世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

激昂す

2005年08月22日 19時13分54秒 | Weblog
金沢くんだりまで。
来てしまいました。
マシュー・バーニーが来るんですもの。高知でクレマスターを見逃したことは生涯の悔やみです。
と、いうことで、雪辱戦の拘束のドローイングです。
コンテンポラリー・アートの極み。ビョークが毛皮の文金高島田!気持ち悪い!生々しい!でも目がはなせない。
そもそもマシュー・バーニーという人は映像作品を作るアーティストなわけですが、今回は付属して立体作品も展示。しかも金沢21世紀美術館にて自ら制作した作品もあるってんで、地元金沢に限らず全国各地から姉のような変り者がわらわらとかの地へ押し寄せているというわけであります。
客の多くがアートに興味がすごくある人か従事してる人なんでしょう。奇天烈な格好の一癖あるわよ的な装いを主張していらっしゃる人ばかりで、街歩いててもこんなに数見ないなぁと、やっぱ集まるとこには集まるもんなんだなぁと、静かに思ったことでした。
これがバーニーの吸引力なのだな、と。
美術館はきれいで洗練されていて、作品は文句なく楽しめました。
ね、とまあ、いいことばかりだったらよかったんですけど。
姉にはどうしても納得いかないところがありました。
というか、素直にここの学芸員さんはマシュー・バーニーの魅力を伝え切れてないよ!と。声を大にしてこれだけは言わせていただきたいわけですよ!
たとえば、コンテンポラリー・アートと呼ばれるわけくさわからないものが目の前にあったときに、人はやっぱり説明してくれるものを探すと思うんですよ。
自分じゃ消化しきれないものには微々たる情報でも貴重で、それらを集めて換算して、それでやっとぼんやりわかる。こういうことなんだろうと。
あくまでぼんやりと。きっぱりわかるなんてそれこそ気持ち悪いだろうと。それに、マシュー・バーニーに話を戻すと、あれがきっぱりわかる人は客にいてはいけないだろうと。きっぱりわかる人がもしいたらの話ですが。だってわかってしまったらマシュー・バーニーの存在意義やら作品の魅力が消滅します。
我々はコンテンポラリー・アートの前では常に戸惑い、戸惑わないものはコンテンポラリー・アートではないのではないかと。
で、今回ですよ。
激昂しましたね。
きっぱり説明しすぎ!ぱっきりしすぎ!
それだけならまだしも。
その説明が雑!
バーニーがトランポリンを使って天井に絵を描いている映像の説明が「がんばって絵をかく人」。
こらー!!!
半人半獣の生きものが蠢く映像。「うわっ、歩きにくそう!」
素人か!
姉はかなしくてかなしくて、滑稽で滑稽でしかたありませんでしたよ。
いくらなんでも説明書きに読書感想文をのせるなんて。
あまりにもちゃち過ぎる。がっかりですよ。
でも映画はよかったよ。マシューのせいじゃないよ。日本人のせいだよ。
ああ、げっそり。

あ、マシューっても真実を出した日本人じゃありませんよ。
いや、あのマシューも好きなんですけど。
マシュー、次は高知でやって!
高知には優秀な学芸員さんが揃ってるから!