飯塚の曩祖神社(後の)辺りにひとまず落ち着いた神功皇后さんたちは・・・どちらへ向かったのか。
遠賀川の支流に内住川があります。その川沿いに飯塚から南の方へ山際の路を進んだのではないか。今の筑前大分(だいぶ)・・・のちに大分八幡宮が創建されました・・・から九郎原(くろうばる)へと。
この時に神功皇后さんは身重でした。旅も辛かったでしょうが・・・苦労されましたかな?
九郎原から宇美へと峠を越えて行くのですが、さすがに身重の体では大変だったのでしょう。籠といものではなくて当時は藁を編んだみたいな、あるいは竹を編んだみたいな、あるいは木製のものに乗って峠を越えたそうです。ショウケと言うんですが、背負う桶から来ているのかな?・・・余談ですが。宮崎の高千穂へ行ったときに竹で編んだ田仕事山仕事に使う、背負う籠がありまして質問しますと、カルィ?と聞こえたんですが、背にかるうから来ているのかなと思ったりしたことありました。
その峠は今はショウケ越峠と言われます。若杉山から宝満山へと続く三郡連山の一番低い地点なんですが、今でも車で通るのは難儀です(笑)
さて峠を越えて須恵町と宇美町の境となっている谷筋を須恵川沿いに下って来ます・・・その時に皇后さんが言ったのか武人たちが言ったのかは分かりませんが・・・「おぉ、早や見えた!」と言われた地域が、宇美町にありまして「早見」という地名として残っています。また皇后さんが腰掛けた石がある地、旅石(たびいし)という地名があります。
その旅石で一息ついて宇美の楠の森までは目と鼻の先、前回に述べました光正寺古墳の辺りを通り、古代の道の十字路と云われる今の宇美八幡宮の楠の森に到着(帰着?)します。
この地で応神天皇を出産されたと言われています・・・その地は西暦580年に創建された宇美八幡宮となりました。境内は現在でも20数本の大楠の森の中にあります。神功皇后が出産のときにすがったと言われる槐の木が伝わり、子安(こやす、安産の意)の木と言われていますね。
その他にも衣掛の森と言われる樹齢2000年以上の大楠と、湯葢の森と言われる樹齢2000年の大楠の迫力には圧倒されます・・・安産信仰で有名ですがそのことはいずれまた。
皇子を出産してから何処に向かったのでしょうか?・・・すぐには出立できませんし、数年は滞在したのではと考えたりします。この地は古代の道の十字路と言われていますので、情報や物は不自由しなかったでしょうけど・・・
この地にある光正寺古墳からは水銀を入れる壺が出土し、その大きさから、すわ!邪馬台国!?と新聞のトップに出ましたけど、今はなんにも報道がありません(笑)
http://www.town.umi.lg.jp/soshiki/12/kousyouji.html
古墳の解説のページです。
この宇美の地に残っている地名ですが・・・音楽というのがあります。古墳前期時代に音楽ですからかなり贅沢、後の雅楽を奏でる一団が居たところではと言われています。光正寺古墳からは目と鼻の距離です。
また荒木という地名もあります、この地の豪族の姫がいましたがここに滞在した王が連れて行ったとあります。荒木姫と言われていますが、このことでピンとくるのがいわゆる人質ですね。おそらく神功皇后さんは各地を転じていたと思いますが、その各地のいわゆる優秀な人物を召し抱えていたのではないかと考えます。自らの力をより強くすることと各地の豪族との縁戚を作っておくという意味もありましたでしょう。
さて邪馬台国の卑弥呼さん、否、日の皇子=神功皇后さんのお家は何処でしょう?
この辺で終わりにします。
卑弥呼と神功皇后を同一人物とした上での、今まで読んだ本や父から聞いたことなどを元にして書きました。ここに書きました場所には全て自分で出向いて歩いております(笑)
素人考えですので専門家の方からは、いい加減なことを書くなと言われそうで心配ですが私の古代へのロマンですからご容赦願います・・・m(__)m
応神天皇の生まれた場所は北部九州、応神天皇陵は羽曳野市にあります。
各地の神功皇后、応神天皇伝説を結び付けたら新たなロマンが見えて来そうです。
では、有難うございました。