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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

カール・ポパー

2024-07-10 07:12:26 | 

 『開かれた社会とその敵』第一巻(岩波文庫)を読んでいる。序論の前の巻頭に、なぜか「イマヌエル・カント 啓蒙の哲学者」という文がある。

 カントについての文を読むのは、とっても久しぶりであるが、カントの「汝自身の人格にも、他のすべての人びとの人格にも存在する人間性を、いついかなるときにも同時に目的として用い、決してたんなる手段として用いてはならない」というある種の命令は、わたし自身の対人関係を律するものとなっている。

 この世には、他者を平気で「手段」として扱う人間がいる。わたしは、そういう人間とわかった段階で関係を切ることにしている。他者を「手段」とする人間は独善的であり、互恵的な関係を結ぶことができない。そういう人間とつきあっていくことは、ためにならない。人間関係は、互恵的でなければならない。

 カントの著作は何作かを読んではいるが、遠い過去のことなので、ほとんど記憶にない。最近、何かの文章を読んでいたら、若い頃に本を読むとその内容がアタマに残るが、歳をとるとそれができなくなる、ということが書かれていた。わたしもまさにそうで、細かくは覚えていないがその本のおおまかな内容は記憶にあった。しかし齢を重ねる中で、本を読んでも、印象に強く残るものだけは記憶されるが、そうでないものは記憶に残らず、最近では若い頃によんだ本の内容すら出てこなくなっている。老化はとどまるところを知らないようだ。

 ポパーのこの文に、カントの主張が引用されている。「われわれは権威の命令には決して盲目的にしたがってはならない」、「カントは、どんな人間でも自由であるのは、自由に生まれてくるからではなく、重荷ーみずから自由に決定することに対しては責任をもつという重荷ーを背負って生まれてくるからである」・・・・

 倫理的な要請を、カントは展開していた。

 だが、今や日本では、倫理はなきがごとし、倫理をもたない輩が、子どもたちに「道徳」を教え込もうとしている。難儀な国になってしまった。

 なお、この本の訳はとてもわかりやすい。

 


蜂が刺した!!

2024-07-09 20:11:25 | 日記

 わたしの実家は、槇垣根に囲まれ、なかにもたくさんの木が生えている。毎年夏になると、蜂が飛びまわり、どこかに蜂の巣がある。

 今日、最近植えた花の苗に水をあげようと如露を持ってうろうろしていたら、左のうでにチクッと痛さが走り、すぐに右手で払ったところ、蜂の野郎が腹を出してもがいていた。この野郎が刺したのだと思い、足でとどめを刺した。そのあと、槇垣根に殺虫スプレーをかけていったが、刺されたところの近くの槇垣根、その低いところに蜂の巣があった。スプレーをかけ、そこにいた蜂をやっつけた。

 わたしは歩いていただけで、蜂を怒らせるようなことはしていない。にもかかわらず刺されたのだ。すぐに蜂の毒を出すために水を流しながら毒を揉み出すようにして、結局ことなきを得た。

 今までの人生の中で、蜂には何度か刺されているが、何もしていないのに蜂に刺されたことは、幼い頃にいちどだけあった。家の窓から手を出してぼーっとしていたとき、蜂が飛んできて、さっと腕に刺してどこかに飛んでいった。

 家の周辺で、蜂の巣を見つけることは珍しいことではなく、子どもの頃から、蜂の巣を落とすことがある種の遊びであった。

 なお今日、わたしは黒いTシャツを着ていた。蜂は黒色に対して攻撃的になるのだそうだ。気を付けなければならない。


「非歴史的ー超歴史的なもの」

2024-07-09 12:19:58 | 読書

 以前紹介した『現代思想』増刊号「丸山真男 生誕100年」特集号、発売されたときにほとんど読んでいたが、長文である故に読まずにおいたものがある。木村直恵の「「開国」と「開かれた社会」」である。この論考は、丸山真男が「古層」(原型・古層・執拗低音)とよんだカテゴリーがどのような思考のなかで生みだされてきたのかを説明している。

 昨今、「開かれた社会」ということばが、丸山真男と関連したところで記されているが、このことばはカール・ポパーのものだ。

 わたしが属している研究会のメンバーなら、今から10年前に故金原左門さんが「大正期の「開かれた社会」-大正期デモクラシーの無限の地下水- 」を話し、また書いているが、この「開かれた社会」も、ポパーである。ポパーの概念をつかって、「大正期」を考えようとしてもので、丸山真男だけではなく、金原さんもポパーに関心を持っていたのである。その際金原さんはカーの『歴史とは何か』への批判的な言説としてポパーの『開かれた社会とその敵』に注目したのであった。ポパーのこの本は、とても大部で、以前は翻訳書が未来社から出ていたが、最近は岩波文庫から出ていて、その翻訳はとてもわかりやすいという評判となっている。10年前、金原さんから電話で、ポパーをよみなさいと言われていたことを思い出して第一巻を購入したところである。

 丸山真男が「原型・古層・執拗低音」を提起した契機は、「開国」(『忠誠と反逆』所収)に書かれている。丸山は、敗戦直後と明治維新の状況とが相似的である(「閉じた社会」から「開かれた社会」へ)ことから、幕末維新期と敗戦直後の日本社会を、「開国」であったとする。その際、丸山もポパー(丸山は、ポッパーと書く)に注目し、「非歴史的ー超歴史的なもの」を見つめることになる。

 ポパーの『開かれた社会とその敵』は、「全体主義と思想的に対決する」ために書かれたものだ。木村直恵は、「全体主義を前にしたときの存在拘束性ー歴史主義的立場の脆弱さと、それにたいする非歴史主義的立場の強靭さ」を指摘するが、全体主義に対決する際、歴史主義的立場は脆くも対決の場から離れていくが、非歴史主義的立場の者は強く、全体主義に負けない。それは戦時下の日本の知識人のありようでもあった。

 「過去の事象をそのまま「歴史的なもの」のうちに回収することなく、あえてそこに「非歴史的ー超歴史的なもの」を投げつけることによって、過去から「現在的な問題と意味とを自由に汲みとる」というこの狙い」が丸山の「開国」の「本質的な問題に関わっている」と、木村は記す。それが「開国」から「原型・古層・執拗低音」に至る、丸山の思考の方法であった。

 丸山は、日本思想に、「非歴史的ー超歴史的なもの」をみる。それは「「思想」にかぎりますが、日本の多少とも体系的な思想や教義は内容的に言うと古来から外来思想である、けれども、それが日本に入ってくると一定の変容を受ける。それもかなり大幅な「修正」が行われる」であり、「まさに変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある」(「原型・古層・執拗低音」、『日本文化のかくれた形』、岩波現代文庫)、その「音型」を「原型」、「古層」、「執拗低音」というのである。まさに日本思想の根底に、「非歴史的ー超歴史的なもの」を発見するのである。

 そのような「非歴史的ー超歴史的なもの」としての「古層」には批判がある。

 たとえば末木文美士『日本宗教史』の巻頭には、次のような批判が並ぶ。わたしの視点も、末木と近い。

・・・・「歴史意識の古層」(『忠誠と反逆』所収)という論文の中で、丸山は記紀神話の冒頭の叙述から「なる つぎ いきほひ」という三つの範疇を取り出し、それが執拗な持続低音として、「日本の歴史叙述なり、歴史的出来事へのアプローチの仕方なりの基底に、ひそかに、もしくは声高に響き続けてきた」とする。そこには戦後、近代的、合理的な思考を日本の中に根付かせ、再び戦前に戻る前と努力してきた丸山が、その試みに挫折し、伝統的思考の根強さにお手上げとなってしまった状況が反映されているようだ。

 丸山はその「古層」の頑固さの背景に、「われわれ「くに」が領域・民族・言語・水稲生産様式およびそれと結びついた聚落と祭儀の携帯などの点で、世界の「文明国」の中で比較すれば全く例外的と言えるほどの等質性を、遅くも後期古墳時代から千数百年にわたって引き続き保持してきた、というあの重い歴史的現実が横たわっている」と指摘する。丸山の古層論は今日あまり評判がよくない。確かに「例外的と言えるほどの等質性」が歴史的に保持されてきたという前提は、今日すでに崩れている。そうとすれば、いわば有史以来変わらない発想法というのはあまりに非現実的であり、そのまま認められないことは明らかである。不変の発想様式を前提とすることは、形而上学的な決定論に陥ることになる。

 ・・・・・我々の現在を制約するような「古層」は、それ自体が歴史的に形成されてきたと考えるのが最も適当ではあるまいか。

 ・・・歴史を貫く一貫した古層を認めず、それを歴史的に形成されたものと考える。

 ・・・歴史を通じて、まったく変わらないものを認めようとすれば、こじつけとなりフィクションとならざるをえない。

 丸山は、「ぼくの精神史は、方法的にはマルクス主義との格闘の歴史だし、対象的には天皇制の精神構造との格闘の歴史だった」(座談「戦争と同時代」)と語っているが、「格闘」の結果が「原型・古層・執拗低音」の発見であったということ、それをどう考えたら良いのだろうか。


変わりゆく日本

2024-07-08 22:12:05 | 近現代史

 『世界』8月号が届いた。ひとつだけ読んだ。内田雅敏弁護士の『陸軍将校たちの戦後史 「陸軍の反省」から「歴史修正主義への変容」』(角田燎、新曜社)の書評である。

 旧海軍将校の親睦会に「水交会」があり、陸軍将校のそれには「偕行社」がある。戦前からある団体である。私は、いづれ、それらの団体は消えゆくものと思っていた。旧軍の将校はほとんど亡くなられていると思っていたからだ。

 しかし、それらは自衛隊のOBを参加させて、これからも存続し続けるという。

 それとともに、旧軍を全面的に肯定するような動きが強くなっているようだ。書評のはじめに、「靖国神社」の宮司に、もと海上自衛隊海将大塚海夫が就任し、小林弘樹陸上幕僚副長らが公用車を使用して「靖国神社」に参拝するなど、自衛隊と旧軍が直線的につながる事例を、内田は掲げているが、もちろんそのような事例はこれだけではない。

 1945年に敗戦として終わった戦争を、批判的にみない風潮、すなわち旧軍を肯定する風潮が、自衛隊に強まっているようだ。憲法の「改正」、自衛隊の「国軍化」を目ざすことも主張するようになっている。

 「水交会」も「偕行社」も、「鬼畜米英」と国民を戦争に動員して多くの若者を殺したのだから、当然厳しく反省し、その気持ちを持ち続けなければならないはずだ。

 しかし、戦争直後、とりわけ旧海軍はみずからの戦争責任を免れるためにアメリカにすりより、その結果戦争責任を陸軍におしつけ、自衛隊が出来るやいなや米軍と蜜月関係を築くなど、旧海軍の幹部連中は恥知らずな行動をとっていた。

 「偕行社」は、当初は反省的な動きもあったが、「戦争を体験しない」陸軍士官学校のメンバーが運営するようになってから、「歴史修正主義」へと傾いていったそうだ。

 戦争体験世代は、次々とこの世を去り、未体験世代がほとんどをしめるようになった。戦争体験を直接聞くことはできなくなり、戦争体験は「記録」として残されている。わたしは、直接戦争体験を聞いた世代である。戦争を知らない人びとがほとんどであるという現在、戦争とはいかなるものであったのかを伝えることの重要性を、この書評を読んで痛感した。

 昨今の社会状況をみると、もう手遅れかもしれないとも思う。

 今も現実に、ウクライナやガザで戦争は行われている。そこには悲惨な、凄惨な事態が無数に起きている。そこからも戦争とはどんなことかを知ることはできるはずだ。事実を知ること、そして事実を元に想像力を発揮すること、そして考えること、それが求められている。

 変わりゆく日本、変わりゆく先には、悲惨が待っているように思える。歴史は繰り返すというが、繰り返してはならないこともある。

 

 


「後見(うしろみ)」の政治

2024-07-07 10:27:31 | 政治

 丸山真男の講演録、「政事(まつりごと)の構造 政治意識の執拗低音」が、『現代思想』(1994年1月号)に掲載されている(のちに臨時増刊号『丸山真男 生誕100年』にも掲載された)。

 そこで丸山は、「正統性の所在と政策決定の所在とが、截然と分離されているというのが、まず第一に日本の「政事」の執拗低音をなしております」と語っている。

 その事例として、丸山は摂関政治、院政をとりあげている。権力の正統性は依然として天皇にあるが、実際の政事は、摂関政治では摂政、関白、院政では太上天皇が行っていた。明治維新によって成立した近代天皇制国家においても、権力の正統性を天皇が保持しながらも、政事を行っていたのは大久保利通、伊藤博文らの「明治の元勲」らであった。

 中国の場合は、皇帝が正統性だけではなく、実際に政事も行っていた。

 そして鎌倉時代以降は、幕府が政事を行うことになった。幕府のトップ・征夷大将軍として、正統性を天皇から付与されている。

 丸山は、「政事の正統性を持っている最高統治者の背後にいつも、「後見(うしろみ)」がいて、リモコンをしています。皇室の内部ではやがて「院政」が登場しますが、この院政もやはり「後見」と呼ばれました。」

 しかし、摂関政治、院政において、実権をにぎるのは、それぞれの家政機関(摂関家では「家司(けいし)」、院政では「院司(いんし)」)であった。鎌倉幕府においては、当初「執権」、さらには執権家の家政機関である「内管領」が実権を握るようになった。

 丸山は、「権力の下降化がここでも他方では「身内」化として現れる」と指摘する。

 つまり日本の政事は、正統性を持つ権力者ではなく、「後見」という機関、さらに家政機関がおこなうようになるのである。

 現在の日本政治をみると、一応日本政治を担う正統性を制度的にもっているのは、自民党・公明党の岸田政権ではある。しかし実際に実権を握っているのは、その「後見」としてのアメリカ軍(アメリカ政府ではない)と経団連などの財界である。自民党・公明党政権の政治をみつめていれば、こういう勢力の意のままにされていることがわかる。その結果が「日本が「4年連続1位→38位」に転落した国際的指標 韓国は20位、アジアで日本より下位は3カ国のみ」なのである。

 さて東京都は、都知事が正統性をもち、実権も都知事がもつ。その実権を振るう都知事の周辺には、自民党や特定の企業(電通、三井不動産など)がいる。都市開発を担う都市整備局は、三井不動産などと話し合いながら青写真をつくっているという。

 民主的な制度をつくってはみたが、日本では、実際は「後見(うしろみ)」政治が行われている。

 


東京都知事選

2024-07-06 23:43:12 | 歴史

 学生時代、東京都知事選があった。美濃部亮吉さんの二期目の選挙であった。

 『世界』の購読者であったわたしは、当時、社会党・共産党の革新統一の動きが日本の政治を変えると思っていた。わたしが尊敬する岩波書店の吉野源三郎さん、中野好夫さんらは、社会党と共産党との間にあって、時に対立する両党をつないでいた。

 どこであったか忘れたが、美濃部さんの演説を聴きに行ったことがあった。そこには大勢の人がいて、凄い熱気があったことを覚えている。

 今回の都知事選挙、ネットのユーチューブでみたが、蓮舫さんの演説会の熱気をみて、美濃部さん当選時の盛り上がりと共通するものを感じた。もちろん、明日にならなければ結果はわからないのだが、蓮舫さんの政策は、浜松市で市民運動をやってきたわたしとしては、地方行政がおこなうべき政策であると思った。

 また石丸前安芸高田市長の演説もみ、また彼の市長時代のYouTubeもみたが、人間的に評価できない人物だとつくづくと思った。自己過信と謙虚さの欠如を、彼のなかにみた。蓮舫さんも言っているが、政治はどんな人であっても包摂することが必要だ。しかし現都知事と石丸前安芸高田市長は、排除の論理が先行する。

 明日はどういう結果になるだろう。蓮舫さんが当選すれば、何か日本社会が変わる、よくなるように思う。 

 


日常的に主権者に・・・

2024-07-06 08:49:32 | 政治

 選挙になると、候補者は選挙民の歓心を買うためにいろいろなうそをつく。まったくやる気もないのに、それが選挙民の心を捉えることが可能なら、候補者はウソをつく。だからウソをついても平気な人が立候補する。まともな人間は、簡単な気持ちで立候補なんかしない。

 今、東京都では知事選が行われているが、現在の都知事は「7つのゼロ」という政策を掲げて立候補している。あの人、「脱原発」も言っていたのではないかと思う。しかしその公約は見向きもされずに現在に至っている。都知事はそんなことどうでもいいのである。「ウソも方便」が、彼女の生き方なのであって、それを踏み台にしてのし上がることだけが彼女の生き方なのだ。

 こういう人物はたくさんいる。他者の苦しみをみずからの苦しみとする共感力(empathy)もなく、ただおのれの上昇志向を満足させるためには、なにをしても、何をしなくても、まったく意に介さない。

 自分自身が空虚だからこそできるのである。そういう人は多い。空虚な人という場合、宗教団体などに心を奪われている人も、同様である。みずからの判断を教団に任せてしまう、空虚としかいいようがない。あるいは、人生の途上で、上昇するために、おのれを捨て去る者もいる。日本の組織というのは、上意下達を受け入れない人は「上」にはいけないのである。

 さて、『地平』8月号の「極右の躍進は「民意」の反映か?」(菊池恵介)で、「選挙結果は有権者の意識を反映する「忠実な鏡」ではない。むしろ、投票率や選挙戦略などの変数によって大きく左右される」という文に出会った。そうだろうと思う。

 最近の選挙では、選挙のプロというか選挙に関わることを職業とする人たち(選挙プランナーとか・・)が出現し、そういう人の指示で選挙活動がおこなわれ、その結果当選するということが起きている。彼らは「選挙戦略」を立て、どういうことをすれば「勝つ」のかを入念に分析して選挙行動を展開する。ただ、こういう人物を雇うことができるのは、カネをもつ候補者なのだ。ということは、やはりカネを持っているかどうか、である。

 自民党の裏金をみずからの懐に入れた安倍派の面々、検察庁や国税庁の差別的対応で、今のところ犯罪者にはなっていないが、彼らも選挙でつかうカネが欲しかったのだろう。

 無理かもしれないが、カネに左右されず、選挙戦略にも動じず、候補者の政策をきちんと見つめ、そして選挙後も監視し続けること、これなしに社会を住みやすくすることはできない。

 残念ながら、日々の生活に追われて、行政がどんなことをやっているかを知ることはなかなかたいへんである。選挙の時にはうまいことをいい、当選したら自己利益の拡大を推進する首長や議員のなんと多いことか。

 私たちは、日常的に主権者であらねばならない。


立ち止まって、考えたい

2024-07-05 20:51:17 | 日記

 昨日も今日も、午後3時半頃から畑に行った。昨年夏はあまりに暑く、畑で10分程度動くだけでフラフラした。その結果、畑は背の高い夏草に覆われてしまった。夏草を少しもとることができなかったために、カボチャ、オクラをつくっていたところに行けなくなって、放棄した。

 だから今年は、通路をとにかく確保しようと、暑くても、除草に励んでいる。

 今つくっているのは、とうもろこし、なす、きゅうり、ズッキーニ、オクラ、さつまいも、枝豆、さといも、かぼちゃである。前三者はすでに収穫期に入っている。さつまいもは、伸びてきたツルを切って、土の中にさしている。さつまいものツルの値段は高いので、早く植えておいて、でてきたツルを切ってさしていくのである。

 また毎年小豆をつくっていて、今がまき時である。その準備をしなければならない。

 今年の夏も昨年同様か、それとも昨年以上の暑さだと言われている。

 私は庭でいろいろな花を咲かせ(種から)、また野菜もつくっているが、昨年頃から花や野菜の生長のしかたがかわってきているように思える。温暖化が、確実に植生を変えている。人間が酷暑だ、堪えがたい暑さだと言っているが、植物も暑さに耐えている。庭や畑の雑草も、今までみなかった種類を見つけることが増えてきている。

 温暖化の危機が叫ばれてからもう長い時間が経っている。その対策が急務だといわれながらも、支配層はそんなことを顧慮することなく、カネ儲けに励んでいる。

 わたしには、人類は破滅へと向かっているように思える。新自由主義が席捲するなかで、その速度が速まっているのではないかと思う。

 立ち止まること、そして考えることが必要ではないか。


『世界』の変身?

2024-07-05 13:36:46 | 

 わたしが高校時代から購読している『世界』の編集長だった熊谷晋一郎氏が、なにゆえに、『世界』と同じような『地平』を発刊したのだろう、という疑問を持っていた。

 わたしが若い頃は、『展望』(筑摩書房)や『現代の眼』(現代評論社)、そして講談社も『現代』という綜合雑誌を出していた。『世界』は毎月購読、『展望』などのほかの雑誌は時々購入していた。その頃は週刊誌として『朝日ジャーナル』もあった。それも毎週購読していた。だからそうした綜合雑誌が複数あることは歓迎すべきことである。

 だからわたしは、『世界』と『地平』を比較している。『世界』の8月号は届いていないので、8月号の比較は出来ないが、『地平』8月号には、花田達朗の「第三のジャーナリズム」にはこう書かれていた(主旨のみ)。

 熊谷は『世界』編集長として4年余りつとめ、その間に販売部数、定期購読部数を伸ばした、にもかかわらず、編集長を更迭され、営業局に異動となった。しかしその異動の理由が明かされず、熊谷はその異動を承服できなかった。たしかその頃、『選択』という雑誌(今年から購読を止めた)に、異動になったのに編集長が居座っているという記事があったことを思い出した。

 さて『地平』7月号に原稿を寄せている三宅芳夫が、ネットでこう記している

『世界』前編集長の熊谷伸一郎さんが、7月2日をもって岩波書店を退社されたそうです(FBにて告知)。
 ここ数年は、岩波が右翼の坂本体制になり、熊谷さんは社内でほとんど孤立無援の戦いを強いられてきたと伺っています。しかも、これは熊谷『世界』が、紙媒体としては異例の「部数増」を達成するなかのでの「政治的排除」でした。

 今後は1月ほど休養を取り、しかる後、現在の日本の危機に対抗する、ジャーナリズム/言論の場を立ち上げていきたい、ということです。

 おそらくは、新しい出版社の「立ち上げ」の段階に入る事になる。

 現在、メディアはTV・新聞双方とも「大政翼賛体制」。野党第一党の立憲はよりによって「維新」と連携する体たらく。

 もはや、既成の制度の枠を超えた一般市民による「人民戦線 front  populaire」的言説を構築していくしかない。

 この路線、リアルの世界でも「有効」であることは杉並の赤緑連合の小選挙区の連勝からも明らかです。

 しかも、仄聞するところによると、当の岸本聡子区長と選対本部長の内田聖子さんも立ち上げに協力してくれるとのこと。

 熊谷さん本人も都知事選の際、宇都宮健児さんの選対本部長を務めた人です。

 私も自分のできる範囲内で協力していく所存です。

 これは昨年7月に書かれたものだ。そうなのか、と驚いた。現在の岩波書店の社長は、坂本政謙という。この人、「右翼」なのか。となると、『世界』の変身の背後にこの人がいるのだろうか。『世界』に掲載される文に、鋭さがなくなっている(執筆陣が大きくかわっている!)と、うすうす感じていた背景が、これなのか。

 だとするならば、わたしは『世界』の購読を止める方向に行くしかない。鋭い問題提起がない文は、はっきりいって読む価値はない。

 

 


バラマキ

2024-07-05 08:26:24 | 政治

 マイナンバーカードの普及に、河野デジタル大臣はじめ政府は躍起になっているが、わたしはつくらない。マイナンバーカードとマイナ保険証の違いも、わたしは知らないが、マイナンバーカードが国家による国民監視・統制・動員の手段になると考えるから、つくるつもりはない。

 しかしマイナ保険証をつくらせるために、政府は2万円分のポイントをあげるからつくりなさいと政府が宣伝したら、多くの国民はそのために列を作った。

 そして東京都は、「018サポート」というバラマキ政治を開始した。〇歳児から18歳までのこどもに、月5000円、年間6万円を与えるというのである。その6万円を得るための申請には、マイナンバーカードが必要(それ以外の方法もあるが)だというのである。

 東京都も、マイナンバーカードの普及と、カネのばらまきとを抱き合わせている、ということである。自民党・公明党政権がやることと、東京都が行うことは一緒だということでもある。ただし自民党・公明党政権は、庶民へのバラマキはしない。マイナンバーカードの普及という国策があれば、そのためのバラマキはする。


神宮の森

2024-07-04 21:36:14 | 政治

 明治神宮には、二度くらい行ったか。あそこは明治天皇が祀られている。たくさんの木々があり、東京には珍しいところだと記憶している。

 静岡県の山の中にある町の歴史編纂に携わっているとき、大正期の書類の中に、明治神宮に樹木を送る(献木)という資料を見たことがあった。今はっきりと覚えていないけれども、どういう樹木を送るのかを検討した文書だったような気がする。

 そのときは、その資料の重要性に気づかなかった。

 いま、明治神宮外苑の再開発という景観破壊事業が計画されているが、その事業においては、全国から送られた樹木をたくさん切り倒すというのである。今からずっと前のことだけれども、全国各地の人びとは、明治神宮創建という事業に協力するために、当該地方でもっともよい樹木を選定して送ったはずである。

 しかし明治神宮、三井不動産、東京都、そして自民党政治家など、再開発を推進する人びとは、そういう歴史をまったく顧慮せずに、目の前のカネだけをみつめて、大正時代の人びとの善意を踏みにじろうとしている。

 私は天皇制を擁護する者ではないが、明治神宮は明治天皇を祭神として祀っている神社である。また神宮外苑には、聖徳記念絵画館がある。そこは明治天皇の時代の絵画が並べられている。

 自民党の政治家や、小池百合子などは、明治天皇を崇敬する人びとではなかったか。おそらくそんなことより、カネ、カネ、カネ・・・なのだろう。彼ら自民党政治家や小池百合子など保守政治家は、心から天皇を崇敬するのではなく、自分たちが利用するものとして天皇(制)はある。

 明治神宮とその周辺の景観は保持されるべきものである。

 私は学生時代東京に住んでいたが、最近の東京の変貌には驚く。東京には用事があればやむなく出かけるが、今では行きたいところではなくなっている。夏はとにかく暑い、冬はビル風が痛い。人間が住む街ではなく、カネ儲けをする場として、東京は存在しているように思う。

 


東京都知事の三井不動産との癒着

2024-07-04 20:48:41 | 政治

 自民党・公明党政府だけではなく地方自治体も利権に基づく政治を行っている。東京都の場合は、電通・博報堂だけではなく、三井不動産をおおいに儲けさせている。

 『週刊新潮』が報じている。

「東京都は土地をすごい勢いで三井不動産に差し出している」 小池都政の「三井ファースト」に疑問の声


『地平』8月号が届いた

2024-07-03 20:45:08 | 

 『地平』の創刊号は、知的刺激にあふれた雑誌であると思った。まだブログで紹介していないが、栗田禎子の「ガザ侵攻に抗うグローバルサウス」は、世界における日本の位置をも視野に入れた、なかなかの論考であった。

 たとえば、サミール・アミンの指摘を受け、「集団的帝国主義」という概念を提示している。「集団的帝国主義」とは、米国、欧州、日本、オーストラリアを指し、「一握りの「北」の諸政府が「南」の民衆を管理し資源を搾取しようとする仕組み」のことである。なるほど、と思った次第である。その他にも、中東におけるイスラエルの位置が、東アジアにおける日本の位置と「パラレル」であるという指摘も、なるほどと思った。

 『地平』は、なかなか問題提起にあふれた雑誌である。

 そして『世界』7月号であるが、『地平』にくらべて読み応えのあるものが少ない。ということは、掲載されている論考や対談その他に鋭さがないということだ。読んでいて、よかったのは、「ガザ反戦デモ 米学生新聞は大学当局とどう向き合ったか」、武田砂鉄の「最後は教育なのか?」、鈴木江理子「「育成就労制度」でも継承される問題構造」、岡村淳「上野英信と富山妙子の「出ブラジル記」」、「片山善博の「日本を診る」 教員「低額働かせ放題」問題の本質を探る」である。とにかく、『地平』のほうが鋭い問題提起となっているのである。

 考えてみれば、『地平』を発刊したのは、熊谷伸一郎、もと『世界』の編集長である。『地平』8月号の「編集後記」に、「今の日本社会と政治の最大の問題は、権力を監視し、牽制する力が衰弱していることだと痛感する」とあるが、そうした力は、『地平』のほうがある、と思う。ということは、『世界』がそうした力を弱めてきたのかもしれない。そうであって欲しくはないのだが。

 『世界』の執筆陣が新しくなっていることと、何か関係があるのかもしれない。『地平』の執筆陣は、かつての『世界』の執筆陣でもある(すべてではもちろん、ない)。

 


「誰のために・・・?」

2024-07-03 07:26:24 | 政治

 『日刊ゲンダイ』に、「岸田首相は誰に寄り添っている?」という記事があった。そんなことは言われないでも、日々の政治ニュースを見ていれば、政府や自治体が財界や産業界、さらには創価学会などの宗教団体のための政治を展開していることは明らかである。多額の税金をそういうところに注ぎ、彼らにパーティー券を買ってもらい、政治家に税金を環流させる、そういうシステムをしっかりと構築しているのである。それでも、選挙民が自民党や公明党に投票することに、私はある種の絶望をいだいている。

 ちなみに、その会食に参加した財界のメンバーを報じている雑誌があった。

 能登の被災者のことなんか、キシダの頭の中にはないのである。もちろん、庶民のことも眼中にはない。


丸山真男

2024-07-02 20:44:50 | 日記

 わたしが会員となっている研究会で、丸山真男をとりあげるという。

 今パソコンを打つ右側の書棚には、『丸山真男集』全巻があるし、『戦中と戦後の間』、『現代政治の思想と行動』なども並んでいる。それだけではなく、座談、回顧談などもある。もちろん、『日本の思想』(岩波新書)もある。とにかく丸山真男に関する本は、『現代思想』の臨時増刊号など、たくさんある。なぜそんなに揃えているのかというと、丸山真男の「「である」ことと「する」こと」に、青春期に読み、考えさせられたことがあるからだ。

 それは高校時代、「現代国語」の教科書に載っていた。『日本の思想』にもそれが載っているが、わたしはそれを何度も読んできた。かなり影響されたといってもよい。そしてそれからは、「「する」こと」を重視しながら生きてきた。

 昨年わたしは、歴史講座のなかで、丸山真男について話したことがある。そしたら、丸山真男ってどんな人なんですか、という質問がなされた。丸山真男を知らない人がいるのだと、その時わたしは驚いた。しかし、よく考えてみると、丸山を知っているのが当たり前という世界と、丸山なんて聞いたこともないという世界があるということ、なのだ。

 ある種の「知的世界」(丸山の語彙でもある)に生活している人と、そうでない人がいて、その世界は併存している。本来なら、それぞれの世界は溶けあっていなければいけないのであるが、なかなかそうはいかない。逆に現代は、それぞれの世界が大きく乖離しているのではないかと思う。

 その乖離状態を見据えながら、わたしは歴史講座で話をしている。

 わたしも会員である研究会は、当初、市民生活の場と「知的世界」との融合を図るためにつくられたと記憶している。

 丸山真男をとりあげるなら、丸山真男という人間を知らない、という人びととどのようにつながるのか、ということも問わなければならない。しかし研究会は、おそらくアカデミックな議論で終始することであろう。