香北町韮生野地区は、香美市役所の km、香美市役所香北支所の直ぐ南東側のところです
香美市役所香北支所の南側の道路を東へ進みます
約300mでカーブミラーのあるところで、右(南)へ幅のある道路に入ります
直ぐに「大川上美良布神社」の北参道の鳥居が見えて来ます
鳥居を潜って南へ進むと玉垣沿いを進んでニノ鳥居と三ノ鳥居の間に出ました
すぐ南側の参道脇に
車を止めさせて頂きました
西向きに二ノ鳥居です(一ノ鳥居は西側100mくらいの所に建っています)
三ノ鳥居を潜ると境内です
右手(南側)に手水舎です
左手(北側)に目的のスギです
南側の石碑の間から
東側から
説明版です
大川上美良布神社の神木
場所・香北町韮生野字大宮243番イ号地
樹種・杉 樹高・40m 樹齢・1000年 周囲・6.1m
(由来)
大川上美良布神社の境内には、多種類の樹木が生い繁り、この森は美しい社殿とともに神域の尊厳を保っております。
なかでもひときわ古いこの神木は、いまからおよそ1000年前の平安朝のころ当時の人々の手で、無病息災・五穀豊穣を祈願して植えられたものといわれています。
高知県緑化推進委員会・香北町
北西側から見上げました
神木杉の北東側に境内社です
琴平神社と秋葉神社の二柱が祀られています
キモ可愛い白馬像です
西向きに拝殿です
説明版です
正一位大川上美良布神社の略記
香美郡、香北町韮生野字大宮243番イ号地に鎮座。
主祭神は、太田々称古命で、このほか縁故深い大物主命、活玉依比売命、陶津耳命、櫛御方命、飯肩巣見命、美良比売命、健甕槌命を合祀。
今から約2000年前の祟神天皇の時代に疫病が流行して万民が苦しんだ時、天皇は大物主命のお告げによって大物主命の子孫の太田々称古命に神々を祭らせ、それ以来疫病が治まって人々は安んじて生活できるようになったといわれている。
当神社の創建は今から今から約1500年前の雄略天皇の時代だといわれているが定かではない、しかし仁明天皇の承和8年以前より祭られていたという古い記述がある。
当神社は延喜式の式内社で県内では21社の一つの由緒深い神社で古くから韮生郷の総鎮守として崇敬されて来た。
嘉永5年12月24日勅宣により神階正一位を授けられている。
当神社の現在の社殿は明治2年に落成、当時の名工島村安孝、坂出定之助、原卯平、別役杢三郎等によって建てられ拝殿、幣殿、本殿には立派な多く彫刻が残されている、この社殿は高知県保護文化財に指定されている。
夏祭 7月27日・ 7月28日
秋例大祭 11月 2日・11月 3日
本殿です
彫刻の説明版です
本殿の彫刻は「土佐随一」
社殿は慶応元年に起工、明治2年に再建されました。
拝殿・幣殿・本殿の屋根は美しくゆるやかな勾配と軒の反り、それに千鳥破風と唐破風でたくみに変化を持たせた優雅な建物となっています。
屋根は、杮葺であったものを昭和46年に銅版に葺きかえました。
三殿とも総檜で宮大工の名匠島村安孝を棟梁とし他3人の大工が腕を競い合いました。中でも彫刻は「土佐随一」であり、当時は「土佐日光」とも言われました。
本殿正面の虹梁の上中央には島村安孝作の応神天皇と原卯平作の竹内宿祢・右側には坂出定之助作の神功皇后・左側には別役杢三郎作の三韓の使者が貢物を奉るようすが刻まれています。
本殿南脇障子の彫刻は源三位頼政が鵺を射止めて帰る光景で頼政は天皇より賜った待女あやめを伴い、侍者猪早太は鵺を背負っています。
北面の脇障子は烏帽子に直垂姿の平經盛が、鹿を射止めた様子が刻まれています。二つの脇障子の彫刻は島村安孝の作で、どれも力強い彫刻の跡がみられます。
本殿腰欄間はいずれも原卯平の作で、北側には宋の司馬温公が幼い頃水甕に落ちた友を救うため甕を打破って溺れる友を救う様を、東側には虎と竹、及び虎の波乗りを、南面には浦島太郎が亀に乗って竜宮に赴く様が彫刻されています。
本殿軒下虹梁の彫刻は、左側には別役杢三郎作の三韓の使者、中央の島村安孝作の応神天皇と右側には坂出定之助作の神功皇后です
手すりには竜の彫刻です
本殿南脇障子の彫刻は源三位頼政が鵺を射止めて帰る光景
北面の脇障子は烏帽子に直垂姿の平經盛が、鹿を射止めた様子です
障子戸の裏側です
本殿南側から裏側を回って北側の腰欄間はいずれも原卯平の作です
境内北側には通夜殿です
説明版です
香北町有形保護文化財 2号
物件 大川上美良布神社通夜殿
当社の境内では、元禄の頃より毎年狂言が行われ、郷土文化の向上に大きな貢献をしてきた。
明治2年社殿改築と共に通夜殿が建立されると、郷民は殿内に回り舞台を設けて、長い伝統を持つ狂言が催された。
回り舞台は県下にも数少ないものである。
本殿南側に境内社の若宮神社です
北側には御崎神社です
登録有形文化財の神庫です
では、次へ行きましょう
2024・6・12・16・10