東城寺は、土浦市役所の北西約10kmのところ
清滝観音の西約2kmにあります
東城寺の裏山には日本三大経塚と言われる史跡があります
山門です
参道を進むと階段に成りますが、左へ進むと本堂の脇の駐車場まで進むことが出来ます
階段を登り切ると本堂前の境内です
鐘楼です
結界石です
本堂です
文化財案内板です
和讃の石碑です
本堂裏側の洞窟です
経塚へ行って見ます
本堂裏側の山の中腹にあります
経塚が見えてきました
一番大きな経塚はフェンスにおおわれていますが、多くの保存状態はあまりよくありません
経塚で説明版です
史跡 東城寺経塚群
明治三十五年学術調査の結果、十二箇所にわたって経塚が発見され、内一つは大塚と命名された。十二の経塚群から
銅製の経筒六個をはじめ、和鏡、花瓶、壺、皿、椀、短刀、硝子小珠、写経など多くの出土品があった。
二個の経筒には、次のような毛掘りの銘が施されており、当時、常陸平氏が寺の外護として栄ていたことや、比叡山
とのかかわりが深かったことなどがわかる。
*経塚(1)大塚の経筒(高さ30cm・口径16cm・青銅製)
天治元年 甲 歳 「辰」 「次」 十一月十二日乙酉
奉安置銅壺一口
行者延歴寺沙門経暹
大壇那陰子平致幹
銀「作」三國将時
*経塚(3)の経筒 (高さ26cm、口径14cm、青銅製)
保安三年大歳 仁 寅 八月十八日 甲 辰
如法経書写供養願主
聖人僧明覚大壇越平朝臣致幹
法界衆生平等利益所
「奉」遂果如右敬白
*平致幹(むねもと)
納経の施主平致幹は、ここから北西約6km北条の多気城を本拠をもち、常陸大掾職初代の国香から六代目にあたる
その領域は現在の筑波・真壁・新治・猿島・北相馬・東茨城・鹿島・行方の各郡の大部に及び、当時、六郡の領主と称
したと云われるほどの富豪で、武力に秀で、その財力、文化力の勝れていた武人であった。
天台宗であった東城寺(現在は真言宗)を外護していたことがわかる。
*末法の世
当時は、貴族の支配体制が大きくくずれて地方の政治は乱れ、寺院は世俗化して僧兵の横暴が目立ち将来に対する不
案がつのる一方であった。
釈迦の入滅後2000年を経て、現世はいよいよ末法の世となり、佛の教えの衰えは即ち世の中の衰えとおなじであ
るとする末法思想が、強く人々の心をとらえるようになった。
*納経の人々
末法第一年は、永承七年(1052)にあたる。末法の世に、財あり信仰深かったものは、経文を筒に納め、経塚を
築き、経典を後世に伝えて、その善行によって世の乱れを直し、また、自己の極楽往生を願ったという。
延暦寺沙門経暹は、後に辻法眼と称され、天台宗の明 をもって名高く、多くの弟子が天台座主に任ぜられている。
聖人僧明覚は、経暹の法孫にあたり、天台宗の蘊奥をきわめた。
東城寺は恒武天皇の勅願寺として、比叡山の根本中堂と、琵琶湖のほとり坂本の日吉大社とを、東国に勧進して建立
されたといわれ、経塚から出土した経筒銘は、この関係の深かったことを物語っている。
昭和61年8月30日 土浦市教育委員会
では、次へ行きましょう
清滝観音の西約2kmにあります
東城寺の裏山には日本三大経塚と言われる史跡があります
山門です
参道を進むと階段に成りますが、左へ進むと本堂の脇の駐車場まで進むことが出来ます
階段を登り切ると本堂前の境内です
鐘楼です
結界石です
本堂です
文化財案内板です
和讃の石碑です
本堂裏側の洞窟です
経塚へ行って見ます
本堂裏側の山の中腹にあります
経塚が見えてきました
一番大きな経塚はフェンスにおおわれていますが、多くの保存状態はあまりよくありません
経塚で説明版です
史跡 東城寺経塚群
明治三十五年学術調査の結果、十二箇所にわたって経塚が発見され、内一つは大塚と命名された。十二の経塚群から
銅製の経筒六個をはじめ、和鏡、花瓶、壺、皿、椀、短刀、硝子小珠、写経など多くの出土品があった。
二個の経筒には、次のような毛掘りの銘が施されており、当時、常陸平氏が寺の外護として栄ていたことや、比叡山
とのかかわりが深かったことなどがわかる。
*経塚(1)大塚の経筒(高さ30cm・口径16cm・青銅製)
天治元年 甲 歳 「辰」 「次」 十一月十二日乙酉
奉安置銅壺一口
行者延歴寺沙門経暹
大壇那陰子平致幹
銀「作」三國将時
*経塚(3)の経筒 (高さ26cm、口径14cm、青銅製)
保安三年大歳 仁 寅 八月十八日 甲 辰
如法経書写供養願主
聖人僧明覚大壇越平朝臣致幹
法界衆生平等利益所
「奉」遂果如右敬白
*平致幹(むねもと)
納経の施主平致幹は、ここから北西約6km北条の多気城を本拠をもち、常陸大掾職初代の国香から六代目にあたる
その領域は現在の筑波・真壁・新治・猿島・北相馬・東茨城・鹿島・行方の各郡の大部に及び、当時、六郡の領主と称
したと云われるほどの富豪で、武力に秀で、その財力、文化力の勝れていた武人であった。
天台宗であった東城寺(現在は真言宗)を外護していたことがわかる。
*末法の世
当時は、貴族の支配体制が大きくくずれて地方の政治は乱れ、寺院は世俗化して僧兵の横暴が目立ち将来に対する不
案がつのる一方であった。
釈迦の入滅後2000年を経て、現世はいよいよ末法の世となり、佛の教えの衰えは即ち世の中の衰えとおなじであ
るとする末法思想が、強く人々の心をとらえるようになった。
*納経の人々
末法第一年は、永承七年(1052)にあたる。末法の世に、財あり信仰深かったものは、経文を筒に納め、経塚を
築き、経典を後世に伝えて、その善行によって世の乱れを直し、また、自己の極楽往生を願ったという。
延暦寺沙門経暹は、後に辻法眼と称され、天台宗の明 をもって名高く、多くの弟子が天台座主に任ぜられている。
聖人僧明覚は、経暹の法孫にあたり、天台宗の蘊奥をきわめた。
東城寺は恒武天皇の勅願寺として、比叡山の根本中堂と、琵琶湖のほとり坂本の日吉大社とを、東国に勧進して建立
されたといわれ、経塚から出土した経筒銘は、この関係の深かったことを物語っている。
昭和61年8月30日 土浦市教育委員会
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