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ミーハーなドライブ&まつり好きです

芸備線井原市駅舎104年間ありがとう!

2019年02月27日 21時08分45秒 | 記念館(碑)


2019年2月24日(日)広島県広島市安佐北区白木町井原市駅(いばらいちえき)駅舎解体があるのでお別れ会を見に行ってきました。



JR芸備線で、現在西日本豪雨災害の影響で運休中のようです。



新しい駅舎は四角いボックスに味気ない販売機になってました!なんだか寂しいですね。



地域の方達は思い出話に花を咲かせてました、私は記念入場券ゲットしようと行ったら完売でした!!



小さい記事を見つけてやってきて、記念になりました。早くの復旧再開を祈ってます。
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旧成羽高校校舎一般公開

2016年06月26日 23時52分00秒 | 記念館(碑)


成羽高は2006年に閉校して、解体に伴って一般公開があったのでいってみました。



1926年に旧成羽町立成羽高等女学校として、卒業生は約9千人近いそうです。



教室に机と椅子が残ってたら良かったけど、空き教室でした。
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信はたて糸 愛はよこ糸 織り成せ人の世を美しく

2016年06月20日 22時07分41秒 | 記念館(碑)


岡山県加賀郡吉備中央町吉川4860-6 きびプラザ内「岡崎嘉平太記念館」へ行ってきました。

最近は日中関係がイマイチですが、いつから掛け違いになってきたんだろうか・・

 

目的は写真展でしたが、岡崎嘉平太記念館がとても良かったです。


PS・・本日の中国新聞に載っていたのに、思わず笑っちゃいました!
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津田永忠墓所

2014年04月09日 00時02分35秒 | 記念館(碑)


前回記事「曹源寺」は津田永忠によって造営された場所ですが、明石全登の時にお墓に行ってたので、記事にしておきます。



場所が、岡山県和気郡和気町吉田にあります。

岡山藩主池田光政らに仕えて、閑谷学校や後楽園の築造をした、岡山の功労者です。



記事とは関係ないですが、NHK黒田官兵衛の宇喜多直家役の陣内孝則さん、えぐいくらいイメージ通りです。
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北木ノースデザインプロジェクト

2014年03月24日 23時45分50秒 | 記念館(碑)


2014年3月23日(日)岡山県笠岡市北木島 へ船に乗って行ってみました。



「北木ノースデザインプロジェクト」というイベントを見に行こうと思ってましたが、情報も知識もなく行ったので船が反対の港についてビックリ!おまけに案内板も交通手段もなくさらにビックリ!!



地域の優しい方に巡り合って、島の案内もして頂き、感謝・感謝の1日を過ごせました。



島の昔と今の話や、イベント会場を案内してもらったので、普通で巡るより詳しく勉強できました。



石切り唄が聞きたかったですが、優しい方達に触れられたのが1番良かったです。



いいことが続いて、石切り体験までさせてもらいました。



お体を大事にしてくださいね、本当にありがとうございました。

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明石全登

2014年02月05日 21時33分36秒 | 記念館(碑)


岡山県備前市吉永町今崎小板屋公民館裏のお墓の先に「明石掃部介守重宅跡」を見にいきました。

明石掃部(全登)は大坂落城後、ここに逃れてきたようです。
明石全登を調べてみると、岡山県赤磐郡熊山町「保木城主・明石飛騨守景親」の子として生まれ、浦上宗景に仕えて、宇喜多直家に通じ味方し宗景滅亡後、直家の客将となる。



明石全登(あかし たけのり)は、戦国時代のキリシタン武将で、今回も黒田官兵衛ネタを付けると、官兵衛の母の名は「岩」小寺則職養女(播磨国明石郡枝吉城主・明石宗和の娘)で、明石一族である黒田官兵衛の下で庇護されたといわれている。



近くには八塔寺(はっとうじ)と呼ばれる天台宗の寺院があり、山々に囲まれて、かつては「西の高野山」と称され、盛時には72坊もの僧坊や十三重塔が建てられたとされる宗教都市であり、山岳修行の僧が宗教活動の拠点とした、山岳仏教の聖地といわれるほど!



ここに土地勘があれば逃れて隠れてたのもうなずけます。



洗礼名ジョアンで、宇喜多秀家の姉を妻とし,家臣中最大派閥で、1600年(慶長5)関ヶ原の戦で西軍に属した宇喜多家滅亡後,黒田家にむかえられ,筑前秋月に住してましたが、豊臣秀頼の招きに応じ,大坂の陣にキリシタン部隊を率いて活躍しました。

この時の大坂城には、七人衆と呼ばれた名将がいたわけですが、その7人は、真田幸村、毛利勝永、木村重成、大野治房、長宗我部盛親、後藤又兵衛そして明石全登の7人が名将といわれてます。


・・・調べれば調べるほどおもしろいですね、岡山ゆかり地をまた調べてみたいですね。
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竹中半兵衛の墓

2014年01月30日 21時18分53秒 | 記念館(碑)


兵庫県三木市平井山三木城攻めの秀吉の本陣前で亡くなってるようです。



天正7年4月に三木城の包囲中に病に倒れ、秀吉は京都で療養させたのですが、半兵衛は秀吉本陣の平井山ノ上付城の陣中で、天正7年6月13日になくなりました。

享年36。死因は肺の病気だったようです。



竹中半兵衛の動きを調べてみると、天正6年宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城しました。

同年、信長に謀反を起こした荒木村重に黒田官兵衛が有岡城で捕縛され行方がわからずなったので、裏切ったと思った、信長は孝高の嫡男・黒田長政の殺害を秀吉に命じたのを、半兵衛は密かに助けました。

助け出された官兵衛はこのことを非常に感謝しました。

秀吉の参謀として活躍し、黒田官兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」と称されましたが、連戦続きで体調を崩して亡くなりました。半兵衛のエピソードを見ると「欲」がないですね。

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静御前之墓

2014年01月18日 00時01分46秒 | 記念館(碑)


香川県三木町井戸鍛冶池側に「静御前の墓」がありました。

長尾寺で出家した静御前は、母と暮らした静薬師庵で侍女琴路とお祈りをしていましたが、静はこの庵で建久3年3月24日の24才で亡くなったようです。

その7日後に琴路も鍛冶池に入水してしまいました。

 

各地に「静」のお墓はありますね、今回で3~4ヶ所見たような気がしますが・・

 

静は鎌倉で男児を失ってから京へ帰り、そして母の故郷である 東讃岐(小磯)へきたようです。

そして義経が活躍した屋島合戦跡を弔うため、 小磯から屋島への通り道である長尾の街へやってきましたが、お母様が長尾寺でお参りを済ませ住居である薬師庵へ帰る途中、老衰と寒さのため井戸川橋近くでなくなりました。(1枚目)

「鼓渕」吉野山で義経から形見にもらった名器「初音の鼓」を、未練を断ち切るためにこの渕に流したと云われて、夜になるとこの鼓が悲しく打ち鳴ったみたいです。(2枚目)

 

各案内板は、記事を書くのに助かります。



四国お遍路87番札所「長尾寺」は静御前と母の磯野禅師が宥意阿闍梨の諭しで出家した寺で、護摩堂前に剃髪塚、本堂に位牌が安置されています。

静御前が不人気者「頼朝」の前で読んだ句は「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」


「静よ、静と呼んでくれる愛しいあの人の声。しづ布を織るために糸を巻く苧環(おだまき)で糸を繰るように、幸せだった昔を、今に引き戻せたらよいのに…」

・・・せつないですね。

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大光寺霊廟

2014年01月17日 01時03分20秒 | 記念館(碑)


岡山県岡山市北区足守・足守藩第4代藩主の木下利当創建した,木下家歴代の霊廟。

 

案内板を見たら・・・行かねば・・

 

おどろおどろしくなってました・・写真を撮る勇気が出ませんでした。

岡山指定重要文化財・岡山指定史跡・・何をやってんだか!!・・



追記・・以前も似たような件で文化財課に電話したら、決まった範囲でとかと決まり口上!でもここの荒れ方は半端ないで・・今、書いてて悲しくなってきました。勇気を出して現状写真を撮れば良かったかな・・
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立石孫一郎生誕之地

2014年01月12日 23時59分05秒 | 記念館(碑)


先日の上月城跡の側に、「明治維新志士 立石孫一郎生誕之地」がありました!

http://blog.goo.ne.jp/h7himawari/e/8342170b863af4bb232abe2a85bd76c1

立石孫一郎の過去記事です。



先週までは、ボツ記事かな~と思ってましたが、今日たまたま行った場所に「浅尾藩井出地行所跡」という標識を見つけたので、これは記事を書けということで・・

地域や立場が変われば、とらえ方も変わるので・・




「松山藩八田部教諭所跡」とは、備中松山藩の山田方谷が八田部村(現総社市総社宮境内)に教諭所を設けて、勉強のしたいものは誰でも学べるようにしたようです。

総社は大変賑ってたようです。



近くに総社市特産「赤米」を使ったキビダンゴを買いに「御菓子司備庵」さんに行きましたが、時間が早かったので、サンロード吉備路へ行きましたが、探し出せず・・「赤米まんじゅう゛うらどん゛」を買いました。

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