一宮しなね2丁目は、高知市役所の北東約6kmのところ
高知市役所の南側の国道32・56号重複線を東へ進みます
約1.3kmのペットショップの先の信号を左(北)へ
約300mの自動車販売店前の信号を右(東)へ
約100mで広い道路の信号を左(北)へ県道249号線です
約1.1kmで「一宮・高知道路⇒」の標識に従って信号を右(東)へ
約1kmで高知信用金庫ATM前の信号を左(北)へ、県道384号線です
約2.5kmの土佐神社神門前の信号を左(北)へ、参道の西側道路を進むと
参道両脇に広ろがる駐車場に入りました
鳥居です
境内案内図です、赤い線の準に巡りましょう
「土佐一ノ宮 土佐神社」社號標です
手水舎です
由緒説明版です
土佐神社由緒
味鉏高彦根神(あじすきひこねのかみ)
一言主神(ひとことぬしのかみ)
国土の開拓・農工商あらゆる産業繁栄・建設地鎮・和合協調・家内安全・開拓開運・交通安全・航海安全・病気平癒
創祀 年代未詳・古代と伝えられる(一説には5世紀後半雄略天皇4年と伝えられる)
都佐の国造が土佐大神を奉斎したと伝えられる
7世紀 白鳳時代 文献に見える事柄
「土佐大神、神刀一口を以て、天皇に進る」・「日本書紀」天武天皇4(675)年の条
「秦忌寸石勝を遣わして、弊を土佐大神に奉る」・「日本書紀」朱鳥元(686)年の条
8世紀 奈良時代 大和賀茂氏の祖先神である味鉏高彦根神、一言主神が祀られる(賀茂氏の勢力が及ぶ)
10世紀 平安時代
醍醐天皇御代 延喜式内大社に列せられ、都佐坐神社と称す
11世紀末~
12世紀初 土佐国総鎮守一宮とされ、土佐高賀茂大明神と称す
16世紀末室町時代
後半~安土桃山時代 武門の崇敬あつく、長宗我部元親が元亀元(1570)年
17世紀 山内忠義が慶安2(1649)年摂社、末社、鳥居現存の楼門、鼓楼を増築、土佐国最高の祈願所とする
19世紀 明治4年 神仏分離令(明治元年)により永年続いた神仏習合時代が終り、土佐神社と改称、国弊中社に列せられる
20世紀昭和21年 官国弊社の制度が廃止され、神社本庁別奉神社となる
昭和62年 本殿・幣殿・拝殿・鼓楼・保存修理工事が行われる
鼓楼です
拝殿です
拝殿西側です
朱色の本殿が見えました
境内西端に杉の大木ですが目的の大杉ではありません
東側から、目通り幹囲4m(目測)ほどの大木です
摂社3社の鳥居です
手前中央に「西御前神社」です
右側奥に大国主神社です
左側奥には事代主神社です
しなねの森に入ると目的の大杉です
南側から、目通り幹囲6m(目測)の巨木です
東側から見上げました
本殿裏側のしなねの森を東へ進むと「礫石(つぶていし)」です
南側から
説明版です
礫石の謂れ
古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先ず高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。
或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが、14里を距てたる此の地に落止れりと是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で、古来之をつぶて石と称す。
浦の内と当神社の関係斯の如くで、往時御神幸の行われた所以である。
この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており、学界ではこの石を転石と称し学問上特殊な資料とされている。
昭和49年8月 宮司
本殿東側に戻りました
拝殿東側です
拝殿東側の「輪抜け祓所」です
御馬殿です
大楠へ行きましょう
目的の大楠です
南側から、目通り幹囲8mの巨木です
北側から
厳島神社の鳥居です
社殿です
池にはスイレンが咲いていました
では、次へ行きましょう
2024・6・13・10・10
高知市役所の南側の国道32・56号重複線を東へ進みます
約1.3kmのペットショップの先の信号を左(北)へ
約300mの自動車販売店前の信号を右(東)へ
約100mで広い道路の信号を左(北)へ県道249号線です
約1.1kmで「一宮・高知道路⇒」の標識に従って信号を右(東)へ
約1kmで高知信用金庫ATM前の信号を左(北)へ、県道384号線です
約2.5kmの土佐神社神門前の信号を左(北)へ、参道の西側道路を進むと
参道両脇に広ろがる駐車場に入りました
鳥居です
境内案内図です、赤い線の準に巡りましょう
「土佐一ノ宮 土佐神社」社號標です
手水舎です
由緒説明版です
土佐神社由緒
味鉏高彦根神(あじすきひこねのかみ)
一言主神(ひとことぬしのかみ)
国土の開拓・農工商あらゆる産業繁栄・建設地鎮・和合協調・家内安全・開拓開運・交通安全・航海安全・病気平癒
創祀 年代未詳・古代と伝えられる(一説には5世紀後半雄略天皇4年と伝えられる)
都佐の国造が土佐大神を奉斎したと伝えられる
7世紀 白鳳時代 文献に見える事柄
「土佐大神、神刀一口を以て、天皇に進る」・「日本書紀」天武天皇4(675)年の条
「秦忌寸石勝を遣わして、弊を土佐大神に奉る」・「日本書紀」朱鳥元(686)年の条
8世紀 奈良時代 大和賀茂氏の祖先神である味鉏高彦根神、一言主神が祀られる(賀茂氏の勢力が及ぶ)
10世紀 平安時代
醍醐天皇御代 延喜式内大社に列せられ、都佐坐神社と称す
11世紀末~
12世紀初 土佐国総鎮守一宮とされ、土佐高賀茂大明神と称す
16世紀末室町時代
後半~安土桃山時代 武門の崇敬あつく、長宗我部元親が元亀元(1570)年
17世紀 山内忠義が慶安2(1649)年摂社、末社、鳥居現存の楼門、鼓楼を増築、土佐国最高の祈願所とする
19世紀 明治4年 神仏分離令(明治元年)により永年続いた神仏習合時代が終り、土佐神社と改称、国弊中社に列せられる
20世紀昭和21年 官国弊社の制度が廃止され、神社本庁別奉神社となる
昭和62年 本殿・幣殿・拝殿・鼓楼・保存修理工事が行われる
鼓楼です
拝殿です
拝殿西側です
朱色の本殿が見えました
境内西端に杉の大木ですが目的の大杉ではありません
東側から、目通り幹囲4m(目測)ほどの大木です
摂社3社の鳥居です
手前中央に「西御前神社」です
右側奥に大国主神社です
左側奥には事代主神社です
しなねの森に入ると目的の大杉です
南側から、目通り幹囲6m(目測)の巨木です
東側から見上げました
本殿裏側のしなねの森を東へ進むと「礫石(つぶていし)」です
南側から
説明版です
礫石の謂れ
古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先ず高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。
或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが、14里を距てたる此の地に落止れりと是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で、古来之をつぶて石と称す。
浦の内と当神社の関係斯の如くで、往時御神幸の行われた所以である。
この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており、学界ではこの石を転石と称し学問上特殊な資料とされている。
昭和49年8月 宮司
本殿東側に戻りました
拝殿東側です
拝殿東側の「輪抜け祓所」です
御馬殿です
大楠へ行きましょう
目的の大楠です
南側から、目通り幹囲8mの巨木です
北側から
厳島神社の鳥居です
社殿です
池にはスイレンが咲いていました
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