膝立観音山地区は、花巻市役所の西北西約7kmのところ
花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を西へ、約250mで「花巻駅・県道103号線⇒」の標識に従って右(北北西)へ
約200mの信号を左(西)へ跨線橋で東北本線を越えます、約400mで信号を右(北北西)へ
約500mで信号を左(西お)へ、西大通です、約5.2kmで信号を右(北北東)へ、県道37号線です
約500mで左側に八坂神社の鳥居があります
鳥居を潜って西へ、標高差約100mの参道(車道)つずら折りの坂道を上って行くと駐車場に入りました

境内案内図です
ここから前回の「八坂神社・円万寺観音堂」の続きです
「祖母杉」は八坂神社拝殿と円万寺観音堂の間の南側築山状の部分に立っています

南側から傷んだ幹です



南西側から、杉の葉が見られませんが枯れてしまったのでしょうか

説明版です
祖母杉(おおばすぎ)
この祖母杉は、大同元(806)年に坂上田村麿が奥州蝦夷平定のため稗貫郡まで進んで来たときに「戦い勝利の後、観音様をお迎えしよう」と言ってそのしいるしに植えた2本のうちの一本です。
翼2(807)年、東夷を平定した坂上田村麿は、再びこの地を訪ね、馬頭観世音をお祀りしました。
それから約950年後の宝暦年間(1751~61)の頃からと考えられていますが、当国(和賀・稗貫・志和(今の「紫波」)の三郡)三十三所観音巡礼札所が設けられ、ここの観音様は第2番の札所として栄え、今もお参りする老若男女の人達が後を絶ちません。
さて、藩政末期に花巻地方はもとより、南部藩でも文化面で活躍した名須川義武・松岡一秀・堀内政易の三人が、嘉永2(1849)年に撰文・揮毫・彫刻の役割を分担して作成し、観音堂に奉納した竪板置額の「祖母杉之記」に「・・・祖母杉は健にして高さ凡そ二十丈斗太さ十五尋余根の回り六十間ほど・・・およそ日の本に双ぶる大樹なしと称誉せしと也さるを天保10(1839)亥年睦月元旦の日いかなるゆへともしらずうろの中より火出て半刻をまたず焼折れ一の枝のみのこれり・・・」とありますが、今日も樹皮だけの幹で「一の枝」の重さを支えながら、驚くべき生命力で生き続けているこの祖母杉は、正にこの地の千古の歴史を物語るものであり、その重要性を伝える歴史的徴証であります。
なお、自然石を巡らしていますが、これは祖母杉の樹勢が盛んなころに、祖母杉の根が地上に累々と重なり合っていましたが、その元の根の回りを復元して表したものです。
平成9年9月 社団法人 花巻観光協会



西側から、説明版ではまだ枯れていないとされていますが・・・わかりませんね



北西側から

北側から


南東側から



南側の若いスギの大木です



南側から

一燈庵です

説明版です
多田等観ゆかりの円万寺観音堂
多田等観は、大谷光端の命により大正2年(1913)チベットに渡り、国王ダライ・ラマ第13世の庇護のもとで、ラマ僧として10年間修業し、外国人として初めてラマ教の最高学位であるゲシェ(大僧正)に任ぜられ、帰国に際し、法王から経典・仏像など多数贈られました。
帰国後は、東京大学他で講師を歴任しましたが、昭和20年(1945)戦禍から経典・仏像を守るため、実弟の光徳寺住職鎌倉義蔵の住む花巻に疎開してきました。
昭和22年(1947)に、ここ円万寺観音堂境内に「一燈庵」を村人から贈られ光徳寺から移り住み、村人と親しく交友しながら、独居・自炊の生活をしました。
また、この頃隣村の大田村山口部落に疎開していた高村光太郎とも深い親交がもたれました。
一燈庵
入口の額は、等観の書によるものです。
一燈庵脇に経堂を建立し、チベット請来の経典・仏像を収蔵しましたが、昭和26ね(1951)に渡米のため観音山を離れるに当たり、光徳寺(花巻市南川原町)境内に、「蔵俼館」が建造され、貴重な経典・仏画等が移され、現在では市に寄贈されています。
千手千眼十一面観音像
円万寺観音堂の本尊である千手千眼十一面観音像は、等観がダライ・ラマ第13世から守り本尊として賜り常に身の側に置いて大切にしていたものを地元の崇敬の場である円万寺観音堂に寄贈奉安したものです。
梵鐘
円万寺観音堂の鐘が、室町時代の戦乱の中で失われた話を聞いた等観は、梵鐘の鋳造を発願し、昭和25年(1950)4月17日に撞き初めが行われました。
無量寿の碑
昭和48年(1973)に等観の7回忌を記念し、その偉業を讃えて地元民が建立しました。
碑名には等観の遺墨の中から「無量寿」が選ばれました。

一燈庵の西側には石碑が沢山あります、無量寿の碑です

忍び駒の碑です

供養碑等です

報国碑です

境内南側の鳥居です、鳥居の後方に「祖母杉」の説明版が見えています

展望台からの眺めです、北東側

南東側

徒歩で登って来る参道を覗いてみました
では、次へ行きましょう

2024・9・12・10・45
花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を西へ、約250mで「花巻駅・県道103号線⇒」の標識に従って右(北北西)へ
約200mの信号を左(西)へ跨線橋で東北本線を越えます、約400mで信号を右(北北西)へ
約500mで信号を左(西お)へ、西大通です、約5.2kmで信号を右(北北東)へ、県道37号線です
約500mで左側に八坂神社の鳥居があります
鳥居を潜って西へ、標高差約100mの参道(車道)つずら折りの坂道を上って行くと駐車場に入りました

境内案内図です

ここから前回の「八坂神社・円万寺観音堂」の続きです

「祖母杉」は八坂神社拝殿と円万寺観音堂の間の南側築山状の部分に立っています

南側から傷んだ幹です




南西側から、杉の葉が見られませんが枯れてしまったのでしょうか


説明版です
祖母杉(おおばすぎ)
この祖母杉は、大同元(806)年に坂上田村麿が奥州蝦夷平定のため稗貫郡まで進んで来たときに「戦い勝利の後、観音様をお迎えしよう」と言ってそのしいるしに植えた2本のうちの一本です。
翼2(807)年、東夷を平定した坂上田村麿は、再びこの地を訪ね、馬頭観世音をお祀りしました。
それから約950年後の宝暦年間(1751~61)の頃からと考えられていますが、当国(和賀・稗貫・志和(今の「紫波」)の三郡)三十三所観音巡礼札所が設けられ、ここの観音様は第2番の札所として栄え、今もお参りする老若男女の人達が後を絶ちません。
さて、藩政末期に花巻地方はもとより、南部藩でも文化面で活躍した名須川義武・松岡一秀・堀内政易の三人が、嘉永2(1849)年に撰文・揮毫・彫刻の役割を分担して作成し、観音堂に奉納した竪板置額の「祖母杉之記」に「・・・祖母杉は健にして高さ凡そ二十丈斗太さ十五尋余根の回り六十間ほど・・・およそ日の本に双ぶる大樹なしと称誉せしと也さるを天保10(1839)亥年睦月元旦の日いかなるゆへともしらずうろの中より火出て半刻をまたず焼折れ一の枝のみのこれり・・・」とありますが、今日も樹皮だけの幹で「一の枝」の重さを支えながら、驚くべき生命力で生き続けているこの祖母杉は、正にこの地の千古の歴史を物語るものであり、その重要性を伝える歴史的徴証であります。
なお、自然石を巡らしていますが、これは祖母杉の樹勢が盛んなころに、祖母杉の根が地上に累々と重なり合っていましたが、その元の根の回りを復元して表したものです。
平成9年9月 社団法人 花巻観光協会



西側から、説明版ではまだ枯れていないとされていますが・・・わかりませんね




北西側から


北側から



南東側から




南側の若いスギの大木です




南側から


一燈庵です


説明版です
多田等観ゆかりの円万寺観音堂
多田等観は、大谷光端の命により大正2年(1913)チベットに渡り、国王ダライ・ラマ第13世の庇護のもとで、ラマ僧として10年間修業し、外国人として初めてラマ教の最高学位であるゲシェ(大僧正)に任ぜられ、帰国に際し、法王から経典・仏像など多数贈られました。
帰国後は、東京大学他で講師を歴任しましたが、昭和20年(1945)戦禍から経典・仏像を守るため、実弟の光徳寺住職鎌倉義蔵の住む花巻に疎開してきました。
昭和22年(1947)に、ここ円万寺観音堂境内に「一燈庵」を村人から贈られ光徳寺から移り住み、村人と親しく交友しながら、独居・自炊の生活をしました。
また、この頃隣村の大田村山口部落に疎開していた高村光太郎とも深い親交がもたれました。
一燈庵
入口の額は、等観の書によるものです。
一燈庵脇に経堂を建立し、チベット請来の経典・仏像を収蔵しましたが、昭和26ね(1951)に渡米のため観音山を離れるに当たり、光徳寺(花巻市南川原町)境内に、「蔵俼館」が建造され、貴重な経典・仏画等が移され、現在では市に寄贈されています。
千手千眼十一面観音像
円万寺観音堂の本尊である千手千眼十一面観音像は、等観がダライ・ラマ第13世から守り本尊として賜り常に身の側に置いて大切にしていたものを地元の崇敬の場である円万寺観音堂に寄贈奉安したものです。
梵鐘
円万寺観音堂の鐘が、室町時代の戦乱の中で失われた話を聞いた等観は、梵鐘の鋳造を発願し、昭和25年(1950)4月17日に撞き初めが行われました。
無量寿の碑
昭和48年(1973)に等観の7回忌を記念し、その偉業を讃えて地元民が建立しました。
碑名には等観の遺墨の中から「無量寿」が選ばれました。

一燈庵の西側には石碑が沢山あります、無量寿の碑です


忍び駒の碑です


供養碑等です


報国碑です


境内南側の鳥居です、鳥居の後方に「祖母杉」の説明版が見えています


展望台からの眺めです、北東側


南東側


徒歩で登って来る参道を覗いてみました

では、次へ行きましょう


2024・9・12・10・45
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