八幡平谷内地区は、鹿角市役所の南約12km、鹿角市八幡平市民センターの南約3km、鹿角市役所 八幡平市民センター谷内地区市民センターの直ぐ東側のところです
谷内市民センター前を東に入り、長谷川郵便局の北側に
石鳥居です
天照皇御祖神社(神明社)の社號標が建ちます
南東へ入ります、約200mにニノ鳥居?です
境内入口に車を止めさせて頂きました
参道を進みましょう
南向きに三ノ鳥居?です
摩崖仏と板碑の説明版です
谷内の摩崖仏・板碑
現在の天照皇御祖神社は、明治初めまで、古い由緒をもつ谷内観音として、地域の人々の信仰をあつめていた。
観音堂創建の年代は明らかでないが、ここには、国の重要無形民俗文化財「大日堂舞楽」のうち、古代菩薩舞のひとつ、五大尊舞がうけ継がれている。近世、谷内の社人大博士はだんぶり長者縁の者として、盛岡藩より代々祭田を給されててきた。
観音堂域内には、鎌倉後期の「弥陀三尊摩崖仏」があり、同じく当時の紀年銘をもつ板碑「正安2年(1300)銘碑」・「嘉元3年(1305)銘碑」・「正和2年(1313)銘碑」等が遺存されている。県内最古に属するこれら石造物は、昭和60年3月、県史跡に指定された。
なかでも「正和2年銘碑」は、関東の秩父青石にみおまがう緑泥片岩を用い、山形の頭部、横二条線を施した、典型的な関東型板碑で、本県唯一のものといわれている。
この谷内に拠った御地頭は、おそらく最初の鹿角郡地頭職武蔵国成田惣領家から派遣された代官のひとりであった。成田氏は、後年の天文期(1533~54)に、谷内城が南部氏支流一戸禅正左衛門の手に落ちるまで、この熊沢川右岸一帯に、大きな勢力をふるっていたとみられている。
平成7年9月 撰文 安村二郎
八幡平史談会
東京八幡平会
もう一枚詳しい説明版です
秋田県指定史跡
天照皇御祖神社境内の摩崖仏及び板碑
昭和60年3月15日指定
所在地 鹿角市八幡平字谷内14番地
所有者 天照皇御祖神社
山側の岩面に線刻された摩崖仏は、その刻字の力強さから鎌倉期と推定され、境内の板碑はその紀年銘から鎌倉時代末期に造立されたものである。
これらの石造物は、いずれも死者の菩提を願って造られたもので、阿弥陀三尊及び種子や銘文の偈がよく当時の信仰を物語っている。板碑は関東の武蔵武士団に発生したもので、鎌倉時代の鹿角の地頭たちが関東出身の武士であったという史実を具体的に裏付けている。
阿弥陀三尊摩崖仏 1基
石英安山岩の露頭部分高さ6m、幅7m。上方右寄りに、弥陀三尊を線刻。中央の月輪は径96.5cm、中に阿弥陀如来坐像が描かれて、像容の高さは63cm。左(向って右)に「サ」観音菩薩。右に「サク」勢至菩薩を脇侍とし、種子をもって表し、その月輪の径は44cm。種子の彫りが深く風格があり、年代は鎌倉末期と推定される。
板碑 4基
社殿裏手に建立された正安2年(1300)銘板碑が最も古く、月輪に種子「ア」を置き、大般涅槃経の4句を偈としている。
嘉元3年(1305)銘板碑は月輪に種子「ボ」、金剛般若波羅密多経の4句を掲げる。
正和2年(1313)銘板碑はいわゆる関東形の典型を示し、頭部山形の下に二条の線を引き、身部を枠線で囲み、種子「キリーク」と願文等を刻している。
無紀年銘板碑は月輪の中に種子「サク」を刻み碑面に銘文はみられない。
昭和62年3月 秋田県教育委員会
鹿角市教育委員会
手水舎です
拝殿です
本殿です
東側の山際に目的のスギです、手前の板碑が説明版にあった関東型緑泥片岩の板碑です
南西側から、目通り幹囲6.5mの巨木です
北西側から
北北西側から
草の中に板碑が並びます
石段を上がります
北側から杉を見ました
石段のそばに「摩崖仏」の文化財標柱です
奥へ進みます
大きな岩があります
この岩に彫られているようですが・・・
良く解かりませんね~
黒桧の大木です
西側から見ました
では、次へ行きましょう
谷内市民センター前を東に入り、長谷川郵便局の北側に
石鳥居です
天照皇御祖神社(神明社)の社號標が建ちます
南東へ入ります、約200mにニノ鳥居?です
境内入口に車を止めさせて頂きました
参道を進みましょう
南向きに三ノ鳥居?です
摩崖仏と板碑の説明版です
谷内の摩崖仏・板碑
現在の天照皇御祖神社は、明治初めまで、古い由緒をもつ谷内観音として、地域の人々の信仰をあつめていた。
観音堂創建の年代は明らかでないが、ここには、国の重要無形民俗文化財「大日堂舞楽」のうち、古代菩薩舞のひとつ、五大尊舞がうけ継がれている。近世、谷内の社人大博士はだんぶり長者縁の者として、盛岡藩より代々祭田を給されててきた。
観音堂域内には、鎌倉後期の「弥陀三尊摩崖仏」があり、同じく当時の紀年銘をもつ板碑「正安2年(1300)銘碑」・「嘉元3年(1305)銘碑」・「正和2年(1313)銘碑」等が遺存されている。県内最古に属するこれら石造物は、昭和60年3月、県史跡に指定された。
なかでも「正和2年銘碑」は、関東の秩父青石にみおまがう緑泥片岩を用い、山形の頭部、横二条線を施した、典型的な関東型板碑で、本県唯一のものといわれている。
この谷内に拠った御地頭は、おそらく最初の鹿角郡地頭職武蔵国成田惣領家から派遣された代官のひとりであった。成田氏は、後年の天文期(1533~54)に、谷内城が南部氏支流一戸禅正左衛門の手に落ちるまで、この熊沢川右岸一帯に、大きな勢力をふるっていたとみられている。
平成7年9月 撰文 安村二郎
八幡平史談会
東京八幡平会
もう一枚詳しい説明版です
秋田県指定史跡
天照皇御祖神社境内の摩崖仏及び板碑
昭和60年3月15日指定
所在地 鹿角市八幡平字谷内14番地
所有者 天照皇御祖神社
山側の岩面に線刻された摩崖仏は、その刻字の力強さから鎌倉期と推定され、境内の板碑はその紀年銘から鎌倉時代末期に造立されたものである。
これらの石造物は、いずれも死者の菩提を願って造られたもので、阿弥陀三尊及び種子や銘文の偈がよく当時の信仰を物語っている。板碑は関東の武蔵武士団に発生したもので、鎌倉時代の鹿角の地頭たちが関東出身の武士であったという史実を具体的に裏付けている。
阿弥陀三尊摩崖仏 1基
石英安山岩の露頭部分高さ6m、幅7m。上方右寄りに、弥陀三尊を線刻。中央の月輪は径96.5cm、中に阿弥陀如来坐像が描かれて、像容の高さは63cm。左(向って右)に「サ」観音菩薩。右に「サク」勢至菩薩を脇侍とし、種子をもって表し、その月輪の径は44cm。種子の彫りが深く風格があり、年代は鎌倉末期と推定される。
板碑 4基
社殿裏手に建立された正安2年(1300)銘板碑が最も古く、月輪に種子「ア」を置き、大般涅槃経の4句を偈としている。
嘉元3年(1305)銘板碑は月輪に種子「ボ」、金剛般若波羅密多経の4句を掲げる。
正和2年(1313)銘板碑はいわゆる関東形の典型を示し、頭部山形の下に二条の線を引き、身部を枠線で囲み、種子「キリーク」と願文等を刻している。
無紀年銘板碑は月輪の中に種子「サク」を刻み碑面に銘文はみられない。
昭和62年3月 秋田県教育委員会
鹿角市教育委員会
手水舎です
拝殿です
本殿です
東側の山際に目的のスギです、手前の板碑が説明版にあった関東型緑泥片岩の板碑です
南西側から、目通り幹囲6.5mの巨木です
北西側から
北北西側から
草の中に板碑が並びます
石段を上がります
北側から杉を見ました
石段のそばに「摩崖仏」の文化財標柱です
奥へ進みます
大きな岩があります
この岩に彫られているようですが・・・
良く解かりませんね~
黒桧の大木です
西側から見ました
では、次へ行きましょう
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