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ミーハーなドライブ&まつり好きです

天空の城・備中松山城へ

2016年06月29日 21時16分41秒 | お城


岡山県高梁市内山下1備中松山城へいきました。

最近人気スポットらしく、雨でも上まではピストンバスになるらしく、時間がないので展望台へ移動します。

 

雨上がりの気温上昇で、ひょっとしたら雲海ぽくなるかな~と思ってましたが・・

高梁市松山吉備大学サッカー場側の展望台につきましたが・・



2時間前ならひょっとしたら、それとも雨の日や今頃は雲海出ないのかな?残念!

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鬼城山

2016年06月28日 23時38分51秒 | お城


岡山県総社市奥坂鬼城山の鬼ノ城へ行ってきました。



フィルター使用間違ってたのかな?

雨が続くと青空が恋しいですね。
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賀儀城跡(鍵城)

2014年03月13日 20時45分25秒 | お城


2014年2月9日に広島県竹原市忠海床浦西小学校前に「賀儀城跡」を見にいきました。

小早川警固衆の総帥「浦宗勝」の居城です。



官兵衛ネタにもっていくと、天正4年7月に毛利輝元水軍は織田信長の水軍を撃破し、石山本願寺への支援を成功しました。

毛利軍は「浦宗勝」に、姫路城攻撃を命じ、浦宗勝は天正5年5月、5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある英賀村(兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸して官兵衛(32歳)と対峙しました!



2014年NHK大河ドラマ3月9日放送の合戦の毛利軍の敵将のお城がここなんですね。



地元での功績は大きく、厳島の戦いでは自身の血縁関係の村上水軍を引きいれ(村上吉充、村上武吉とは血縁)厳島合戦を勝利へと導きました。

天正3年は備中へも転戦し、備中常山城で落城寸前の城内から鶴姫が侍女34人を率い、宗勝と対峙しましたが「女とは戦えぬ」と説得。勝負を諦めた鶴姫は宝刀「国平の太刀」を宗勝に渡し、城内へ戻って自害した等の伝説もある猛将でした。



天正4年5月に、黒田官兵衛に敗北しましたが、9月木津川口の戦いでは総大将として出陣し、織田軍の九鬼水軍を壊滅。

天正6年に再び木津川口の戦いで、鉄甲船を使用した九鬼水軍の前に敗北をしました。

天正7年別所長治が籠城する三木城への兵糧搬入を成功させてます。



お墓から見える賀儀城です。

この平和な自国を守るために戦い続けたのでしょうね。



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有岡城(伊丹城)跡

2014年02月23日 23時47分14秒 | お城


2月23日(日)最近は祭りが少ないので、黒田官兵衛ネタで少し遠出で、有岡城へ行ってみました。



天正2年荒木村重が伊丹城を落として大改修し、「有岡城」としました。



天正7年荒木村重謀反により織田軍に攻められ落城しました。

有岡城の戦いは、天正6年7月から翌天正7年10月19日にかけて行われた籠城しました。

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冠山城跡

2014年02月07日 21時13分40秒 | お城


岡山県岡山市北区足守「冠山城跡」へ行ってみました。

前回紹介の「宮路山城」と同時期に攻めた城で備中高松城水攻めの前哨戦で、「加藤清正一番槍」の高名で有名な城です。



冠山城は「清水宗治」のもとに「林重真・松田盛明・竹井将監・舟木与五郎」を含め300人が立てこもりました。

天正10年4月17日に秀吉側は、宇喜多勢は「浮田忠家」8000人は小さい城と甘く見たのか敗戦!秀吉は「加藤清正」に攻めさせ、城内へ一番乗りをしたようです。



清正は猛将「竹井将監」と一騎討ちをしかけて、槍を太刀に抜きかえて、真っ向から斬りつけ竹井を討ち取りました。

城将の林重真は、天正10年4月25日宇喜多勢が城門を破って突入てきたので、南大手の櫓で切腹しました。

林重真の正室は清水宗治の娘で、真備町に代々のお墓があるそうです!(又寄ってみます)



黒田官兵衛ネタに持っていくと、「遠藤周作」先生の小説「反逆」は荒木村重の家臣「竹井藤蔵」(遠藤周作・岡山県美星町黒忠の小笹丸城主「竹井氏」の子孫で母方の遠祖にあたるそうです)

小説は、織田信長と荒木村重、藤蔵の葛藤を描いた傑作です。

その「竹井藤蔵」は最後に「竹井将監」と名前を改め、冠山城の戦いで加藤清正と一騎打ちしするのです。



脱線しましたが、秀吉は、竹井将監公を敵ながらあっぱれな武人として称え、供養のため金子五十両を与え、吉備津・宮内の賀夜坊で供養したといわれ、早島町「千光寺」の供養塔は早島町の重要文化財に指定されているようです。

遠藤周作先生もの千光寺を訪れることもあるみたいです、以前「反逆」を読んだ時に城とか巡った記憶がありましたが、ブログ記事が見つからなかったのが、残念!
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茶臼山城 (備前国)

2014年02月06日 20時08分44秒 | お城


岡山県赤磐市周匝「茶臼山城」を見にいきました。

浦上宗景の「天神山城」の上流を守る拠点としての存在価値が高かったようです。



歴史を追ってみると、宇喜多家により落城、天正12年に毛利元清が入城、天正15年には 豊臣秀吉が、九州に行く時など三度訪れたとありました。



ここは築城(模擬天守)した時に来た記憶があり、凄い人出でにぎわってましたが、今では途中の岡山藩家老の片桐池田家の墓所がオドロオドロシクなってたので、夜には人が絶対に来ないと思いました。

最近特に思うのが、文化財保護をもっとしてほしいですね、史跡巡りをしてここ何年かでの荒れ具合は目を覆うばかりです。



岡山で池田家といえば、平成天皇のお姉様「池田厚子」様・・池田動物園を覗きにいった記憶もあります。

近くに高校もあったような気がしましたが・・模擬天守がどんどんできるような時代がまたきてほしいですね(しんみり!)
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平井山ノ上付城跡(秀吉本陣跡)

2014年01月31日 23時01分26秒 | お城


平井山ノ上付城は、天正六年7月に「織田信忠」が神吉城を攻略後に平井山の尾根上に築城しました。

8月に羽柴秀吉が入り、津田宗久を招いての茶会が開催されてます。

 

兵庫県三木市平井山・竹中半兵衛のお墓の側です。

珍しく登ってみることにしました。

 

案内看板で、その当時の「兵」達の息吹を感じれて良かったです。


天正5年10月に秀吉が姫路城を本拠地としたときには、大谷吉継、脇坂安治、一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久、等役者がタップリのに秀吉御馬廻り衆軍団!


天正6年5月4日に尼子勝久が上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉と共に従軍し、三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも参加!

 

主郭のあった場所には、櫓が組んであり、三木城を眺めることができます。

前回書いた、仙石秀久は、天正6年に4000石を加増、天正7年には三木城合戦の1つの茶臼山城を任せられ、赤松峠を越える播磨道の警護に当たった。

また、この時期には秀吉が三木城から幾度も通った湯山街道や有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられている

 

秀吉側からは三木城を見下ろす感じで、三木城から遠くの山な感じです。

歴史の登場人物をつなげるって楽しいね。

 

秀吉のいた場所は風が通りにくく暖かくなってたのに感動です。

秀吉は食料や物資を潤沢に準備できたから勝利をしたんでしょう。

敗者は悲しみのみですが、勝者には未来がありますね、戦争とはそういうものですね。
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三木合戦

2014年01月29日 23時59分23秒 | お城


「別所長治」公の事はあまり知らなかったので、この機会に調べてみました。

天正3年10月に信長に謁見して、毛利軍と戦う気でいましたが、中国方面総司令官の秀吉に不満を持っていたため、信長に反旗を翻しました。

近隣の東播磨一帯が反織田とするほどの人望の持ち主でした。

この時期には、「荒木村重」の謀反や毛利軍の援軍もありましたが、秀吉の城下へ物資や人を入れない「三木の干し殺し」に会いました。

2年近く踏ん張りましたが、天正8年、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害した。

 

別所長治の伯父「別所吉親」が加古川での会談で秀吉と衝突したのが、反秀吉となるきっかけでした

非業の最期の吉親の妻は3人の子(男子2人・女子1人)を次々と刺殺し、最後は自分の喉元を刺して自害しました。

 

加古川城の評定は、天正5年秀吉が播磨の大半の勢力を味方にして、翌6年に加須屋館(加古川城)で播磨国人衆を集めて評定が行われた。名家自慢の別所家を秀吉が無視したとか・・

 

神吉城主「神吉頼定」は、同じ赤松氏一族の別所氏につき、三木の大村坂で秀吉勢を攻め立て、大勝利を収めた。

強い武将との戦いをさけ、まず野口城が落城し、天正6年6月23日に神吉合戦が始まった。

神吉頼定は二千人で籠城し、秀吉軍「織田信忠」「明智光秀」「荒木村重」の三万人で攻め、秀吉勢は頼定の伯父神吉藤太夫を謀略で味方に引き入れ、頼定を暗殺し、天正6年7月16日神吉城は落城しました。

前回記事の尼子氏と山中鹿介が守る上月城が毛利氏の大軍が攻め掛かけられ、7月5日落城!

 

天正6年10月軍議で、志染川の手前で待ち伏せして、囮に釣られて川を渡ってきた秀吉軍に攻め掛ろうと主張する別所吉親とそれに対し、足軽大将の久米忠勝は一気に秀吉の平井山本陣へ攻め込もうと主張して対立!

この頃、有岡城で荒木村重が反旗を翻し、説得に行った黒田官兵衛が幽閉されます。

天正7年2月、別所長治は平井山本陣へ攻め込み一気に勝負を決することとした(平井山合戦)。

秀吉軍に扮して志水彌四郎直近が生首を太刀に突き刺し、久米五郎忠勝が生首を手に持ち「大将の見聞を」と秀吉本陣へ詰め寄りましたが失敗して別所長治の弟「別所小八郎」も討たれる大敗で終わった。

 

毛利軍から兵糧の運搬のために丹生山には砦が築かれ、備中から中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎を従えて籠城してましたが、秀吉は籠城する近隣の農民の妻子をいけどり、城内から内通させ、内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城しました。

 

秀吉軍はすかさず、淡河城へ攻めこみますが、城主「淡河定範」智将で、外曲輪に無数の菱を撒いたり、城へ攻めかかってきた秀吉軍に牝馬を放ち、大混乱に陥った所に攻め掛り秀吉軍を打ち破ったっりしましたが、絶対数で押されて、城を捨てて三木城へ撤退しました。

しかし秀吉は天正7年6月13日、平井山本陣にて秀吉の軍師竹中半兵衛重治が陣中で亡くなってしまいます。

 

兵糧も厳しい中、大村合戦で「淡河定範」ら残り5人になるまで奮戦し、後藤又兵衛の父「後藤将監基国」も参戦しています。

別所吉親の妻は勇猛果敢な女丈夫。

吉親の妻はモミの鉢巻に桜縅の鎧に白芦毛の馬に打ち乗って二尺七寸余(90cm位)の太刀をかざして敵陣に切り込み、逃げる敵を馬の蹄にかけ殺したみたいです!

 

毛利軍と別所軍は、三木城の付城であった平田山砦を襲い、城主谷大膳を討ち取るも、兵糧は全く来ず、10月には備前の宇喜多直家が毛利方から織田方に寝返り、11月には荒木村重が籠もる有岡城も落城。

城内の食糧は尽き飢餓地獄に陥り、秀吉は間髪いれずに天正8年正月から三木城内の支城に攻め掛り、6日に別所長治の弟別所友之が守る宮ノ上要害を攻め込み・・容赦なし!

 

最後の決戦に備え別所吉親の居館に拠点を作ろうとしてるところに秀吉軍が攻めてきたのを、吉親の妻が「見逃すのが道ならん、必ず構うことなかれ」といい臆した秀吉軍に続けて「われは女の身であれど 三木城もすでに落城近からん 一族残らず死ぬる覚悟なれば 最期のいとまごい 矢ひとつ参らすべし」

と大声で叫び攻めあげてくる敵に次々に矢を射かけたちまちに眼下に射落とし、今度は愛馬にまたがり城の門際まで迫った敵兵に斬り込みましたが・・死を覚悟した兵も兵糧攻めが効いていて

11日鷹の尾城陥落・・

 

16日には秀吉軍「浅野長政」に三木城開場を申し入れ、17日「別所長治」は最後の晩餐

吉親の妻は28歳で辞世の句は「のちの世の道も迷はじ思ひ子を つれて出でぬる 行く末の空」

長治の弟 友之の妻は、山名和泉守豊恒の娘で17歳辞世の句が「頼むぞよ、同じ蓮の花の上を消える露の玉の在かと」

長治の妻は22歳「もろともに消えはつるこそ嬉しけれ おくれ先立つならひなる世を」

それぞれの思いもあり・・



同日、長治兄弟の妻達が子供を差し自害・・

城主別所長治は辞世の句「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」と読み23歳の命を弟友之ともに自害

別所吉親は首を差し出すのを快しとせず、城に火を付けようとしたところ城兵に討ち取られました。

 

別所長治の首級は秀吉によって安土の織田信長の元に送られました。



今回は「三木合戦図」が三木城跡にあり絵で見ながら勉強しましたが、間違いがあれば少しずつ直して行こうと思います。

敗者の歴史はやっぱり悲しい結末ですね。


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三木城跡

2014年01月28日 21時07分24秒 | お城


兵庫県三木市上の丸町「三木城」へやってきました。

写真は天守跡です。

 

天正6年から2年近くに渡って、秀吉軍が城主「別所長治」との戦いで、兵糧攻めをされた城です。

秀吉軍との戦いは「三木合戦」といって、この周辺の城で、神吉城、志方城、淡河城、高砂城、端谷城などが、別所長治につきました。

 

かつての城郭は現在の三木市街地部分も含むほどの規模のようです。

天守跡には、には長治の辞世の句 「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」

城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」等が残ってます。

 

この時代は、姫路城より当然ここが播磨の要ですね。

 

三木市立図書館で企画展をしてたので、勉強になりました。
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志方城跡

2014年01月27日 20時31分23秒 | お城


兵庫県加古川市志方町志方町「観音寺」志方城を見にいきました。

光姫の行列のあった加古川市立志方小学校は志方城の二の丸跡で、西の丸跡は旧志方町役場らしいので、結構な規模です。



天正6年7月、城主「櫛橋左京進」の時、秀吉軍「北畠信雄」が攻めてきて、天正7年8月10日降伏しました。

妹婿の黒田官兵衛のおかげで、櫛橋左京進は許され家臣となったようです。

NHK大河ドラマでは、官兵衛に反発する役ですね(金子ノブアキ)




櫛橋家累代墓所がありました。

幟の「櫛橋幸園」は光姫のことで、志方城は出生地です。櫛橋左京亮の娘で、小寺政職の姪にあたります。



結婚は、 官兵衛が22歳。光姫15歳らしいから、NHKの光姫より本日中学3年生の姫の方がピッタリ!
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