ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

ルワンダ虐殺を描いた映画

2021-02-19 21:29:17 | 事件

前回の記事を書いたあと、久しぶりにふたつの映画をDVDで見ました。

どちらもルワンダ虐殺の際に実際に起きたことを基にした映画で、もう10年以上前に、

イマキュレーさんが著した Left to Tell を読んだあとで買ったものです。

 

HOTEL RWANDA の邦題はそのまま、『ホテル・ルワンダ』。

惜しくも受賞は逃したものの3部門でアカデミー賞にノミネートされたから、ご存知の方も多いのでは。

       

『ホテル・ルワンダ』は、言うなれば、成功した人命救助の話。

結末を知っているから、安心して見られます。

対照的に、もうひとつの映画・・・

 

SHOOTING DOGS、邦題は『ルワンダの涙』というんですね。

       

ルワンダの首都キガリに実在した公立技術学校を主な舞台とした映画ですが、これは、見るのが辛いです。

助けられなかった命の話ですから・・・。

 

《 注: 記事はネタバレを含みます 》

 

以下、斜字は ウィキペディア: 国立技術学校の虐殺 他からの引用です。

 

〔概要〕 ルワンダ虐殺さなかの1994年4月上旬、2000人を超えるツチフツ穏健派の避難民がフツ過激派の襲撃から逃れるために

この学校内へ避難しており、国連平和維持軍ベルギー兵が学校の警護を行っていた。しかし同月11日、国連軍が任務を放棄し撤収した

ため、その後すぐに児童数百人を含む避難民約2000人の大半がフツ過激派民兵のインテラハムウェによって虐殺された。

 

フツ系住民によるツチ系住民の殺戮が始まり、ツチの人々は多くが、ベルギー兵が警護していたこの学校へと避難してきます。

そこで英語を教えていた若き英国人教師ジョーは、彼を慕うマリーという少女を、「ここなら安全だ」と言って慰めます。

走ることが得意なマリーは、家族とともに避難してきていました。

 

国際連合安全保障理事会の国の多くがアフリカの紛争に介入する事に消極的だったことが知られている。そんな中ベルギーのみが

国際連合ルワンダ支援団に対し確固とした任務を与えることを要求していた。しかし、この事件の数日前に当たる1994年4月7日、

アガート・ウィリンジイマナ首相の警護を行っていた平和維持軍のベルギー兵10人が武装解除の末に殺害される事件が発生したことで、

同国はルワンダからの撤退を主張するようになった。この国連安保理の意向を受け、国際連合ルワンダ支援団は国連本部から

「国際連合ルワンダ支援団はルワンダにいる外国人の避難のみに焦点を当てた活動行うよう」指示を受けた。

 

ベルギーがルワンダ介入に積極的だったのは、やはりルワンダが独立する直前までは自国の植民地だったという経緯があるからでしょうね。

植民地時代の当初は少数民族のツチに肩入れしたものの、やがては多数派のフツを優遇するなどして、ツチ族とフツ族間の対立の種を

撒いたという負い目があったのでは。

そんなベルギーも、自国の兵士が10名殺害されたことで翻意し、撤退してしまいます。マシェティを振りかざして

「ゴキブリ(ツチ族のこと)は皆殺しだ!」と喚声を上げる無数のフツ過激派に取り巻かれた学校に、

2000人以上の避難民を残したまま・・・。

 

この指示により、2000人のツチが避難していたキガリの公立技術学校の警護を行っていたベルギーの平和維持部隊は、フツ・パワー

プロパガンダを繰り返し叫ぶ過激派フツに学校を取り囲まれている状況であったにも関わらず、同施設の警護任務を放棄して撤収してしまい、

その後校内へ突入した過激派フツにより避難民が一斉に虐殺される結果となった

十分な兵員も無く、難民救助を行うための明確なマンデート(任務)も与えられなかったとはいえ、国連平和維持軍が避難民を見捨てたことで

2000人もの避難民が虐殺されたことで国連の信頼は大きく損なわれる結果となった。

 

英語教師ジョーも、脱出する最後のチャンスを逃すことはできず、撤退する国連平和維持軍のトラックに乗り込みます。

「ずっと一緒にいるから」と約束していたマリーの悲しげな視線が突き刺さるのを感じながら・・・。

立ち去ろうとする平和維持軍のデロン指揮官に、マリーの父親が懇願します。

「私たちを救うことが出来ないのなら、マシェティで惨殺される苦痛を免れられるよう、全員を射殺してくれ。

それが無理なら、せめて子供たちだけでもいい、苦痛から救ってやってくれ。」

そんな願いは叶えられるはずもなく、トラックは走り去ります。

 

学校はカトリック系だったので教会と密接な関係があり、クリストファー神父は虐殺が始まってからも、避難民のために定期的に

礼拝を執り行ってきました。ジョーの懇願にもかかわらず、白人の神父は学校に、避難民とともに残ります。

兵士たちが去ったあと、神父は学校のトラックに目をつけ、子供たちだけでも救おうと、マリーを含む数人を荷台に横たわらせ、

覆いをかけて隠し、自らハンドルを握って学校を出ます。が、しばらく走ったところで道路封鎖に遭い、トラックから降りてフツ系過激派と

交渉中に射殺されてしまいます。荷台の子供たちは、それまでにはマリーが一人ずつ降りるのを手伝って、木立へと逃がしていました。

神父の死を目撃したマリーも、安全な地を目指して、必死に走ります。

 

5年後、神学校で聖歌隊を指揮しているジョーを、成長したマリーが訪ねてきます。マリーはジョーに「あのときなぜ、私たちを

おいて行ってしまったの?」と訊きますが、これは私、愚問だと思いました。死にたくないからに、決まってるじゃないですか!

ジョーがマリーとの約束を守って学校に残っていたら?死体がひとつ、増えただけでした。あの場に残っていたって、彼に

できることは何もなかったんです。まだ人生始まったばかりの若い身で、約束を破って生きることを選んだからといって、

誰がジョーを責められるでしょう。

私がジョーの母親だったとしたら、そんな縁もゆかりもない異国の地で無駄死になど、絶対にして欲しくない。

助かるチャンスがあるなら、なにがなんでもそれを掴んで助かって欲しいです。

 

クリストファー神父のモデルとなった聖職者は、クロアチア人だったそうです。

ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のクロアチア人聖職者人道主義者ヴィエコスラヴ・チュリッチは、同学校からの退去を拒否した唯一の

「白人」であった。チュリッチは虐殺が続く中でルワンダに留まり続け、脅迫にあいながらも公然と暴力を非難し続けた。チュリッチは紛争後の

1998年1月にキヴマ (Kivuma) において何者かによって殺害され、のちに殉教者の1人として数えられるようになった。ルワンダにおいて、

チュリッチは「クロアチアのオスカー・シンドラー」として知られており、キヴマには彼の名にちなんで命名された学校が存在している。

 

学校を警備していたベルギー兵のデロン指揮官は、逼迫した状況を報告して何度も助けを要請しますが、却下されます。

それどころか、学校と外部を隔てる金網の向こうで避難民がマシェティで叩き殺されていても、加害者に発砲することすら許されません。

国連の平和維持軍が発砲できるのは、維持軍兵士に危害が加えられた場合に限られていたからです。

デロン指揮官のフラストレーションは、当時の国連ルワンダ支援団(平和維持軍)の司令官だったロメオ・ダレール氏が

味わわされた、腸を引きちぎられる様な苦悩をモデルにしていたのではと思います。同氏はルワンダ虐殺の6年後に、自殺を図って

いたんですね・・・。ルワンダ虐殺の二次的被害者といえるでしょう。現在の同氏が心安らかな日々を過ごしていることを祈ります。

 

ウィキ: ロメオ・ダレールより引用〕 1994年4月以降、ルワンダ虐殺を目撃するとともに、平和維持軍本部を攻撃された。その後も

駐留を続けるが、虐殺終結後の1994年8月に司令官を辞任し帰国。辞任の理由について、過労とストレスのため指令書を正確に

書けなくなり、自暴自棄になりつつあったため任務を続けられないと判断したとしている。帰国後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と

診断される。その後2000年にアルコールと薬物の服用により自殺を図り、公園のベンチで昏睡状態になっていたところを発見されるが

一命を取り留めた。

 

驚いたことに、ダレール氏がベルギー兵10人の殺害事件について証言するのを、アナン国連事務総長が

禁じていたそうですよ!なぜに禁じる必要が?後ろめたいところがあったとしか思えません。

 

この事件(=公立技術学校の虐殺)に関する調査はベルギー政府が要求した後にすら実施されなかったことが知られている。

また1997年9月、国際連合ルワンダ支援団であったロメオ・ダレールは、ベルギーの平和維持軍兵士10人が殺害された件について

ベルギー議会での証言を要求されたが、コフィ・アナン国連事務総長により同議会での証言は禁じられた。そのため、ダレールによる

ベルギー議会での証言は行われなかった。

 

国連の無能さには、ほんっとうに驚き呆れ怒りすら覚えます。

国連平和維持軍兵士たちの目の前で非武装無抵抗の避難民が殺戮されていても、兵士たちは介入を許されなかったって・・・

だったら、いてもいなくても同じじゃないですか!

何もさせる気がないのなら、派兵する意味がない。虐殺が起きても介入しないのなら、国連に軍隊を置く意味がない。

国連は武装を解いて、大規模な自然災害や国際的大事件・大事故の際の人命救助にのみ専念すればいいのでは?

あ、でもそれにはもう赤十字がありますね。じゃあ赤十字に合併してしまうというのはどうでしょう。

国連はニューヨークにご立派な本部ビルを構えていますが、コソボ紛争でも役立たずだったし、こうしていろいろ知ってしまうと、

国連の存在意義っていったい何???と疑問に思わざるを得ません。

 

『ルワンダの涙』の原題 SHOOTING DOGS は、マシェティで切りかかる虐殺者そのものを撃つことは許されず、学校の外に横たわる

虐殺被害者の遺体に群がる野犬を撃つくらいしかできない兵士たちを例えているそうです。

救えなかった命を描いた『ルワンダの涙』は、救えた命を描いた『ホテル・ルワンダ』より、ずっと考えさせられた映画でした。

忘れがたいシーンがふたつあります。(記憶を頼りに書いているので、誤りがありましてもご勘弁を。)

ひとつは、金網の外でツチ系避難民が惨殺されるのを目撃したジョーが、クリストファー神父に問いかける場面。

「人間は、どれほどの苦痛を受け止められるのだろう・・・?十分な苦痛を受けたら、命が尽きる前にシャットダウンして

(苦痛を感じなくなって)くれるのだろうか?」

 

もうひとつは、白人ジャーナリストのレイチェルがジョーにこう言う場面です。

「凄惨な現場はコソボでも嫌というほど見たけど、ここでは影響されないみたい。」

「それはきっと・・・暴力に麻痺してしまったからじゃないかな?」

「ううん、・・・コソボで白人女性の遺体を見ると、あれは私の母親だったかもと思えた。でもここでは遺体は、

ただの死んだアフリカ人。」

このセリフ、すごく正直だと思ったし、大いに考えさせられました。

人間て本質的に、自分に近いものを心配し大切に思うものじゃないですか。

我が子が住む町で事件や事故があれば、我が子が被害者ではなかったことを真先に祈ります。

海外で飛行機が墜落すれば、どの国だって、自国民に犠牲者が出なかったかを真先に知りたがります。

でもそれは、我が子以外の人間や他国民が犠牲になればいいという積極的な願いではなくて、

我が子や自国民が犠牲者でなければいいという、消極的な願いなのです。

 

この考えをもってすれば、国連が簡単には軍事介入できないのも理解できます。

国連だって、結局は多くの国が集合したもの。すべての国にとって、一番心配で一番大切なのは自国です。

ルワンダで大虐殺が起きているのはたしかに気の毒だし、人道上許せないこと。助けてあげたいな~とは思います。

でもそんな遠くの、自国とはほとんど縁もない、助けてあげても何の利益ももたらさない小国に兵を出すことは、また話が別。

誰だって、自国の兵士が遺体袋に包まれて戻って来るのなんて、見たくないです。

身内や知り合いに兵士がいたりしたら、軍事介入にはなおさら消極的になるでしょう。

その国の政府だって、「わざわざ派兵して、自国の若者を死に追いやるなんて!」と世論に非難され叩かれるのはごめんでしょうし。

軍事力をもつ国は、たとえ国連に加盟していようと、軍事介入が自国に利益をもたらすと期待できない限りは、

介入回避に努めるのは当然かもしれません。

こんな風に考え納得してしまう私自身も、国連を批判する資格はまったくないですね。

 

学校から白人のみを避難させるために到着した、国連部隊の応援トラック。

乗り込もうとする避難民を引き摺り下ろし、銃で威嚇して乗せまいとする国連兵士。

乗車を許されるのは、白人のみです。

あのシーンは、選別の目的は異なれど、アウシュヴィッツに到着した列車から降りたユダヤ人を、

ナチス兵が選別するさまを連想させました。

白人妻がツチ系ルワンダ人夫と引き裂かれる場面も同様です。

「私の居場所はここにある」と言って避難するのを断るクリストファー神父は、私にコルベ神父を思い起こさせました。

神父がトラックの荷台に子供たちを隠して救おうとするシーンはまるで、“イギリスのシンドラー”も奮闘し協力した

キンダートランスポートの、規模の小さなもののよう。

ツチ族の絶滅を目標に掲げるフツ族過激派は、ユダヤ人絶滅を図ったナチス・ドイツとおなじ。

第二次世界大戦が終わってから半世紀後に、またこのような大虐殺が起きるって・・・

人類ってほんと、歴史から何も学んじゃいませんね・・・

 

『ホテル・ルワンダ』の撮影が南アフリカで行われたのとは異なり、『ルワンダの涙』はルワンダの、実際に虐殺があった

元・公立技術学校で撮影されたそうです。しかも、ルワンダ虐殺を生き残った人々が多数、撮影クルーやスタッフとして参加して。

虐殺後わずか10年しか経っていなかった実際のその現場で撮影に協力した生残者たちは、何を思い、何を感じたのでしょう・・・・・?

 

虐殺で夫を失い、自らもレイプされHIVを感染されたエキストラの女性。

 

汚水溜に14週間隠れて助かったものの、両親、姉妹3人、兄弟4人を殺された、運送部長。

 

虐殺で姉(妹かも)を失った、第3AD。姉が死んだときの状況も遺体も未だ不明。

 

7人の伯母(叔母)と6人の伯父(叔父)を亡くした、ユニット付き看護師。

 

母方の親類を30人亡くした、衣装係。

 

兄(弟かも)と叔父を亡くした、電気技師。

 

親類を12人亡くした、第3AD。

 

虐殺で兄弟姉妹を全員亡くした、衣装係。

 

父親と4人の兄弟を失い、自らはルワンダを解放した反乱軍に参加した小道具係。

 

親類を10人亡くした、ビデオ・アシスタント。

自らは学校の虐殺を逃れ、家族の遺体の下に隠れて過激派に発見されるのを免れました。

 

*       *       *

 

コロナ禍で気分が沈んでいる現在には、好ましくない内容の記事だったかもしれません。が。

こういった凄惨な事件について知ると、今の自分がいかに恵まれているかを、改めて実感します。

 

ルワンダのみならず、不当な迫害により命を失ったすべての犠牲者の、

ご冥福をお祈りします。

 

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