今日の『中日新聞』に、文芸評論家の清水良典さんのインタビュー記事が載っていた。高校の国語教科書から文学が放逐されることを憂う内容であった。
清水さんは、こう語る。
安倍元首相の提唱した「美しい国」づくりに参画できる有用な国民を育てる、という使命を託された歴代の文科相とその意を受けた官僚の主導で進んだ改定だと思いますね。文科省的な意味合いで言う有用な人材とはおそらく、国が、あるいは社会や企業が、使いやすい人材でしょう。逆らったり屁理屈をこねたり、役にも立たないことを考えるのではなく、やれと言われたら従順に成果を出す人材を育てるのが目標で、そんな人間ばかりの国を「美しい国」として夢見ているのではないかと思ってしまいます。
確かに文科省は、「逆らったり屁理屈をこねたり、役にも立たないことを考えるのではなく、やれと言われたら従順に成果を出す人材を育てる」ことを一貫してやってきた。それは教科書だけではなく、教育行政、教育の中味に、それが次第に入り込んできた。そして、文科相や教育委員会の方針にしたがって素直に教育を行う教員を増やしてきた。
最近、大手メディアの記者の不甲斐な頻繁に指摘されるが、彼ら若手記者も、そうした教育を受けてきた者たちなのだ。だからわたしは、若手記者を批判する老練なジャーナリストの動きを見るたびに、そうした人材を育成する教育が為されてきたのだよ、と思うばかりである。
わたしも長年高校教員として生きてきたが、その間、「出過ぎた杭は打たれない」を信条にして働いた。そして学校の内部が、思い切り腐臭を放っていることもしっかりと知ってきた。
今だから書くが、わたしは基本的に教科書をつかってこなかった。教員になりたての頃、自分自身が受けてきた授業をそのままやっていたとき、ふと振り返ったら、生徒たちはみな机にうつ伏せていた。彼女たちは、労働者でもあった。疲労が蓄積していたのである。
わたしはその時から、教科書通りの授業をやめて、毎回プリントをつくって、それをもとに授業を進めた。生徒は女性だったので、まず女性史をやった。彼女たちはしっかりと聴くようになった。それ以降、退職するまで、一貫して資料を載せたプリントを大量に印刷してそれをもとに授業を行った。もちろん、歴史の流れをきちんと踏まえながらの内容である。
しかし、資料プリントをつくってそれをもとに授業を行うというのは、なかなかたいへんな作業であった。勉強しなければならないし、資料をさがさなければならなかった。授業準備に多くの時間を割いた。ある意味で、わたしの研究発表のようなものであった。
教科書をそのままつかうということは、教科書を暗記するということにつながる。そうではなく、いろいろな資料を提供することによって、歴史の多様な見方も知ることができるし、歴史を学ぶ中で自由を感じとることもあるだろう。
教育とは、まさに自由と多様性が求められる。当たり前のことだ。
先に紹介した『中日新聞』記事でも、清水さんはそれを強調している。従順な人間というのは人が命じたことはやれるが、みずからの自由な思考で創造的なことをおこなうことは不得手である。
日本の支配層やその走狗の文科省は、ほんとうに近視眼で、展望を持った方針を持てない。そういう人材ばかり育てることに彼らは熱心だが、創造性あふれる人間がいなければ歴史は前進しないし、その結果日本の未来は暗黒となる。
清水さんは、こうも言う。
また夏目漱石の「こころ」をはじめ、教科書の定番になるほど長く愛読されてきた作品には、いろんな解釈や受け取り方の自由があります。教育は、そして教室は、その自由や多様性を許せる場であってほしい。社会に役立つ歯車となる国民づくりを進める一方で、多様性や柔軟性を抑制しようとする、それが今の国語教育の発想で、その結果、文学的な文章は学校で教えにくくなっていく。ですが、それで生徒たちが、ますます多様で複雑になる現実に即応する力を養えると思えないですね。
その通りだと思う。