ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

ステファニア・ヴィルティンスカの生涯

2013-01-30 21:57:31 | ひと

コルチャック医師の生涯について調べていて、約30年間も彼の片腕を務めたステファニア・ヴィルティンスカについても学んだので、今日は彼女のことを記事にしたいと思います。

(残念ながら、写真の撮影年月日は大半が不明。)

 

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コルチャックの孤児院では“マダム・ステファ”と呼ばれていたヴィルティンスカは、1886年生まれ。コルチャックより7歳か8歳若かったことになる。5人兄弟の4番目に生まれたヴィルティンスカは、両親、すぐ上の姉のジュリア、弟のスタニスラフと一緒に、母親の『持参金』だった建物内の6部屋あるアパートメントで成長した。一番上と二番目の姉たちは、既に結婚し家を出ていた。織物工場を所有していた父親が病弱だったため、子育ては大半が母親によってなされた。

愛国心が強い母親は、女性も教育を受けるべきだという考えをもっていて、ジュリアとステファニアを学費の高い私立学校へと通わせた。その後二人は、ベルギーのリエージュ大学へと進んだ。ステファニアはそこで、自然科学の学位を取得した。しかし彼女が本当に興味を持っていたのは、教育だった。大学を終えてワルシャワに戻った彼女は、家の近くのうらびれた小さなユダヤ人孤児院でボランティアとして働き始めた。そこの前院長による孤児院の運営資金の横領が、孤児救済会によってようやく発覚したところだった。ステファニアの有能さが認められるまで長くはかからなかった。やがて彼女は、孤児救済会会長イザーク・エリヤズベルグ(コルチャックが『師』と仰いだ、医師で社会活動家だったユダヤ系ポーランド人、1860-1929年)の妻ステラに、同孤児院の運営を任されるようになった。別の孤児院の住人である13歳のエステルカ・ヴェイントラウプが、彼女のアシスタントを務めた。

                           

1909年秋。エリヤズベルグ夫妻は孤児院で、資金集めのためのパーティーを開いた。孤児に接する温かい態度で有名になっていたコルチャックも招待された。コルチャックは孤児院の改善計画に強い興味を示し、ステファニアとおしゃべりし孤児たちと遊ぶために定期的に孤児院を訪れるようになった。コルチャックとステファニアのチームワークは抜群だった。コルチャックは子供の愛情と関心を引き付ける天性の資質を持っていたし、一方ステファニアは規律と秩序を保つことに才能を発揮した。その孤児院は閉鎖して新しい孤児院を建設することが、まもなく孤児救済会によって決定された。コルチャックは新しい孤児院の院長となり、ステファニアは運営面での責任者となった。

第一次世界大戦までに、孤児の数は150に達していた。コルチャックが軍医として戦地に赴くと、ステファニアは孤児院運営の重荷を一人で背負わされた。イザーク・エリヤズベルク医師も召集されてしまっていた。ステファニアは当初、重責に大きなプレッシャーを感じた。しかし彼女によってベルギーの大学に送られていたエステルカが、彼女の手助けをするため急遽帰国してくれた。その後の2年間、エステルカはステファニアにとって大きな助けとなった。1916年に大流行した発疹チフスのためエステルカが急逝したとき、ステファニアは実の娘を失ったように感じ、しばらくの間ひどい鬱状態に落ち込んだ。孤児院を離れることすら考えたが、どれほど多くの孤児たちが彼女を頼りにしているかを思い、気力を取り戻した。エステルカを失うというトラウマを経験した彼女はしかし、その後は孤児たちの誰とも特別に親密にならないよう努めた。

1918年にコルチャックとエリヤズベルク医師が帰還すると、ステファニアの負担は軽減された。彼等は教職志望の学生たちに、パートで孤児院を手伝う代わりに寄宿つきのセミナーを与えることにした。志望者の審査を担当したステファニアは、子供に対し明らかに愛情を持っている者、きちんとした身なりをした者に好感を持った。コルチャックはといえば、身なりには重きをおかず、心から子供を愛し、既に子供と接する機会を作っていた者を好んだ。異なる意見にもかかわらず、二人は何人もの教師の卵を選出した。

        1923年撮影。コルチャック、ステファニアと教育関係者と子供たち。皆変わった衣装をつけているから、子供たちはお芝居を披露したらしい。

 

42歳だった1928年のある日、ステファニアは孤児院で宣言するとともに黒板に書いた。「これからは私のことを、“マダム・ステファ”と呼ぶように。私ほど多くの子供を持った女性が“ミス”と呼ばれるのは、適切ではありません。」そういういきさつでその日から、彼女は“ミス・ステファ”と呼んできた子供には返答しないようになった。呼び名が変わった後も、彼女は以前と同じ有能な孤児たちの庇護者だった。孤児たちのために特別なご馳走を作り、病気の子供を優しく看護し、子供の声に耳を傾け、衣類を繕い、遠足を企画し、孤児院をスムーズに運営させた。孤児たちと教職志望の学生の多くにとって、彼女は母親のような存在だった。

ナチズムと反ユダヤ主義を怖れたステファニアは、1938年にパレスチナに移住したが、孤児たち恋しさが募り、一年も経たないうちにまた孤児院に戻った。1939年にポーランドがドイツに侵攻されてからも、変わることなく子供たちを愛し、彼等の世話を続けた。幸い以前の教職志望学生たちが、石炭、衣類、現金、マットレスなどの調達に自発的に協力してくれた。ステファニアは孤児院の中に裁縫学校を開き、子供たちが衣類に困ることがないよう図った。ポーランド出国を希望する者の出国期限だった1940年4月を前にして、ステファニアは、ポーランドを逃れてパレスチナに移住するという奇跡的なチャンスを与えられた。しかしステファニアは、ジュネーヴの赤十字に「子供たちをおいては行けない」と、申し出を断る電報を送った。

                               

コルチャックとステファニアにとって、子供たちの明るさと生活状態を保持することは、ますます困難になっていった。ナチスの命令により、1940年11月、二人は170人の孤児たちを、ゲットーに移転した。厳しい環境と増え続ける規制にもかかわらず、ステファニアは子供たちのために勇敢に振る舞い、秩序を保つよう努力した。子供たちをゲットーの病院に行かせて疫病をうつされるリスクを冒したくなかった彼女は、地下室を病院にした。必要最低限の医療品しかなかったにもかかわらず、彼女は、子供を看病した経験を生かして最善を尽くした。例えば彼女は、砂を詰めた靴下を温めて鎮痛に使い、咽喉の炎症には塩水を使った。1941年1月に、孤児院はゲットー内での移転を命じられた。移転のたびに孤児院の建物は狭くなっていったが、ステファニアは子供たちを愛情深く世話し、秩序を保つできる限りの努力を続けた。

                                      晩年のコルチャックと。

                                    

1942年8月5日、孤児たちの『東部への移転(=トレブリンカ強制収容所への移送)』命令が来る。それまで長いことステファニアは、いくらナチスでもポーランド国内では有名になっていた自分たちの孤児院には手を出すまいと信じていた。「孤児院を空けて移送のための集合場所に来るように」との命令は、誰にとっても大きなショックだった。ステファニアは、コルチャックや10名いた他のスタッフと共に平静を装い、192人の子供たちに遠足に行くので仕度をするように言った。ステファニアは2番目の、9歳から12歳までの子供たちから成るグループを引率した。スタッフたちは移送に加わらず自宅に戻る機会を与えられたが、子供たちをおいて去ることを誰もが拒否した。

トレブリンカのガス室に入ったとき、ステファニアはコルチャックと同様、二人の子供と手を繋いでいたと信じられている。

 

《 終 》

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