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ミーハーなドライブ&まつり好きです

平井山ノ上付城跡(秀吉本陣跡)

2014年01月31日 23時01分26秒 | お城


平井山ノ上付城は、天正六年7月に「織田信忠」が神吉城を攻略後に平井山の尾根上に築城しました。

8月に羽柴秀吉が入り、津田宗久を招いての茶会が開催されてます。

 

兵庫県三木市平井山・竹中半兵衛のお墓の側です。

珍しく登ってみることにしました。

 

案内看板で、その当時の「兵」達の息吹を感じれて良かったです。


天正5年10月に秀吉が姫路城を本拠地としたときには、大谷吉継、脇坂安治、一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久、等役者がタップリのに秀吉御馬廻り衆軍団!


天正6年5月4日に尼子勝久が上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉と共に従軍し、三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも参加!

 

主郭のあった場所には、櫓が組んであり、三木城を眺めることができます。

前回書いた、仙石秀久は、天正6年に4000石を加増、天正7年には三木城合戦の1つの茶臼山城を任せられ、赤松峠を越える播磨道の警護に当たった。

また、この時期には秀吉が三木城から幾度も通った湯山街道や有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられている

 

秀吉側からは三木城を見下ろす感じで、三木城から遠くの山な感じです。

歴史の登場人物をつなげるって楽しいね。

 

秀吉のいた場所は風が通りにくく暖かくなってたのに感動です。

秀吉は食料や物資を潤沢に準備できたから勝利をしたんでしょう。

敗者は悲しみのみですが、勝者には未来がありますね、戦争とはそういうものですね。
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竹中半兵衛の墓

2014年01月30日 21時18分53秒 | 記念館(碑)


兵庫県三木市平井山三木城攻めの秀吉の本陣前で亡くなってるようです。



天正7年4月に三木城の包囲中に病に倒れ、秀吉は京都で療養させたのですが、半兵衛は秀吉本陣の平井山ノ上付城の陣中で、天正7年6月13日になくなりました。

享年36。死因は肺の病気だったようです。



竹中半兵衛の動きを調べてみると、天正6年宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城しました。

同年、信長に謀反を起こした荒木村重に黒田官兵衛が有岡城で捕縛され行方がわからずなったので、裏切ったと思った、信長は孝高の嫡男・黒田長政の殺害を秀吉に命じたのを、半兵衛は密かに助けました。

助け出された官兵衛はこのことを非常に感謝しました。

秀吉の参謀として活躍し、黒田官兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」と称されましたが、連戦続きで体調を崩して亡くなりました。半兵衛のエピソードを見ると「欲」がないですね。

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三木合戦

2014年01月29日 23時59分23秒 | お城


「別所長治」公の事はあまり知らなかったので、この機会に調べてみました。

天正3年10月に信長に謁見して、毛利軍と戦う気でいましたが、中国方面総司令官の秀吉に不満を持っていたため、信長に反旗を翻しました。

近隣の東播磨一帯が反織田とするほどの人望の持ち主でした。

この時期には、「荒木村重」の謀反や毛利軍の援軍もありましたが、秀吉の城下へ物資や人を入れない「三木の干し殺し」に会いました。

2年近く踏ん張りましたが、天正8年、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害した。

 

別所長治の伯父「別所吉親」が加古川での会談で秀吉と衝突したのが、反秀吉となるきっかけでした

非業の最期の吉親の妻は3人の子(男子2人・女子1人)を次々と刺殺し、最後は自分の喉元を刺して自害しました。

 

加古川城の評定は、天正5年秀吉が播磨の大半の勢力を味方にして、翌6年に加須屋館(加古川城)で播磨国人衆を集めて評定が行われた。名家自慢の別所家を秀吉が無視したとか・・

 

神吉城主「神吉頼定」は、同じ赤松氏一族の別所氏につき、三木の大村坂で秀吉勢を攻め立て、大勝利を収めた。

強い武将との戦いをさけ、まず野口城が落城し、天正6年6月23日に神吉合戦が始まった。

神吉頼定は二千人で籠城し、秀吉軍「織田信忠」「明智光秀」「荒木村重」の三万人で攻め、秀吉勢は頼定の伯父神吉藤太夫を謀略で味方に引き入れ、頼定を暗殺し、天正6年7月16日神吉城は落城しました。

前回記事の尼子氏と山中鹿介が守る上月城が毛利氏の大軍が攻め掛かけられ、7月5日落城!

 

天正6年10月軍議で、志染川の手前で待ち伏せして、囮に釣られて川を渡ってきた秀吉軍に攻め掛ろうと主張する別所吉親とそれに対し、足軽大将の久米忠勝は一気に秀吉の平井山本陣へ攻め込もうと主張して対立!

この頃、有岡城で荒木村重が反旗を翻し、説得に行った黒田官兵衛が幽閉されます。

天正7年2月、別所長治は平井山本陣へ攻め込み一気に勝負を決することとした(平井山合戦)。

秀吉軍に扮して志水彌四郎直近が生首を太刀に突き刺し、久米五郎忠勝が生首を手に持ち「大将の見聞を」と秀吉本陣へ詰め寄りましたが失敗して別所長治の弟「別所小八郎」も討たれる大敗で終わった。

 

毛利軍から兵糧の運搬のために丹生山には砦が築かれ、備中から中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎を従えて籠城してましたが、秀吉は籠城する近隣の農民の妻子をいけどり、城内から内通させ、内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城しました。

 

秀吉軍はすかさず、淡河城へ攻めこみますが、城主「淡河定範」智将で、外曲輪に無数の菱を撒いたり、城へ攻めかかってきた秀吉軍に牝馬を放ち、大混乱に陥った所に攻め掛り秀吉軍を打ち破ったっりしましたが、絶対数で押されて、城を捨てて三木城へ撤退しました。

しかし秀吉は天正7年6月13日、平井山本陣にて秀吉の軍師竹中半兵衛重治が陣中で亡くなってしまいます。

 

兵糧も厳しい中、大村合戦で「淡河定範」ら残り5人になるまで奮戦し、後藤又兵衛の父「後藤将監基国」も参戦しています。

別所吉親の妻は勇猛果敢な女丈夫。

吉親の妻はモミの鉢巻に桜縅の鎧に白芦毛の馬に打ち乗って二尺七寸余(90cm位)の太刀をかざして敵陣に切り込み、逃げる敵を馬の蹄にかけ殺したみたいです!

 

毛利軍と別所軍は、三木城の付城であった平田山砦を襲い、城主谷大膳を討ち取るも、兵糧は全く来ず、10月には備前の宇喜多直家が毛利方から織田方に寝返り、11月には荒木村重が籠もる有岡城も落城。

城内の食糧は尽き飢餓地獄に陥り、秀吉は間髪いれずに天正8年正月から三木城内の支城に攻め掛り、6日に別所長治の弟別所友之が守る宮ノ上要害を攻め込み・・容赦なし!

 

最後の決戦に備え別所吉親の居館に拠点を作ろうとしてるところに秀吉軍が攻めてきたのを、吉親の妻が「見逃すのが道ならん、必ず構うことなかれ」といい臆した秀吉軍に続けて「われは女の身であれど 三木城もすでに落城近からん 一族残らず死ぬる覚悟なれば 最期のいとまごい 矢ひとつ参らすべし」

と大声で叫び攻めあげてくる敵に次々に矢を射かけたちまちに眼下に射落とし、今度は愛馬にまたがり城の門際まで迫った敵兵に斬り込みましたが・・死を覚悟した兵も兵糧攻めが効いていて

11日鷹の尾城陥落・・

 

16日には秀吉軍「浅野長政」に三木城開場を申し入れ、17日「別所長治」は最後の晩餐

吉親の妻は28歳で辞世の句は「のちの世の道も迷はじ思ひ子を つれて出でぬる 行く末の空」

長治の弟 友之の妻は、山名和泉守豊恒の娘で17歳辞世の句が「頼むぞよ、同じ蓮の花の上を消える露の玉の在かと」

長治の妻は22歳「もろともに消えはつるこそ嬉しけれ おくれ先立つならひなる世を」

それぞれの思いもあり・・



同日、長治兄弟の妻達が子供を差し自害・・

城主別所長治は辞世の句「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」と読み23歳の命を弟友之ともに自害

別所吉親は首を差し出すのを快しとせず、城に火を付けようとしたところ城兵に討ち取られました。

 

別所長治の首級は秀吉によって安土の織田信長の元に送られました。



今回は「三木合戦図」が三木城跡にあり絵で見ながら勉強しましたが、間違いがあれば少しずつ直して行こうと思います。

敗者の歴史はやっぱり悲しい結末ですね。


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三木城跡

2014年01月28日 21時07分24秒 | お城


兵庫県三木市上の丸町「三木城」へやってきました。

写真は天守跡です。

 

天正6年から2年近くに渡って、秀吉軍が城主「別所長治」との戦いで、兵糧攻めをされた城です。

秀吉軍との戦いは「三木合戦」といって、この周辺の城で、神吉城、志方城、淡河城、高砂城、端谷城などが、別所長治につきました。

 

かつての城郭は現在の三木市街地部分も含むほどの規模のようです。

天守跡には、には長治の辞世の句 「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」

城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」等が残ってます。

 

この時代は、姫路城より当然ここが播磨の要ですね。

 

三木市立図書館で企画展をしてたので、勉強になりました。
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志方城跡

2014年01月27日 20時31分23秒 | お城


兵庫県加古川市志方町志方町「観音寺」志方城を見にいきました。

光姫の行列のあった加古川市立志方小学校は志方城の二の丸跡で、西の丸跡は旧志方町役場らしいので、結構な規模です。



天正6年7月、城主「櫛橋左京進」の時、秀吉軍「北畠信雄」が攻めてきて、天正7年8月10日降伏しました。

妹婿の黒田官兵衛のおかげで、櫛橋左京進は許され家臣となったようです。

NHK大河ドラマでは、官兵衛に反発する役ですね(金子ノブアキ)




櫛橋家累代墓所がありました。

幟の「櫛橋幸園」は光姫のことで、志方城は出生地です。櫛橋左京亮の娘で、小寺政職の姪にあたります。



結婚は、 官兵衛が22歳。光姫15歳らしいから、NHKの光姫より本日中学3年生の姫の方がピッタリ!
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光姫の輿入れの儀と行列

2014年01月26日 23時11分34秒 | 祭り(兵庫)


2014年1月26日(日)兵庫県加古川市志方町志方町観音寺・志方小学校周辺に「光姫フェスティバル~輿入れの儀と行列~」を見に行きました。

 

見に行ったというより黒田官兵衛の妻・光さんが生まれた櫛橋家の「志方城」を見に来たのですが、行列をしていたのでテンションが上がりました。

 

本日はNHKでも「光・てる」さん登場ですが、本家地元の光姫は、さすがにカワイイですね~

 

家臣団も沢山で、じっくり楽しめました。

騎馬隊や甲冑軍団もいて、本格な行列が見れて、とても良かったです。

 

今日は史跡巡りのつもりだったので、いつものカメラじゃなかったのが残念でした・・・

 

少しお勉強を!光は黒田官兵衛の奥さん、才徳兼備で志方城主・櫛橋氏の出身です。

NHKの光姫は年齢設定に無理さを感じましたが、本家は中学生!!カワイさ爆発だね、良かったです。

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大山寺の力餅

2014年01月20日 22時37分32秒 | 祭り


2014年1月19日(日)は徳島県上板町神宅大山寺「大山寺の力餅 」を見にいきました。



結構細い道を山頂まで登った場所にあり、ビックリです。



戦国時代に、七条城主、出羽守兼仲公が大山観世音菩薩に二十一日間深夜参詣をして、怪力を授かったらしいです。

お礼として、石塔と鏡餅を山麓より背負い上げ奉納した記念に、奉納力餅運びを始たらしいです。

その後に大山寺が阿波藩主蜂須賀公の祈願所になってから代々の藩主が「餅」を奉納されたそうです。

 

歴史がありますね、現在も男女の豪傑が集い大きな鏡餅を運ぶ「力餅」を行ってます。

見た目とウラハラナ女性の力餅が見ていて楽しかったです。



気は優しく力餅・・女性用も触ってみましたが「重!!」です。

男性用なんて「ムリ!!」



この日は晴天ですが、寒い寒いでしたが、熱戦で手に汗を握って観戦できて楽しかったです。



男性部門の真打登場!まさにチャンピオン!「自分超え」

勇姿を見ろ!



おめでとうV8!
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真田幸村と細川国弘

2014年01月19日 00時50分28秒 | お城


香川県さぬき市寒川町石田西・自動車学校側に「国弘城跡/細川屋敷跡」を見にいきました。

城主細川国弘は秀吉に仕えて、父の細川矩弘は織田信長に仕えてましたので、大阪夏の陣後「真田幸村」がここに逃れて、細川氏に2年ほど世話になり、幸村の息子・真田之親は国弘の養子となり、その子孫が真田姓を名乗ってるようです。



真田之親(さなだ ゆきちか)は、真田幸村)の四男で、幸村が九度山蟄居中の子かこの地で生まれたとされてます。

案内看板がないので詳しくは分かりませんが、細川国弘は地元では弓の名人と言われ、老婆妖怪、妖怪を退治したりする伝説の男の様です。



なかなか隠れスポットが発見出来て楽しめました。





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静御前之墓

2014年01月18日 00時01分46秒 | 記念館(碑)


香川県三木町井戸鍛冶池側に「静御前の墓」がありました。

長尾寺で出家した静御前は、母と暮らした静薬師庵で侍女琴路とお祈りをしていましたが、静はこの庵で建久3年3月24日の24才で亡くなったようです。

その7日後に琴路も鍛冶池に入水してしまいました。

 

各地に「静」のお墓はありますね、今回で3~4ヶ所見たような気がしますが・・

 

静は鎌倉で男児を失ってから京へ帰り、そして母の故郷である 東讃岐(小磯)へきたようです。

そして義経が活躍した屋島合戦跡を弔うため、 小磯から屋島への通り道である長尾の街へやってきましたが、お母様が長尾寺でお参りを済ませ住居である薬師庵へ帰る途中、老衰と寒さのため井戸川橋近くでなくなりました。(1枚目)

「鼓渕」吉野山で義経から形見にもらった名器「初音の鼓」を、未練を断ち切るためにこの渕に流したと云われて、夜になるとこの鼓が悲しく打ち鳴ったみたいです。(2枚目)

 

各案内板は、記事を書くのに助かります。



四国お遍路87番札所「長尾寺」は静御前と母の磯野禅師が宥意阿闍梨の諭しで出家した寺で、護摩堂前に剃髪塚、本堂に位牌が安置されています。

静御前が不人気者「頼朝」の前で読んだ句は「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」


「静よ、静と呼んでくれる愛しいあの人の声。しづ布を織るために糸を巻く苧環(おだまき)で糸を繰るように、幸せだった昔を、今に引き戻せたらよいのに…」

・・・せつないですね。

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大光寺霊廟

2014年01月17日 01時03分20秒 | 記念館(碑)


岡山県岡山市北区足守・足守藩第4代藩主の木下利当創建した,木下家歴代の霊廟。

 

案内板を見たら・・・行かねば・・

 

おどろおどろしくなってました・・写真を撮る勇気が出ませんでした。

岡山指定重要文化財・岡山指定史跡・・何をやってんだか!!・・



追記・・以前も似たような件で文化財課に電話したら、決まった範囲でとかと決まり口上!でもここの荒れ方は半端ないで・・今、書いてて悲しくなってきました。勇気を出して現状写真を撮れば良かったかな・・
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