胆沢若柳相馬檀地区は、奥州市役所の西約7km、奥州市役所胆沢総合支所の北約2kmのところ
奥州市役所胆沢総合支所の西側の県道176号線を北へ進みます
約1.7kmで国道397号線を越えて

約200mで道路交差点に島状になった供養塚です
手前の道路脇に
車を止めさせて頂きました

赤い鳥居が有ります

説明版です
供養塚跡
供養塚は安永風土記に記載されている経塚である。
宝永年中(1704~1711年)、当時の肝入りであった三郎兵衛が施餓鬼供養のために一字一石供養法華経を埋めたところとして知られる。
本来経塚は、経典保存の目的をもって平安時代中期の末法思想を反映して各地で築かれるようになったものですが、時代とともに変化し、極楽往生の祈願や追善供養を目的とするようになった。
安永風土記によれば供養塚は、江戸時代における若柳地区の施餓鬼供養を目的として築かれた「塚」であることがわかる。
本来の「塚」は、ここから東方約20mに3個の石碑が残っているところとされ、、供養塚の地名や伝説もこの「塚」にちなんで生まれたものである。
昭和63年12月 胆沢町教育委員会


北東側から目的のヤナギです



北側から

根元ですが、古い幹が根元から無くなっています
*町指定天然記念物時代には、目通り幹囲5.7mの巨木でしたが、残念な状態になっています。
*若いヒコバエが大きくなっていますので、太い幹に成長してくれるように願いました
では、次へ行きましょう

2024・9・11・13・35
奥州市役所胆沢総合支所の西側の県道176号線を北へ進みます
約1.7kmで国道397号線を越えて

約200mで道路交差点に島状になった供養塚です

手前の道路脇に


赤い鳥居が有ります


説明版です
供養塚跡
供養塚は安永風土記に記載されている経塚である。
宝永年中(1704~1711年)、当時の肝入りであった三郎兵衛が施餓鬼供養のために一字一石供養法華経を埋めたところとして知られる。
本来経塚は、経典保存の目的をもって平安時代中期の末法思想を反映して各地で築かれるようになったものですが、時代とともに変化し、極楽往生の祈願や追善供養を目的とするようになった。
安永風土記によれば供養塚は、江戸時代における若柳地区の施餓鬼供養を目的として築かれた「塚」であることがわかる。
本来の「塚」は、ここから東方約20mに3個の石碑が残っているところとされ、、供養塚の地名や伝説もこの「塚」にちなんで生まれたものである。
昭和63年12月 胆沢町教育委員会


北東側から目的のヤナギです




北側から


根元ですが、古い幹が根元から無くなっています

*町指定天然記念物時代には、目通り幹囲5.7mの巨木でしたが、残念な状態になっています。
*若いヒコバエが大きくなっていますので、太い幹に成長してくれるように願いました

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