ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

“イギリスのシンドラー” ①

2015-07-05 21:45:03 | ひと

 

ハンシ・べックを腕に抱いたニコラス・ウィントン 《1939年1月12日撮影》


 ニコラス・ジョージ・ウィントンは、ニコラス・ジョージ・ヴェルトハイムとして1909年5月19日にロンドンに生まれた。

両親はドイツ系ユダヤ人で、彼が生まれる2年前にイギリスに移住していた。

彼の誕生後、両親は姓をヴェルトハイムからウィントンに変えた。

両親がキリスト教に改宗したため、ウィントンは教会で洗礼を受けた。


成長したウィントンは、ドイツやフランスの銀行で実務経験を積み、ロンドンに戻って株の仲買人になった。

1938年。 社会主義者で労働党に傾倒していた彼は、ナチスの台頭とユダヤ人迫害を懸念していた。

英国を含む多くの国が、難民受け入れの締めつけを強化していたが、

11月9日から10日にかけての水晶の夜が、転換点になった。 英国は、ユダヤ人難民の受け入れに合意した。


 1938年のクリスマスの直前、スポーツ好きのウィントン(当時29歳)はスイスでのスキー旅行に出掛ける準備をしていた。

そこに、先にスイス入りしていたはずの友人で教師のマーティン・ブレイクから電話(電報/手紙という情報源も)が入る。

スイスじゃなく、プラハにいるんだ。 君の助けが要る。 何が起きているのか、自分の目で見て欲しい。 スキーは持ってこなくていい。

ウィントンに異存はなく、彼はためらうことなくプラハへと旅立った。


              プラハのウィントン                        ロンドンでウィントンを手伝う、彼の母親

   

 

その年の9月。 悪名高いミュンヘン協定が結ばれてズデーテン地方がドイツに併合されると、

難民がチェコスロバキアの中心へと押し寄せた。

行き場を失くした膨大な数に上る人々のため、プラハの周辺にキャンプが立ち上げられた。

ウィントンが大晦日にプラハに着くと、彼のホテルからチェコ難民のための英国委員会のオフィスに歩く10分の間に、

ブレイクが現状を説明してくれた。

 

チェコ難民のための英国委員会(British Committee for Refugees from Czechoslovakia = BCRC)の

リーダーは、ロンドン大学の経済学講師ドーリーン・ウォリナーだった。

彼女とその秘書のビル・バラゼッティが、移住を望みつつも絶望的な状況にある人々を助けようとしていた。

自分たちが助からないのなら、安全な外国に送り出すことによって、せめて子供たちだけでも助けたい。

生き延びるために突きつけられたジレンマに直面する親たちを、ウィントンは目撃した。

しかしそれは、BCRC が介入できる分野ではなかった。

ドイツやオーストリアの子供たちは、組織的に疎開を助けられていたが、チェコの子供たちを助ける組織はなかった。

ウィントンは、自分にできることをする決心をした。

 

「誰かが助けになってくれるらしい」 と聞きつけた危機的状況にある人々によって、

ウィントンは朝から晩まで、ホテルの部屋に缶詰状態になった。

すでに英国にいる親類に子供を預けられる家族もあったが、大半がそのような恵まれた立場にはなかった。

ウィントンは子供と家族の詳細を控え、写真を撮った。 リストはどんどん膨らんでいった。

チェコ語を話せなかったウィントンは、作業をすべてドイツ語でこなした。

彼はしかし、チェコ語である一文だけは覚えなければならなかった。 「私は英国人で、チェコ語は話せません。」

彼が “敵” 語を話すことにより、救いを求めにきた人々が踵を返して立ち去ってしまわないように。

ウィントンは、2週間の予定だった休暇を延長した。

 

1月12日、20人のユダヤ人の子供を乗せた飛行機がプラハからロンドンへと飛び立った。

これを可能にしたのは、ユダヤ教信者をキリスト教に改宗させることを目的とした “バービカン・ミッション” という宣教団体だった。

このことからも、子供を安全な土地へと避難させることに、ユダヤ人の親たちがどれほど必死だったかがよくわかる。

ジャーナリストやカメラマンに混じって、ウィントンも飛行場に子供たちを見送りに行った。

ウィントンが幼い男の子を腕に抱いた写真が撮られたのは、このときだった。

ハンシ・べックという名のこの少年は、残念なことにその後、内耳感染症で亡くなった。

 

1月14日、ドーリーン・ウォリナーの勧めで、ウィントンは難民キャンプを訪ねた。

公式発表によると、チェコの難民は25万人に膨れ上がっていて、その数にはナチスに反対する民主主義のドイツ人も含まれていた。

キャンプの状態はひどかった。 幼い子供を含む家族が、凍てつくような寒さの中、なけなしの食糧で生き延びていた。

チェコから目と鼻の先であるバイエルン州から来た両親をもつウィントンにとって、難民問題は他人事ではなかった。


ウィントンはオフィスを別に設け、トレヴァー・チャドウィックに責任者になってもらった。

噂を聞きつけた何千人という親たちが、彼らのオフィスの前に長い行列をつくった。

ウィントンたちは質問表を配り、子供たちを登録していった。

チャドウィックとビル・バラゼッティにプラハ側を任せると、ウィントンはロンドンに戻った。

 

ウィントンは1月の終わりにはロンドンで株の仕事に戻っていたが、彼の心は “非公式な” 仕事の方にあった。

受け入れてくれる家庭を探して、できるだけ多くの子供たちを英国に連れて来なければ。

公式のルートを使っていては時間がかかりすぎると判断した彼は、チェコ難民のための英国委員会(BCRC)の

レターヘッド入りの便箋を手に入れると、ヘッドの下に “CHILDREN'S SECTION” という架空の部門を加え、

その “加工” されたレターヘッドを数百枚印刷して仕事にかかった。

彼の仲間は、母親と、秘書と、数人のボランティアだった。

 

ウィントンはルーズベルト大統領宛に子供の受け入れを求める書簡を送ったが、

米国大使館の一等書記からの返事は、 『現行の移民法の枠を超える移民は受け入れられない』 というものだった。

各国に打診したが、チェコの子供たちの受け入れを受諾してくれたのは、結局英国とスウェーデンだけだった。

時間が限られていたため、ウィントンはすべての子供を英国に連れてくることにした。

しかし、英国政府の子供の受け入れには、条件がついていた。

『受け入れ家庭が確保されていること』 と、

『将来の帰国に備え、子供一人につき50ポンド(現在の2500ポンド≒48万円に相当)を英国内務省に預託すること』。

ウィントンは、新聞に広告を出して子供を受け入れてくれるボランティア家庭を確保するだけでなく、

企業や慈善団体や宗教団体に、資金提供を求める必要があった。

子供たちの親のほとんどが、食べものを買う金すら事欠いていたため、旅費も工面しなければならない。

子供たちの出国/入国許可証もきちんと整えられなければならなかった。

内務省の対応が遅すぎるので催促に行くと、「何を慌てている? ヨーロッパでは何も起こらんさ」 と笑われた。

欧州の危機を本能的に察知していたウィントンは、必要書類を偽造して子供たちの疎開を可能にした。


チェコのユダヤ人の子供の絶望的状況が公式に認識されたのは、ウィントンがロンドンで活動を始めてから3ヵ月も経ってからで、

その時までにはすでに、子供たちを乗せたプラハからの列車はロンドンのリバプール・ストリート駅に4回到着していた。


プラハ駅では、ドイツ兵が監視する中、親たちが涙ながらに子供たちを見送った。

子供たちのほとんどが、ふたたび親に会うことはなかった。

プラハを出発した列車はドイツを通過しなければならず、子供たちはドイツ役人の検問に怯えた。

親から託された貴重品(=形見)を取り上げられた子供もいた。 が、全員が旅を続けることを許された。

ドイツ市民は友好的で、駅に停車していると、子供たちにお菓子を差し入れてくれることも多かった。

オランダは “水晶の夜” 以降国境を封鎖していたが、ウィントンと彼のチームが英国政府から入手していた

公式書類という保証によって、子供たちを乗せた列車は無事オランダを通過した。

首に名札を下げてロンドンに到着した子供たちは、ウィントンの母親、代理人、時にはウィントン自身によって出迎えられた。

ある列車の子供たちは、正規の書類を持たずに到着したが、ウィントンたちは規則を “曲げる” よう役人を説得することに成功した。


          ウィントンが救った子供たち                         プラハからの列車のルート 

   

         プラハ駅                                    ロンドンのリバプール・ストリート駅   

  

 

 アリス・エーベルシュタークは三人姉妹の次女で、当時14歳。 厳しくも優しい両親に守られて幸福な子供時代を過ごした。

ナチスの足音が高まるにつれ、両親は断腸の思いで決断を下す。 母親は三人の娘のため、何枚もの服を縫って用意した。

綺麗に刺繍されたガウンまで、持ち物の中に入れるよう渡してくれた。 彼女はそれらを、今日まで大切に保管している。

出発の日、たくさんの友達が見送りに来てくれた。 皆が両親に 「二人を行かせるな」 「間違ったことをしようとしている」 と訴えた。

妹が両親に 「行かせないで」 とせがみ、母親は彼女を列車の窓から自分の腕に抱き取った。

しかし、列車が動き出すと、母親は妹を窓から車内に戻した。 そして妹の命は救われた。

両親からの手紙は定期的に届いていたが、1942年3月のものを最後に途絶えた。 三姉妹は、二度と両親に会うことはなかった。

「生き延びた人は多くが罪悪感をもつけれど、私は両親にとても感謝しています。

ほとんどの人が 『一緒でないなら行かせない』 と言っていた中で私の両親が見せた勇気は、崇高なものです。」

     

 

 1939年3月15日、ドイツ軍がプラハを占領した。 ヒューゴー・マイスルは、当時10歳だった。

「車の中に立っているヒトラーを、この目で見ました。 そして子供たちは、『ハイル・ヒトラー!』 と言うよう期待されたのです。」

ズデーデン地方で始まったユダヤ人の迫害は、瞬く間にチェコ全土に広がった。 しかしウィントンの列車がプラハ出発を阻止されることはなかった。

欧州からユダヤ人を駆逐したいナチスにとって、ユダヤ人の子供の出国は利にかなったからだろう。

マイスルの両親は、彼と弟を列車で送り出すときが来たと判断した。

「両親は私に、2、3ヶ月英国に休暇に行くのだと言いました。 自分たちも、すぐに英国で落ち合うからと・・・」

しかしマイスルは、二度と両親に会うことはなかった。

彼の両親の名前は、プラハのシナゴーグの壁に、ホロコーストの犠牲者として刻まれている。

「両親は明るく微笑んでいたので、私は彼等の言葉を一言も疑いませんでした。 だから何の不安もなく旅立てたのです。

あの状況で両親が見せたあの強さ ・・・ 二人はいったい、 ・・・ どうやって ・・・ ・・・ 」

     

 

 仕事から帰ったウィントンは、毎日資金提供を乞う手紙や、受け入れ先が必要な子供の写真入りカードの発送に追われた。

しかし誰もが、ビジネスライクな彼のやり方に満足していたわけではなかった。

ある日数人のラビ(ユダヤ教指導者)が訪ねて来て、ユダヤ人の子供がキリスト教徒の家や、

なお悪いことには “バービカン・ミッション” の家に送られたことに対して不満を申し立てた。

普段は冷静で協調性のあるウィントンも、このときは彼等に対してきっぱりと言い放った。

“ I will not stop placing children wherever I can.

If you prefer a dead child to a converted one, that is your problem. ”

「子供たちは受け入れてくれるという家庭に受け入れてもらいます。

貴方たちが 『改宗された子供より死んだ子供の方がまし』 というのなら、それは貴方たちの問題だ。」

 

ウィントンによって救われた子供たちの一部

 

 

ウィントンは、英国に受け入れられた子供たちのすべてがきちんと世話をされたわけではないことを認識していた。

無料の召使いとして使われた子供もいた。

「100%の成功だったとは言いません。 でも戦争が終わったとき子供たちは生きていた、と言う事はできます。」

 

“ウィントンのリスト” - ウィントンが救った子供たちの氏名のリスト

 

 

1939年の3月から8月の間に、ロンドン行きの列車が合わせて8回、プラハを出発した。

(初回だけは飛行機を使えたので、列車は7回だったとする情報源も。)

9つめの列車は、最も多人数となる250人の子供を乗せて、9月1日に出発する予定だった。

しかし、ウィントンと協力者たちが怖れていたことが、その日に起こった。

ドイツがポーランドに侵攻を開始し、ドイツが管理していた国境は封鎖され、第二次世界大戦が始まったのである。

 

9月1日の列車はキャンセルされ、英国への途を断たれた子供たちは、おそらくそのほとんどが、

両親や親類とともにナチスにより殺害されたと考えられる。

もう一日早く出発していたら、列車は無事にロンドンに着いていたかもしれない ――

ウィントンは、打撃と禍根を噛みしめた。

「プラハの駅で列車を待つ大勢の子供たちの姿が、脳裏から消えないのです・・・」

ウィントンは、のちに何度もそう語っている。


戦争が始まり、ウィントンの “仕事” は終わり、戦時中彼は赤十字の救急隊で働き、

のちには空軍で奉仕した。

 

            戦時中のウィントン                             ウィントンと弟妹   

 

 

ナチスの “ユダヤ人問題の最終的解決” が実行に移され、欧州のユダヤ人狩りが始まった。

プラハのユダヤ人も追い立てられ、テレジエンシュタットを経てアウシュヴィッツへと送られた。

7万人を超えるプラハのユダヤ人犠牲者のうち、約1万5千人が子供だったと推定されている。

 

《  につづく 》

 

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