ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

高知県本山町、本山「本山十二所神社のスギ」(樹叢市指定)です!!

2024-08-16 18:53:20 | 巨樹・大木
 本山地区は、本山町役場の有る地区です、町役場の南約500mのところに十二所神社が南東向きに鎮座します

 本山町役場前から国道439号線を東へ、約200mの「大原富枝文学館・本山町プラチナセンター⇒」の信号を右(南)へ

 道成りに約300mから先は急な坂道を登って行きます

 約200mで一ノ鳥居です

 すぐ先の左側に駐車スペースがあります

 説明版です
   十二所神社
 うっ蒼たる巨杉老樹に囲まれたこの神域に鎮座する神社の祭神は伊弉册尊・速玉男命・事解男之命・天照大御神・天忍穂耳尊・彦火瓊々杯尊・彦火火出見命・鸕鷀草不合尊・軻遇突知命・埴山姫命・岡象女命・椎産霊命の12柱を祀る。
 当社の沿革は、「長徳寺文書」承元2年(1209、鎌倉前期)の「十二所、供田」が初見で、健治2年(1278)、弘安11年(1288)正月、同年2月及び、応安7年(1374)等の古文書が在る。
 殊に弘安11年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」とその創建が古代であることを記録している。
 「土佐州郡志」に「帰全山、或は之を別宮山と謂う旧十二所権現社有り今は無し」と記し当社が古代から中世にかけて帰全山に鎮座して居たことが示されている。
 戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し帰全山から永田村今宮に移り慶長15年5月に再建され、寛永15年(1638)12月領主野中兼山公のとき現在地に遷る。
 明治元年、十二所大権現を十二所神社と改称した。
 明治41年、本山字番匠屋敷に鎮座の若宮神社、同、東土居の地主神社。同、野々田の稲荷神社、同、帰全山の別宮神社及び西山鎮座、天満宮の5社が本殿に合祀された。
 大正9年11月郷社に列せらる。
   年間祭事*夏祭 旧暦6月8日 *例大祭・護神幸祭 11月23日
       平成23年度住民生活に光をそそぐ交付金事業
           本山町教育委員会

 急坂の参道を進むとニノ鳥居が見えて来ます

 ニノ鳥居です、周囲の木々は伐り払われてしまっています
 *グーグルマップのストリートビューでは2015年10月の鬱蒼とした鳥居周辺を見ることが出来ます

 ニノ鳥居左側に目的のスギです

 北側から

 北東側から、目通り幹囲6.5mの巨木です

 鳥居前(西側)から見上げました

 鳥居の西側には稲荷神社です

 鳥居を潜って神社へ向かいましょう、66mです

 南西側から

 南側から

 急な参道を東へ上って行きます

 境内下を右に曲がると石燈籠が見えました

 南東向きの境内入口の三ノ鳥居です

 説明版です
   本山町史跡・文化財案内板
     ⑤有形文化財・天然記念物 
   十二所神社社殿と社叢
 十二所神社の創建日時は不詳。
 当初、長徳寺鎮守三社の一つで、白髪神社、若一王子宮と並ぶ神社であった。社名は承元3年(1209)の長徳寺文書に見える。 
 永禄年中(1558~70)の長宗我部氏と本山氏の合戦で社殿を焼失、慶長15年(1610)本山の今宮に移し再建された。
 後の寛永15年(1638)野中兼山によって現在の場所に移転再建され本山郷の総鎮守とされた。
 (有形文化財・天然記念物)  本山町教育委員会
 *説明版の地図に載っている本山町役場は、令和5年(2023)4月1日に北西約500mの国道439号北側に移転しました。

 手水舎です

 社殿は工事中でした

 境内から参道の杉を見下ろしました

 では、戻って次へ行きましょう


 2024・6・14・13・40
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高知県本山町、寺家「若一王子宮の孕杉」(町指定)です!!

2024-08-16 12:35:20 | 巨樹・大木
 寺家地区は、本山町役場の西約2kmのところ、地区の北側に若一王子宮(にゃくいちおうじぐう)が南向きに鎮座します

 本山町役場南側の国道439号線を西南西へ進みます

 約1.6kmの「坂瀬・吉野⇒」の標識に従って右(北西)へ、「土佐本山橋」を渡ります、県道263号線になります

 約600m右手の住宅の塀に「若一王子宮」の案内板がありますので右(北)へ入ります

 間も無く一ノ鳥居です、鳥居を潜って進みます
 
 約200mで境内への参道入口です

 鳥居東側に数台止められる駐車スペースが有ります

 ニノ鳥居です

 参道石段の上に大きなスギです

 南東側から

 参道奥側から、合体木です

 夫婦杉です

 参道を進みます

 参道左手に大きなスギの木が見えて来ました

 南西側から、目的の「孕杉(はらみすぎ)」です

 東側から、お腹の大きな妊婦さんのような樹形から名前が付いています

 北東側から

 北側から見上げました

 三ノ鳥居です

 手水舎です

 拝殿です


 本殿です

 説明版です
   若一王子神社
     祭神は、天照皇大神・伊弉諾大神・伊弉冉大神
 若一王子宮は、久安5年(1149)紀州国有馬村より祖神二柱を勧請合祀、長徳寺とともに、この地の総鎮守の大宮として鎮座する。
 朝廷や幕府の祈願所として崇敬され、禁中様また源公よりの札書や御朱印物等があったと伝えられている。
 境内は鎌倉時代以降に規模が拡大されたらしく、また、現在の拝殿及びその付近に室町時代の土師器の破片が散布していることから、現社殿の位置が定まったのは室町時代以降のことと思われる。
 本殿は清輪造り千鳥破風付きといわれる。彫刻は天下に誇れる杉のもので、優れた拮構の美をつくした名建築と称えられている。
 社蔵の棟札によると、この本殿・拝殿は、慶應3年(1867)3月から明治8年(1875)10月まで8年の歳月をかけて建造されたもので、昭和47年2月山本町有形文化財として指定を受け、同時に社叢も天然記念物に認定されたものである、
 また、参道両側にある一対の御手洗石は、吉野川を挟んで寺家と田井の川原にあったかね石を氏子総出で運び込み、ここに据えられたものである。
 昭和52年5月、参道脇の土中から平安後期の須恵器が出土し、中に納められていた人骨によって、嶺北地方における古の火葬が証明された。
 また、高知県歴史民俗資料館にある梵鐘「文明12年(1480)」は、山本氏と長宗我部氏の戦いの戦勝利品として長宗我部氏が持ち帰ったものである。梵鐘には若一王子宮の為に作られたと銘がある。
     平成7年度文化財保存事業
     本山町教育委員会


 説明版です
   鎮守のほとり
 若一王子宮の深い林の中を流れて来た山の清水が、小さい谷川になって小径を横切り、土橋の下を音をたてて清らかに流れている。切岸に石菖が茂り、初夏は黄色の小さな花をつける。
 そこはもうすぐ表参道のニの鳥居の建っている広い道で、畳四枚半ほどの大きな一枚岩が右側から流れて来た別の谷川の上に石橋になって架かっていた。
 青っぽいその平らな石橋の上で石菖の花を並べてお店やさんをだしている童女の私が見えるーーー。
 ーーー鎮守の森のなかの、太い木の根が露出して蛇のように這っている境内ーーー
 しんと冷たい落葉の匂いが私の鼻にくる。初冬の鎮守の森に落ちる椎の実の、黒く艶やかなつぶらな実がくっつけている腐葉土の匂いもした。
 「本社の後の大けな椎の実、みんな拾うたぞ。もう一つも残ってないぞ」
 そんな憎まれ口を叫んでいる男の子ーーー
     大原富枝著「鎮守のほとり」・「白鮠」より
 *若一王子宮は、久安5年(1149)に熊野から若宮を吾橋山長徳寺の守護神として勧請したものです。
  地元では「若一さん」の呼名で親しまれおり、境内には椎の木が多く、秋には近くの子供達が椎の実拾いに集り終日にぎわいました。
  大原も子供の頃の椎の実拾いの思い出が強く残っており、幾つかの作品にその心象風景を書き残しています。

 神像です

 縁切り・縁結びの石です

 説明版です{/ee_2/

 南側から

 境内社を見て行きます、まずは竃神社です

 玉神社です

 鎮守社です

 地主社です

 八坂社です

 立田社です

 八坂社です

 では、次へ行きましょう



 2024・6・14・13・20
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高知県土佐町、南川「南川河内神社の夫婦杉」です!!

2024-08-16 06:31:53 | 巨樹・大木
 南川地区は、土佐町役場の西北西約8kmのところですが、間に山があるので約3倍の距離に成ります

 土佐町役場を北東へ出て直ぐに左へ、県道265号線です

 南越トンネルを越えた約1.8kmで三叉路を左(北西)へ、「⇐大川」方面へ県道17号線です

 早明浦ダム湖の北側を約12.4kmの「⇐黒丸・県道6号線」の標識を左へ橋を渡ります

 橋を渡り切ったらまた左(南東)へ、県道6・265号重複線です

 約600mで右カーブの所で土佐町へ戻ります、約700mで県道265号線は左へ橋を渡っています

 約4.5km県道6号線を道成りに進んできました「⇐夫婦杉」の看板です、左の建物の手前が入口です

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 説明版が有ります
   「河内神社」のスギ
 1、樹令   700年(推定)
 2、胸高直径 東樹220cm、西樹225cm
 3、樹高   東樹43.0m
 これらの樹はその昔、徳島の山師が瀬戸川地区の木材を川出しする際に山の神に作業の安全を祈願し、その無事終了後にこれを感謝して御願解きのため植えられたといわれている。
 樹令700年を超え、南川地区の由緒ある氏神「河内神社」の御神木として崇拝されている。
 現神社の造成時に根元約2mが埋没したが、樹勢は時代を超えて今なお旺盛である。
     高知県緑化推進委員会
     土佐町役場・南川地区「河内神社」

 下って行きます

 吊り橋で瀬戸川を南へ渡ります

 対岸に大きなスギが見えました

 吊り橋の上から上流(西)側です

 下流(東)側です

 吊り橋の上から二本の大きな幹が並ぶスギを見ました

 吊り橋を渡り切ると左手(東側)に目的の夫婦杉です

 社殿は杉の南側に東向き参道で鎮座していますので先に夫婦杉を見ました

 南西側から

 西側の一本です、説明版に有った胸高直径225cm(幹囲7.05m)です

 南側から

 東側の一本です、説明版に有った胸高直径220cm(幹囲6.9m)ですが、東西共に地面に2mほど幹が埋められているとすると、目通り幹囲はもっと太かったと思われます

 南側から

 南側から夫婦杉です

 南東側から

 東側から見ました

 東側から参道鳥居です

 境内社の祠です

 社殿です

 では、次へ行きましょう



 2024・6・14・12・15
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