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三木合戦

2014年01月29日 23時59分23秒 | お城


「別所長治」公の事はあまり知らなかったので、この機会に調べてみました。

天正3年10月に信長に謁見して、毛利軍と戦う気でいましたが、中国方面総司令官の秀吉に不満を持っていたため、信長に反旗を翻しました。

近隣の東播磨一帯が反織田とするほどの人望の持ち主でした。

この時期には、「荒木村重」の謀反や毛利軍の援軍もありましたが、秀吉の城下へ物資や人を入れない「三木の干し殺し」に会いました。

2年近く踏ん張りましたが、天正8年、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害した。

 

別所長治の伯父「別所吉親」が加古川での会談で秀吉と衝突したのが、反秀吉となるきっかけでした

非業の最期の吉親の妻は3人の子(男子2人・女子1人)を次々と刺殺し、最後は自分の喉元を刺して自害しました。

 

加古川城の評定は、天正5年秀吉が播磨の大半の勢力を味方にして、翌6年に加須屋館(加古川城)で播磨国人衆を集めて評定が行われた。名家自慢の別所家を秀吉が無視したとか・・

 

神吉城主「神吉頼定」は、同じ赤松氏一族の別所氏につき、三木の大村坂で秀吉勢を攻め立て、大勝利を収めた。

強い武将との戦いをさけ、まず野口城が落城し、天正6年6月23日に神吉合戦が始まった。

神吉頼定は二千人で籠城し、秀吉軍「織田信忠」「明智光秀」「荒木村重」の三万人で攻め、秀吉勢は頼定の伯父神吉藤太夫を謀略で味方に引き入れ、頼定を暗殺し、天正6年7月16日神吉城は落城しました。

前回記事の尼子氏と山中鹿介が守る上月城が毛利氏の大軍が攻め掛かけられ、7月5日落城!

 

天正6年10月軍議で、志染川の手前で待ち伏せして、囮に釣られて川を渡ってきた秀吉軍に攻め掛ろうと主張する別所吉親とそれに対し、足軽大将の久米忠勝は一気に秀吉の平井山本陣へ攻め込もうと主張して対立!

この頃、有岡城で荒木村重が反旗を翻し、説得に行った黒田官兵衛が幽閉されます。

天正7年2月、別所長治は平井山本陣へ攻め込み一気に勝負を決することとした(平井山合戦)。

秀吉軍に扮して志水彌四郎直近が生首を太刀に突き刺し、久米五郎忠勝が生首を手に持ち「大将の見聞を」と秀吉本陣へ詰め寄りましたが失敗して別所長治の弟「別所小八郎」も討たれる大敗で終わった。

 

毛利軍から兵糧の運搬のために丹生山には砦が築かれ、備中から中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎を従えて籠城してましたが、秀吉は籠城する近隣の農民の妻子をいけどり、城内から内通させ、内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城しました。

 

秀吉軍はすかさず、淡河城へ攻めこみますが、城主「淡河定範」智将で、外曲輪に無数の菱を撒いたり、城へ攻めかかってきた秀吉軍に牝馬を放ち、大混乱に陥った所に攻め掛り秀吉軍を打ち破ったっりしましたが、絶対数で押されて、城を捨てて三木城へ撤退しました。

しかし秀吉は天正7年6月13日、平井山本陣にて秀吉の軍師竹中半兵衛重治が陣中で亡くなってしまいます。

 

兵糧も厳しい中、大村合戦で「淡河定範」ら残り5人になるまで奮戦し、後藤又兵衛の父「後藤将監基国」も参戦しています。

別所吉親の妻は勇猛果敢な女丈夫。

吉親の妻はモミの鉢巻に桜縅の鎧に白芦毛の馬に打ち乗って二尺七寸余(90cm位)の太刀をかざして敵陣に切り込み、逃げる敵を馬の蹄にかけ殺したみたいです!

 

毛利軍と別所軍は、三木城の付城であった平田山砦を襲い、城主谷大膳を討ち取るも、兵糧は全く来ず、10月には備前の宇喜多直家が毛利方から織田方に寝返り、11月には荒木村重が籠もる有岡城も落城。

城内の食糧は尽き飢餓地獄に陥り、秀吉は間髪いれずに天正8年正月から三木城内の支城に攻め掛り、6日に別所長治の弟別所友之が守る宮ノ上要害を攻め込み・・容赦なし!

 

最後の決戦に備え別所吉親の居館に拠点を作ろうとしてるところに秀吉軍が攻めてきたのを、吉親の妻が「見逃すのが道ならん、必ず構うことなかれ」といい臆した秀吉軍に続けて「われは女の身であれど 三木城もすでに落城近からん 一族残らず死ぬる覚悟なれば 最期のいとまごい 矢ひとつ参らすべし」

と大声で叫び攻めあげてくる敵に次々に矢を射かけたちまちに眼下に射落とし、今度は愛馬にまたがり城の門際まで迫った敵兵に斬り込みましたが・・死を覚悟した兵も兵糧攻めが効いていて

11日鷹の尾城陥落・・

 

16日には秀吉軍「浅野長政」に三木城開場を申し入れ、17日「別所長治」は最後の晩餐

吉親の妻は28歳で辞世の句は「のちの世の道も迷はじ思ひ子を つれて出でぬる 行く末の空」

長治の弟 友之の妻は、山名和泉守豊恒の娘で17歳辞世の句が「頼むぞよ、同じ蓮の花の上を消える露の玉の在かと」

長治の妻は22歳「もろともに消えはつるこそ嬉しけれ おくれ先立つならひなる世を」

それぞれの思いもあり・・



同日、長治兄弟の妻達が子供を差し自害・・

城主別所長治は辞世の句「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」と読み23歳の命を弟友之ともに自害

別所吉親は首を差し出すのを快しとせず、城に火を付けようとしたところ城兵に討ち取られました。

 

別所長治の首級は秀吉によって安土の織田信長の元に送られました。



今回は「三木合戦図」が三木城跡にあり絵で見ながら勉強しましたが、間違いがあれば少しずつ直して行こうと思います。

敗者の歴史はやっぱり悲しい結末ですね。



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