なかなか目立った経済成長が期待できないとき、支配層は無理矢理経済成長をつくりあげようと、公共事業にカネを振り向ける。国民、住民には、財政状況が悪い、「自己責任」だと言いながら、経済成長をはかるためには企業の成長が必要だと、工場立地には補助金を出し、道路を作り、海外に進出したい場合にはそのための手当をしてあげる。企業が工場立地するのも、海外にでるのも、これって「自己責任」でやるべきではないの?
今日の『中日』の浜矩子氏の主張。
政府や企業が成長を追求する→仕事ができないとみなされる人は切り捨てられる・できる人は過労死にさらされる、という状況。
浜氏は、こう続ける。
「人々がこのような仕打ちを受けている状態の中で、経済活動がぱっとするわけがない。経済活動は人間の営みだ。多くの人々の生活が脅かされている中で、経済活動が生き生きと盛り上がるはずはない」
その通りである。国民が安心して暮らせる、おちついたゆったりした生活をどうつくるかを議論すべきである。
だが残念ながら、政府は1%の富裕層のための政治権力になっている。経済成長があるなか、一般庶民の生活が徐々に豊かになっていくなかで、富裕層も庶民とは遙かにレベルの異なる豊かな資産形成、豊かな生活をしてきた。ところが、石油ショック以降経済成長が見込めなくなった頃から、富裕層は今までと同様に豊かな資産形成、豊かな生活を維持するために、しゃにむに「新自由主義」の思考とそのための政策を展開してきた。
富裕層は、政治権力を従属化し、「新自由主義」の政策が、あたかも庶民の生活を豊かにするのだと宣伝し(たとえば富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)するという「トリクルダウン」理論)、庶民が納めた税金を自分たちが自由勝手につかえるようにし、実際そうしてきた。庶民は、「新自由主義」の政策展開のなかで追い詰められ、生活も困難化し、希望をもてず不安のなかに生きている。
富裕層の、あくなき欲望を抑えるときがきているのだ。自分たちだけが豊かになるということはできないのだ。
「貧しい者がふつうの安定した生活ができるようになれば、富める者にも自然にカネが入ってくる」という、「逆トリクルダウン」理論ができないものか。でも実際は、それがもっとも無理なくカネが入ってくる方法ではないか。経済成長の時代が、それを証明しているはずだ。