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一句鑑賞

俳句ブログも長くなりました。この歳なりの記事が書ければと思ってますが、やや怪しげな時もあります。よろしくお読み下さい。

春一番

2017-02-16 22:30:33 | 日記

一日南風が強かった、とくに午後の風は干していたタオルが飛ぶくらいだった。

夕どきのニュースで春一番が吹きましたというだろうなと思っていたらそのとおりになった。

決まったニュースコメントですね、歳時記をそのまま言ってるようですな。

上着の後襟が立ってしまうくらいの南風でしたね、などと言われると・・あぁそうだったなと(笑)

歳時記の解説には・・・春一番は、もとは壱岐地方の漁師言葉であったが、気象用語として定着したとありますね。

長崎県壱岐市、残念ながら行ったことは無いのですが、出身の方とお話ししたことはあります。

平地が長崎県の中で一番広くて農業が盛ん。風も強いので昔から凧揚げも行われていた(今も)。

魏志倭人伝ゆかりの原の辻遺跡・・・

漁師言葉としての南風は春の漁の始まりを告げるものなんでしょうか?調べてみないと分かりませんけど・・・

例句は

春一番珊瑚の海をゆさぶりて   稲荷島人

愛媛県砥部町の俳人で町助役を務めた方だそうです。景色が大きいですね

春一番鞄の軽き日なりけり   蘭草慶子

鞄だけでなく背も押されて歩きも軽いのでしょうか。上着の襟も立っているかもしれませんね。

 

 


明日の気温は

2017-02-15 23:08:03 | 日記

明日の最高気温は19℃まで上がるそうだ、春めくを通り越してしまいそうです。

明後日はオフでお米の買出しとデジカメ購入を予定しているが・・・その前に大事なことをしなくてはなりません。この事はいつか落ち着いたら書こうと思っています。共通のお悩みをお持ちの方も多いのではと思います。

 

さて春めいてますね。どこに春めいているものを感じるかでしょうけど、例句に・・・

春めくといふ言の葉をくりかへし   阿部みどり女

言の葉の繰り返しですが、人との挨拶に春めいてきましたねと言っているのでしょうか?そうじゃないですね。いつも目にする何でもないもの事に春めくものをその都度感じているのです、それがそのまま句になっているのです。心の中の言の葉ですか・・・。

 

 

 

 

 


うすらひ

2017-02-15 00:59:31 | 日記

薄氷(うすらひ、うすごほり)、春の氷、春氷・・・

せりせりと薄氷杖のなすままに   山口誓子

水たまりなどの薄氷に杖を刺せば、あの音ですね・・・氷にひびが入る。子供の頃に遊んだ記憶がよみがえっているのでしょうか、なすままにというのは氷ではなく自分の来し方かもしれません。せりせりと、なすままに・・・ここに時間の違いを感じませんか?急かされているようで時に身を任せているのでしょうか。

そう言えば二三日前の朝、玄関先の手水鉢といっても鳥の水浴び場に薄氷でした。

 

 


春泥

2017-02-13 22:10:42 | 日記

先日ベスト電器で説明を受けたハイレゾをonkyoのサイトから視聴してみた♪

音源がとても高品質だから、今のラジカセでもビックリするほど良い。

しかし、アルバム一枚のダウンロードもそこそこの料金だもんなー・・・しばらくは現状で間に合っているので導入しないことにした。デジカメが先ですね・・・

一昨日の月の出をスマホでしたが、これじゃダメですからね(笑)

今日は月の出が少し遅く8時くらいだった、赤い月が尾根に重く出ていた。

 

春泥という季語・・・春のぬかるみ。気温もまだ低いので、土の乾きが遅い。と解説にありますが、殆んど舗装路や最近多くなったカラーブロック敷きで、普段の生活では春泥に困ることはありません・・・庭などに乾きが遅いところなどをヒントに一句できないかな?

 

 


神功皇后さんのお家は?(終)・・・応神くんの誕生

2017-02-13 00:53:47 | 日記

飯塚の曩祖神社(後の)辺りにひとまず落ち着いた神功皇后さんたちは・・・どちらへ向かったのか。

遠賀川の支流に内住川があります。その川沿いに飯塚から南の方へ山際の路を進んだのではないか。今の筑前大分(だいぶ)・・・のちに大分八幡宮が創建されました・・・から九郎原(くろうばる)へと。

この時に神功皇后さんは身重でした。旅も辛かったでしょうが・・・苦労されましたかな?

九郎原から宇美へと峠を越えて行くのですが、さすがに身重の体では大変だったのでしょう。籠といものではなくて当時は藁を編んだみたいな、あるいは竹を編んだみたいな、あるいは木製のものに乗って峠を越えたそうです。ショウケと言うんですが、背負う桶から来ているのかな?・・・余談ですが。宮崎の高千穂へ行ったときに竹で編んだ田仕事山仕事に使う、背負う籠がありまして質問しますと、カルィ?と聞こえたんですが、背にかるうから来ているのかなと思ったりしたことありました。

その峠は今はショウケ越峠と言われます。若杉山から宝満山へと続く三郡連山の一番低い地点なんですが、今でも車で通るのは難儀です(笑)

さて峠を越えて須恵町と宇美町の境となっている谷筋を須恵川沿いに下って来ます・・・その時に皇后さんが言ったのか武人たちが言ったのかは分かりませんが・・・「おぉ、早や見えた!」と言われた地域が、宇美町にありまして「早見」という地名として残っています。また皇后さんが腰掛けた石がある地、旅石(たびいし)という地名があります。

その旅石で一息ついて宇美の楠の森までは目と鼻の先、前回に述べました光正寺古墳の辺りを通り、古代の道の十字路と云われる今の宇美八幡宮の楠の森に到着(帰着?)します。

この地で応神天皇を出産されたと言われています・・・その地は西暦580年に創建された宇美八幡宮となりました。境内は現在でも20数本の大楠の森の中にあります。神功皇后が出産のときにすがったと言われる槐の木が伝わり、子安(こやす、安産の意)の木と言われていますね。

その他にも衣掛の森と言われる樹齢2000年以上の大楠と、湯葢の森と言われる樹齢2000年の大楠の迫力には圧倒されます・・・安産信仰で有名ですがそのことはいずれまた。

皇子を出産してから何処に向かったのでしょうか?・・・すぐには出立できませんし、数年は滞在したのではと考えたりします。この地は古代の道の十字路と言われていますので、情報や物は不自由しなかったでしょうけど・・・

この地にある光正寺古墳からは水銀を入れる壺が出土し、その大きさから、すわ!邪馬台国!?と新聞のトップに出ましたけど、今はなんにも報道がありません(笑)

http://www.town.umi.lg.jp/soshiki/12/kousyouji.html

古墳の解説のページです。

この宇美の地に残っている地名ですが・・・音楽というのがあります。古墳前期時代に音楽ですからかなり贅沢、後の雅楽を奏でる一団が居たところではと言われています。光正寺古墳からは目と鼻の距離です。

また荒木という地名もあります、この地の豪族の姫がいましたがここに滞在した王が連れて行ったとあります。荒木姫と言われていますが、このことでピンとくるのがいわゆる人質ですね。おそらく神功皇后さんは各地を転じていたと思いますが、その各地のいわゆる優秀な人物を召し抱えていたのではないかと考えます。自らの力をより強くすることと各地の豪族との縁戚を作っておくという意味もありましたでしょう。

 

さて邪馬台国の卑弥呼さん、否、日の皇子=神功皇后さんのお家は何処でしょう?

この辺で終わりにします。

卑弥呼と神功皇后を同一人物とした上での、今まで読んだ本や父から聞いたことなどを元にして書きました。ここに書きました場所には全て自分で出向いて歩いております(笑)

素人考えですので専門家の方からは、いい加減なことを書くなと言われそうで心配ですが私の古代へのロマンですからご容赦願います・・・m(__)m

応神天皇の生まれた場所は北部九州、応神天皇陵は羽曳野市にあります。

各地の神功皇后、応神天皇伝説を結び付けたら新たなロマンが見えて来そうです。

では、有難うございました。