ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県日立市、大窪城跡です!!

2015-01-31 21:14:46 | 城跡・館跡・陣屋跡
大窪城跡は日立市役所の南南西役6km、JR常磐線ひたちたが駅の西約1.5kmの丘の麓にあります

国道6号線から県道61号線を西へ入って間もなく


カーブの先に駐車スペースが確保されています、大窪城跡の他に、愛宕城跡と天神山城跡も歩いて行ける距離です

駐車場から西に進むと、案内石柱が有ります


南側の堀跡です

虎口への道です

上から見た虎口です

土塁です

土塁前の郭です

暇修館(復元)です

史跡碑が有ります

大窪城跡説明版です

  この場所を中心として、東西220m、南北150m一帯が大窪城の範囲と考えられ、西側に張り出す尾根上に
 築かれた天神山城とその南方の愛宕山城と合わせて大久保城とも呼ばれています。
  各城郭はお互いに密接な関係を持っていたと考えられています。
  大窪城跡は、永承元年(1177)平氏一族の大掾宗幹が大窪郷の愛宕山に築いたのが始まりとされ、14世紀
 ごろ奥州の石川冠者有光の十四世詮光の三男光治が、佐竹氏に仕えて初代大窪城主となりました。
  以後、大窪郷を支配すること八代200年に及びました。
  戦国時代の16世紀頃、城は愛宕山・天神山に加えて現在の地へも造られ、地域支配と防衛の拠点となりました。
  今でも山頂から東側を眺めると、二重の濠跡(ほりあと、斜高四~七m)や土塁跡(高さ1~2m)がその面影
 をとどめています。
  暇修館は水戸藩の郷校で、天保十年(1839)に元城郭の一部が畔に提供され、学問研修の施設として作られ
 ました。
  水戸藩に設立された十五の郷校のうち五番目に古いもので、初代館守大窪光茂のもと、身分を分かつことなく、
 医学、剣術、弓術、射撃訓練などがおこなわれました。
                                 日立市教育委員会


暇修館復元の記です

  天保十年ここ大窪城跡に水戸藩立郷校が創立され興勢館と名付られた、数年後暇修館と改められ、文庫には和漢
 の書籍数十冊を蔵し庶民研修の処として整備され、安政三年には武場の新設に伴い、名も大久保郷校となったが、
 藩末の内乱で哀徴した、維新後再興されたが間もなく廃校となった、その後建屋は改造されて学校役場等に用いら
 れ暇修館の名を以って親しまれてきた、終戦後老朽甚だしく、地元大久保協同組合等の切なる要望もあり、日立市
 当局は文化財保護の方針により復元を期して解体した。
  偶々天保十一年この地を視察した筑波山麓の学者長嶋尉信の見聞記が発見され、復元計画はにわかに進み茲に心
 籠る工事の完成をみたのである。
  水戸藩の郷校十五を数えるなかで暇修館の存在は極めて大きい、学問尊重の意味と教育が一部の特権層に限らず
 広く庶民に普及した歴史的意義に思いを致し乞われるままに一文を草して暇修館復元の記とする。
    昭和48年8月     筑波大学教授 瀬谷義彦撰文     日立市教育委員会教育長 軍司勲一郎書
 




暇修館裏庭です、土塁が巡ります

土塁の先には堀が有ります

北側の堀跡です

虎口先から北側に回り込んでみます、土塁は有ります

北側の土塁の先は堀です



先にも土塁が続き、堀が有ります

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