白亜45会HP管理人

白亜(白堊)45会は、岩手県立盛岡第一高等学校昭和45年卒業の同期会です。

電子計算機2

2015年09月08日 23時51分23秒 | 電脳
大学院入学の1974年、ミニコンの雄PDP-11が納入されました。発注から納入まで時間がかかったのは、この機種の輸入が急増したため、税関で調査のためにストップしていたためだそうな。

大学院5年間は、白金台にある医科研とサンフランシスコ郊外のLBLを行ったり来たりしていましたが、どちらの研究所でもPDP11が私の相棒。

そのうちに、ミニコンだけでデータ処理を行うのは困難になりました。計算速度の問題もありますが、データ量がより大きな問題だったのです。当時は、データ格納のためにオープンリール磁気テープを使ってました。実験室に置いているミニコンでデータ収集を行い、計算機棟にあるメインフレームに持っていってデータ解析する、という方式が世界中の研究所で行われていました。俗に「自転車オンライン」と呼んでいました。テープを自転車で運搬していたからです。今は、もちろんネットワークを利用して計算サーバにデータ転送します。

PDP-11はVAX-11へと進化していきました。VMSと呼ばれる基本ソフトが用いられていて、併せてVAX/VMSは長い間、業界標準品でした。ちなみに、マイクロソフト社のWindowsは、初期のものとWindows-NT(略してWNT)以降では表面的には似ているが内部構造が全く違っています。
WNTは、VMSを作った人達がマイクロソフトに移って開発したものだそうです。VMS->WNTです。アルファベットの順序を思いだすと・・・

マイクロプロセッサーで思いだすのはインテルの8086とモトローラの68000です。略して「86・68論争」と言ってました。アーキテクチャーとしては68の方が圧倒的にカッコ良い、と私は思っていました。インテルが徐々に優勢になったのですが、理由はモトローラは大きな会社なのでプロセッサーに力を入れる必要が無いのに対してインテルはこれが失敗したら会社が潰れるので必死なため、と思っていました。インテルのチップが世界を凌駕する時代が来るとは・・・全く読めなかったですね。

電子計算機がらみの昔話はこれくらいにしておきます。