浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

国語から文学が放逐される

2024-07-22 13:37:50 | 政治

 今日の『中日新聞』に、文芸評論家の清水良典さんのインタビュー記事が載っていた。高校の国語教科書から文学が放逐されることを憂う内容であった。

 清水さんは、こう語る。

安倍元首相の提唱した「美しい国」づくりに参画できる有用な国民を育てる、という使命を託された歴代の文科相とその意を受けた官僚の主導で進んだ改定だと思いますね。文科省的な意味合いで言う有用な人材とはおそらく、国が、あるいは社会や企業が、使いやすい人材でしょう。逆らったり屁理屈をこねたり、役にも立たないことを考えるのではなく、やれと言われたら従順に成果を出す人材を育てるのが目標で、そんな人間ばかりの国を「美しい国」として夢見ているのではないかと思ってしまいます。

  確かに文科省は、「逆らったり屁理屈をこねたり、役にも立たないことを考えるのではなく、やれと言われたら従順に成果を出す人材を育てる」ことを一貫してやってきた。それは教科書だけではなく、教育行政、教育の中味に、それが次第に入り込んできた。そして、文科相や教育委員会の方針にしたがって素直に教育を行う教員を増やしてきた。

 最近、大手メディアの記者の不甲斐な頻繁に指摘されるが、彼ら若手記者も、そうした教育を受けてきた者たちなのだ。だからわたしは、若手記者を批判する老練なジャーナリストの動きを見るたびに、そうした人材を育成する教育が為されてきたのだよ、と思うばかりである。

 わたしも長年高校教員として生きてきたが、その間、「出過ぎた杭は打たれない」を信条にして働いた。そして学校の内部が、思い切り腐臭を放っていることもしっかりと知ってきた。

 今だから書くが、わたしは基本的に教科書をつかってこなかった。教員になりたての頃、自分自身が受けてきた授業をそのままやっていたとき、ふと振り返ったら、生徒たちはみな机にうつ伏せていた。彼女たちは、労働者でもあった。疲労が蓄積していたのである。

 わたしはその時から、教科書通りの授業をやめて、毎回プリントをつくって、それをもとに授業を進めた。生徒は女性だったので、まず女性史をやった。彼女たちはしっかりと聴くようになった。それ以降、退職するまで、一貫して資料を載せたプリントを大量に印刷してそれをもとに授業を行った。もちろん、歴史の流れをきちんと踏まえながらの内容である。

 しかし、資料プリントをつくってそれをもとに授業を行うというのは、なかなかたいへんな作業であった。勉強しなければならないし、資料をさがさなければならなかった。授業準備に多くの時間を割いた。ある意味で、わたしの研究発表のようなものであった。

 教科書をそのままつかうということは、教科書を暗記するということにつながる。そうではなく、いろいろな資料を提供することによって、歴史の多様な見方も知ることができるし、歴史を学ぶ中で自由を感じとることもあるだろう。

 教育とは、まさに自由と多様性が求められる。当たり前のことだ。

 先に紹介した『中日新聞』記事でも、清水さんはそれを強調している。従順な人間というのは人が命じたことはやれるが、みずからの自由な思考で創造的なことをおこなうことは不得手である。

 日本の支配層やその走狗の文科省は、ほんとうに近視眼で、展望を持った方針を持てない。そういう人材ばかり育てることに彼らは熱心だが、創造性あふれる人間がいなければ歴史は前進しないし、その結果日本の未来は暗黒となる。

 清水さんは、こうも言う。

 また夏目漱石の「こころ」をはじめ、教科書の定番になるほど長く愛読されてきた作品には、いろんな解釈や受け取り方の自由があります。教育は、そして教室は、その自由や多様性を許せる場であってほしい。社会に役立つ歯車となる国民づくりを進める一方で、多様性や柔軟性を抑制しようとする、それが今の国語教育の発想で、その結果、文学的な文章は学校で教えにくくなっていく。ですが、それで生徒たちが、ますます多様で複雑になる現実に即応する力を養えると思えないですね。

 その通りだと思う。

 

 

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【本】早瀬圭一『そして陰謀が教授を潰した』(小学館文庫)

2024-07-21 21:05:11 | 

 最近著者から送られてきた本である。

 この本は、「青山学院春木教授事件 45年目の真実」という副題を持つ。1973年、青山学院大学の春木教授が同大学生の女性と性的関係をもった、それがきっかけとなり強姦で訴えられ大学を辞め、刑務所に送られたという事件である。

 著者はその事件の報道に携わった。著者は当時毎日新聞記者。裁判では、春木教授の強制的な性的関係が認められ、春木は懲役3年の判決が下され、最高裁まで争われたが、結局刑は確定した。

 そういうような事件があったなあと、わたしもかすかに記憶している。しかしそれは、この本を読んだから記憶から取り出されたのであって、読まなかったら記憶の底にしまいこまれたままだったはずだ。

 著者は、その事件の一連の経過に納得しがたいものを感じていた。しかしその後大学の教員になったりしても、事件のことは忘れられなかった。そして著者は調べた。この事件を調べた者は、作家石川達三はじめ何人かいたが、最後まで調べたのは著者だけとなった。

 本書を読み終わっても、事件の真実は明確になっていない。春木教授はすでに鬼籍に入り、みずからを被害者だと主張した女性も著者に直接話すことなく生きているから、真実は見えてこない。何となく状況証拠から、事件は単なる春木教授による女子大生強姦事件ではなく、大学内の勢力争い、関わった人びとそれぞれの欲望が重なり合いながら起こったことで、表面的には、事件は強姦事件として断罪され、そのままになっている。おそらくそれがくつがえることはないだろう。

 著者は、この事件を執拗に調べる、そして事件を取り巻く時代状況を描く。読む者をして、そういう時代があったなあという感慨を持たせる。

 いろいろな人の名が出て来る。わたしが知っているのは法学者や弁護士である。憲法学者である小林孝輔、この人の論文を読んだことがある。井上正治という九州大学の刑法学者、大谷恭子という弁護士。小林孝輔は、この本では大学内の争いの当事者として描かれている。そういう人だったのか。これらの人びとは、いわゆる左派系の法律関係者である。

 この本では、事件の真実が明かされない、だからもやもやしたものが残る。しかし読みはじめると止まらない。それほど読む者を食いつかせる。その背後には、事件についての「どうにも割りきれない」感情が著者に纏わり付き、その纏わり付いてものを払いのけるために、執拗に調査をつづけたのだろう。

 いろいろな人が出てくると書いたが、青山大学の教授として、気賀重躬がでてきた。気賀という苗字は珍しい。調べたら、やはり静岡県引佐郡出身であった。今は「平成の大合併」で浜松市に併合されたが、引佐郡には気賀という地名があるほどだ。

 

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売国奴・岸田

2024-07-20 12:03:28 | 政治

 とどまるところを知らない売国奴政権。ウルトラ右翼と創価学会による自民党・公明党政権がやることは、売国奴としかいいようがない。日本に住む庶民の生活を省みず、アメリカはじめ外国に媚びを売り、日本経済の発展のためには外国人にサービスを行う。

 東京都心のホテルは高すぎて泊まれない!という声が大きくなっている。30年間の賃金停滞と物価高で、都心のホテルに宿泊することは、もはや日本の庶民にとっては「高嶺の花」となっている。私自身も、東京に用事があるときは日帰り、やむを得ない時は埼玉県など郊外の東横インなどを利用する。

 都心のホテルは、円安の追い風を受けた外国人が、「高嶺の花」となった宿泊料をものともせず、「安い、安い」と言いながら泊まっている。

 そんな外国人観光客のために、キシダ売国奴政権は、国立公園内に高級リゾートホテルを誘致する事業をはじめるという。日本の庶民は、おそらく利用しない、できないだろう。

 キシダ売国奴政権は、外国人観光客と富裕層しか相手にしていない。

 日々、価格が上昇している食料品や日用品を買いに行き、その価格に大きなショックを受けているわたしは、いよいよもって、自民党・公明党政権は許しがたい存在となっている。

 日本の選挙民は、わずかばかりのおこぼれに目を眩まされる。マイナンバーカードを取得すると2万円のポイントをもらえるとなったら、こぞって役所に殺到した姿を思い出す。政府支配層や富裕層にとってははした金、それに目を眩まされる庶民の姿。それほど痛めつけられているのだ。

 

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軍部の独走

2024-07-20 10:05:03 | 近現代史

 一九四五年に終わった戦争を振り返るとき、そこに軍部の独走があったことは周知の事実である。暴力装置を保持している軍部は、政治家を脅し、官僚を従え、「統帥権の独立」を悪用して戦争政策を推進した。そして日本を敗戦国に導き、対米隷属の国家へと日本を貶めた。対米隷属の国家へと貶める尖兵となったのは、旧海軍をはじめとした勢力であった。旧海軍に戦争責任を課さないように、旧海軍将校はアメリカ軍に取り入り、戦後自衛隊が発足してからは、堂々とアメリカ軍の付属部隊としての存在にもっていった。海上にあるアメリカ軍のまわりに、海上自衛隊の艦船がコバンザメのようにとりつく姿を見かけたことがあるだろう。

 そうした旧海軍はじめ、旧日本軍のDNAをしっかりと継承している自衛隊は、日本防衛隊という外被をかなぐり捨てて、アメリカ軍の指揮下に、海外へと遠征する外征部隊としての様相を示しつつある。

 となると、日本の軍事機密は、同時に米軍の軍事機密となる。日米の軍事一体化は、強い秘密保持制度を具備することになる。

 さて、自衛隊の最高指揮官は、内閣総理大臣である。自衛隊法にはこうある。

第七条 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。

第八条 防衛大臣は、この法律の定めるところに従い、自衛隊の隊務を統括する。ただし、陸上自衛隊、海上自衛隊又は航空自衛隊の部隊及び機関(以下「部隊等」という。)に対する防衛大臣の指揮監督は、次の各号に掲げる隊務の区分に応じ、当該各号に定める者を通じて行うものとする。(各号略)

 しかし、実質的に自衛隊の指揮権は米軍がもつ。となると、この自衛隊法の上記の条文は、空文化する。自衛隊は、日本の総理大臣や防衛大臣よりも、米軍を仰ぐ。日本国民が、自衛隊への監視を疎かにし(それは、利権にしがみつくウルトラ右翼の自由民主党と自民党のコバンザメの公明党に政治をさせているということと同義である)た結果、自衛隊の独走を許すことになったのである。日本国民はかつての戦争の、異なる形での軍部独走を許しているのである。

 だから、『東京新聞』の記事に記されたような事態が起こるのだ。木原稔防衛相が知ったのは「野党より後」…ガバナンス欠如の防衛省自衛隊、元隊員の「逮捕」を8カ月報告せず

 その本文の一部を掲げる。

 木原稔防衛相は19日の記者会見で、海上自衛隊の潜水手当不正受給問題で元隊員4人が逮捕されていたことについて、約8カ月間報告がなかったと明らかにした。木原氏が逮捕の事実を知ったのは18日深夜。隊員らの一斉処分を公表した12日の段階でも把握していなかったことになり、「適切な発信ができておらず、深くおわび申し上げる」と謝罪した。大臣を補佐する本省内部部局(内局)が必要な情報をトップと共有しなかったことは「シビリアンコントロール(文民統制)」を揺るがす事態だ。(川田篤志)

 木原氏は会見で「大臣にしっかり報告するという文民統制の要諦が守られていない恐れがあるなら、由々しきことだ」と内局の対応を批判。自らの進退については「引き続き防衛省・自衛隊の体質改善をやらなければいけない」と辞任を否定した。防衛省は今後、報告が遅れた経緯や原因を調査し、関係者の処分も検討する。
 
 
 18日午後、立憲民主党の会合で防衛省担当者が逮捕について説明したことを機に、報道機関から問い合わせが相次ぎ、木原氏に報告した。防衛相の直轄部隊である警務隊による逮捕を共有していなかった理由について、19日未明に取材に応じた三貝哲・人事教育局長は「私が大臣に報告しない判断をした。判断ミスだった」と責任を認めた。三貝氏は19日付で退職した。
 逮捕者が出た場合、通常は書面で大臣に報告されるが、不正受給問題の調査が継続中だったため報告しなかったという。結果的に、木原氏の事実把握は、野党より遅れたことになる。

 

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増大する外国人観光客

2024-07-18 19:25:39 | 社会

「訪日消費8兆円視野」

という記事がある。

 もう6~7年前だったか、所用で九州に行った。時間が余ったので、レンタカーを借りていろいろなところをまわった。あまり有名でないところまで行ったが、そんなところにも外国人観光客がいたので驚いたことがある。

 今はもっとたくさん来ているのだろう。

 ユーチューブのニュースで、外国人が「日本はとても安い」と言って喜んでいるのを聞いて、よい気持ちがしない。というのも、「安い」といわれているものが、わたしにとってはあまりに高く、手が出ない金額だからだ。

 この30年間の経済的停滞で、人びとの生活は貧しくなっている。円安が進み、物価も激しく上昇しているが、所得は増えていないので節約生活を余儀なくされている。輸出企業はウハウハだろうが、庶民は苦しんでいる。

 そんな状況の中、首相がすべきは苦しんでいる庶民に手を差し伸べることではないか。それなのに、外国人観光客をもっと増やして、彼らにカネを落とさせて日本の経済に寄与させようと考えているのだろうが、それは本末転倒ではないか。 

 庶民の可処分所得が増えて、人びとが健全な消費生活ができるようにすれば、「訪日消費」云々は必要ではなくなる。外国人観光客に依存するような経済は、経済的に停滞している国の特徴である。キシダがそういう政策を推し進めていけばいくほど、庶民は節約生活を余儀なくされる。

 それよりも、円高にもっていくことが必要ではないか。多くの資源を外国に依存している日本は、円安になればなるほど日常生活で必要な物品の価格は上昇する。円高になり、庶民の収入、可処分所得が増えていけば経済は活性化するはずで、外国人観光客に依存する必要がなくなる。

 キシダの政策は、日本の経済を停滞させるものだ。それよりも、国民を大切にしなさい、といいたいが、極右の自民党は聞く耳を持たないだろう。未来に繋がる今が暗い。

 

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葬儀

2024-07-16 22:27:31 | 歴史

 いろいろな宗教・宗派の葬儀に参列するなかで、もっとも派手派手しいのは、曹洞宗と臨済宗であると思う。5人以上の坊主が、お経を読むのは当然だが、いろいろな鳴り物をつかってやかましい音をたてる。

 また葬儀にかかる経費がもっとも高くなるのも、このふたつの禅宗だといわれる。わが家も曹洞宗で、すでに墓じまいをして離檀したから関係ないが、ネットで調べると、葬儀での読経、戒名をつける料金など、曹洞宗がもっとも高額だといわれている。

 遠州地方は、曹洞宗や臨済宗の寺院が多い。それについての研究書がでていることは知っているが、いまだ読んではいない。

 さて、『日本宗教史』(岩波新書)を読んでいたら、次のような文にであった。

林下の禅が大きく進展したのは、葬儀や祈祷などの儀礼を通してである。とりわけ曹洞宗は、螢山紹墐(1268~1325)以後、大胆に儀礼的要素を取り入れて勢力の伸張を図った。のちの葬式仏教の原型は、室町期の禅宗に発するものである。禅宗では修行途中で亡くなった修行者を弔うのに、亡僧が早く修行を完成させることができるようにと亡僧葬法の方式が定められたが、それを在家に適用したのである。地方の大名をはじめ、在家の後援者が次第に力を増す中で、きちんと形式の整った儀礼が要求されるようになってきたが、従来の顕密仏教の方式は複雑であり、通常の在家者の葬儀に応じられる体制がなかった。そこで、それに適合した簡素で整備された儀礼の方式をそなえていた曹洞宗が大きく進展することになったのである。曹洞宗は座禅を通してではなく、むしろ儀礼を通して地方に大きく教線を拡大することになった。(116~7)

 今まで、葬儀の儀礼は、近世の檀家制度の中で整備されてきたと考えていたが、曹洞宗は、室町時代から、葬儀のやり方を整備していた、というのである。わたしの先祖が創建した寺院は室町時代であったが、先祖も曹洞宗の儀礼に感動して、宗派を曹洞宗にしたのかもしれない。

 いずれにしても、曹洞宗の葬儀は、読経、鳴り物により参列している人びとに、故人の最期をしめくくるものとして認知されてきたのだろう。葬儀の最後に、「喝」と叫ぶのも参列者に何ごとかを感じさせたのかもしれない。

 葬儀社の方から聞いたことだが、浄土真宗は、亡くなればすぐに天国(浄土?)にいけるのだが、曹洞宗は死んでもいろいろ修行しなければならず、棺に食料や守り刀を入れるという。わたしは、どうせならすぐに天国に行きたい。

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盆の行事

2024-07-15 17:30:07 | その他

 遠州地方は、盆の行事が盛んである。昔、ボンボコセーと呼ばれていた遠州大念仏、太鼓と鉦、笛をバックに、人びとが太鼓を叩きながら踊る集団が、新盆の家をまわっていた。今でも続けられているが、そうした集団は減っている。

 亡くなった人が盆の間、家に滞在するということから、松を炊く。盆の始めの日に家の外から松明を掲げて家に誘導し、盆の間松を炊く。そして盆が終わると、また松明を掲げて家の外まで誘導する。

 新盆の家は盆飾りをする。地域の人びとは、黒服を着て新盆の家を「盆供」をもって(中には1000円)訪問する。「盆供」のお返しは、ペットボトルのお茶などである。

 ところが、最近は新盆でも盆の行事をしない家庭が増えてきた。実はわが家も母が亡くなったので新盆なのだが、やらないことにした。100歳で亡くなった母の知り合いがすでに地域には残っていないこと、10年以上埼玉県に居住していたことなどからやめた。ただし、松を炊いたりお供え物を供えたりはしている。

 地域の人が知らせてくれたのだが、わが家のような家庭が増えているという。ある聚落では、9軒亡くなった家があるが、新盆の行事をやるのは4軒だけだということだ。

 いわゆる伝統的な行事がなくなっていく。そういう時期が到来している。

 ウルトラ右翼政党=自由民主党や創価学会党が政治を行っている間に少子化は進み、そうした伝統行事を担う人びとが少なくなっていること、またグローバル資本主義のなか、海外に行っている人が多いこと、そして賃金が上がらず消費税はじめ負担が増加していることから人びとは貧しくなり、伝統的な行事を行う経済的余裕をなくしていること、これらが重なって、伝統が消されていくのだ。

 自由民主党は「保守政党」と呼ばれるが、それは間違いである。現在の自由民主党はある種の革命政党である。日本の伝統を破壊し、そこに住む庶民の生活を維持できないようにしている。「保守」というのは、伝統を維持し、庶民の生活が大きく変化しないような政治を行う人たちのことをいう。自由民主党は、先祖から続く伝統的な生活を破壊する政策ばかり行っている。今では、アメリカの命令の下に、中国との戦争さえ企図している。戦争こそ、生活の破壊である。

 そうした右翼革命政党の政治を、そろそろやめさせないと、日本の伝統は彼らによって破壊されてしまうだろう。 

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イスラエルの掃討戦

2024-07-15 13:52:24 | 国際

 イスラエルのネタニヤフ政権は、計画通り、ガザに住むパレスチナ人を掃蕩して、ガザを完全にイスラエルの支配下に置こうとしている。そうした作戦が続けられている。ガザが終わったら、次は西岸地区で掃討作戦が行われるだろう。

 その背後で、アメリカがイスラエルを支えている。アメリカにいるユダヤ人が、それをさせている。

 このままいけば、世界的に反ユダヤ主義が強くなっていくことだろう。パレスチナ人の怒りは、決して消えることはない。憎悪が日々強化されていく。 

イスラエル軍がガザ中部の学校攻撃 17人以上死亡80人けが パレスチナ人死者は約3万9千人に

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なるほど・・・・

2024-07-15 13:49:32 | 政治

 昨日の『東京新聞』の「本音のコラム」は前川喜平さん。「選挙の後で分かったこと」として、東京都知事選について書いている。それによると、

 石丸候補の選挙を取り仕切ったのは、藤川晋之助、東京維新の会の事務局長も務めていた人であった。そして選対本部長には、自民党東京都連が運営する「TOKYO自民党政経塾」塾長代行の小田全宏、また田村重信もいた。田村は、自民党政務調査会の会長室長、調査役を歴任した人で、統一教会系の「世界日報」につながるインターネット番組「パトリオットTV」キャスター。

 小池百合子を勝たせるために石丸候補を立てて、蓮舫候補に流れそうな浮動票を奪う作戦だった、という見方がある。そうかもしれないと思う。

 利権に群がる者たちは、利権を潰そうという勢力とは、断固として戦うのだ。そのためには、あらゆる作戦を立てる。利権を潰したい者たちは、もっともっと考えなければならない。

 ところで、芳野友子連合会長は、小池百合子を支持し闘ったのに、蓮舫が三位になったことをもとに、共産党が「前面に出すぎ」たからだと言っている。だが、わたしは蓮舫の選挙演説をユーチューブで見たが、共産党は志位和夫と小池晃がそれぞれ一回だけ、社民党の福島みずほも一回だけだった。それ以外は、立憲民主党の幹部たちが入れ替わり立ち替わり蓮舫の応援にはせ参じていた。文化人と言われる人びとの姿も見なかったから、まさに立憲民主党が全面的に前に出ての選挙戦であった。

 デモクラシータイムスの番組をみていたら、蓮舫に投票しなかった理由の一つが、立憲民主党だから、というのがあった。立憲民主党は、たしかに、庶民の味方ではなく、消費税の減税(さらにはれいわ新選組の「消費税なくせ」)など庶民生活に直結する策をいっさい立てていない。それどころか極右政党である自由民主党(の法案)に賛成までしている立憲民主党の政策は、庶民のためのものではまったくない。そういう政党が、(相対的によい政策を打ちだした)蓮舫を支援したのだから、票が集まるわけがないのである。

 今や政治は、庶民とはかけ離れたところにある。極右政党の自由民主党、創価学会=公明党による政治は、財界とアメリカのためにのみ行われている。それを維持するために、彼らはひたすら企業を通してカネ(税金)をばらまいている。その一部が富裕層などにもまかれ、自民党・公明党政権を支えている。

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差別構造

2024-07-15 10:04:18 | 社会

「存在の否定」「自覚なき差別」、漫画「ゴールデンカムイ」のヒットで関心高まる一方… 今も続くアイヌ差別の実態

 TBS「報道特集」である。こういう番組が、テレビからほとんど消えているが故に、テレビの社会的価値はほとんどない。数少ない番組、この「報道特集」はネットで見ている。

 さて、ウルトラ右翼の政党・統一教会党=自由民主党議員の杉田某らが率先して行っているアイヌに対する差別的な言動とそれにさらされるアイヌの人びとについての番組である。

 差別はいけない、これは誰もが否定できない倫理である。しかしにもかかわらず、世の中には、平然と差別的な言動を行う者があとを絶たない。アイヌは先住民族として北海道を中心に存在していたこと、明治政府が強引に蝦夷地を「北海道」と命名して、アイヌを「臣民」に組み入れたこと、「臣民」としたにもかかわらず明治政府はアイヌ民族を「旧土人」として差別し、アイヌ民族の自由な大地を奪ったこと、これは歴史上明らかなことである。近代における差別は、大日本帝国政府が先導したといってもよいだろう。

 わたしは、差別というものは様々な場で日々生起し、しかしその多くは消えていく、と考えている。しかしそれら個々の差別的現象のなかから、社会的な差別としてひろくひろがっていくものがある。社会的差別となるものは、公的権力が何らかのお墨付きを与えること、それが大きな契機となる。そのような差別として、被差別部落に対する差別、在日コリアンに対する差別、女性差別(某都知事候補は「おんな子ども」ということばをつかっていた)、障害者差別、アイヌ差別・・・・・などがある。なかには、すでに公的権力自身が差別せず、お墨付きを与えなくなった差別もあるが、社会の中には残り続ける。それはなぜかというと、個々の社会的差別はそれぞれが分離独立しているのではなく、構造として存在しているからである。

 社会的事象をみていると、公然と差別する人は、社会的差別の内ひとつだけをとりあげて差別しているのではない。複数の差別的言動をおこなう。そしてかれらは、差別的な言動をあたかも愉しむように行動している。

 かれらの差別的言動は、公的権力の何らかの政策と連動しながら行われているのであって、公的権力を掌握しているウルトラ右翼政党=自由民主党の国会議員の言動も、十分に公的権力の所業といえるのである。同時に、そうした議員を議員たらしめる選挙民も、その差別構造の担い手といってもよいだろう。

 差別構造をどのように克服していくか、わたしにその策があるわけではないが、最低の条件として、公的権力あるいは公的権力に関わる者が、いっさいの差別的言動を行わないことが必要であると思う。それが第一歩だと思う。

 

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【本】姫岡とし子『ジェンダー史10講』(岩波新書)

2024-07-14 19:47:25 | 

 久しぶりに書店に行って買った本の一冊。ジェンダーに関する本はあまり読んでこなかった。フェミニズムについてはいくつか読んできたし、日本女性史についても読んでは来たが、ジェンダーという言葉はなかなか身につかない。そこで、みずからの弱点を補うべく買って読んでみたのだが、ひととおりの理解は可能な、あまり難解ではない本であった。

 ジェンダーについての理解がないと、もう歴史の本も読めなくなるほど、そのことばは一般に普及しているが、それを快く思わない人たちも相当いるようだ。

 本書は、「ジェンダー史」ということで、ジェンダーという視点がどのように生まれてきたかをまず記し、それが歴史研究をどう変えてきたのかが、次に展開される。

 様々な論点があり、それに関する膨大な研究が既になされていて、同時に著者はドイツ史ということから、海外の文献をも揃えて説明しているがゆえに、記述は概説的で(それを目的に書かれた本であるから当然だが)、わたしとしては緻密さに欠けるように思えた。それはもちろん無いものねだりである。

 ジェンダーは、市民の生活の中に定着すべき概念であり、その歴史、どういう研究がなされてきたのかを知る上でよいテキストだと思った。

 

 

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一枚の写真

2024-07-13 19:03:16 | 社会

 今日の『東京新聞』、末尾のページに一枚の写真が載せられていた。一目見て、素晴らしいと思った。

 まったく知らなかった写真家・小島一郎の「つがる市稲垣付近」という作品である。モノクロの画面、雪道を四人の女性が歩いている。前方には黒い雲が立ちこめ、雪道沿いに樹木が立ち並んでいる。厳冬のつがるの状況が象徴的にうつされている。

 明るい雰囲気は皆無である。寒さの中で生きる人びとに神々しさをも感じる。

 青森県立美術館で、この小島一郎の展覧会がひらかれている。展示を企画した高橋しげみさんは、「都市と地方の格差が広がる時代の憂鬱が写っている」と語ったという。

 北国で生きる人びとは、「憂鬱」であろうとなかろうとそこに生きていかなければならない。貧しくても、命が終わるまでは、とにかく生きていかなければならない。「憂鬱」だけではなく、「諦念」もあるのかもしれない。そういう負の感情を持ちながらも、雪に閉ざされながらも生きていく。

 わたしは、そうした地方に生きる人びとに敬意を表する。わたしも地方に生きる者であるが、地方があってこその社会なのである。

 東京など首都圏に住む者たちは、報道によると、豊かな経済生活を送っている者も多いようだが、しかし大都市に住むという利便性の中にいる。同時に、東京都の過剰に豊かな財政のもと、すこしの「おこぼれ」が選挙があるころに撒かれる。東京都は、それができるのだ。しかし地方はできない。

 ときどき、東海道を走る高速道路を利用するが、東京に向けて、はるか九州や山陰地方などから、野菜や生魚などを積んだトラックが走っている。もっともおいしいものは東京に運ばれるという。

 東京に、カネが集まっている。最低賃金も東京は高い。富裕者がたくさんいる。そういう人たちのために、全国から新鮮なものが運ばれていく。それが時を経るごとに、強化されていく。

 わたしは東京などの都会には住みたくはない。大地、豊かな緑、そして広い空がないと生きていけない。

 それでも、なぜ東京だけに豊かさが集中するのか、あるいは集中させるのか。

 遠州地方の中山間地の茶畑が荒れている。今まで人が住んでいたところに、猪や鹿、さらに熊がでるようになった。地方の国土が荒れている。

 そうした荒廃を、大都市の住民は知らないだろう。いずれ、彼らにも影響が及んでいくことだろう。

 地方に、「憂鬱」や「諦念」がある、と書いた。それはいずれ大都会にも波及していくはずだ。

 

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東京都知事選の裏側

2024-07-13 08:21:13 | 政治

 デモクラシータイムスの「3ジジ放談」において、平野貞夫さんが石丸候補を押し出した背後の政治勢力について言及している。そこには自民党につながる人びと、とりわけ安倍派につながる実業家(「アベ友」)が支えていたことなどを紹介している。

<都知事選・統一教会・テレ朝・渋沢栄一・兵庫県知事>

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2024-07-12 18:44:37 | その他

 どんな人生を送っているか、その結果が顔に表れてくる。

 最近、高圧的に職員らに当たる政治家の姿が、ユーチューブでみることができる。

 斎藤元彦兵庫県知事、北海道の長谷川岳議員、かれらの顔には同じ特徴がある。まず眼に優しさが感じられない。同時に、感性が干からびているようにみえる。自己過信、「オレはエラいんだ」という顔。そういえば、石丸某もそんな印象を受けた。

 他人に対して、たとえ自らよりも「地位」が「下」であろうと、「上」にある者は謙虚に振る舞うのがふつうである。こういう人たちが政治という仕事をしているのだから、政治がよくなるわけがない。しかしそういう人たちに投票する人たちがいる。

 歴史研究に従事してきたわたしは、高名な歴史学者と話したり交流してきたが、業績のある方こそ、とても謙虚であった。優れた人は、おしなべて謙虚なのである。謙虚な姿勢で研究するからこそ、業績も、よりよいものとなるのである。

 官僚や政治家の世界は、そうした当たり前の関係とは真逆であるようだ。そういう世界にいかなくてほんとうによかったと思う。

 

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すべてを利権に変える国・日本

2024-07-11 19:42:44 | 社会

 能登半島地震から半年以上が経っても、復興のきざしはみえないという。過疎地帯の復旧・復興には、政治家や官僚は関心がないのだろう。

 今日届いた『週刊金曜日』、特集は「いまだ戻らない日常」、能登半島地震から半年をみつめるというものだ。

 そのなかに、季刊誌『能登』を発行している経塚幸夫さんのインタビュー記事があった。5月に発行された『能登』の内容が記されるとともに、「住宅問題」に関する経塚さんの怒りが綴られていた。

 経塚さんは金沢のメディアに務めていたが、会社をやめてから輪島市の奥さまの実家に住職となって移り住んだ。1月の地震で家もつぶれてしまい、最終的には取り壊して小さな家を建てようと考えているとのこと。国の生活再建支援金が最大で550万円、しかし寺の檀家の人びとは80~90代、たった550万円では家は建てられない。借金することだって難しい。結局、住み慣れたとことから出て行かざるを得ないだろう、と語る。

 ところで、こうした大きな地震があると、「仮設住宅」が建てられる。しかし、それにかかる費用は公にされていない。経塚さんは県の担当者に聞いてみた。しかし「言えない!」。

 経塚さんが、それでも調べたら、2年で壊すプレハブ応急仮設住宅、なんと、一戸あたり一千数百万円から二千万円だという。「あのプレハブがですよ」と、経塚さんも驚く。

 わたしも驚いた。

 経塚さんは、「この国の制度は被災者に冷たい。「災難でしたね。でも自力で頑張ってください」」である。

 国や県は、直接困っている人にカネを出さない。大地震が起きても、政府や県は、やはり企業に多くのカネを渡す。他にも、ガソリンが急騰しても、その補助金も石油企業に垂れ流す。すべてを利権につなげていくのだ。金融機関が危機的な状況になったら、企業に多額のカネを投下するのに、庶民には渡さない。

 どのような場合でも、国や自治体は、庶民ではなく企業にカネをわたし、そこで利権化していく。

 こんな日本に、いったいだれがしたのか、と思う。

 

 

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