そこから生まれる犠牲者。
それがコロンビア風になっている。
名前が覚えられない。
コロンビアの慣習がよくわからない。
そんなアンフェアさを抜きにしても、近代という大波に抗えない人々の姿は伝わってきた。
ただ、重層的だと思ったのは、
同じ町人でもみんながみんな同じ方向を向いているわけではないこと。
大勢の人がそれぞれ個人的に感じ考えたことが、なぜかまわりまわって悲劇を生んでしまったこと。
バカな考えも賢明な案もまるまるおおきなくくりでまとめてしまえている。
なに言ってんだかよくわかんなくなってきたが、
とても多角的な視線を持った作品だった。
ただ、
「新婚初夜に処女でなかったとわかった花嫁の親族は花嫁の処女を奪った相手を殺してもいい」
というコロンビアの風習にはびっくりした。
そしたら、アンタもアンタもアンタもアンタも殺されるよ。


寒いと水がうまい

2008年01月20日 02時07分06秒 | Weblog
宮沢章夫「サーチエンジン・システムクラッシュ」と、
ジャック・ケッチャム「老人と犬」を読む。
別に意図したわけではないが、
続けざまに読んだこの2冊とも、探す話だった。
といっても、それ以外に共通点はない。

「サーチエンジン・システムクラッシュ」は、
99年の作品で、99年って言ったらもう9年前になる。
9年前って言ったら、まだ、「風紀を乱す」という理由で高校生は携帯電話を学校に持って行ってはいけなかったし、当然iアプリとか全くなかったし、パソコンも今みたいに「使えなきゃもうそれだけで罪」というわけでもなかった。
今でこそヤフーとかグーグルとかまかり通っているが、99年当時「サーチエンジン」なんて言葉は、あまり普及していなかったと思う。
宮沢章夫自身、エッセイかなんかで言っていたが、この小説が世に出たときによく「このタイトルどういう意味ですか?」と聞かれたらしい。
しかもそれは、「どういう意味でこのタイトルをつけたのか」という質問ではなく、単純に「タイトルの言葉はどういう意味か」という質問だったと言っている。
つまり、ヤフーなんかがアクセス数多すぎたりとかして機能しなくなっちゃった状態のことよ、と今では簡単に説明できそうな、しかも実感こもって話し合えそうな言葉が、当時は一般的ではなかったわけだ。
そういう意味で、新しい小説だったのだと思う。
探しても探しても見つからない話。
探すものがどんどん移り変わっていく話。
しまいにはなにを探しているのかもわからなくなる話。
どこにもなににもたどり着かない話。
頭がぐるぐるする。
それでもすごいと思うのが、こういう小説にありがちな精神世界のほうに絶対行かないことだ。
途中で見上げるビルに大きな花が咲いたり、電柱のポスターの女においでおいでされたりはしない。
あくまでも、状況を丹念に描いていく。
たとえば、小説の中で池袋を迷い歩くシーンがあるのだが、これは小説の中だけの話とはとても思えない。実際、池袋は迷うのだ。細道に入れば、風俗店とか中華料理屋がびっちりで駅がどの方角かもわからなくなる。まして、そのなかから曖昧な目的地を割り出そうとするなんて、現実問題として目眩がする。
そういう納得できるわかりやすさがあるから、読んでいて置いてきぼりにされない。
そういう部分で安心できているから、不意に襲ってくる不条理さにも素直に驚ける。
そう、これは全然意味がわからない類の話だ。
でも、話がわからない話ではない。説明できる。「探す話」だ。
あくまで、「意味が汲み取れない話」で、そういう「純粋な意味のわからなさ」こそおもしろがる話だと思った。
だからこそ、タイトルの段階で「言葉のわからなさ」につまずいてしまった99年の読者には残念だったと思う。
そこでつまづいたら、内容になんてとてもいけないじゃない。
最近、言葉の選択と時代性というものをよく考える。

「隣の家の少女」に引き続き、2冊目のジャック・ケッチャム。
「老人と犬」を読む。
この作家はむごいことばかり書くのだが、なぜか私は文章が好きだ。
なんてことないある一節が頭から離れなくなったりする。
2冊読んでそう思い至った。
まあ、実際は翻訳されている文章を読んでいるわけなので、その翻訳された日本語に惹かれているのかもしれないのだけど、話しの持って行きかたも好きだ。
とくべつな大仕掛けがあるわけではないが、筋道を立てて進み、ちゃんと着地する実直さがいいのかもしれない。
もっとも、その話の中身はたいへん悲惨なものなんだけど。
「老人と犬」も探す話だ。
しかしこの話は、「サーチエンジン…」とは違ってすごくはっきりとした目的と強靭な意思がある。しかも、なんと、悪の暴力と戦うのだ。
典型的なアメリカの正義物語、屈強なヒーローの復讐劇、と済ませてしまえるかもしれないのだけど、この小説に裁きはあっても、「勝利」はない。
だれも勝たない。
最終的にはみんなが傷つく。
しかも生きていかなくてはいけないし、これからも人生は続く。
うげ、つれー。
つれーつれーことをたくさん見せてくれる。