ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

ヤヌシュ・コルチャックの生涯

2013-01-29 23:23:15 | ひと

ヤヌシュ・コルチャック 《実はこれはペンネームで、ヘンリク・ゴルトシュミット(Henryk Goldszmit)が本名》 は、1878年か1879年7月22日にワルシャワで生まれた。生年が定かでないのは、法律家だった父親が出生届の提出を怠ったためである。父親のヨセフ・ゴルトシュミットは、法律家としてワルシャワで成功していたものの、家庭生活はほとんど顧みず、妻セシリアとの結婚生活もあまりうまく行っていなかった。

裕福な家柄、有力者との親交、法律家である父親の高収入。幼いコルチャックはワルシャワでも最も成功し人々の尊敬を集めるユダヤ人家庭で育った。家には乳母、住み込み家庭教師、料理人など複数の使用人がいた。この一見恵まれた境遇はしかし、コルチャックには何の喜びももたらさなかった。後のコルチャックは、自分が育った家庭の冷たさ、悲しみ、寂しさを回想した。当時は珍しいことではなかったとはいえ、母親にも父親にも姉にも、ほとんど触れ合うことなく育った。賢くウィットに富んではいたものの傲慢で冷淡な父親は、ほとんど家にいることがなかった。

 

12歳のコルチャック。           制服姿の20歳頃のコルチャック。       スリスカ通りのユダヤ人子供病院。

  

7歳になったコルチャックは、ギムナジウム入学のための予備学校に送られた。鉄の掟と鞭が運営するその学校は、コルチャックにとって、支配的な教師を前にした生徒の怖れ・寂しさ・無力感の象徴となった。年若いコルチャックはすでにこの時、大人と子供の間に起こる緊張と不正義を認識していた。

1890年頃、精神疾患を病んだコルチャックの父親は入院し、その病院で1896年4月に死亡した。収入を失った母親と姉を経済的に支えるため、ギムナジウムの学生になったコルチャックは家庭教師や新聞への記事投稿をして家計を助けなければならなかった。裕福と貧乏の双方を体験したコルチャックは、社会における不公平、不正義、悪の徴候などに自然に敏感になった。貧困・失業・搾取行為なども、根絶されるべき問題だ。将来のコルチャックは、どの政党にも属さない個人の立場で、人間の、とりわけ子供の尊厳を求めて積極的に社会活動することになる。

文学に深い興味を抱くようになったコルチャックは、文学作品を読み漁った。書くことにも興味を覚え、1898年に文学作品のコンテストに応募するとき、そばにあった小説『ヤナシュ・コルチャックと美しい女刀鍛冶』の主人公の名前を借りてヤシュ・コルチャック(Janasz Korczak)をペンネームにした。これが間違ってヤシュ・コルチャック(Janusz Korczak)にされてしまったが、彼はそのまま使うことにし、この名前をもって後日世界的名声を得ることになる。

 

 学生時代のコルチャック(中央)。                       子供病院。(コルチャックが関わった別の病院?)

  

1898年から1904年までの若きコルチャックは、ワルシャワ大学で医学を学びつつ、いくつかのポーランド語の新聞のため記事を書いた。児童教育に興味を覚えたコルチャックは、学生時代から孤児の支援やサマー・キャンプでのボランティア活動に関わるようになった。卒業後小児科医になった彼は、1904年から1912年までワルシャワのスリスカ通りにあるユダヤ人子供病院に勤務した。小児科医であり社会活動家でもあった彼は、貧困家庭の人々とも知り合うようになった。

日露戦争の 際には軍医として戦地に赴いたが、戦後はワルシャワでの医療活動に戻った。その頃彼の名は、文学界で少しずつ認識されつつあった。1907年から1908 年にかけて、コルチャックはベルリンへ一年間勉強に出掛けた。続けてパリに半年。一ヶ月だけ訪れたロンドンでは、学校や老人ホームを訪問した。自分の家族は持たず、子供たちのために生涯を捧げようとコルチャックが決心したのは、この頃だと言われている。

 

                                            子供たちとコルチャック。

1909年、孤児救済会のため働いていたとき、彼はのちに彼の片腕となるステファニア・ヴィルティ ンスカと知り合う。1910年、ワルシャワに新しく孤児院ドム・シエロット(Dom Sierot=ポーランド語で『孤児院』らしい)が建設されることになった。院長のポストを打診されたコルチャックは喜んで受け入れ、ヴィルティンスカに協力を仰いだ。

新設の孤児院は最新設備を備えており、100人以上の孤児を収容することができた。コルチャックとヴィルティンスカは共同で教育プログラムを編み出し、孤児院は彼等の教育法の“実験室”となった。それは主観性を保持し、自己教育の術を身につけ、創造性と責任感を持つことを子供に奨励する内容だった。孤児院は、『仕事の家・生活の学校(home of work and a school of life)』となった。コルチャックは様々な新しい教育方法を試みた。例えば、子供たちは議会を持ち、裁判を開き、新聞を作った。コルチャックの孤児院の運営法は注目を集め、別の孤児院の運営者や教育関係者が視察に訪れるようになった。

 

      ドム・シエロット。                                              ステファニア・ヴィルティンスカ。

              

第一次世界大戦(1914-1918年)が勃発すると、コルチャックはウクライナ前線の野戦病院へと送られ、従軍医師として働いた。戦争に巻き込まれて負傷した子供たちの運命を見た彼は、強い印象を受けた。

時が経つにつれ、コルチャックの医者としての活動は次第に減っていき、逆に教育――理論と実践の両面での――に情熱が傾けられた。医療は病気を予防したり治したりはできるが、人々をより善い個人へと変えることはできない。それに気づいた彼は、個人に影響を与え、結果として社会環境を改善するチャンスがある教師/教育者として働くことを選んだのだった。

 「世界を改善するには、まず教育を改善しなければならない。」

 

外でジャガイモの皮むき。                                       スタッフと子供たちとコルチャック。                         

 

 食堂としても使われたドム・シエロットのホール、1940年。

ドム・シエロットでのコルチャック。                               食事の時間。

 

  キッチンで野菜の皮むき。                裁縫室。                               順番に助け合いながら入浴。

  

       共同寝室。                                       スタッフとコルチャック。

         

1930年代に入り、パレスチナに興味を覚えたコルチャックは、1934年から1936年までの3年間、毎年パレスチナを訪れた。そのためポーランドの新聞に彼に関する反ユダヤ主義のコメントが書かれ、彼は、運営に関わっていたもうひとつのキリスト教の孤児院ナッシュ・ドム(Nasz Dom=Our House)から遠ざかることとなった。

1935年から1936年と1938年から1939年にかけて、コルチャックは『ある年寄り医者』と名乗ってラジオで子供向けのトーク番組を担当し、人気を博し た。(映画 “KORCZAK” は、ラジオ放送のためマイクに向かって語りかけるコルチャックのシーンで始まる。)

 

        ドム・シエロットの子供たち。                                            ドム・シエロットにて、1935年。

                 

コルチャックの片腕だったヴィルティンスカは、反ユダヤ主義の高まりを受けて孤児院を離れ、1938年にパレスチナに移り住んだ。しかしコルチャック自身はパレスチナ移住を拒否し、ポーランドに留まった。

孤児たちとの生活が忘れられなかったヴィルティンスカは、一年も経たずにまた孤児院に戻ってきた。

 

   サマー・キャンプの様子。撮影年月日不詳。                            農作物を世話する子供たち。

 

      集合写真。                                                運動の時間。

       

                                   スタッフとコルチャック。                                                 

                                     

 

1939年9月。ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発すると、コルチャックはポーランド軍に兵役を志願したが、高齢を理由に断られた。やがてドイツ国防軍が、ワルシャワを占拠。1940年10月、ドイツ軍はワルシャワにユダヤ人ゲットーを設立する。

 

                     

1940年11月に、コルチャックの孤児院はゲットーへの移住を命じられた。コルチャック、ヴィルティンスカを始めとするスタッフと子供たちは、ゲットーへの橋を渡った。 ・・・・・

 

 

 

                         現在でも入手可能な、コルチャックが著した児童文学や大人向けの教育書の一部。

          

 

                              伝説の人物となったコルチャックについて書かれたものの一部。

    

 

トレブリンカ強制収容所跡に建立された慰霊碑。ここで犠牲になった人々の出身地名を刻んだ約17,000の岩のなかにひとつだけ、“ヤヌシュ・コルチャックと子供たち” と、コルチャックの個人名が刻まれている。

  

 

                           ワルシャワのユダヤ人墓地にある、コルチャックと子供たちの慰霊碑。

                 

 

                               ワルシャワ市内(の公園?)にある、コルチャックと子供たちの慰霊碑。

                   

 

                   イスラエルのヤド・ヴァシェム(ホロコースト記念館)にある、コルチャックと子供たちの慰霊碑。

                  

 

         2010年8月5日の追悼式典の様子。

           

 

                    空襲でコルチャックが寝泊まりしていたという屋根裏部分が失われた、ドム・シエロットだった建物。

                           現在も孤児院として使用されているそうだ。前庭に、コルチャックの頭像。

                 

 

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クラクフ~ワイダ監督~映画~『コルチャック』と連鎖してきて、このような偉大な人物について初めて知りました。孤児たちと運命を共にしたコルチャック医師。こういう話を聞くと、誰もが(果たして自分にはできただろうか?)と考えますよね。私は? ・・・たぶん無理。我が子のためなら死ねるけど、他人の子のためには、たぶん無理。

最初は私、コルチャック医師は、協力者の嘆願を受け入れてせめて自分だけでも助かるべきだった。と思いました。死んでしまったら何もならないけれど、戦争を生き延びれば、その豊富な知識と経験を、将来の子供たちのために生かせたから。でも・・・

コルチャック医師には、自分の家族はありませんでした。そして、数十年にわたって孤児院の運営に深く関わっていた。孤児たちの存在は、もうコルチャック医師にとっては、空気のように「なくてはならないもの」だったことでしょう。愛し献身してきた子供たちを裏切って自分だけ助かって、戦後には別の孤児たちの世話をする?そんなの、きっと、空しすぎたでしょう。子供たちだって、最後の最後になってコルチャック先生が自分たちをおいて姿を消してしまったら、きっとパニックに陥ったことでしょう。恐怖に満ちた時間が、孤児院退出から始まって命の火が消えるまで、ずっと続いたことでしょう。

コルチャック医師自身は、「私は偉人などではない。自分がそうしたいから子供たちと運命を共にしただけ。」と、草葉の陰で思っているでしょうね。

こんな悲しく残酷な出来事は、本当に、もう決して、二度と、起こりませんように!

コルチャック先生と子供たちのご冥福をお祈りします。 ・・・・・

 

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コメント (1)    この記事についてブログを書く
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1 コメント

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コルチャック先生 (ふうこ)
2017-12-18 07:09:50
すばらしくまとめてくださり、有難うございます。
私のブログに使わせていただきます。

ふうこ
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